【15】夜光虫倶楽部(2)
確信を掴んでいるような物言いだった。頭から冷水を浴びせられた心地で、隣を見る。朱也はこちらを向いて苦笑いすると、私の腕を抱えて揚々と立ち上がった。
「あっはっは! こうして話すのは初めてですね! 玉利男爵子息」
「そうだね。そちらの青年は」
紺の背広、白のズボンを着た玉利様が私をじいっと見た。身綺麗で品位が高いだけでない。三十八という年数で熟された、竜や朱也にはない大人の色香が前面に出ているような人物だ。私は視線に耐え切れなくなって、精一杯お辞儀することで赤くなった頬を隠した。
「今日初めて誘いました、最近私抱えになった子です。こうも忙しいと付き人だって持ちたくなります」
「人気者は苦労するね」
「いえいえ! 玉利男爵子息ほどでは」
私の喉が緊張できりきりと締め付けられる中、朱也は慣れたように、少々のけれんみをもたせて話を吹っ掛ける。
「私、以前から竜治くんと友達でして。少しだけ連れ出しても?」
「君は色んな人と仲良しだね。もちろん構わないよ」
「ありがとうございます。では一旦、失礼」
そっと顔を上げると、玉利様は面白がるように朱也と竜を見比べていた。一人、中身はウヰスキーらしい切子のグラスを大きく呷る姿には、若者にはつくり得ない情緒があった。
「一人残してしまって大丈夫か」
「平気だよ。あの人のことだ、すぐ誰か侍るだろう……ほら」
竜を引きずるようにして進む朱也が顎をやる。玉利様だけが残ったソファには、和服姿の老紳士が挨拶に訪れたところだった。
すぐに空いた椅子席を見つけ、三人で卓を囲んだ。丸机には四脚の椅子が置かれていて、私と竜は向かい合い、朱也は残りの一方に収まった。
お調子者の素振りで朱也が笑った。
「いやはや、奇遇だね。竜治くん」
「どうして……」
「私もここの会員なんだよ」
そう言って得意気に脚を組む朱也に、竜は返答しなかった。代わりに真正面からこちらを見て、ほんの少し目を細める。堅く、笑っていない表情に、私は唇を引き締めた。
彼が私を見る目にはとっくに気付いていた。この姿を晒した瞬間から、私が彼の妻だということは見抜かれている。
楽しそうなのは朱也だけだ。彼が近くにいた給仕を呼び止めた。
「ウエイター。ハイボールと……ミナトくんは何飲む?」
「水……」
誰だそれ、と思いながらぼそりと呟いた。男装もいささか怪しい部分があるのに、声なんて普通に聞かれたら女だと分かってしまうと思ったから。
「お酒苦手なのかい? 違うならこれは? ミリオン・ダラー。商売するなら縁起いい名前でしょ」
「じゃあ、それで」
不安になって給仕を見ると、彼は私の方を気にした様子はなく、竜の横顔を見つめていた。この給仕、男にしては化粧が濃く、盛った風なところがある。とはいえ前髪が目元まで掛かっていて、この薄闇では顔立ちがはっきりしない。
「竜治くんはどうする」
「……ハイボールで」
「はい。じゃあハイボール二つとミリオン・ダラーをお願い。よろしくー」
注文を取った男は無言で頷いた。給仕服を纏った小柄な身体がさらに縮まり、そそくさと消えていく。
何から話せばいいのか。ここを訪れる前から動機そのものよりも勢いが先行していたが、この空気をどうするのだ。
竜は何も話さない。朱也は口元に笑みを湛えたまま、卓上の蝋燭立てを撫でるだけだ。彼の指の先、流水文の刻まれた硝子の中で、小粒の炎が危なっかしく揺れている。
沈黙する卓に、先程とは違う給仕が現れた。まだ十四、五歳と思われる彼は朱也の耳元に顔を寄せると、流暢に口を動かして要件を伝えた。やれやれ、といった様子で朱也が立ち上がる。
「ピアノを弾けと、先輩たちからの御達しだ」
「大変だな」
「本業を所望されないだけましだね。それに、こんな風に使われてもここに帰属する利点は多いんだ」
彼は紅い牡丹色のネクタイを締め直すと、私の座る椅子の背もたれに手を掛けた。
「お沙耶ちゃん、何かリクエストはないかい? 何でも弾いてあげるよ」
「『磯浜おはち』なんかいいんじゃないですか」
朱也が訊いた直後、しれっとした顔で答えたのは竜だった。あまりに懐かしい曲目に「いいな、それ」と同調すれば、質問の主は困り顔をつくった。
「え、それ地方民謡だよね……確か漁と一緒に歌ったりするやつ」
「知ってるのか」
「下積み時代に、少しだけ東北にいたことがあってね。……え、本当に聴きたいの。大丈夫かな」
「どう弾こう」と悩み出した彼に竜が言い放つ。
「ほら、ステージ上で待ってるぞ。早く行ってこいよ」
「竜治くん――覚えておけよ」
ステージの方へと歩き出しながら、朱也は威嚇するように歯を剥いた。竜を見ると、彼もまた朱也にいーっと歯を向けている。まるで子どものやり取りだ。
呆れて眺めていると、じきに竜が私に向き直った。その表情は先程よりは柔らかくなっていて、少し困ったように彼は眉を下げ、笑った。