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Blue Rose  作者: 汐月 羽琉
第二章 自覚
7/7

隠シタ記憶

 ずっとずっと目を逸らし続けていたものを、また目の前に突きつけられる気がして


   * * *


 白坂に、千尋との写真を見られた。たったそれだけのことに、なぜか酷く動揺している自分がいた。

 頭では分かっている。僕がうっかり落としてしまったパスケースを、出勤した白坂がたまたま見つけて、拾い上げただけ。そして、多分運悪く開いた状態で落ちていたのだろうと。

 まだ決して長いとは言えない期間だけど、一緒に働いているのだから、人間性ぐらいはだんだん掴むことができ始めている。白坂は勝手に中を見るようなタイプの人間ではない。

 分かっているのに。

 ――聞こえなかった? 出ていって。今すぐ。

 あれほどまで強く、突き放してしまった。

 視界の端に映っていただけだから、完全に、というわけではないけれど、白坂が怯えたように瞳を揺らしているのは見えた。息を呑んだことにも、気づいていた。

 あんな醜態を晒して、きっと困惑しているに違いない。もしかすると、傷ついたかも。

 そんな彼女を思うと自己嫌悪の波に呑み込まれるが、同時に、『自己嫌悪している』という事実に戸惑うのだ。

 なぜ、白坂などという、『仕事ぶりはどうでも、人間としては興味がない』という枠にいるはずの人間に対して、自らの心を砕こうとしているのか。

 こんな経験、今までは斎藤クンと千尋に対して以外にはなかった。一度たりとも。

 何があったのだ。どうしてこんなふうに変わろうとしているのだ。永遠に答えが返ってくることのないものを、繰り返し繰り返し自分自身に問いかけた。

「……はあ」

 重たいため息をつきつつ、疲れ切った身体をソファに投げ出す。

 あの後、しばらくしてから白坂を室内へと呼び戻したが、今日の空気は酷く重苦しかった。白坂の表情にはいつものような柔らかい笑みはなく、窺うような、怯えに近いものを孕んだものが浮かべられていた。

 当然であり、偏に僕のせい、八つ当たりだ。

 僕は総てを察しながらも黙殺して、とはいえ仕事の内容ではいつも通りに接し、それ以外の休憩時間などは徹底的に避け続けた。いつもは彼女に淹れてもらうお茶も、手ずから淹れたり、休憩室まで赴いたり。まるで、喧嘩した相手の顔を気まずくて見られずに、逃げて遠ざけてしまう小学生のようだ。

 白坂は何も悪くない。悪いのは僕だ。分かっていても謝罪できないまま時を過ごすのが、僕という人間のちっぽけさ。

 退社していく彼女の背中は、とても頼りないものだった。

 目が疲れているからか、頭が鈍く痛みを発する。首を回しつつも時計に目を遣ると、二十時を回るぐらいだ。今日は割と早く帰れた方だ。

 押し寄せる眠気に欠伸を零しつつ、飲み物を取りに行こうと立ち上がったところで、ぱさりと音を立てて何かが床に落ちた。

 拾い上げると、葉書だ。高校の同窓会の実施を報せるもの。実家の方に届いていたらしく、使用人が気を利かせて転送してくれたのだ。昨日の夜の帰宅時に受け取って、テーブルに置いたのが立ち上がった拍子に舞い上がったらしい。

 高校時代のクラスメイトに対して、特に感傷は何もない。第一、顔さえほぼ覚えていない。我ながら無味乾燥な学生時代を送っていたものである。だから、参加する気はなかった。

 でも、その時代に何も思い出がないわけではない。斎藤クンに出会ったのも、千尋と出会ったのも、高校の頃だ。かつてを想起させる品としては充分すぎる。

 朝にもこの葉書は当然目にして、少しばかり懐かしくなって、会社に着いたのが早い時間だったからパスケースに収めた写真を眺めて――そうだ、そのせいだ。普段はお守り代わりでほとんど出さないものを落としてしまった。

 唇を引き結んで、カウンターに置いてあったボトルを適当に掴む。つまみになるようなものは何も持ち出さず、グラスと氷だけを準備して、ボトルの中身を注ぐ。

 数日前、久々に斎藤クンに連絡して、会った。

 僕も斎藤クンもかなりお酒はいける人種で、一緒に飲むために時折会っている。お酒も食も好みを把握してくれている行きつけのバーが幸いにしろあるので、そこに集合して。

 その日も同様で、近況などを話し合っていると、斎藤クンの様子にふと違和感を覚えた。別にマイナスな意味ではなく、纏う雰囲気がどこか穏やかになっている気がしたからだ。

「……斎藤クン、何かいいことでもあったー? 珍しく眉間に皺がないねぇ」

「別に。何気に失礼なことをさらっと言ってんじゃねえよてめえは」

 尋ねてみるが、即座に否定される。

 その即答ぶりがかえって怪しい。

「ふーん? 彼女できたって聞いたんだけどなぁー」

 にやりと笑って鎌をかけてみると、ちょうど飲んでいたお酒を危うく吹き出しかけている。そんな様子が面白くて笑っていたら、噎せていて声には出ないまでも、「誰から聞いた?」という顔をしている。弁護士のくせに引っかかってくれたらしい。ちょろい。

「へー、できたんだー初耳だーねぇねぇどんな子? ねぇねぇ」

 頬がにやにやと緩むのを止められずに重ねて尋ねたら、ようやく斎藤クンも気づいたらしい。さっきのが鎌かけであったこと。

「高谷、てめえ……」

 睨まれても照れ隠しかと思うと別に怖くない。すまし顔をしていたら、憎たらしそうな様子で舌打ちされた。

「ねぇー教えてよー。どんな子? ねぇねぇってばー」

 僕がこうなると、ピラニアかスッポンかという感じで食いついて離さない。無理に話題を終わらせようとしても、きかん坊のように譲らないのである。

 十年来の付き合いで僕という人間の特性を嫌というほど知っている彼は、舌打ち混じりながら教えてくれた。最近付き合い始めたこと。それが隣の家に住む幼なじみの女の子であること。気が強くて、でも案外泣き虫で、欲しいものを欲しいと言えない意地っ張りな性格をしていること。

 斎藤クンが誰かのことをこれほどまでにしっかり把握していて、語ることができる相手というのはそういない。仕事上の関わりならまだしもプライベートならば、斎藤クンの人間関係は、狭く、その上浅いからだ。どちらかというと、ではあるが。

 基本的に、人間というものに対してよくも悪くも期待しないのだと思う。僕の『信用しない』というものとは別種の距離の置き方だろうが、だからこそ僕は彼とならば長い時間を共有し続けられているのかもしれない。

「へー、幼馴染みかぁー。ドラマも斯くやって感じだねぇ。年近いのー?」

 訊いた瞬間、斎藤クンの表情が微妙に引きつった。

 僕は面白いものの気配を見逃すことはない。斎藤クンに彼女というだけでも面白いのに、この話題は多分、斎藤クンが最も避けたかったのかもしれないと察する。

「えー? 何、離れてるんだ? 斎藤クンが年上と付き合うとはちょーっと思えないしぃー……ってことは、年下? もしかして小中学生? それやばくなーい? 捕まっちゃうよー?」

「ふっざけんな、十六だ!」

 またも鎌をかけてみたらあっさり引っかかってくれるのだから、本当、斎藤クンは面白い。面白すぎて呼吸が難しいぐらいには笑える。

 でも正直、十も下だとは想定していなかったので、実際のところは驚いた。

「十六……ってことは高校一年生? うーん」

 どっちにしても変わらないというか、何というか。

「おめでとう、斎藤クン。キミも立派な犯罪者の仲間入りだね! 自首するなら今のうちだよー」

 いい笑顔で親指を立ててみせると、頭を引っぱたかれた。地味に痛い。

「暴力反対ー。でも面食いな斎藤クンが付き合うってことは美人デショ? 写真ないの写真、みーせーてー」

「やめろ。触んな。写真なんぞねぇし、よしんばあったとしても、てめえには絶ッ対に見せねえ」

「えー何でー? 見たい見たいみーたーいー!!」

「暴れんな駄々っ子か! お前は二歳児か、あァ!?」

 僕たちの遣り取りを見て、馴染みであるマスターが笑っている。それを横目に、拒否する斎藤クンに散々ゴネてみせて、彼女がSNSに投稿していたらしい写真を見せてもらった。

 斎藤クンのスマホを渡してもらい、実際に見たら、「うわやっぱり美人だ」と用意していた台詞を吐き出そうとした、していたのに。

 僕には、それができなかった。

「……おい。散々ゴネといて急に黙んな」

「和泉? どうした」

 画面がブレているのを見て、スマホを持つ自分の手が小刻みに震えているのを、ようやく自覚する。

 でも、どうにか呼吸を落ち着けることぐらいしかできなかった。

「おい、高谷?」

 さすがに様子がおかしいと気づかれてしまったようだ。

「――斎藤クン、覚えてる?」

 手だけじゃない。声も震えていた。それだけ動揺していた。

 だって、だって、その少女の顔は、あまりにも。

「何をだよ」

「僕が、高校時代……少しだけ、付き合ってた子」

 目を瞬かせる彼に、口角をゆっくりと持ち上げてみせる。きっと不格好な笑みになっていることを悟りながら。

「その子、千尋に、上條千尋に、そっくりだ」

 告げた内容に、斎藤クンはますます驚いたような顔になる。

「……上條の人間じゃねぇし、少なくとも、血縁関係はないと思うぞ。把握してる限りは」

「うん、分かってる。もう一度よく見てみれば、細かいところは違う。だから、他人の空似だと思うよ。けど……一見しただけなら、多分勘違いする」

 僕と同い年である以上、現在の千尋は、女子高生だった頃と同じような外見であるはずはない。

 だけど、僕の中ではそのままで止まってしまっているのだ。別れて以来一度も会っていないから、余計に符合するところを無意識でも見つけてしまうのだと思う。

「そういや、そんな名前だったな。いつもお前が『ちーちゃん』とかいうふざけた呼び方してるから、本名の印象薄かったわ」

 ふと、斎藤クンが少々唐突にも思えることを呟く。

 確かに付き合っていた時分の僕は、千尋のことを渾名で呼んでいたが、それがどうしたというのだろう。目を瞬かせると、彼は肩を竦めていた。

「偶然ってのは恐ろしいって思っただけだ。こいつも、そう呼べなくはないからな。名前は、『千年(ちとせ)』」

 もう一人の、『ちーちゃん』。

 今も鮮明に思い出せる。そう声をかけた瞬間、少し照れたように笑って振り返った彼女の姿を。

 千尋。

 届くことはないと知りながら、心中で強く強くその名を叫ぶ。

 歪んだ愛情、間違えた一途さ。愛情と執着は別物で、僕が抱いている感情は後者だ。そして千年という少女と千尋は別人で、この胸にある後悔は、千尋に向けるべきものだ。

 分かっている、分かっている、総て分かっている。

 でも、なくせないのだ。ずっと大切に持っていたいのだ。

 千尋。愛していた。

 違う、今でも、愛している。

 それを言えたら、どんなに楽か。


 和泉は、私のこと、本当に好きだったの? 和泉にとっての私って、何だったの……?

 私には、あなたに愛されてるって、分からなかった。


 ぐっと唇を噛み締める。

 何ひとつ、もう一生言えないことが、千尋を傷つけた僕への罰。

「――、妙なこと考えんじゃねえぞ。お前の『千尋』とこの『千年』は別人だ」

「分かってるよ。分かってる……」

 僕らをよく知らない人たちが聞いたら、斎藤クンの台詞はただの牽制に聞こえただろう。

 しかし、僕は分かる。牽制なんていう可愛らしいものではない。そもそも、斎藤クンも僕も、彼の恋人を奪い合ってドロドロの関係性になるなんて想像はしていない。

 千年という少女を僕の中の『ちーちゃん』と重ね合わせて、過去に立ち戻るな。記憶に埋没し、自分の殻に更に閉じこもるような真似をするな。これ以上、千尋に執着するのを、やめろ。

 そう言いたいのだ。

「……覚えてんだろ。あの日のこと」

「覚えてる。忘れるわけない」

 カウンターに肘を突き、両手で顔を覆う。もう、動揺を繕おうと言う気さえ起こらなかった。

 彼は昔からそうだった。総てが嫌になって何もかもを投げ出そうとする僕を、そのたびに捨て身で庇うのだ。ほとんど、何の見返りもなしに。

 そもそも、出会い方が出会い方だった。


 もし、もう一度死にたくなったその時には、俺のところに来い。約束してやるよ。俺がこの手でお前を――


 一日だって忘れたことはない、あの日の約束のこと。

 あんな約束をした当時は、斎藤クンにも色々あった。持ちつ持たれつの関係性だったのだと思う。

 だけど今は、そうまでするだけの理由なんて、彼にはどこにもないのに。

 どうしてそこまでしてくれるの。尋ねてみたことは以前にもあった。彼は答えてはくれない。自分で考えろ、そう突き放す。いくら考えたって僕には分からないというのに。

 ああもう、本当に自分が嫌になる。

 千尋に執着して、斎藤クンにすがりついて。そうやって他人に生きる理由を、責任をなすりつけて、恥を晒しながら生きている。

 しかも、千尋も斎藤クンも、ちゃんと前に進んでいるというのに。

 僕だけだ。僕だけが、十年前から、同じ場所で動けないでいる。

「斎藤クン」

「何だよ」

 ややあってから呼ぶと、すぐに彼は反応を示してくれた。

「斎藤クンは、ちーちゃんを幸せにしてあげてね」

 他人同士であることも、この後悔は僕のものでしかないことも、総て抜きにして、それは心からの願いだった。

 斎藤クンなら、できる。彼女を幸せにして、一緒に幸せになれる。

「……おい」

 立ち上がった僕に、彼は少し強めに声をかけてきた。

「今日の分は僕が持つから。ゆっくりしていって。マスター、また来るから」

 少し多めの金額を置きつつそれだけ言い、追いかけてくる声は無視して、僕はバーを立ち去った。

 グラスの中の氷が軽やかな音を立てて、回想から現実へと引き戻す。

 ここはあのバーではないし、斎藤クンが隣にいるなんてこともない。一人きりの自宅のリビングだ。

 一人は楽で、大好きなはずなのに、苦しい。

「何で……」

 半分泣き声のような呟きが漏れて、僕はそれを打ち消すようにグラスの中に残っていたウイスキーを一気に呷った。

 どうして、白坂の怯えたような顔が、眼裏に焼き付いて消えないのだろう。

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