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【10】暗翳と二人の夜と(3)

 サイズが寸分違わず合致する。それは以前から、私たち夫婦を安心させる手段の一つだった。


 竜は私という外形を、いくつもの数字と(なま)の双眸でもって把握していた。

 少なくとも週に三度は眼で見る。そのうち一度は数字にも取る。よって唐突な衣服の贈り物も、竜が選べばこの上ないほど肢体に合った。

 彼が私という存在を捉えている証であり、私が彼に捕まえられている証。つまるところ、この戯れが互いの好意に対する自信を持たせていた。


「ストッキング……脱いでもらってもいいですか」


 筆記の音が止んだ。

 竜の器用なメジャー捌きを学んだ私は、誰の手を借りずともメジャーを身体に当てることができる。数字の細かに描かれた紐尺に、自ら巻かれていくのが私。目盛りをその眼で確認して、一つ一つ丁寧に紙に写す役割は竜が担う。

 全ての数字が揃ったから、今日の測定は終いだった。測定だけに関しては。


 竜の言う通りに人絹のストッキングを片脚ずつ脱いでいる最中、彼は羽ペンとインク壺と、記録冊子を部屋の端に追いやった。その間も彼の視線は私を外さない。


「コート。また羽織って下さい」


 この行為の中では、竜が見繕った服の肌触りが彼の愛撫といってもよかった。彼は抱擁の代わりとして、私に着せたり脱がしたりを繰り返す。触れられない両手を服に代えて、私を愛してくれる。


 家の前の路を一台の車が過ぎ去ろうとした。車用の電灯が厚い窓硝子を透かし、私たちの寝室を一瞬のみ明るくした。窓の前に体位を構えていた私は偶然光を背負う。それをまともに見た竜は眩しそうな表情をつくると、まるで拝するような格好から四肢を畳に這わせた。部屋は薄暗闇に返った。


 竜の熱っぽい吐息を左の脹脛(ふくらはぎ)に感じながら、一昨日のことを思い出した。


 朱也と別れたあの日はすぐに帰って寝床に入り直した。竜も私も食欲が湧かなかったからだが、すぐに寝付けなかった私は真っ暗な夜の中、帝都の小路を撫ぜる風の音を聞いた。それは冷たい川のせせらぎに似ていたが、怖くはない。


 瞬く間に蘇った恐怖は瞬く間に眠りに就いて、私の籠を破って一人歩きすることはなかった。過去を塞いだ錠前は簡単に手を掛けられたものの、結局は開かなかったのだ。


 次の日になっても竜には不調を心配されたが、実際に辛いということはなかった。ただし、着崩れのような違和感だけが今も残っている。


 ――無意識だったから分からない。しかし、ここで私が怖かったと認めてしまったら、竜がそれを悟ってしまったら、男の彼は余計私に触れられなくなるのではないか。

 それは望む未来ではなかった。一生触れることがなくても後悔しないと思い結婚したが、私のために(・・・・・)竜が触れることができないなど、あってはならないと思った。

 強く在りたい。甘えた態度なんて取りたくない。


「いつもねだってごめんなさい、沙耶子さん」


 竜のことは好きだ。当然怖くない。だから近付かれても恐怖が蘇ったりはしないし、触れるようなことがあればむしろ嬉しいはずだ。きっと。


「竜なら何でも許せるよ」


 肌を露わにした背を見せて、窓に向かって零した。急かしたいわけじゃない。それなのに、早く確かめて安心したいと思う自分が無性に情けなくなった。何でもできるなら、待つことだってできるはずだというのに。


 心からの言葉は、どこでもなく自分の胸に染み跡を付ける。粗い擦り硝子は私の顔を映さなかった。



***



 寝付く前、並べた布団の片側から竜が言った。


「そういえば玉利様の件なんですけれど。日時は変わらずですが、場所が横浜になりました」

「横浜?」

「今週の土日はあっちに行くみたいで。一応、『ノクチルカ』というお店です」


 食べ慣れないものを舌にのせたときのように、彼はたどたどしくその名を口にした。不思議な耳触りの店名だ。


「横浜で夜だと、泊まりになるんじゃないか」

「いえ。遅くなるかもしれませんが、帰ってきますよ」

「それなら駅まで送り迎えするよ」

「帰りは要りませんよ。夜分遅くに歩かせて、俺の愛しい奥さんに何かあったら大変ですから」


 もう寝るというのに。いつまでも軽い口に呆れて閉口すると、反して竜はとろけた笑顔をつくった。豆電球の小さな灯が二人の顔を照らしている。


 彼の長い睫毛が落とす優しい影の下、潤んだ瞳の中には天井の光が揺れる。海面に映る月のようだった。私はそこに、故郷の夜を見た。


 彼は唇だけを動かして、「好きです」と声なくして呟いた。若々しい唇は冬でも湿っぽく、壮健な血が通っていそうで、私は心ならずその感触を想像した。

 チクリと胸が痛む。今私を刺したのは、罪悪感だろうか。

 瞼を閉じながら、「私も好きだよ」と強かに言った。


「詳しい話はまた明日に。おやすみなさい」

「おやすみ」


 そう交わしたのに、ふと試しに目を開けると竜の甘ったるい双眸がこちらを見つめている。「恥ずかしいよ」と言って頭まで布団に潜ると、くすっと笑われた。その後すぐにカチリと音がしたから、明かりは落とされたのだろう。


 電球は冷め、布団に潜ませたこの身だけが火照る。

 今の瞬間を切り取れば、普通と何ら変わらない夫婦の後なのか、それとも前なのか。私には分からなかった。

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