憎ム景色ハ
僕はきっと、この世の総てを憎んで生きている
* * *
入院騒動から約二ヵ月経った、とある日のこと。
その日は、目を覚ました瞬間から胸騒ぎがしていた。これからよくないことが起こる、と。
なぜそう思うと理由を尋ねられたところで、上手く答えることが不可能だった。あくまで、漠然とした感覚に過ぎない。
僕のそういう勘は、昔から嫌というほどよく当たる。色々な不都合をのらりくらりと上手く躱せてきたのは、そのおかげでもあった。
でも、今回ばかりは外れてほしい。当たったところで僕にメリットがないことが分かりきっている類のものだったから。
気づまりから重たい体を引きずるようにして、僕はいつも通りに出勤し、黙々と仕事をこなす。
七月に入り、季節は夏へと移ろっていた。
暑さに弱いために夏が大嫌いな僕には少し、いや、かなりこたえる季節である。
ただでさえ、そんな陽気だ。太陽の眩しさに弾けて浮かれる世の中を尻目に、僕の気分は鬱々と落ち込んでいる。救いがあるとすれば、室内にはクーラーが程よく利いていることぐらいだ。
僕のすぐ傍に設置されたデスクで作業をしている白坂を、あくまで何気なく見遣る。
そろそろ秘書としての仕事に慣れてきたのか、真剣そのものの顔で集中している。いつもならふわふわと柔らかい笑みが浮かんでいるが、今は僅かに眉間に皺が寄り、難しい表情だ。
彼女に今振っているのは、表計算ソフトが多くを代行してくれるとはいえ、計算が求められるような内容の仕事だった。数値の間違いが命取りになることもあるから、慎重になるのも無理はない。
と、仕事以外のことを考え始めた時点で、僕の集中力はだいぶ落ちてきている。目も疲れてきた。そろそろ休憩の入れ時だろう。あまり根を詰めすぎてもいけないことは、先日倒れたことで身に染みているのだ、一応。
「白坂。悪いけど、コーヒー……いや、紅茶淹れてくれる?」
苦みよりは、程よい渋みとリラックスする香りを味わいたい気分だ。
僕の呼びかけに白坂は顔を上げ、今までの表情はどこへやら、穏やかに笑う。
「はい、承知しました。茶葉の種類はいかがなさいますか?」
立ち上がって簡易的な給湯スペースに向かう白坂を目で追いつつ、僕はそれに少しだけ考えてから応じた。
「じゃあ、ダージリンでお願い」
「はい」
茶葉は吊戸棚に収められている。背が低い彼女はいつも背伸びをしながら準備をしていて、辛そうだと思う。
僕だってそう背の高い方ではないけれど、そこに手を伸ばすのは苦でもない。でも、何となく、白坂は手助けされるのを望まない気がする。自分の仕事だと、何やら一種のプライドのようなものが見えて、そういう仕事に対する熱心さのようなものは嫌いじゃない。
白坂が小さな音を立てながら作業を進めているのを背後に聞きつつ、僕は窓の外を見下ろした。
眼下に見えるのは、幻かと思われるほど多くの人、人、人、そして車。
誰もが皆、自らの目的のために道を急いでいる。
前方に目を移すと、宮苑――ふたつしかない、第一傘下の一角が所有するビル群があった。
僕からすると、これは日常の風景。しかし、果たして、あちら側からするとどうなのだろうか。あちら側からこちら側を見ることなど、果たしてあるのか。
くだらないことに思いを馳せて、ないのだろうな、と内心で笑った。
このコンツェルンは、実力主義。かつ、ヒエラルキー重視。下の階級が上の階級を羨み、そこを目指すことはありこそすれ、上の階級が下の階級を振り返ることなんて、よっぽどの変わり者でなければほとんどありはしない。
なぜなら、その必要性がないから。
コンツェルンの創始以来、下位グループが上位グループを蹴落とせたことは一度もないのだ。だから、それの上に胡座を掻いている。追いつかれることがあるかもしれないなど、予想だにせず。
それでも、宮苑はまだいい方だ。今の代表は正直有能だとは言い難いが、まだたったの高校二年生であることを差し引いても、次期代表がかなり頭の切れる人種だから。
だけど。
ここからは見えない、もうひとつの第一傘下たる上條のビル群の方向に視線を走らせる。
上條は、大丈夫なのだろうか。僕が抱いたところでどうしようもない憂いが浮かぶ。
僕の父親は、そういうことに関してはよく勘の働く人間だ。上條を追い越し、今の彼らの地位に立ちたいと思っているのは見え見え。実際、勢いだけなら、追い越さんばかりになっている。
しかし、上條の現代表は、この状況に危機感を覚えているのか疑問である。いつのパーティーのことだったか、「プライドだけが高い」と上條本家の一人娘が嘆いていた気がした。余計なお節介とはいえ、幼なじみのようなものである彼女が傷つく姿は、あまり見たいものではない。
「専務。紅茶、ご用意できました」
白坂のそんな呼び声で、僕は沈んでいた思考から現実へと戻る。
「ありがとう」
お礼を言いつつアームチェアに座り直して、カップを持ち上げた。
そして、その瞬間だった。
「はい、専務室。はい、はい」
白坂の机上の電話が鳴った。着信音のパターンからして、内線だ。二言三言を相手と会話して、彼女はすぐに受話器を置く。
一方の僕は、再燃した嫌な予感から現実逃避したくて、ゆっくりと紅茶を飲み下していた。
でも、味を感じない。いつも丁寧に淹れてくれる白坂の紅茶は、とても美味しいはずなのに。
報告を聞かなければならない。だが同時に、聞きたくない。白坂が、どうか、口を開きませんように。
激しく動悸を始める心臓の音を聞きながら、どうにもならない抵抗だけを心の中で唱える。
「専務。受付からでした。久々に、社長と副社長がおいでだそうです」
あれほどうるさかった心臓が、一瞬にして静まり返る。誰かに直接鷲掴みにされて、強制的に動きを止められた気分だった。
ずきずきと頭まで痛み始めて、鈍器で殴られたかのようだ。
ああ、情けない。そう呟く自分も間違いなくいるのに、体が勝手に震え出す。
カシャン。小さな音を立て、カップはソーサーの上に戻っていた。それは間違いなく僕の行為によって生じた物音のはずなのに、どこか別世界の出来事のような感覚をもたらす。
嫌な予感が寸分の狂いもなく当たっていたのだ。
ああ、嫌だな。今すぐ逃げ出してしまいたい。
大嫌いなあの空間が、鮮明に眼裏に蘇ってくる。
「専務……?」
僕の様子がおかしいことに気づいたのか、白坂が不安そうな表情で僕を見ていた。
部下に動揺を悟られるなんて上司失格であるけれど、動揺はなかなか静められない。
落ち着け。落ち着け、落ち着け。別に殺されるわけじゃない。何があるわけでもないのだから。
そう言い聞かせて、一度深く呼吸する。
「……そう、それで?」
完璧に封じ込めたはずだったのに、思いの外、口から飛び出した声は小さかった。
やはり、封じた『つもり』であるだけで、動揺を完全に静められていないのが原因だろう。
「……は、い。久しぶりに専務のお顔をご覧になるために、こちらにいらっしゃると」
僕の動揺が移ったのか、白坂の言葉までもが一瞬揺れる。
申し訳なく思うと同時に、余計なことを、と、父親に対して沸々とした怒りが沸いてくる。白坂に見えないよう、強く拳を握り込んだ。
何が、僕の顔が見たい、だ。だったらどうして、入院していた時には一度たりとも連絡を寄越さなかった? 詭弁もいいところだ。
ただ、上っ面でアピールしたいだけのくせに。自分は、息子を、弟を、想っているとでも。
怒りに腹が熱くなる感覚をどうにか抑え込んでいると、間もなく、ドアをノックする軽い音が聞こえてきた。
「専務……」
相変わらず不安そうな目で見てくる白坂。
今さらだろうが、安心させようと少しだけ笑みを作り、「いいよ、入れて」と促した。
彼女はまだ不安そうにしつつも、軽く頷く。
「どうぞ」
白坂のよく通る声が、訪問客を招き入れるべく響いた。
それを聞きながら、僕は再び激しくなってきた鼓動をひたすらに宥める。
苦しいけれど、呑まれるな。僕はどうしようもないくらいに弱いけれど、今くらいは強くあれ。
いや、違う。今くらい、じゃない。『専務』としてここにいる限り、部下である白坂が傍にいる限り、僕は強くなくてはいけない。
逃げそうになる足を床に縫い付けて、ともすれば荒くなりそうな呼吸を深くした。
ゆっくりと開いていくドア。
一番初めに目に入ったのは、僕もよく知る父親の秘書。ドアを開けたのは彼女であるようで、そのままストッパー役を務めている。
そうなれば、次に見える人間など確認するまでもないし、本当は見たくない。
だけど、目を逸らすのはもっと嫌だった。
逃げても逃げても、どうせ同じこと。
ゆっくりと立ち上がり、深々と一礼する。敬意なんて全く払う気はなかったが、歪み切っているに違いない顔を見られるよりは、幾分マシだろう。
尊大な態度で入ってくる男と、その後ろに続く、無感情な瞳をした男。
二人とよく似た僕の顔の作りが本気で疎ましい。できることなら皮ごと剥いで、焼き切ってしまいたい。
「……お久しぶりです。代表、副代表」
声が震えていなかっただけ、自分を褒めたかった。
「ああ、しばらくだな」
「……ああ」
相手から返ってきたのは、その短いものだけ。
相変わらずである。顔を見に来たというにはあまりにお粗末な対応に、口角が歪む。
何をしに来た。早く帰れ。言いたくなる思いをどうにか抑え込んだ。
高谷晴海、高谷グループ現代表で、高谷商事代表取締役社長。
高谷綾瀬、同じく副代表、かつ、取締役副社長。
僕の血縁上の父と、兄だった。
「まあ座れ」
立ったままでいる僕に投げるように言うと、父親はさも当然のように来客用ソファへどっかと身を沈める。その隣には、兄貴が。
あのソファにはしばらく座りたくない。
そんな子供じみたことを思いつつ、向かい合わせに腰を下ろした。
白坂は、どうやらコーヒーを淹れてくれているらしい。彼女が傍にいるということを自らに繰り返し言い聞かせ、平静を装う。
「……今日は、どういったご用件で?」
コーヒーが二人の前に置かれたのを合図に、僕はゆっくりと尋ねた。白坂が影のように僕の背後に立ったのだけを気配で感じる。
要件がないと会うこともない親子、家族なんて、滑稽だと思うけれど、僕たちの中ではそれが常識。できれば顔を合わせたくなどないし、必要最低限の会話だけで済ませたい。
それは、僕だけでなく、この父親と兄にしても同じはずだった。
コーヒーを一口飲み下した父親は、僕にちらりと視線を移す。
「新しい秘書はどうかと思っただけだ。それと、倒れた、と聞いてな」
そうしてから、矯めつ眇めつとするように、上から下まで白坂を眺め回す。
その様子は僕でさえ不快なものだったが、視線を遣ったら、白坂は当然のように身を縮めるようにしていた。
僕はぐっと息を呑む。次に続く言葉が半ば予想できたから。
「秘書を、替えるか」
ほら、やっぱり。
背後にいるから顔は見えなくても、白坂が動揺を必死で抑え込んでいるのは伝わってきた。まだ期間は短いとはいえ、仕事中は常々一緒にいるのだ。それぐらい分かるようになってくる。
一見、僕を心配しているようにも取れる台詞だが、この男は息子の体を心配しているのではない。使える駒であるはずの僕が倒れ、この会社の業務が上手く回らなくなるのを心配しているだけだ。
「上司の健康状態をしっかりと把握できないなど、秘書失格。しかも、上司に倒れるほどの仕事を押しつけたとなれば、」
「お言葉ですが、代表」
それ以上好き勝手言われるのは御免だ。続きそうだった言葉を遮って、睨むように父親を見る。
「今回の件は、僕の自己管理が甘かったために起こったこと。白坂には微塵も責任はございません」
そうだ。むしろ、白坂はちゃんと僕のことを把握していた。倒れる前に、僕の体調が悪そうなことを察して、止めてくれた。休まなくては駄目だと。
それを無視して聞く耳を持たなかったのは、僕だ。
甘かった、と痛感する。自己管理だけじゃない。部下を守るためにこそ、諫める言葉は聞き受けておかなくてはいけなかったのに。
白坂は何も悪くない。彼女が罰を受けるなんて、おかしな話を認めるわけにはいかなかった。
「彼女は倒れる前に僕を止めてくれました。それを聞き入れなかったのは僕です。彼女に咎があるというのなら、全て僕が受けます」
彼女を庇う僕に、父親は不可解だという表情をしている。
秘書をはじめ、部下という部下を、この男は捨て駒程度にしか思っていない。家族にさえ情を見せない人間なのだから、当然といえば当然だ。『完璧』でなければ、いとも簡単に自分には不必要な者だとして切り捨てる。自分だって不完全であることを棚上げにして。
その父親から長年、次期代表としての教育を施されてきた兄貴も同じ。
部下がいるから自分も成り立つのだということを、この二人は分かっていやしない。誰一人としてついてくる者がいなければ、上に立つ者など何の意味も持たないのに。
「お前には不必要だと、私が判断したのだ。聞き入れろ。お前が聞かなかったというのもそれなりの理由があるのだろう? いくら平輔の娘とはいえ、使えぬ者を置いておく道理はない。むしろ使えぬ者を押し付けた平輔から何かしらの詫びを入れてもらわねば割に合わん」
それが目的か、と笑いが込み上げそうだ。友人である白坂の伯父に難癖をつけ、見返りを受けるつもりなのだ。『高谷の利になること』のためならば、どこまでもハイエナのように鼻が利く。
だったらなおさら、父親の思い通りになどさせない。
「聞けません。決して」
僕個人の心情はどうあれ、僕のやり方に沿おうと、今までの秘書たちの中で彼女は一番頑張ってくれている。その努力は僕が一番見ているし、少しずつ実を結び始めているのだ。
たとえば、今まで余裕がなかった僕のスケジュールが、ほんの少しずつとはいえ余裕が出てきている。僕でなければいけないものと、僕でなくてもいいものを白坂がきちんと選り分け、僕に知らせてきているということ。
今までは雑務やらに追われすぎて、手が回っていなかった。でも、白坂が来たことで、そういう細やかなことに気を配ってくれる人ができたから、重要な仕事に集中できるようになった。
そういうものは貴重だと知っている。だから、簡単に手放すなど、有り得ない。
かつてないほど強い調子で反抗する僕を見て、父親は何を思っているのか。目を細めるその表情が、好意的でないことぐらいは分かる。
何を言われようと、上に立つ者が部下たちにしてあげられることとは、守ることだけ。
僕の部下にいちいち口出しされるのは、もう沢山だ。
「お前にそのような重要な判断が下せるわけがないだろう。今までも何度踏み間違えた。お前の誤った判断のせいで私がどれだけ恥をかかされてきたか……!」
だけど。一番触れられたくないことに触れられてしまいそうな流れに、一気に呼吸が乱れ出した。
「無名の高校に入学した時も、上條の庶流の小娘などと付き合った時も。全部庇ってやったのが誰だと思っている! お前が一度でも正しい判断を下したと言えるのか!」
頼んでいない。そんなこと、一度も。そして庇ってもらってなんかいない。
どちらの場合も、この男が僕に強いた仕打ちは――。
心臓が耳元で鳴っている。今にも口から飛び出そうだ。背中を、首筋を、冷たくじっとりとした汗が流れていく。呼吸ができない。指の先が急速に冷たくなる。
顔色が制御できていないだろうことはもちろん、きちんと座れているのかさえ疑問だった。
僕が言葉を発せずに黙り込んだのをいいことに、父親が更に何かを続けようとした、その時だった。
白坂のデスクの電話が鳴る。張り詰めた空気を割るように。
「失礼します。……はい、専務室。はい、はい。承知しております。少々お待ちいただきたい旨をお伝えいただけますか」
短く父親に断りを入れると、白坂は電話に出ている。そしてすぐに会話を終えると、父と兄に目を向けた。
「代表、副代表。専務とお話し中のところ、申し訳ありません。本日、この後より会合のお約束をしている重要な取引先のお客様がいらっしゃった模様です。専務の出席は必須です、どうか本日のところはこれで……」
彼女は、真っ直ぐに、怖じることなく、二人へと言い放つ。
でも、おかしい。この後、会合の予定は入っていない。そして何より、今の電話の音は内線ではなく、外線だった。
僕は呼吸を宥めるのに必死で、その疑問を口にすることはできない。
だが、空気が変わったのを肌で感じる。
「代表。業務に差し障っては何の意味もありません。今日のところはこの辺りにしましょう」
兄が淡々とした口調で父に告げ、当の父も舌打ちしながら立ち上がる。
『高谷』の名を重んじるこの二人が、重要な客との面会をないがしろにしろと言うはずはない。それだけが救いで、助け舟となった。
「とにかく。秘書の件は早急に次を見繕う。異論は認めん」
だが、立ち去り間際、父親は振り返って言い募る。
「……断ります」
だから僕も、真正面から返した。
声はみっともなく掠れていた。それでも、どうにか立ち上がって睨みつける表情から、父親にも僕が聞く耳を持たないことが伝わったのだろう。舌打ちをして、秘書や兄を伴って出ていく。
ドアが閉まると、静寂が訪れた。
膝が笑って立っていられなくて、どさりとソファに座り込む。
息が上手くできない。これでは駄目だと必死になればなるほど、底なし沼に嵌まるように喉がひくひくと震えた。
その時、ふっと僕の目の前に影が差し、背中に温かさが触れる。
じんわりと染み入る優しい体温に、徐々に呼吸が元通り落ち着いていった。痛いほどだった心臓の鼓動も、通常のテンポで刻み始めている。
「白坂……」
この手の主が誰であるかなんて、分かりきっていた。小さく呼ぶと、白坂は首を竦めている。
「申し訳ありません、差し出がましい真似を……」
外線だった電話。存在しないスケジュール。白坂のスーツのポケットから覗く携帯電話。彼女が僕をあの場から救い出すための方便だったと察するのは、容易なことだった。
「ううん。助かった。ありがとう」
ほんの少しトラウマを刺激されただけで、ここまでどうしようもないほどの状態になる。不甲斐なさでため息のひとつでもこぼれ出そうだけれど、今そうしたら彼女が自分の行動のせいかと気に病むだろうから、寸前でこらえた。
ソファに座り込む僕の前に膝をつく白坂が、その大きな瞳で不安げに見上げてくる。
「……昔からちょっと、折り合いが悪くてね。でも、大丈夫。白坂を突然辞めさせたりなんて、させないから」
どうにか笑みを浮かべたつもりだったけれど、それはうまくいっていたのかどうか分からない。
いつの間にか固く握りしめていた拳が、温度を失って強張っていた。
「はい。ありがとうございます。……でも、ご無理なさらないでください」
その手を、柔らかくて小さな両の手が包み込む。
僕は驚いて少し肩を跳ねさせたが、白坂がそれだけで動かないのを悟って、全身から力を抜いた。
「……怖いものがあるのも、親に情を求められないのも、憎むのも、何もおかしなことではないのですから」
白坂の声は、同情するのでも、慰めるのでもなくて。ただただ同意し、肯定するような、そんな調子だけがあった。
父と、母と、兄と。そして僕。
僕にとって、家族が揃うなんてことは疎ましいことでしかなくて。何よりも憎み続けていた景色で。
普通、家族が何よりも安心できる場所であるというのなら、その心象はきっと柔らかな光に包まれているのだろう。
でも、僕のそれは、黒く塗りつぶされた、ばらばらの破片。総ての形が異なるせいで、ひとつの存在になどなれない。僕は傷つくのが怖くて、その破片をひとつに組み合わせようなどという試みもできなかったし、父はいつもその破片を僕にぶつけ、更に叩き壊そうとしてくる。
でも白坂は、素手をかざすようにして、自分が傷つくかもしれないのを無視して、その破片から僕を守ってくれた。
どうして僕みたいな暗がりに生きる人間の傍に、彼女みたいな陽だまりのような人種がいるのか。
神様、ねえどうして。
眩しいんだ。僕には、とても眩しいよ。
それなのに――この温かい手を、僕は振り払うことができなかった。