すれ違わない二人
相手を思いやる正直というのは意外と難しいものです。
カレンは支度をしていた。というのも、今日はかねてより親から話があった婚約者と初対面を果たす日なのだ。貴族にはよくある政略的な婚姻である。
そんなカレンを手伝う侍女のベーレは一つ溜め息をついた。
「お嬢様。旦那様のお仕事の都合での婚姻にあまり気が進まないのはわかりますが、お相手の方の前ではもう少し愛想よく振舞ってくださいね。旦那様が本当はとても嫌なのではないかと心配なさっていましたよ」
カレンは目を瞬かせた。嫌どころか、むしろ上機嫌である。カレンはこの鈍感な侍女は相変わらずだな、と微笑ましく思った。
カレンのこの思考には重大な問題がある。まずベーレは決して鈍感ではない。頭が切れてよく気の付く優秀な侍女である。少なくともカレンの父をはじめとする屋敷内での評価はそうだ。
問題は、優秀な侍女を持ってすらその心中を察し得ないカレンの鉄壁の無表情の方にある。
「ベーレ、私は凄く嬉しいのよ。意図があるとはいえ、ずっとお慕いしていた人が婚約者となるのですから、心が弾まない筈がないわ。お父様の誤解は解いておいてちょうだいね?」
そう言うカレンの顔は口以外ぴくりとも動かない。反対に、ベーレの顔がひくりと引きつった。
「お、お嬢様はデトラ様を想っていらっしゃったのですか!?い、一体いつからそんなことに!?」
「あら、言っていなかったかしら?私は結構分かり易かったと思うのだけれど。デトラ様を見ているとつい顔が緩んでしまうし」
もう一度言うが、ベーレは優秀な侍女だ。忠誠心を持ち、主人を敬い、誠心誠意仕えている。しかし、流石のベーレも心の中で「お嬢様の中では顔が緩むの定義はどうなっているのかしら」と思わざるを得なかった。
おそらく今のカレンの発言と頬に手をあてる仕草からみるに、カレンはうっとりと婚約者となったイグリル・デトラを思い浮かべているのだろうと侍女は推測する。果たして、彼女は小さく「デトラ様」と呟いて両手で顔を覆って俯いた。仕草は完全に恋する乙女のそれなのだが、いかんせん相変わらず眉ひとつ動かない。いっそ不気味ですらある。
ベーレがお世話を仰せつかっているカレン・エルダは、とても美しいご令嬢である。薄く水色に輝いて見える白金の髪。深い海の底のような瞳を縁取る長い睫毛。白い肌に桃色の唇。誰もがはっと振り返るような美しさと儚げな雰囲気は、この国の誰にも負けない程のものだと、ベーレは半ば本気で思っている。おまけに、その心根は優しく素直で、その気遣いの心は使用人にまできちんと行き届いている。さらにさらに、マナーをわきまえかつ勉学にも励んでいる。カレンはまさに理想の主人であり、理想の貴族令嬢と言っても過言ではなかった。───唯一、産まれてこの方、彼女が満面の笑みを見せた例が一度もないということを除いて。
おかげでカレンは社交界でも高嶺の花扱いをされており、彼女に交際を申し込むような肝の据わった男は今のところ現れていない。政略結婚という名目ではあったが、実はそんなカレンを心配した父が彼女のために用意した結婚というところが大きい。カレンには想い人もいない(ように見えた)し、何よりそれがどんな人物であれ、カレンの本質を知れば必ず大切に思ってくれるだろうというやや親馬鹿な考えもあった。
ベーレはそんな彼の考えを何となく推察する。そしてよく聞けば珍しくも微かに鼻歌を歌いながら準備を進めている目の前のお嬢様を見て、深いため息をついた。子を思う父の考えは、一つ間違えればカレンに恋心を耐え忍ばさせるものになっていたかも知れない。
やはりカレンの鉄の仮面はエルダ家においては鬼門のようだ。
かくしてカレンとその婚約者イグリルは対面した。
当たり障りのない会話が親同士で暫く続き、やがて婚約者同士のみ別室で話すよう促される。別れ際、イグリルの父が念を押すように「余計なことは言うな」とささやいたが、イグリルはきっぱりと首を横に振っていた姿が妙にカレンの目に残った。
そして、場に沈黙が落ちる。カレンの表情はやはり微動だにしていなかったが、その内心は緊張と興奮に荒れていた。対するイグリルもまた、その冷たい美貌を凍らせたままであったが、内心はカレンとはまた違った意味で緊張に満ちていた。
その二人の様子を部屋の片隅で見ていたベーレは、何故かその瞬間、この二人が似た者同士なのではないかと感じた。
場に衝撃が走ったのは、それからすぐだった。
「今回の婚約について、貴女に話しておかねばならないことがあるんだ」
イグリルは静かな声で切り出し、静かに爆弾を落とした。
「実は、私には他に想う人がいるんだ」
カレンは少々目を見張った。息を呑む音。ベーレにはそれだけの変化で彼女がいかに衝撃を受けているかが分かった。おそらくベーレでなければカレンの反応の小ささに驚いていただろう。
「……その人とは心を通わせているのですか」
誰が聞いても淡々と、としか言い表せない声色でカレンが問う。イグリルは首を横に振って否定を示した。
「私の一方的な想いに過ぎない。彼女には夫がいる。勿論、想いを叶えようなどとは思っていないし、貴女と婚約するからには出来るだけ貴女に愛情を注ぎたいと思っている。だが、こんな中途半端な思いを抱えた男を面倒だと思うならば、この話は断って欲しい。これは表向き政略的なものとしてあるが、私の行く末を不安に思った父が勝手に進めたものだ。貴女には断る権利がある。それに、貴女ほど美しい女性ならば、いくらでも誘いがかかるだろう。無理に他の女を想う男と結婚する必要はないだろうと思う」
滔々と語るイグリルに、彼の従者であるスルタは内心頭を抱えていた。あれ程屋敷中の者に止められていたのに、この馬鹿がつきそうなほど正直な我が主は包み隠さず話してしまっていた。その声は一見冷たく感じるほど淀みないが、長年仕えてきたスルタには声に滲む罪悪感がうかがい知れた。後々発覚して辛い思いをさせたくないと思ってのことらしいが、氷像かと見まごうほどに表情が動かないイグリルが本気で隠そうとすれば、彼の秘めた思いに気付く猛者はそういないだろう。現に、婚約話を持ってきた際に告白されたその日まで、デトラ家の者は誰一人気付いていなかった。おそらく彼の想い人である遠い親戚のカルーラ嬢本人ですら知らない事実だろう。
ただでさえ冷たいと思われ易いのだ。いくら相手を思ってのことだろうが、誠実に接しようと思ってのことだろうが、相手の令嬢はこの発言に突き放されたと思うことだろう。あわや御破談か、とスルタが絶望しかけたそのときだった。
「正直に話してくださって、ありがとうございます」
カレンはイグリルに頭を下げた。イグリルはそんなカレンに動揺しているように、は見えないが、動揺していた。
そんなカレンの冷静な様子を見て、スルタは希望を見出した。カレンは感情に流されず、この結婚に利点を見つけてくれているのかもしれない。
「貴方が誠実に対応しようとしてくれるそのお心に、私も精一杯お応えしようと思います。私の告白を、聞いてくださるでしょうか」
「ああ」
イグリルはカレンの真っ直ぐな視線にたじろぎながらも、頷く。最早言うまでもない事であるが、傍目には淡々と頷いているようにしか見えない。
「私は、貴方をお慕いしております」
ベーレはもう少しで「どうして今このタイミングでそれを言うんですか!」と叫びそうになったが、主にカレンのせいで培われた忍耐力をもってそれを抑えた。ベーレとしては、他の女を思い続けているという男などに彼女を任せたくなどなかった。さらに言えば、ベーレの目にはイグリルが罪悪感を感じているようにも見えず、冷静なその態度はただただ尊大に見えた。
「そうか。それは酷なことをしてしまった。ならば尚更この婚姻は破棄してもらいたい。貴女を好きになるかどうかもわからないまま無暗に共にいることは出来ない」
イグリルは衝撃に頭の中を混乱で埋めながら、やっとのことで話した。とてもそうは見えないが、イグリルは冷静になろうと必死だった。実のところ、冷たい印象の強いイグリルが令嬢から思いを告げられたのはこれが初めてだったのだ。
そんなイグリルに、カレンは左右に首を振る。
「いいえ、だからこそ私から婚約を破棄することはありません。貴方が想いを叶えようと思っていないのなら、私を見る努力をしてくださるというのなら、私に機会をください」
「機会」
「ええ、私は何が何でも貴方を振り向かせて見せます。その想いが貴方を苦しめるだけのものなら、私はその苦しみを和らげてあげたいのです。……すみません、出過ぎた発言でした」
少し肩を竦めさせるカレンに、今度はイグリルの方が首を横に振った。
「……いいや。ありがとう。私のことをそこまで慮ってくれるのは、君が初めてだ。私は君を好きになりたいと思ったよ」
「デトラ様……」
「イグリルと呼んでくれ。我が家にはデトラが幾人もいる。これから不便になるだろう」
「はい、イグリル様。私のことはカレンとお呼びください」
「ああ、カレン。ところで、いつまでも君を私に縛り付けるのは気が進まない。期限を設けたいのだが」
「期限ですか」
「君を愛せるように、もしくは彼女を忘れられるようになれば良いのだが、そうでなかったとき、カレンがただ傷つくのみで何も得るものはないだろう。それは私の望むところではない」
「……では、二年はどうでしょう。二年ならば、私は嫁ぎ遅れという年齢にはなりませんし、イグリル様の負担にもならないでしょう」
「わかった。ありがとうカレン。君は素晴らしい女性だ」
「私はただイグリル様のそばにいたくて理屈をこねているだけですよ。私は貴方に好かれるためならなんだってします。覚悟してくださいね」
「ああ、楽しみにしている」
一連の会話は、最初から最後までお互いに無表情のままで終わった。彼らの心の中にはお互いへの尊敬やら安堵やら悲しみやらに満ちていたし、会話内容もドラマチックと言えなくもないものだった。しかし、少し離れたところで彼らを見守る侍女や従者やらには、愛や恋やらとは程遠い、商社の重役同士の取引のように見えたという。いや、商社の重役の方がまだ表情豊かだったであろう。
とにかくここでまとまった話は親にも伝えられ、少々揉めることはあったものの、カレンとイグリルの婚約者同士としての生活が始まった。
そして、二年と経たないうちにイグリルはカレンに惹かれるようになった。
「カレン。昨日気付いたことがあるのだが、聞いてくれるだろうか」
「ええ、なんでしょうイグリル様」
「私は君を好きになっていたらしい」
「まあ」
カレンは驚いた。誰が何と言おうとも、カレンは確かに驚嘆していた。
「こうもたやすく心の変わってしまった私に、君は失望するだろうか。だが、私はすっかり君を愛しく思ってしまっている」
「失望なんてしませんわ。人の心は変わるものですもの。なにより、貴方が私を思ってくださることがとても嬉しいのです。これから先も貴方に思ってもらえるように頑張りますわ」
「ありがとう、君は本当に優しい人だ。私も君からの愛情を失わないように尽くすよ」
「イグリル様」
「カレン」
一見感動的かつロマンチックなその風景を見守っていた侍女と従者は顔を見合わせた。お互いにとても微妙な顔をしている。
「スルタさん、今私たちは何を見せられているのでしょう」
「ベーレさんの気持ちはよくわかるよ。なんというか、人形劇にしか見えないよな。無表情のままいちゃいちゃされると脳の中の情報がすごい混乱する」
「視覚情報と聴覚情報が合わないと、感情が追い付かないものなんですね。喜んでいい場面のはずなのに私の中の喜びが戸惑ってます」
「右に同じ」
淡々といちゃつく主を暫く眺めていた二人は、やがてもう一度顔を見合わせて吹き出した。大切な主の、いかにも主らしい幸せな場面に、だんだんと感情が追い付いてくる。
「幸せなご主人様がたのぶんも、俺たちが笑ってあげようか」
「そうですね」
そう言って笑い合う従者たちを、カレンとイグリルはお互いにしかわからない微笑みを浮かべて眺めていた。
「それで、カレン様たちはどちらに?」
「相変わらず部屋でいちゃついてる。……俺さ、問題だと思うんだよ」
「……想像はつきますが、何がでしょう」
「想像通りだと思うよ。あの二人、最近さらに表情少なくなってない?俺ですら読み取れないときがあるんだけど」
「似た者同士、以心伝心しているかのごとくお互いの感情に聡いですからね。表情筋を使うのをおろそかにしているのでしょう」
「あの表情筋は、からくり人形レベルだと思う」
「からくり人形って……瞬きと口を縦に開くぐらいしか動かないじゃないですか!」
「瞬きと口を縦に開くぐらいしか動いてないからなあ」
「ど、どうするんですか、屋敷内で無表情のまま愛を囁き合うだけならともかく、社交界での人間関係が円滑に行かなくなりますよ!?」
「さらにまずいことがあるよベーレさん。我が主、最近ユーモアに目覚めたらしく、時々冗談を言うようになったんだ」
「ひぃっ!?じょ、冗談を!?どうするんですか、最早聴覚すら信じられなくなりますよ!?」
「な、問題だろ?」
「問題どころじゃありません!」
その後、ベーレによる表情筋鍛錬講座が開かれるようになり、イグリルとカレンは慢性的な頬の筋肉痛に悩まされることになった。
スルタはそんな二人を労わりつつ、いつもは冷静なベーレの主人のこととなると目の色が変わる様子を楽しんでいる部分もあるという自覚があった。それをベーレ自身が知るのは、もう少し先の話である。