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【11】暗翳と二人の夜と(4)

 玉利様によるご融資の件は、本家もといお兄さんの意見も一緒だった。今店を拡大しても手に余るのは必至だから、丁重にお断りするように。そういった仰せを先日の電話でいただいている。

 その主旨に関しては全くの予想通りだったが、しかしお兄さんの所感には続きがあった。


 『可能性を零にすることはない、時が満ちたら利用できるようにやる気はちらつかせなさい。帝都で得た貴重な伝手を失わぬよう、せいぜい頑張るように』

 電話先の竜治に、そう付け加えたのだ。


 いずれ湧くかもしれない弟の野心を慮ってに違いないが、ここまで露骨な応援を貰ったのは初めてのことで、竜は戸惑いを隠せなかった。


 この兄弟の関係性は私から見ても驚くべき進歩だった。先代だった父親の販路拡大方針に反抗したお兄さんと、対して父親側に賛同した竜。父親が急逝してからつい三年程前まで、この息子二人はろくに口も利かなかった。喧嘩でないから仲直りもできない。絆し直す糸口が見つからない。そんな彼らが、今では話し合いをするばかりでなく、先回りして心情を思い遣っている。


 してそのお兄さんだが、私と竜が上京した次の年に、新たに娘を持った。加えて今のお義姉さんのお腹にはもう一人子どもがいて、つまり兄夫婦は来年の春には三人の子どもを抱えているはずだ。


 仕事に対する厳しさは残したままでも、年々どこか穏やかになっていく兄。竜はいまだに苦手と言っているが、連絡を取った後に気を悪くした様子は見られない。

 日によっては構ってもらえて嬉しそうにすら見えるから、竜が苦手だと思う理由は存外難しいものではなく、これまで甘えてきた引け目もあれば、ようやく意思が通じ合った照れからきているのかもしれなかった。



 時刻は夕方の五時を指していた。駅舎の瓦屋根は等間隔に並んだ電灯の光に照らされ、漆黒の上に冷えた光沢をのせて輝いていた。改札の真上に当たる位置にただ一つ、駅名の書かれた看板が白く浮かんでいる。


 冬至を三日過ぎたばかりだった。一日垂れ込めた黒雲の所為もあって、この時間帯でも街は既に夜の様相を呈していたが、それはけして忍びやかではない。むしろ一年の中で今日ほど電飾に煌めき、歓楽に湧く夜はないだろう。


 西洋から伝わったクリスマスという行事は、年々大きくなっている。去年は竜と銀座をブラついて、鮮やかな電飾に縁取られた路面電車に私一人乗せてもらったり、割引きされた輸入雑貨を安易に購入したりしたものだが、今年は竜の大仕事がある。


 曇天を明るく滲ませる銀座方面を遠目に、竜と私は改札をくぐった。私は玉利様に声を掛けられていないから、ホームまでの見送りになる。

 踏み入れたホームには、クリスマスらしくおめかしした大人や子供、若者の姿が多く見られた。皆どこか陽気な顔に見えるのは、彼らも私も空気に釣られているのだろう。


 電車待ちの大勢に混じってしばらく眺めていると、その中に偶然頸木の姿を認めて、竜ともども挨拶した。


「鈴生夫妻。クリスマスにデートとは、さすが今風だ」

「いや。竜だけこれから仕事なんだよ」


 からかうでもない頸木に私がそう応えると、彼はようやっと仲間を見つけたという風に口元に笑みを浮かべて、


「クリスマスに重なるとは互いに不運だな。まぁそちらは付き合いもあるか」


 と、珍しく整髪料で固めた前髪を皮肉げに撫でつけた。「本当はクリスマスに仕事などしたくない、早く報酬が欲しい」などとぶつくさ零している彼の視線の先は、例の如く別の方にある。


「ところで、華鳥朱はどうだった」

「華鳥朱?」

「この間見たと思っていたが」


 花江さんから聞いたのだろうか。隣の竜がこれに答えた。


「凄かったですよ、実力も人気も。昨日の新聞によると、いずれは俳優業にも挑みたいって本人が発言したみたいですね」

「浅草での襲撃を受けての記事だな。犯人も捕まっていないのによく言えるものだ」


 頸木の言う通りだ。映画製作会社に火炎瓶を投げ込み、脅迫文を送り付けた犯人はまだ捕まっていない。だから今の時点での本人の言及はいささか軽率で、犯人を煽る形だと私にも思われたのだが、世間は彼の黙秘を許してくれなかったのかもしれない。


「仕事というものはどれもこれも難儀だが、日当たりのいい職業は時に不憫に思えるな」


 警笛が鳴り、遠くより汽車が姿を現した。車体は雲よりも暗い黒煙を吐き散らしながら、時間をかけず入線する。頸木は話が終わると私たちに別れを告げて、さっさと車両に乗り込んでいった。


「竜も行かなきゃな」

「はい。クリスマスの夜にごめんなさい、沙耶子さん」

「大事な仕事だろ。応援してるよ」


 紺に近い濃青のスーツに同色の(インバネス)コート、カンカン帽。植物柄の刺繍が施された絹の黒い蝶ネクタイ。手首にさりげなく光る七宝製のカフスの紅が差し色で、控え目な色合わせではあるものの、クリスマスパーティに繰り出す人々に負けないくらい竜も洒落ている。


 ホームの人は既にまばらになっている。皆汽車に乗り込んだのだ。あえて最後になった竜は乗車する際、乗車口の周辺に女性のいない車両に乗り込んだ。

 そういった自分の守り方は無意識下に落とし込んでいるようだが、いくら自分でも分からないように振る舞っていても、事実として知っている私は目ざとく見つけてしまう。


 乗車口すぐの席に身を寄せた竜は窓越しに私の正面を向くと、やや身を屈めるようにして右手を硝子に置いた。反対の手で曇りを拭き取ると、こつんと額をつけて、私を見る。


 彼は甘い笑みを湛えたまま、優しく唇を動かした。遮蔽されているから声など届くよしもない。

 賑わっているだろう車両から隔てられて、私の周囲には風の音だけが満ちていた。これほど真っ直ぐに視線を寄越されているのに、感じたのは孤独だった。


 変わらない距離に不安を感じることは罪。分かっていたはずなのに、嫌でも打ち消せない焦りが生じる。浅草での出来事がきっかけか。それとも、街が浮つくこんな日だからか。

 たとえそれが意地の悪いことだとしても、何か仕掛けてやりたい気持ちになった。


 一歩。汽車に近付き、ぴたりと両手を窓に付ける。左手を竜の右手の位置に合わせると、私の指の一関節分、夫の手は大きいことを知った。黒革の手袋越しでも冬の硝子は冷たく、すぐに指先がかじかんだ。


 それでも、竜の表情が変わらなかったらいくらかは慰められたのに、透明で堅固な一枚を挟んで重なった手の平を、額を窓に押し当てたままの竜は驚いて、さらには怯えた顔をした。彼が微動だにしないのは恐怖からだ。

 苛立ちが募った。


「こちらの気持ちも分からないで!」


 言ったって聞こえやしない。突然沸き上がった衝動は収まることを知らず、私は窓に顔を押し付けた。顔というには広く、実際はもっと狭い下唇。場所は当然、竜のそれに当たるところ。



 ――出発を知らせる笛が甲高く鳴いた。


 顔を離して、握った拳で乱暴に硝子を拭くと、手袋に惨たらしい口紅が付着した。強行の跡は擦り傷のように赤く、痛々しい。


 ふらつくように身を引くと、竜の細い眉は哀しみに歪んで、今にも泣き出しそうな表情をしていた。そこでようやく申し訳なさが生まれた。何か、騒音の最中でも呟けたらと思うのに、愚かにも無機質な冷たさを味わった唇は、凍ったように動かない。


 重たい軋み音をたてて電車が動く。今の私に竜の姿を追うことはできず、惰性交じりに前を見続けた。彼が目の前からいなくなれば、上級品の硝子は己の顔をよく映した。

 それは泣いた顔をしていた。

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