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Blue Rose  作者: 汐月 羽琉
第二章 自覚
6/7

浮かぶ心と

 余計なお節介だっただろうか、と、セキュリティゲートを通りながら思う。

 外に出てから、今しがたまで自分もいた建物を振り返って最上階付近を見遣ってみると、まだ煌々と明かりがついている。つまり、専務はまだきっと部屋に残っているということ。

 代表の突然の訪問により中断された仕事を、残業で片付けているのだろう。精神的には疲れ切っているはずなのに、そのような気配を微塵も感じさせない姿で。

 彼は今、何を思っているのだろう。

 脳裏に先程の専務の様子を思い浮かべつつ、しばらくの間、窓を見つめる。いつまでもそうしていても仕方がないと歩みは再開したが、それでも頭には彼の姿がこびりついたまま。

 あんなに頼りなげなあの人は、初めて見た。

 ――……昔からちょっと、折り合いが悪くてね。

 いつも通りの調子を装いながら専務はそう言ったけれど、多分、その折り合いの悪さと言うものは『ちょっと』で済むものではないはずだ。

 事情を何も知らない私が端から見ても、あの家族の間に流れる空気は異常だった。

 父親である高谷代表は、専務の言い分を全く聞くことなく一方的に自らの感情を押し付け、抑圧しようとしていた。そして兄の副代表は、父親とのやり取りによって明らかに顔色が悪化していた弟を庇うことはなく、ただ黙って眺めているだけである。

 おおよそ、一般的な『家族』からは程遠い光景だ。

 迷わないわけではなかった。所詮、あの場において私は他人。会社内とはいえ、親族経営である高谷において、家庭内での力関係はプライベートな事情である。他人である私が容易に踏み込んでいい話題ではない。

 でも、声をあげずにはいられなかった。

 激務に終われていたとしても輝きを失うことはなかった彼の瞳。それがどろりと重い色を孕んでいるのを見てしまった瞬間、感情が弾けて。

 このままでは、専務の心が壊れてしまう。そんな危機感もあったと思う。

 結果的に私の一世一代の方便が功を奏し、代表がたは帰っていったけれど、もしあのまま押し切られるような形になっていたとしたら、専務はどうなって^いたのだろう。

 無機質なガラスのようだった彼の瞳を思い出して、背筋が寒くなる。

 いや、どうなっていたのだろうなんて、ただの現実逃避だ。十中八九、彼の精神は壊れて、二度と立ち上がれなくなっていたはず。

 そうなれば、専務は私のよく知る彼ではなくなっていた。壊れてしまったものは、完全に元通りに修復なんてできない。ましてや人の心なんてなおさらだ。

 だから――そう、だからだ。声を上げてしまったのも、行動すると決めたのも。全部全部、専務に壊れてほしくはなかったからだ。

 私が専務に対して抱いた感情の源泉は、何ともおこがましい。

 分かっている。分かっている。それでも、思ってしまったのだ。


 守りたい、だなんて。


「……ッ!」

 家についた瞬間に降って湧いたその感情に、顔が一気に熱くなった。ドアが閉まる音を背後に聞きながら、頭を抱えて玄関口にしゃがみ込む。

 何様のつもりだとか、ただの秘書なのに図々しいだとか。冷静な部分では自らを律するような言葉を自分に言い聞かせている。だが、そんな『冷静な部分』なんて、本当にほんの少しのスペースしかない。

 思考の大半は、拒絶されなかった手のことばかりが占めていた。

 小刻みに震えていた専務の体。特に、手は傍目から見ても分かりやすいほどで、唐突に溺れそうになり縋るものを探しているような、息苦しそうな空気が彼を取り巻いていた。

 そういう様子を悟ったところで、普段だったら、私と一定の距離を保とうとしていることを思って触れることさえ躊躇する。

 しかし、そうも言っていられないほど、専務の気配は掻き消されてしまいそうだった。あの人を傍で支えたい、そう心から思って、来客があるなどという嘘をとっさに吐いた。

 無理はしないでほしいと語りかけた私に、何も言わなかった専務。

 彼の心の平穏を願う私を、拒むことなしに受け入れてくれた、ということなのだろうか。もしもそうであるのならば、私が本気で心配していることを分かってくれたからなのだろうか。

 推し量ることしかできないけれど、そうだったらいい。そうであってほしい。

 思考に一区切りをつけ、熱い頬をどうにか宥めて立ち上がる。

 一日働き詰めでぱんぱんに浮腫んでいる足をどうにかパンプスから引き抜いて、自宅の中に踏み入れた。

 スーツを脱いで、晩ご飯のメニューを考える。外食してもよかったのだが、ここのところの運動不足で体重が増えた気がするのでやめたのだ。

 冷蔵庫を覗くと、昨日の残りのミートソースがあった。これを使ってグラタンでも作ろう。思ったところで、ふと頭の隅をよぎる言葉。

 ――無名の高校に入学した時も、上條の庶流の小娘などと付き合った時も。全部庇ってやったのが誰だと思っている!

「上條の、娘……」

 無意識に呟いていた独り言が、やけに耳に残る。

 代表の口から発せられた当時は専務の様子にばかり気を取られていて、正直意識の外だった。

 でも、冷静に返った今、『上條の娘』という言葉のインパクトは大きい。何せ、高谷と上條はかなり仲が悪いからだ。

 元々第二傘下である高谷だが、長い間第一傘下に肩を並べようと必死で業績を伸ばしている。

 第一傘下は上條と宮苑の二家のみを指す呼称であり、コンツェルンの創設以来、この二家以外が傘下企業の頂点に立ったことはない。コンツェルンに属している企業は第一傘下を目指しているということになってはいるが、実際のところ、業績は伸ばすにしても傘下の立ち位置は現状維持でいい、と考える傘下企業がほとんどだと聞く。なぜなら、『村田コンツェルン』というブランド自体に充分な価値があるからだ。

 そんな中、高谷は第一傘下入りを夢物語で終わらせる気はないらしい。

 宮苑とは良好な関係を構築しているけれども、上條のことは第一傘下の立場から引きずり落とす対象として代表は見ているのだと思う。

 多分、当代もであるが、次代が優秀であると宮苑は専らの噂である。それより、現代表の子供が、後継ぎではなく血を繋ぐだけの役目としてだけ育てられた箱入り娘一人、という上條の方が牙城を崩しやすいといったところなのだろう。

 当然、上條にとっては鬱陶しいことこの上なく、ここ十数年で高谷との関係性は一気に悪化している。

 一口に『上條』といっても分家がいくつもあって、もはや名前だけしか保持していないという家もあるらしい。だから、専務の恋人だった人の立場がどうであったのかはよくわからないけれど、『上條』という名を持つ女の人との交際が高谷本家の御曹司に許されたとは思えない。その女性がいくら上條本家からは遠い血筋の人だったとしても。

 確信して言えるぐらい、ふたつの家は代表同士が憎み合っている。

 専務は今、独身のはずだ。結婚の予定があるとは聞かないし、彼女がいないらしいから狙い目かもしれないと前の部署の同僚たちが騒いでいたから、立場としては完全にフリーだろうと思われる。

 つまり、上條の女性とは、別れさせられた――ということだ。

 ズキンと胸が痛む。

 この痛みは、専務への同情? それとも、引き裂かれた悲恋を観劇のように眺めている、野次馬根性?

 違う。

「……痛い、なぁ」

 違うのは分かっても、正体はよく分からない。

 ただ、呼吸がすごく苦しくて、鼻の奥はツーンと痛くなって、目頭が熱かった。

 それは今にも泣いてしまいそうなときの生理的反応だ。

 どうして視界に涙が滲むのだろう。特に何があったわけでもない。過去、専務に恋人が一度もいなかったと思っていたわけでもない。

 ただ、専務に触れた手を受け入れてもらえたことの嬉しさが、勢いよくしぼんでいった。

 料理をする気力も何となく削がれてしまい、乾麺のパスタを取り出し、鍋にお湯を沸かす。

 自分好みに仕上がっていたはずのミートソースは、あまり味がしなかった。



「おはようございます」

 前日によく眠れなかったせいで寝不足だった。それでも朝はやってくるから、出勤しないという選択肢はない。

 重い瞼を懸命に開閉させつつ専務室のドアを開けたが、そこには誰もいない。

 いつもなら専務がすでに来ていて雑務をこなしながら私を迎え入れてくれるので驚いたが、何も会社自体に来ていないとは限らない。休むという連絡はもらっていないし、姿が見えないだけの可能性の方が大きい。

 一瞬不安になってしまったのは、昨日のことがあったからだろう。

 そう思い直し、一旦自分の鞄を置いて、専務のデスクを覗いてみる。

 すると、コーヒーが注がれた専務のマグカップが置いてあって、湯気を立てている。やはり、少々席を外しているだけで、出勤自体はしているのだ。

 ほっと息をつき、自席に戻ろうとしたところで、視界の端に何かが入った。

「……?」

 違和感の正体を探るように周囲を見渡して、気づいた。

 見慣れないパスケースが落ちている。

 拾い上げて、やはり初めて見るものであると確信する。私のものはお気に入りの雑貨屋で購入した動物の柄が描かれているものだし、見るからに質のいい革を使っているこれとは似ても似つかない。

 専務への来客は少なくはないが、普段は応接室を使うことがほとんどで、この専務室にまで入ることはそうない。把握している限り、昨日ここを訪れたのは代表たちだけで、彼らが帰った後にこんなものが落ちていれば気づいたはずだ。

 だから、可能性があるとすれば、専務を訪ねてきた社員か、専務自身のもの、ということになる。

 専務が戻ってきたら聞いてみよう。

 ふたつ折りタイプのようだが、落ちたときの衝撃によってか開いてしまっている。折り畳もうと何気なく視線を落として――気づいてしまった。

 そのパスケースに入っていたのは、カード類ではなく、一枚の写真だった。

「せん、む……?」

 高校のものと思われる制服を身に纏い、穏やかに微笑む専務の顔立ちは、大人っぽくはあるが今よりほんの少し幼い。


 その隣には、幸せそうに笑う綺麗な顔立ちをした少女がいた。


 彼女が身に纏っているのは、有名な女子校の制服。艶やかな黒髪が肩に落ち、流線を描いている。

 そして、二人の手は、指を絡ませるようにしてしっかりと繋がれていた。

 何の言葉も出てこない。この少女こそが上條の人間であると、説明されなくとも悟る。

 見てはいけない、見なかったふりをして視線をそらさなければいけない。そう思うのに、視線が縫い付けられたかのように、ただ凝視することしかできなかった。

「……何、してんの?」

 ドアが開く音と、棘の含まれた声。

 慣れた気配にはっとして振り返れば、果たしてそこには確かに専務がいた。

 最初は私の顔の辺りに目が向けられていたが、徐々にそれは下がっていき、手の中のパスケースで留まる。

 瞬間、彼の元々硬かった表情が、一気に険しくなった。

「専務、」

「返して。それ、僕のだから」

 謝罪を紡ぎ出そうとした瞬間、遮るように更に鋭くなった声が響く。

 専務の頑なな態度は崩れそうもなく、それに元々の持ち主による当然の要求を突っぱねるだけの正当な理由など私は持ってはいない。微かに震えてしまっている手で、そっとパスケースを差し出した。

 彼はそれをまるで壊れ物を扱うが如く受け取って、包み込むようにして持っている。

 真っ白な頭の中でも、勝手に見たことを謝らなければという理性だけは働いた。

「あの……」

「――出てって」

「え」

 改めて謝罪しようとしていた私は、間抜けな表情をしていたと思う。申し訳ございません、と下げかけた頭も、不自然な動きになった。

 だけど、顔を上げて専務の表情を見、絶句する。

「聞こえなかった? 出ていって。今すぐ」

 交わらない目線。拒絶するように顰められた眉。憎悪さえ感じ取れそうなほど、冷徹な声。

 足が震えた。

 昨日、少しでも専務の心に近づいたと思った。気を許してくれようとしているなんて、都合のいいことを考えていた。

 でも、違った。

 専務にとっては、私はまだ信用に値する人間などではない。

 いや、違う。信頼してくれようとはしていたと思う。だって、そうでなかったら昨日のうちに拒絶されていたはずだ。

 つまり私は、ついさっきの軽率な行動のせいで、せっかく築きかけていた信頼関係を自分自身の手で崩してしまったのかもしれなかった。

「……失礼、致し……ました」

 発した言葉はみっともないほどに震えていて、未だ笑っている膝を何とか伸ばし、一礼する。

 ちゃんと謝りたかったのに、これ以上ここにいたら本当に泣いてしまいそうな気がして、すぐに回れ右をしてドアの外へ出た。

 ドアを閉じてしまえば、もう室内の物音は何も聞こえなくなる。専務がどうしているのかも見えない。

 しかし今は、何も知りたくなかった。

「馬鹿、だなぁ……」

 ぽつり。思わず、言葉が漏れた。

 大事なものに勝手に触れられたら、誰だって不快になる。専務が怒るのも無理はなかった。

 自分の浅慮が憎らしいと同時に、それほどまでにあの女性が大切なのかと思って、昨日の夜に感じたような痛みが胸を衝く。

 この痛みの正体を、私はまだ、知りたくはなかった。

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