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【16】夜光虫倶楽部(3)

 薄闇の店内に漂った灯火。倶楽部の名前からするとそれらは夜にだけ輝く夜光虫を模しているのかもしれないが、今の私の目には懐かしい、故郷の漁火に映った。


 朱也の弾くピアノは上手に編曲された『磯浜おはち』にはじまって、その後も人によってはわかる地方民謡を奏でていた。珠玉の選曲だと思った。久しく聴いていなかった旋律に郷愁の思いを抱きながら、竜を見る。


 顔立ちもそれ以外のところも、出会った頃より少し大人っぽくなった。彼は落ち着いた様子で私を見つめ返すと、おそらく意識して、優しい声を出した。


「どうして来たんですか」

「……ごめん」


 これは何に対しての謝罪なのか。自分でもはっきりしなかった。

 切なそうな表情で視線を下げて、竜が言った。


「……俺が仕事を始めたのは十八にもなってからだし、実際こんなだから。信用されないのも仕方ないのかもしれませんが」

「それは違うよ、違う」


 私が追いかけてきたのは仕事が理由ではない。駅のホームで別れ際、私が竜を傷付けてしまっても、逆に私が傷付いた様子を見せたとしても、竜はきっちり仕事をこなすと信じていた。


 やりたい仕事ができるということがどれほど恵まれているのか、一番分かっているのは竜だ。

 私が言うのもおかしいが、今の彼の仕事への責任感は、私とのいざこざで揺らぐようなものではない。

 それは優先順位でなく、竜が私を信頼しているから。さらには、私を帝都まで連れてきた最たる理由をおろそかにすることこそ、私への不義理だと思っているから。


「竜は絶対いい仕事をしてくれると思ってた。ここまで来たのは、私のせい……私が弱いからだよ」


 数年の放蕩生活に負い目を感じていることは、薄々わかっていたはずなのに。図らずも夫の頑張りに対して水を差してしまったと反省しつつ、早く誤解を解きたくて言葉を探した。


「別れ際、竜にあんなことをしてしまったから。仕事を終えた竜が帰ってこなかったらどうしようって、いや、それも信じていないわけじゃないんだけど。どうしようもなく不安になったんだよ」


 勝手に考えたことだ。竜の気持ちなんて関係なく、私は私の不安を取り除きに来たのだ。

 卓に置かれた灯火が刹那、光を瞬かせた。熱い蝋が一滴、円柱の蝋燭を下に伝った。素直に。

 私を喉を懸命に震わせた。


「竜の顔を見たら安心すると思った。だから、ちょっとでも早く会いたくて、迎えに来ちゃった」


 話の間、左手で口元を隠していた竜は、私がそれを言うと右手も取り出した。そうして顔全体を覆った。



「え、あの……」

「ちょっと待ってください。これ以上は耐えられそうもない」


 不甲斐無い女だと、呆れられてしまっただろうか。両手で顔を隠したまま卓に突っ伏しそうな竜をおろおろと眺めていると、彼の後ろからすっと人影が現れた。


「おやおや、耳まで真っ赤になって。妬けてしまうな」

「玉利様……」


 少しばかり前にかがんで、竜の様子を可笑しげに覗いたのは玉利様だった。

 不意打ちの登場に、思わずいつもの声で呼んでしまった。私があっと口を押さえようとすると、格に相応しい、余裕に満ちた笑みで制された。


「気にしないでいい。――ああ、青年の名前は何というのかな」

「私本当は……いや、えっと、港です」

「港くんね。覚えておこう」


 しどろもどろになって返すと、玉利様はくつくつと喉を鳴らした。そのまま一緒にいいかと訊かれたので、当然快く迎える。立ち上がって椅子を引くと、「本来なら逆だろうに、悪いね」と言って男爵子息はするりと席に着いた。


 気が付くと朱也のピアノ演奏が止んでいる。ちらりとステージを見ると既に姿はなく、もうすぐここに戻ってくるだろうか、と残りの一席に目を移した。玉利様が追いかけてくるとは思わなかったから、この四人で集うのも不思議な心地がする。


 玉利様の飲み物をオーダーしようと竜が視線を巡らせると、ちょうど先ほど頼んだ飲み物が運ばれてきた。給仕の男は卓に近付くと、あっという顔をした。朱也が玉利様に代わっているからだろう。


「王子がまだ戻らないなら、俺が一杯いただこうかな。どちらもハイボール――だよね」


 給仕が持つ銀盆の上には円筒形のカクテルグラスが二つと、脚の長いカクテルグラスが一つ載せられていた。美しい液体で満たされた三つは、各々の媚光を湛えている。


 私の前にミリオン・ダラーらしいカクテルが置かれているときに、玉利様が先の言葉を言った。朱也の分は後から作り直せばいいだけで、変なところは何もない。

 私もそう思ったのだが、給仕の男だけは違ったらしく、慌てて盆を引いてたじろいだ。


「いや――」


 「それなら新しいものをお持ちします」と、男は小声でもごもご呟いて、足早にいなくなった。竜の分のハイボールも置かれていない。結局卓に置かれたのは肉桂色に澱む、逆円錐のカクテルのみだった。

 柔らかな泡が立つ百万ドルが、心細そうに佇んでいる。

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