【14】夜光虫倶楽部(1)
湾曲する海岸線をしばらく走っていた車は、夜間作業の灯が点いた港を眼下に見出したところで街中へと下っていった。
朱也の合図で停まった場所はなんの変哲も無い飲食店街の一角だ。彼は運転手に待機場所を伝えると車を降り、それに続こうする私に手を差し伸べた。
「ありがたいけれど、要らないよ。朱也は男にはエスコートしないだろ」
「移動の間に随分とやる気になったね」
「いや、逆だよ。本当は帰りたい」
「竜治くんにも会わずにかい」
私たちが歩道に降り立つと、運転手は後部座席のドアを閉め、朱也の顔を窺う。おそらく会話の行方を気にしてだったのだろうが、若の「行っていいよ」の一言で彼は頭を下げ、さっさと指定場所へと車を向かわせてしまった。
「せっかくここまで来たんだ、むしろ付き合って欲しいな。予定がなかったのは本当だけど、ないならないでここに来るつもりだったんだ」
え、と隣を見上げる。彼は外灯の鋭い光を黒眼に宿し、意味深に笑った。
「ノクチルカ……別名『夜光虫倶楽部』は会員制だ。私はれっきとした会員だから毎回変わる会場も知っているし、非会員の君を連れて行くこともできるんだよ」
「それで駅のホームにいたのか」
「その通り。……さ、早く行こう。すぐに帰ることはないだろうけど、愛妻家の竜治くんなら分からないだろう」
迷う様子もなく朱也は歩き出した。黙って付いていくと、彼は煉瓦造りの建物が並ぶ中の、さして特別でもない一軒の前で立ち止まり、地下に続く石階段を軽快に降りていく。突き当たったところには緻密な彫刻を施した木戸、そして黒スーツ姿の日本人が立っていた。朱也の軽い挨拶で、重い扉はやすやすと開いた。
見咎められないか心配だった私は内心びくつきながら入口を通ったものの、扉番の男は特に大きな反応を示さなかった。私の変装が上手くいっているのか、朱也の信用が厚いのか。扉番には勿体ない、どちらかといえば秘書風な老紳士の微笑からは判断できなかった。
帽子と外套を給仕の少年に預けてから、私は地下の店内を見渡した。倶楽部の中は奥が霞んで見えるほど広いが、そこに並ぶ椅子席、ソファ席はほとんど満席といった盛況ぶりだ。
雰囲気を出すためか照明は抑えられていて、各席の机には蝋燭の灯が柔らかく浮かぶ。洋酒の揃ったバーカウンターがある。楽団がジャズを奏でる小ステージがある。クリスマスツリーがある。
「これはノクチルカの王子。今日は姫と一緒ではないのかね」
私の前を行く朱也が、擦れ違いざまに話しかけられた。
「ええ、志藤伯爵。姫とは遠距離中なのですよ」
伯爵と呼ばれた人物は、鼠色の高価なスーツを着た中年の男だ。肥えた手の指には大きなルビーが光る。
既に酒で出来上がった状態の相手に朱也はにこりと愛想を振りまくと、これ以上の立ち話にならないよう足早に場を去る。彼の背中に付きながら後ろをちらと振り返ると、伯爵はおぼつかない足でバーカウンターへと向かっていた。
「王子……?」
「若年者だから舐められているのさ。――ほら、いたよ。竜治くんと玉利男爵子息だ」
朱也の声におずおずと前を覗く。倶楽部の奥の方、ステージに面したソファ席に、二人は肩を並べて座っていた。
「近くに行こうか」
「えっ」
ぐいと私の手を引いた彼は、二人の裏側から距離を詰めていった。最奥部も人は多いが、皆それぞれの話に夢中で私たちを見ない。照明の暗さや随所に置かれた間仕切りも手伝って、上手く身を隠せば盗み聞きを指差されることもなさそうだ。
私は後ろめたさを感じながら、竜たちの座るソファの裏にしゃがみ込んだ。ジャズの演奏、他の客たちの話し声、グラスの鳴る音。雑音の多い中、耳を澄ませる。
「――無理しなくていい。煙草は苦手だと覚えてはいるんだが、君は反応が可愛いから。どうしても勧めたくなってしまうんだよ」
玉利様だ。私が緊張でこくりと唾を飲んでいると、けほん、こほんという小さな咳の合間に、「すみません」と謝る竜の声が漏れ聞こえた。
私の隣では、朱也が何やら繰り返し口を動かしていた。注意深く伺えば、「玉利……玉利……」と呟いているようだ。
ソファ越しに給仕の少年が何か話していた。次のグラスが運ばれてきたらしく、カラン、と中の氷が鳴る。
やや拍を置いて、玉利様がふぅ、と息を吐いた。含んでいるのは煙草の紫煙か蒸留酒の薫香か、ここからでは分からないが、彼はどちらかを存分に味わったばかりだろう色香ある声で言った。
「良い夜だな。竜治くん、帰りは遅くてもいいのかい」
つと、朱也の困惑した顔がこちらを向いた。
「お沙耶ちゃん。竜治くんってそっちの気あるの」
「いやいやいやいや、ないよ。女との接触は避けるが、心身ともに女が好きだと思う……多分」
「だ、よ、ね。玉利男爵子息だってお色事ばっかりなわけないものね」
「ビジネスに決まってるだろ」
努めて小声での応戦だ。おそらく周囲の賑わいの中では、これくらいのひそひそ話は聞こえまい。
甘やかされて育ったお坊ちゃんだが、竜だって人は見ているし、警戒心もある。玉利様のやけに愉快そうな声音に気付いているかは知らないが、二人がビジネスライクな関係であることは間違いない。
玉利様は言葉を続けた。
「それとも、愛妻の元に早く帰りたいかな」
「いえ……そんなことは」
「隠さなくてよろしい。今日の誘いも今の煙草も、もう一つのことだってそうだ。不敬でさえなければ、断られたからといってそう簡単に気分を害さないよ、俺はね」
硝子と氷がぶつかり合う音がする。カラカラ、と中身の酒をかき回す響きは、それだけで返答を要求するようだった。私は場が仕事の空気に切り替わったのを感じた。
「援助の件はどうなったかな」
「……有難い申し出ですが、お断りします」
話の切り出し方からして、玉利様が竜の返事を予想していたのは明らかだ。心底申し訳なさそうな竜の言葉に、男爵子息はふっと軽く笑った。
「君はもっと先鋭的で、フットワークの軽い商売をする青年だと思っていたんだがね」
「買い被りです。俺は元々臆病で狭量で、妻がいないと上京すらできなかった人間ですよ」
竜の告白は続く。
「複数の土地での商売に興味がないわけではないんです。ただ今は、正直に言って、手に余ります。帝都にやっと伸ばした足が地に着くまで、もう少しお時間を下さい」
「そのときには、私は君の店に興味がなくなっているかもしれないよ」
「ないと思いたいですけど、そんなときはまた振り向かせてみせます。うちにはいつだって良い商品がありますので」
ステージの演奏が止んだ。楽団が休憩に入るのだろう、ぱらぱらと拍手が鳴り、辺りは一時静寂に包まれた。
時間を空けて、玉利様がゆっくりと紡いだ。
「君はいつも素直だな。物を知らないのか甘いのか……いっそ清々しい。そうだな、今しばらくは応援するから、好きにしなさい」
「ありがとうございます」と、喉の奥から絞り出したような夫の声が、耳に届いた。お疲れ様。今はけして口には出せないが、労わりたい気持ちでいっぱいになった。静かに瞼を閉じれば、目の奥がじんわりと熱い。
しばらく感慨に耽っていると、竜か玉利様が座り直したのか、私たちを隔てるソファが軋んだ。
「それで。後ろに隠れている二人は竜治くんの知り合いかい」