【1】花の都に住む人は(1)
耳を澄ますと、ミャアミャアと鳴き声を降らすのは海猫だった。
陸地には珍しい声色に空を仰ぐ。海上を時に揺ら揺ら、時に力強く滑空する姿も見なくなって久しいが、こうして街中までやってくるものもいるらしい。場違いな空で飄々と飛ぶ様子もまた、愛嬌がある。
夕空に円を描いていた黒い尾羽は、やがて吹き上げた風に乗って向きを定めた。帰る方角は家と同じ。着物の上に羽織ったケープを直しながら、いそいそと帰路に着く私の手には革の手提げ鞄、中には代金袋。
大事な成果を落とさないよう、金属製の持ち手を強く握りしめると、手の平がじんとひりついた。雪国の故郷ほどでないが、冷感が増してきた。道行く人は皆かっちりと着込んだ風采で、木枯らしに身を固くして街を流れていく。
帝都での商いも三年目、季節は静かに冬を告げていた。
「沙耶子さん、おかえりなさい。集金ありがとうございました」
上京当初から借りている平屋建ての一軒家に帰宅すると、玄関の引き戸を締め切るより先に、彼がひょっこり、居間から顔を見せた。
「ただいま」
縦長の狭い廊下に首から先だけを出す彼に、半身になって応える。温かそうな血色の良い頰だ。
ストーブで暖まっている部屋を想像しながら、玄関の錠をかけた。そうして上がり框から廊下、居間へとようやく辿り着くと、私を待ち構えていたような笑顔が出迎えてくれた。
いつもより上機嫌らしい彼は仕事着のままだった。スリーピースは背広だけを脱いでいて、揃いのベストとズボンが細身の身体にぴたりと似合っている。銀座でもどこでも歩けそうな様相だが、白シャツの袖は肘まで捲れ上がり、腕には水滴が浮く。
先に帰宅すると言っていたから、その予想の通り早く仕事が終わって、夕飯を作ってくれていたのだろう。
上京を機に、私たちは仕事の他にも家事を分担するようになっていた。彼からその提案を初めて聞いたときは不思議でならず、二、三度聞き返したものだが、彼にとってはこれがいいらしい。
商売は順調だから女中を一人養うこともできる。また仕事に関しても、本家から奉公人を連れてくることもできるのだが、彼も私も常識外れなところがあるし、きっとお互い気を遣う。
「流石に寒くなりましたね。お身体冷えてませんか」
「大丈夫。むしろ歩いて火照ったくらいだよ」
気遣うように伸ばされた手は、私でなく脱ぎかけのケープを掴んだ。
「夕飯にします? 銭湯行きます? それとも」
「夕飯にしようか。収支合わせるのは後でも大丈夫だよな」
「えっと……俺の方も難しくはなかったんで、そうですね」
彼は苦笑ともはにかみとも呼べぬ曖昧な表情をつくると、優しくケープを抱き、自らの頬に寄せた。わずかにうつった熱を確かめるその挙動に、私は呆れることをしなくなった。ただ傍らで見守るだけだ。
「こうして沙耶子さんと帝都で生活できて、俺は幸せ者です」
凛々しい口元から紡がれる、甘えるような声。健気であどけない合図に心が揺れ、跳ねる。私の鼓動を見計らうように部屋は静まり、ストーブで弾けていた薪さえも慎ましく音を消した。私は身体を、強張らせた。
「大好きな沙耶子さん。いつもありがとうございます」
耳元の、けして触れない、安全な距離だった。それでも精一杯、本当に精一杯の囁きだと分かっているから、私はこそばゆいものを感じながら小さく頷く。
示し合わさたやり取りは機序めいているが、常に心があって、それは温かい。彼がつくる独特の距離感は身を固めた今、私に言いようのない安心感をもたらしていた。
***
私が帰宅後のあれこれをしているうちに、彼は夕飯の準備を手際良く終わらせていた。魚特有の甘い香りが食欲をそそる。向かい合うように並べ置かれた食器皿の上、丁寧に据えられていたのは地元では馴染みのない種類だった。
「今日の夕飯は甘鯛の塩焼きです」
「嬉しいけれど、高く付いたんじゃないか」
「サービスしてもらいました。俺も普段、結構まけちゃうんで」
こちらも干し鮭を中心に、保存がきく海鮮類の卸売と小売、両方を扱う店だ。屋号は鈴生屋。田舎の港町に根を下ろす老舗だが、その分店という扱いで、私たちは帝都で商売させてもらっている。
「どこも持ちつ持たれつですよ」そう言ってへらりと笑う男にはいまだに放蕩時代の面影が残っていて、思わず眉尻が下がる。
「お兄さんに怒られるぞ」
「兄貴だって割としてますよ。まぁその塩梅が絶妙なんですけれど……ああ、この甘鯛の塩加減も絶妙」
「連れ戻されても知らないからな。全く」
仕方のない奴だ、で済ませる私はきっと甘いのだろう。それでも、一緒に見聞きするもの、口にするものは一層輝いて私の心を打つから、これもまた仕方のないことなのだ、と自分に言い聞かせる。
実際、舌にのせた甘鯛はとろけるほどに美味しい。
「沙耶子さん。今日、沙耶子さんの洋服買ってきたんです。もちろんお小遣いからなので、怒らないで」
「……今日、何かの日だったか」
「いえ何も。俺が沙耶子さんに着て欲しかっただけです」
彼の視線を追って部屋の隅に目を向けると、取り付けてある神棚の下に、洒落た小包みが置いてあった。気付かなかったのが不思議なほど、水色の鮮やかな包装紙は主張的で、曲線の幾何学模様が室内灯の明かりを受けてチカチカと輝いている。
「ね。銭湯から帰ってきたら、着て見せて下さい」
「それはいいけれども。……いつも悪いな」
「とんでもない。お美しい沙耶子さんを眺めるのが俺の生き甲斐ですから」
どちらが貰う側か分からないほどに、心底嬉しそうな、華やいだ表情。それがあまりに清々しいものだから、彼の言葉選びに潜む哀悩に、私だって前は気付かなかった。
彼は女性に触れることを恐れている。話せないわけではない、嫌いなわけでもない。女性が怖いのではなく、むしろ己が怖いがために触れられないという。
幼少期に発現した性質は複雑で、何より本人の苦労が耐えないけれど。それでも私を愛しと伝えてくれるのが、竜――鈴生竜治。私の夫なのだった。