捨テナイ心
この心は、想いは、決して捨てはしない
* * *
「……ただいま、千尋」
帰宅して真っ直ぐにリビングに向かった僕は、チェストの上に置かれたフォトフレームを取り上げ、小声で話しかける。
これはもはや、毎日の習慣だった。
起きて、朝食を摂る前に話しかけて、出かける前にも必ず声をかける。そして帰ってきて、またこうして話しかけるのだ。寝る前も同じように必ず、欠かすことなく。
自分でやっていて、なんて女々しくて気持ち悪い行動だろう、という感覚はある。
もう数年前には別な男の妻になっていて、永遠に手に入ることのない人。そんな相手に恋い焦がれ、そして未練たらしく写真へ話しかけるなんて。
でも、やめられない。
この気持ちはもう、正当な『恋心』ではなくて、醜くて幼い凝り固まった『執着心』だと分かってはいても。いや、分かっているからこそ。これが、僕の生きる意味になっているから。
フォトフレームをそっと元の場所に戻して、写真に閉じ込められた過去の一瞬を真正面から見つめた。
写真の中の千尋と僕は、何がそれほど楽しいというのか、弾けるような笑みを浮かべている。僕本人ももう、朧げになってしまった記憶のせいで、鮮明には思い出せない。
でも、この頃は何もかもが楽しかった。
何をしても、何を見ても、何を聞いても。感じるものひとつひとつ総て、楽しかったのだ。千尋の言っていたところの『本物の笑顔』を、何も考えずとも、いとも容易く浮かべられたくらいに。
思い出が遠くなるに従って、自分がどうやって笑っていたのかも忘れてしまった。
僕が『本物の笑顔』を失うのに比例するかのごとく、同じように作り笑いを顔に張り付けた人間たちが周囲には溢れるようになった。
どうにかして気に入られようと、媚を売る。我先に、と。僕に気に入られれば、同時に僕の父親にも気に入られるとでも思っているのだろう。僕たちの関係性さえ知らないのに懸命になるその様子は、とても滑稽だった。
生まれてこの方、父親が僕に興味を持ったことなどないし、最後にしたまともな会話がいつのことだったかも曖昧なくらい、冷え切った親子だというのに。
今も昔も、あの男の興味の真ん中に据えられているのは一人。三歳離れた僕の兄だけだ。
その『興味』だって、息子として、家族としてのものではない。ただの利用価値。
思い通りには育たなかった僕とは違い、兄は父の思い描く通りの人間に仕上がるように、両親が手塩にかけた一級品のお人形だ。
権力や名声、金こそがこの世の総て。兄の綾瀬は彼らからの教えを何の疑問もなく受け入れて、成長してきたのだ。
彼が疑うことさえなかったのは、両親だけでなく、周囲にいた大人や、同世代の人間たちでさえそういう価値観だったから。
このおかしな価値観の中では、僕の方が欠陥品。
金に意味など見出せず、権力は所詮人を怯えさせるだけのものだし、僕の力で得たわけでもない名声なんて煩わしいだけ。
だって総て、死ねば無に帰すものだから。
彼らが重要視するものについてそんな風にしか考えられない存在は、異端なのだ。この異常な家族――いや、異常な人間たちに囲まれた、世間一般の言う『お金持ち』の世界では。
でも、別にそれでいい。
僕は両親や兄貴のようにはなれないし、なりたくもない。この世界に全身で浸かって、抜け出せないほど染まるなんて御免だ。金と権力、名声さえ守られていればよくて、第一に考えている彼らの現状を思えば。
父も母も、金やそれで保たれた容貌を武器に、自らのパートナーではない相手に愛を振り撒いている。だが世間体や、伴侶の後ろ盾ばかりを気にして離婚もできず、長い間仮面夫婦を演じ続けていた。
一方の兄は、『高谷本家』の長男として生まれ、判断基準は何もかも親の決めた枠組みの中にある。親が選んだ女と結婚したはいいが、その妻や自らの血を引いた子さえ、愛し方が分からないでいるらしい。こちらも夫婦関係は冷え切っている。
僕から見れば、そういう父も母も兄も、人間の欠陥品だ。欠陥品に望んでなるなんて有り得ない。吐き気がする。
自分自身だって、人間として大事なものが欠けているという意味では、欠陥品には違いないのだが。それでも、あんな家族よりは幾分はマシだと思いたかった。
「……千尋」
もう一度小さく呼んで、フォトフレームのふちを指で撫でる。
当然だけれど、写真の中の千尋は、寸分変わらずに微笑んだまま。虚しさが込み上げて、苦笑をこぼした。
自分の馬鹿さに思わず嘆息したその時、一人の顔が脳裏に浮かんだ。
――……それは、いけません。専務。
白坂みゆ。根を詰める様子を、怯えながらも窘めた、僕の秘書である彼女の顔だった。
なぜ、今彼女を思い出したのか。意味が分からず少し戸惑う。でも、完全に心当たりがないわけではない。
つい昨日まで過労でダウンしていた僕は、今日が退院日だった。白坂が病院まで迎えに来てくれたのだが、今日までは仕事を休む旨を伝えた。
その時、白坂が心からほっとしたような表情をしていたことが思い出される。「そうなさってください」とすぐに柔らかく微笑んだことからしても、きっと僕が思っている以上に心配をかけていたに違いない。本心からの労りだったと、彼女の態度を見ていれば分かった。
一刻でも早く復帰したいのは山々だったが、多分、彼女はそうはさせなかっただろう。それに、後々のことを考えるのであれば、ゆっくり休んだ方がいいと思ったのも事実だった。
僕が倒れた時、白坂は総てを正しく対処してくれたらしい。救急車の手配も、部下への連絡も。後から何か追って指示はないか確認されたが、ほとんど僕が訂正したり追加したりするべき事項はなかった。
四人目にして、ようやくいい秘書に出会えたような気がする。もちろん、社員としても秘書としても未熟な部分はまだまだ多いけれど、それも持ち前の胆力でよく補っている。ふんわりとした雰囲気のように見える外見とは反して、なかなかに芯が強く、肝が据わっていた。
白坂がいたから安心して休めた節も、かなりあった。
秘書において、能力があることはもちろん重要だが、僕が重きを置いているのはそこじゃない。
どんな問題が起きても動じず、自分なりに考えて、臨機応変に対処できること。その点、白坂は充分合格だった。
黒目がちの大きな目、丸顔で、軽くウェーブのかかった黒髪のショートヘア。大概の男が『可愛い』と言うだろう作りをしている童顔のせいか、とても二十四歳には見えない。背も小さいし、恐らくは今の年齢よりいつも若く見られるに違いなかった。
そういう容貌からは想像できないが、気は強い方なのだろう。意志がはっきりと見て取れる強い瞳が、僕は好ましいと思っている。
でも、そういう彼女が、目を覚ました僕を見て、ぼろぼろと泣き崩れたのだ。まるで子供のように。あれには、さすがに驚かされた。
安心したのです。白坂は言った。
――そんなことはないと分かっているのに、専務が目を覚まさなかったらどうしようと……そればかり考えていたので。
照れたように目を伏せながら語る声は、いつもより小さかった。泣いたことが恥ずかしかったのか、あるいはその言葉を口にするのが恥ずかしかったのか、僕にはよく分からなかったけれど。
当時の彼女の様子を思い出し、くすりと笑う。
赤の他人のことを思い出しているのに、冷え冷えとした感情を抱かないのなんて久々だ。
それはきっと、最近では珍しくなった、本物の笑顔を僕に向けてくれる人だから。
白坂も、そのうち他の者たちと同じように、利害というフィルターを通して僕を見るようになるのだろうか。あの笑顔が作り物になる日が来るのだろうか。
「……っ」
そこまで考えて、はっとする。
「何やってんだ、僕……」
今まで僕の思考を占拠するのは、千尋と、そしてあともう一人だけだったのに。余計なことばかりを留めて、大切な記憶を薄れさせたくない。千尋以外を思い浮かべて微笑むなんて、有り得ないのだから。
首を振り、新しい秘書の顔を脳内から追い払った。
携帯電話を取り上げ、その『もう一人』である人物の名前を選び出す。
『……はい』
数回のコール音が響いたのち、ものすごく不機嫌そうな声が聞こえてきた。こらえきれなくて、くすくすと笑いが込み上げる。
「ハァイ。相変わらず不機嫌そうな声だねぇ。毎日疲れないー?」
『不機嫌なのはお前のせいだ』
僕の笑い声が聞こえて余計に苛立ったのか、電話の相手は更に低くなった声で応えた。
本当にこの人は面白いし、飽きさせてくれないと思う。
「斎藤クンで遊ぶの、やっぱり最高だねぇ」
『……ふざけんな。用もなくかけてきたんなら切るぞ』
彼の名は、斎藤謙一。僕の唯一とも言える友人で、高校の同級生だった。
「そんなイライラして、カルシウム足りてないんじゃないー? もしかして、お腹空いてる? 血糖値が下がってるんだよ、きっとー」
『てめえ……ふざけんのも大概にしろよ。本気で切るぞ』
反応の良さが楽しすぎて、ますますからかいたくなるのが僕の悪い癖である。
「んー? いいよー、切れば? またしつこくしつこくしつこーく、かけ直すだけだからー」
僕がにっこりと笑ったのが分かったのか、斎藤クンが盛大に舌打ちをした。
『……てめえの作り笑顔ほど癪に障るもんは、この世にふたつとしてない』
きっぱりと言い切るこの斎藤クンは、僕の作り笑顔を見抜いた最初の人。
作った笑みを浮かべているだけだというのに、上っ面しか見ない人間たちからは、昔から「いつも楽しそうだね」と言われた。
踏み込まれたくないから常に笑っているだけだ。察することもできないでいる彼らを見て、馬鹿だな、と僕は内心で嘲っていた。上辺だけの態度に騙されて、僕が腹の中で何を考えているなんて何も分かっていないのだから。
だけど、斎藤クンは違った。
――……笑いたくもねえクセに、気持ち悪ィ笑顔、張り付けてんじゃねえよ。
そう、言い放ったのだ。初めて言葉を交わした、高校一年の春の日に。
僕の人生がほんの少しだけ方向を変えたあの日。彼のおかげで、僕は今生きている。永遠に口にはしないけれども。
「んー、お誉めの言葉ありがとー」
代わりにそんなふざけた台詞を吐き出せば、予想通り、斎藤クンはまた大きく舌打ちした。
『……で? 用件は何だよ。さっさと話してとっとと失せろ』
「うわー、ひっどー。僕のガラスのハートが壊れちゃうよー」
明らかに本気の言葉だ。それもまた楽しくて、けらけらと笑う。
『は? 誰の? 何が? ガラス?』
ご丁寧に地の底を這うような言葉を返してくれるのだから、この人は楽しい。笑い続ける僕に、斎藤クンは呆れたようにため息をつく。
『よ・う・け・ん。てめぇみたいに暇人じゃねぇんだよ、こっちは』
暇人とはずいぶんなご挨拶だ。しかし、これ以上からかったら、さすがにキレられそうなのでやめておくことにする。
「残念。今日が退院だからねぇ、暇なのは偶然だよー」
『――あァ!? 退院!?』
あ、しまった、失言だった。思った時にはすでに遅し。口に出してしまったものは、今さら引っ込められない。
そういえば、斎藤クンには入院した旨を報せていなかった。期間も短かったので、完全に忘れていたのだ。
「ちょーっと、過労でねぇ。でも生きてるからご心配なくー」
笑いながらフォローすると、「そういう問題じゃねぇよ……」とため息混じりに言われた。呆れて物も言えないという様子である。斎藤クンは僕と違って本当に優しい人だから、心配してくれているのだろう。
『弱っかしいクセに、仕事詰め込んでんじゃねえよ』
「あははー、弱っかしいって、僕を表すのに最適な表現だねぇ」
今までで一番大きなため息が聞こえてきた。
ため息は幸せを逃がすというが、これ以上僕のせいで幸せを失わせるのも忍びない。ひとしきり笑って、本題に入ることにした。
「面白い子が入ってきたんだよねぇ。秘書なんだけど」
思い出すうちに、知らず知らずまた笑っていた。僕のためだけに泣くなんていう、本当に奇特な人間たる『みゅーちゃん』こと、白坂のことを。
『……あぁん?』
前後関係の分からない斎藤クンは、当然、怪訝そうな声を発する。
しかし、本当に口調の柄が悪い。父親から二代続く弁護士だとはとても思えない。
「だからぁ、面白いんだってばー」
『意味が分かんねえんだよ。何がどう『面白い』のかぐらい分かりやすく言え。……っつーかまさか、てめえ、そんなことがメインの話題とかじゃねえだろうな……?』
そのまさか。
電話で見えないことをいいことに、小さく舌を出す。そして発言はスルーして、そのまま言葉を続けた。
「普通、さー。自分にとっては特に何の利もないのに、誰かのため――っていうか、僕のために泣くなんて、有り得ないと思わなーい?」
今度は反応がない。不思議に思い首を傾げるが、出した舌と同じように、斎藤クンには見えるワケもなく。仕方なく、そのまま語り続ける。
「それにさ、僕に媚を売るんじゃなくて、心配して諫めようとする女の子なんて初めて見たよー」
『……女?』
その時、彼がようやく意外そうな声を上げた。
「うん、女ー。女の子だよー?」
『ふーん……そもそもそこが珍しいんじゃねえの? お前の今までの秘書、全部男だっただろ」
「んー、そうだねぇ」
とはいえ、僕が選んだワケじゃない。全員、高谷代表たる父親が、使えと勝手に押し付けてくるのだ。白坂だって決して例外ではない。
「白坂みゆ、って言うんだけどさー。白坂って、名字に聞き覚えないー?」
『白坂? ああ……』
白坂家当主、白坂平輔。白坂家はそこそこの知名度のある旧家で、国会議員を何人か輩出している。現当主の平輔も代議士で、父親の大学時代の友人なのだ。彼女は多分、そのコネクションを利用され、捩じ込まれたのだろう。
彼女のキャラからして、秘書になりたいので便宜を図ってくれ、と自分から言うとは考えにくい。恐らく白坂当主が、高谷、ひいてはコンツェルン自体と、より太く強いパイプを繋げたいのだ。
当主は確か、白坂の伯父である。両親を早くに亡くし、本家に預けられたのだと報告があった。
でも、出身は幼稚舎から大学まである全寮制の学校だったし、もしかするとほとんど一緒には暮らしていないのかもしれない。白坂は中等部の二年次から編入していて、それは彼女が両親を亡くした時期と一致するのだ。
つまり、『そういうこと』なのだろう。理由は想像するまでもないため、反吐が出そうになる。
世間体を気にして引き取ったはいいものの、実の子ではない彼女を持て余した。結局は金銭面の面倒を見るだけで見放したのだ。
それなのに、しっかりと己の欲望のために利用だけはするらしい。さすが友人同士、あの父親と思考回路がそっくりだ。
僕の父親も父親で、政治家に恩を売っておくのは得だと判断したのに違いない。
『……そりゃ、本気で珍しいな。父親からの押し付けを、お前が甘受してるのも』
かちり、という音が微かに電話口から聞こえる。彼は喫煙者。多分、ライターで煙草に火をつけたのだ。
「……押し付けられるのは気に食わないけど、断るのは本人の様子見てからだって別に遅くはないしー。ていうかまだ煙草吸ってるのー? いい加減やめてよー。自分から寿命縮めて楽しい?」
斎藤クンは、あんな無関心な親よりずっと僕を分かっていて、分かっているからこそ刺さるようなことを言ってくる。
だからこそ、別な話題を提示して、僕は逃げた。自分から白坂のことを話したのに、都合よく。
『どうせお前には煙かからねえんだから構わねえだろうが。ていうか、話逸らすんじゃねえよ。お前から話し出したんだろうが』
そしてその逃げを許してくれないのも、斎藤クンという人間だった。
『今までの秘書どころか、今までの周囲の人間と違うって感じたんだろ。お前自身がそう思ったから、その秘書と面識のねえ俺にまでわざわざ報告してきたんだろうが』
弁護士としての洞察力を遺憾なく発揮して、核心に触れるようなことを次々並べて、僕の逃げ口を封じていく。
『お前と同じような状況なのに、お前みたいになってないその秘書が、お前、気に入ってると同時に、実は気に食わねえんだろ』
ああもう。
思わず口を突いて出そうになって、何とか呑み込んだ。
「……そんな風にしか解釈できないなんて、斎藤クンってほんと、性格悪ーい」
誤魔化すようにくすくすと笑うと、「お前に言われたくねえ」と反論が聞こえる。
そうだ。僕は、白坂が面白いと思うと同時に、眩しくて、妬ましくて、憎らしい。
どうして僕と似たような扱いを受けてきて、似たように育ったはずなのに、曲がらず真っ直ぐなままでいられるのか。僕には決してないものを持っているのか。
どうして、あんなにも綺麗な涙を流せるのか。
僕は、僕自身のことを、両親や兄と同類だとは思わない。だけど、その価値観の世界の中で生きている限り、綺麗なままだなんて、都合のいいことも思っていない。
どうしようもなく、染まっている。汚い選択肢でさえ、必要なら選べるのだろうという確信があるし、実際選んできた。
だけど。白坂は違った。
誰かのためを思って流される涙は、驚くぐらい澄んでいた。息が詰まるほどに。
腐っているこの世界で生きていけば、あのまっさらな白坂でさえ、いつかは同じように腐り落ちていくのだろうか。
そうなればいいと思う自分と、なりはしないのだろうと思う自分がいる。
斎藤クンが紫煙を吐き出す音をぼんやり聞きながら、どうしようもない思考だけが巡った。