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【13】めくるめく彼方は(2)

「私はこの通り部外者だから、話して楽になることなら何でも聞くし、流すこともできるよ。お沙耶ちゃんの出身はどこなんだい」

 

 彼は音を立てずにカップをソーサラーへと戻した。二つの青磁のカップからはまだ湯気が立ち上っていて、二条の薄い煙は天井に届く前に霧消する。

 私は少し考えてから、故郷の県と町名を言った。一旦涙を出し尽くした心は思いの外軽く、私は負荷を感じることなく返答を紡いだ。


 私の家族のこと、竜と出会ったきっかけ、プロポーズの場所、周囲の反応、田舎の春の(くす)んだ事件。

 朱也の質問は取り留めのない点のようでいて、全て繋いでみれば私の歩んできたここ数年の線になっていた。気の利いた返しや相槌、時には小さな脱線で会話を淀みない円滑なものにしていく弁術は、半端者には真似できないものがあった。


 考えてみれば、上京してからこういった身の上話を人にするのは初めてだった。私でない部分で気を遣う話が多く、特に結婚の経緯に関しては、聞く側もけして気持ちのいいものではないと思ったからだ。


 しかしながら、故郷の名前やぽつぽつと出した事件の概要に関して、朱也は顔色一つ変えずに聞いていた。無関心というよりはあえて無表情を取り繕っているように見えたが、どうやらその感想は正しいらしかった。

 彼は一通りの話が終わると、湯気の消えた珈琲でゆっくりと喉を潤してから、長く重々しい息を吐いた。


「あったね。四年前にその町で、連続婦女殺害及び放火事件。犯人の名前は確か、伊佐木(けい)だったっけ」

「詳しいな」

「犯人が警察官ってことで全国的に騒ぎになったし、ちょっとね」


 彼の人差し指が花弁の珈琲カップをピンっと弾いた。


「本当に悪かったね。最初に会ったとき、藪をつついてみようとは思ったけれど、傷を弄くり返すつもりなんて微塵もなかったからさ」

「そのことはもういいんだ。聞いてくれてありがとう、楽になった」

「これからどうするの」


 気遣うような眼差しを向けられ、胸が軋んだ。今日のことを思ったのだ。彼にだって仕事に対する矜持はあるから、今だって上手にやっているに違いない。けれど、


「あんなことして、帰ってきてくれるかな」

「竜治くんみたいな男って犬っころのように戻ってきそうだけど」

「普段はそうだけどさ……」


 そうなんだ、と目を逸らして苦笑した朱也は残りの珈琲をぐっと飲み干した。


「迎えに行ってみる?」

「え」

「まだ時間も早いだろう。心配なら会いに行けばいい。あいにく今日は、私も空いているんだ」


 そう言うなり彼はチリーン、とテーブルの呼び鈴を鳴らして、「お会計!」と声を張った。

 物語を語る男の声音だ。

 雰囲気に飲まれていると、やがて紅い帳が風を立てて開かれた。私のめくるめく一夜が始まった。



***



 店を出た朱也は手際よくタクシーを停めながら、私に竜の行き先を問いただした。


「それで、竜治くんはどこで会合しているの」

「横浜の、聞き慣れない名前なんだよな……ノ、ノク……」

「もしかして『ノクチルカ』?」

「ああ。それだ」


 後部座席に先に座らされた私が答えると、隣に乗り込んだ彼はぱっと頬に喜色を浮かばせた。けたたましい音を立ててドアが閉まる。


「あっはっは! 相手は誰だい? 俄然楽しくなってきたよ」


 彼は運転手に横浜でなく、帝都の地名を言った。訝しむ私に美男は「準備が要るから実家に寄らせてもらうね」と片眼をつむる。私は竜に謝りたくて行くのに、随分な楽しみようだ。


 タクシーは帝都の雑踏を掻き分けるようにして進んでいく。しばらくして着いたのは、私など訪れたこともない場所、高級邸宅が並ぶ区画にある一軒の日本家屋だった。


 板塀をめぐらせた広い敷地の中に、これまた立派な庭園を備えた二階建ての邸宅は、それ自体が厳かな空気をもつ。しかし建物内も全て伝統的な日本建築というわけではなく、私は唐突に現れた洋風の一室に通された。


「あの、あの! 自分で脱ぎますから大丈夫です!」


 朱也の姿が消え、入れ代わるように着物姿の老女二人が入ってきたのも束の間だった。私の制止を聞こうとせず、使用人らしい二人が衣服を剥ぎ取っていく。

 コートや手編みのカーディガンはもちろんのこと、膝丈のスカートも勢いよくずり下げる彼女らの動作には、躊躇というものがない。


「でも若さんには、抵抗されてもいいから急いで支度しろって言われてるんだわ」

「肩に肉が足りないから綿でも入れようかね」

「胸はさらしでも巻くかい。と言っても、どっちでもよさそうね、あなた」

「もう何でもいいです……」


 老女二人の遠慮のない物言いに抵抗力を失った私は、心の隅にほろ苦いものを感じながら彼女らの好きにさせた。


「美人さん。女らしい化粧は駄目らしいから、ちょいと落としますよ。崩れてるからちょうどいいさね」


 後から洋室に改装したようなこの部屋には、全身鏡と鏡台の双方がある。鏡台に座らされると、一方は化粧を落とし、残る一方は髪を後ろに流していく。髪は毛量が多かったため上半分を紐で括られた。


「私たちも昔は美人姉妹って言われて、巷じゃちょっとした名物だったんだけどねぇ」


 三面鏡に映る私の右で、老女の片方がこてりと首を傾け、頬に手を添えた。上品に刻まれた皺が豊かに曲線を描けば、左の老女もふざけて同じ表情を取った。どちらが姉でどちらが妹かは分からないが、姉妹と言われれば確かに似ている。


「今だって美人だろう。二十年前から変わらないよ」


 鏡越しに背後を見やれば、そう言ったのは朱也だった。頃合いを見て戻ってきたのだろう、彼の腕には二枚の外套がある。


「そう言ってくださるのは若さんだけです」


 照れくさがる可愛い二人と共に私も立ち上がった。朱也は外套を彼女らに預けると、私を正面から見据えて嬉しそうに破顔した。


「素晴らしい出来栄えだね。スーツの既製品なんてすぐには用意できないし、私のお古で我慢してね。今時の型でないのが残念だけど、夜会服だから見苦しくもない。こういう趣向ということにしておこう」


 そう言うと、上機嫌に鏡台の引き出しを開ける。中には貴金属の類が行儀よく並んでいて、彼はそこから少し古雅な印象を受ける翡翠のループタイを選ぶと、慣れた手付きで私の首に紐を回した。


「今宵のサラ・ベルナール。――鏡を見てご覧なさい」


 胸元に高貴な(ぎょく)が下げられると、私は促されるままに鏡を見た。全身が映るそこには見知らぬ若者がいた。

 体付きは女性特有の丸みが抜け切らないし、顔立ちも雄々しいとまでは言えないが、こういう男もいるかもしれない、という感想を抱いた。


「ここまで変装する意味があるのか」

「大ありだね」


 老女の姉妹からそれぞれ外套を着せてもらい、帽子を受け取る。礼を伝え、いそいそと送り出される中、朱也が付け足すように言った。


「竜治くんから聞いていないのかい。『ノクチルカ』は女人禁制だよ」

「冗談だろ……」


 どう受け止めていいのか分からないし、それなら店の前まででも良かった気がする。若干の目眩を覚えながら玄関を出ると、綺麗に管理された前庭の向こう、茅葺屋根の門の前に黒塗りの車が停まっている。運転手の態度から察するに、どうやら片桐家の所有らしい。


 今になって尻込みする私を「まぁ、けして変な店ではないから安心なさい」と朱也はしきりに励まして、高級車の中へと押し込んだ。私の意思に反して車は走り出す。唸りを上げ、夜の街道を疾駆する。

 紺碧を湛えた横浜の海が見えるまで、そう時間はかからなかった。

サラ・ベルナール。これより少し前の時代に生きたフランスの花形女優です。

男役も何度もこなしていた方。


お読みいただきましてありがとうございます。

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