【12】めくるめく彼方は(1)
やがて竜を乗せた冷たい鉄の車体は速度を上げながら、聖夜の始まる街並みへと飛び出していった。がらんと空いたホームの底には鈍い赤銅色の線路が横たわり、ひとまずの役目を終えて疲れ果てたように沈黙している。
もうじき次の便の乗客がやってくるだろう。皆今夜が楽しく笑っているはずだから、こんな湿っぽい精神はこの空間に相応しそうもない。しかし、だとすればどこへ行こう。仕事に赴く竜を激励するという役目を放棄し、故意的に彼を傷付けた私の居場所なんて、どこにあるのか。
「うーわ。嫌なもの見ちゃったな」
突如耳に入ってきたのは、最近馴染みになった声だった。話しかける時機を見計らっていた風な、芝居ったらしい声音に弾かれて顔を上げると、
「君らには羞恥心というものがないのかな。よくできるね、公衆の面前でそんなこと」
『苦虫を嚙み潰したような』という表現がこれほど似合う顔はない。そう断言できるほどの見事なしかめっ面を私に向ける、片桐朱也が立っていた。
「朱也に言われたくないよ」
「……あのさ」
美男のしかめっ面より、私の方が酷い顔に違いない。できるだけ見せないように手で隠し、俯くようにして通り過ぎようとすると、彼は歩幅を合わせて付いてきた。
「そんな思いをするくらいなら、やめておけばいいのに。まだ引き返せるでしょ」
足早に改札を出る間も、駅の構外に出た後も朱也は離れない。彼の履くスーツ下の白い裾とよく磨かれた煎茶色の革靴が、石畳が続く視界にちらちらと介入した。
「今彼を切り離したとしても、お沙耶ちゃんの所為じゃない。彼の所為でもなくて、ほら、時代は今変わってきていて、世の男女は大勢がくっ付いては別れてる。一度結婚したってそうさ。……くだらない離婚理由だっていっぱいあるんだ。君たちはその理由がちょっと特殊で、真面目だっただけだよ」
「やめてくれ。こんなところで」
彼は速い拍子で刻まれる靴音とほとんど同じ調子でまくし立てた。駅の真ん前の歩道だ。通行人も多く、なにより内容が聞きたくないものだった。
「ここじゃなかったらいいの」
ふいに彼の語気が強まった。歩みを止めないまま伸ばされた腕を、私は大きく振り払おうとした。
「触ら――」
「触るなって言われるの、辛いよね」
竜と同じ背丈の持ち主は首を傾けるようにして、私の顔をそっと覗いた。いつの間にか、互いの足は止まっている。
朱也は今まで見せなかった内面の真摯さを双眸に滲ませ、私の反応を窺いながら、今さっき自分を拒もうとした手を握った。その繊細な動作はあたかも真綿を包み込むようだ。平手打ちの跡は、もう見当たらない。
「もうお沙耶ちゃんが嫌がることなんかしない。しないからさ、そんな顔して悩むの、やめてよ。――私には君の方が重症に見えるよ」
ずっと泣いていた。それでもけして目からは溢すまいと堪えていたのに、朱也のその言葉を聞いた途端、閉じ込めていた分の涙が一気にせり上がった。小さな嗚咽が漏れ、頬がどんどん濡れていく。止められない。
「とりあえずどこか入ろうか。やっぱりここじゃ上手くないね」
朱也は灰色の外套に手を差し入れると、乳白色のスーツの胸ポケットから白ハンカチを取り出した。すぐに絹の柔らかな風合いが頬に押し当てられる。涙を拭う立場を私が代わると、彼は俊敏かつ紳士的な振る舞いのまま、私を伴って歩き出した。
今度の接触で恐怖は目覚めない。暗い記憶が入り込む余地がないほど、私の心には感謝の気持ちが占めていた。
彼が手を引いて歩いてくれたお陰で、私はハンカチで顔を覆うことができ、これ以上どこにも泣き顔を晒さずに済んだのだ。
***
朱也に連れられて入った駅近くの喫茶店は珍しく、テーブル毎に帳が掛かることで密室でないまでも個人の空間を確保できるところだった。
「私みたいな有名人だとさ、周囲から直接顔を見られないというのはありがたい配慮なんだ」
「重宝しているんだ。それこそ遊びでも使わないくらい」そう話しながら、彼は私を窓側の席に座らせ、自身は向かい合うように席に着く。
店に入ったときに注文を済ませていたこともあって、コートを脱いで一息つくとすぐに珈琲が運ばれた。花弁を模した珈琲カップの黒い液面には、背後の出窓に飾られたシクラメンが実際よりも褪せて映っている。
借りたハンカチで再度目元を押さえ、深く吸って、吐く。そうしてハンカチを四つに畳んでテーブルに置くと、青磁の温かい花弁を口に近付けて、改めて目の前の男を見た。
斜めに分けた前髪を少し崩している。自由そうな雰囲気はビジネスマンではけしてないが、浪人風でもない。優しげな目元、真っ直ぐに伸びた眉と鼻梁、表情豊かな唇、どこを取っても本人の余裕を感じられて、品がある。
現行活動弁士の人に俳優のようだと言えば怒られるのかもしれないが、まさに銀幕の人が色彩を得て飛び出してきたような、そんな神秘さを湛えている。白スーツ姿にこの店の紅い帳はお誂え向きで、なるほどよく似合う。
珈琲カップの取っ手を摘まむ彼の男性らしい手指の節を眺めながら、先ほどの一幕を思い返した。
惨めな中でも救いを感じたのは、浅草で生まれた恐怖は偶然に偶然が重なったもので、男性との距離に関する情感は自分の常識内で収まると実証されたこと。
夫の辛苦を見ているからか、私もどうも異性との接触を意識しすぎている気がある。竜を診ている水橋先生が言っていた。私も素直であるように、と。きっとそれは竜に対する気恥ずかしさだとか、強がりだとか、そういう意味合いだけではなかったのだろう。
「落ち着いた?」
口当たりの良い珈琲を二口三口飲み、挽きたての豆の香りを感じられるようになったところで、朱也は穏やかに訊いた。