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Blue Rose  作者: 汐月 羽琉
第一章 対面
3/7

彼の本当は

 次の日。私は何事もなく午前中の仕事を終わらせ、社員食堂で食事をすることにした。

 健康的な生活は食事から、という指針の下、この会社の食堂のメニューはけっこう凝っていておいしい。安いこともあって、割と社員からの人気は高かった。

 そのため、ピークの時には席が埋まるほどの人出がある。だが、だいぶ時間が遅くなったこともあって、割と席は空いていた。

 日替わりランチメニューを載せたトレイをテーブルに置いて座って、ようやく一息つく。

 連絡チェックがてら暇つぶしをしようと思って、箸を持ちつつ携帯電話を覗いた。すると、昨日酔い潰れていた友人からの着信履歴。朝の早い時間にくれていたようだが、今日の午前中は忙しくて携帯を開く時間がなく、今まで気づかなかった。

 今の時間を確認すれば、私はずらして取らせてもらっているけれど、一般的な昼休みの終了まではあと二十分ほどだ。まだ大丈夫だろうか。

 まあ、出なければまた後で改めて掛け直せばいい。そう思い、友人に連絡を入れてみることにした。

 すると、しばらくのコール音の後に友人の声が聞こえてくる。

『もしもし、みゆ? 忙しいのにごめんね。掛け直してくれたの?』

「もしもし。うん、履歴入ってたから……どうかした?」

『ん、まあ。昨日、酔い潰れた上に運んでもらったみたいだし? 謝りたくて』

 苦笑いしている感じの声がレシーバーから聞こえてくる。それについてか。なるほどと納得し、私も少し苦笑いした。

「私は平気だけど。大丈夫? 二日酔いとか」

『おかげさまで大丈夫。ありがとねー』

「ううん。大丈夫ならよかった」

 声もいつも通りの調子で、無事出勤もできているようだし、本当に問題なかったみたいだ。私の安心した調子が分かったのか、友人はくすくすと笑い声を上げる。

『しかし、あたしも情けないね。あれしか飲んでないのに潰れちゃうなんて』

「……いや、充分だと思うけど」

 あれ以上があるのかと思うと、想像しただけで気持ち悪くなる。私が半ば呆れていると、友人はまたくすくすと笑っていた。

『まあ、そんな感じでお礼言いたかっただけだから、大した用じゃなかったんだけどさ。……あ、でも。全然話変わるんだけど、そういえば今日、ちょっとした噂聞いたよ』

「噂?」

 いったい何のだろう。首を傾げると、声を潜めるようにして彼女は言葉を続ける。

『専務の、社長就任。近いらしいよ』

「しゃ、ちょう……?」

 驚きから囁くような声しか発せなくて、数度生唾を飲み込む。その感覚がやたら遠くなったように思えるほど、聴覚に全神経が注がれていた。

『うん、社長。すごいよねぇ、あの若さで』

 社長とは言わずもがな、会社のトップというわけで。そしてこの会社は誰から見ても大企業という括りに入るのに。

 それを、あの若さで、社長にだなんて。

 すごい人の秘書を私は務めているのだ。そういう認識がじわじわと身体の隅から隅にまで染み渡って、背筋がピッと伸びた気がする。

『みゆって、そんなすごい人の傍で働いてるんだよね……』

 ちょうど私が考えていたようなことを、やはり友人も思ったらしい。ぽつりと呟く声が聞こえた。

 本当にそうだ。まだまだ私は未熟だけど、ほんの少しでも役に立ちたい。

 だって、その身ひとつで会社の命運を背負っていかなくてはならないだなんて、どれほどの重圧だろう。それにはきっと老若関係ない。たとえ微力だって、支えがあるのとないのとでは、その重さを耐えられるかどうか、違ってくるはず。

 だから、私にできる限りの総てを懸けて、専務を支えたかった。

 友人とその後いくつか話して電話を切り、残っていた食事を胃に収めつつも、今しがた聞いたばかりの『噂』が耳から離れなかった。

「あれ、白坂。もう食事終わったの?」

 食べ終わってすぐに専務の執務室に入ったら、意外そうな様相をしている専務と目が合った。

 そういう専務こそ、私が休憩に入ってもまだ仕事をしていたのに、きちんとご飯を食べたのだろうか。

「あ、はい。専務は……」

 頷きつつも問い返すと、専務は笑った。

「食べたよ、もちろん。カフェテリアのサンドウィッチ、テイクアウトした」

 社内には食堂以外にも軽い休憩のためのカフェテリアがあって、確かにそこでは軽食の販売もしている。

 もしかして、この人はいつもそのような食事なのだろうか。しかし、尋ねるのもお節介であるような気がする。言葉にするか迷っているうち、専務は手に持っていた資料に視線を移してしまっていた。

 彼の表情は真剣そのもので、声をかけるのが憚られる。だから私はそれをただ見ながら、昼食のために持ち出したサブバックを自席にそっと置いた。

「……白坂」

「っ、はい!」

 その瞬間呼びかけられたので、驚いて声が裏返った。その反応に思わずか専務が笑っているのを見て、少しばつが悪い。何とか宥めつつ、急いで専務の方に向かう。

「これ、任せていい?」

 差し出されたのは、今まで専務が手にしていた資料だった。受け取って目を通すと、私の今の実力では少し難しいかもしれない内容だった。

 でも、やってみたい。これから先、専務を支えて働いていくのならば、きっと役に立つ内容だったから。

「やらせてください!」

 力を込めて言えば、その勢いにか専務はくすりと笑いつつ頷いた。

「じゃあ、任せたよ。もちろん、必要ならフォローもするから、声かけて」

 心強い言葉に、私は「ありがとうございます」と深く頭を下げる。それから自分の席に着いて、パソコンと向かい合った。

 それを見届けてくれるような視線を感じつつも、改めて資料を読み込んで、自分がやるべきことを頭の中でピックアップしていく。

 専務も、自分がやらなくてはならない仕事にすぐに移ったようだった。

 二人の間に会話もなく、キーボードを叩く音だけが部屋を満たす。

 しかししばらくして、その静寂を割る慌ただしい足音が響いた。

 重厚なドアがきっちりと閉まっているのに、それでも聞こえてくるくらいである。相当なものだと察して、顔を上げた。

 専務を見たら、怪訝そうな、けれど何かしらを予感しているような表情でドアを見ている。

 間もなく、ドアがやはり慌ただしくノックされた。

 アポはなかったけど、この様子は明らかに只事ではない。念のため確認するように専務を見ると、小さな首肯が返ってきた。

「はい」

 私は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。

「失礼します!」

 扉が開いた途端、血相を変えた男性社員が勢いよく頭を下げた。

「何があったの? 騒々しい」

 デスクから立ち上がってそちらに向かいつつ、専務は尋ねる。

 入ってきた彼は、手にしていた資料を差し出して説明を始める。

「大口のお客さまから頂いた数の大きな発注において、重大なミスがあったとのことで……! お客さまのご要望の日時までに、発注品がこのままだと間に合いません! 該当部署を急いで動かしておりますが、それでもリカバリしきれるかどうか不明で」

 資料に目を落とした専務の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。それは事の重大さを何より物語っていた。

 ちらりと覗いたお客さまの名前は、確かに大口の、しかも高谷の創業当時からの付き合いである取引先だ。

 私の目の前もくらりと白く霞んだ気がした。

 きっと、きっかけは些細なミス。だがそれは致命的な傷になりかねない。

 万一、こちらのミスによってお客さまに損失が出たとなれば、謝罪では済まされないだろう。その上、今回のお客さまだけではなく、他のお客様からの信用も一気に失うことになるのだ。

 それはつまり、高谷にとっても大きな損失となる。

 沈黙の間、空気が一気に冷え込んだ気がした。専務が何と言うのか、男性社員も私も固唾を飲んで待つ。

 ややあって。

「大丈夫。今からでも何とかできる」

 ふっと顔を上げた専務が、きっぱり断言した。

「とりあえず、君は戻って応急の対処に当たって。白坂、緊急会議するから通達を出して」

 極めて冷静な態度で男性と私に指示していく専務は、この状況にも一切揺れていない。

「承知しました!」

「し、承知いたしました!」

 私と男性の返答が揃う。彼が出て行ったのを視界の端に捉えつつ、またパソコンと向き直る。

 それからは、目の回るような忙しさだった。

 専務の指示の通りに関係各所に連絡を入れる。会議のための資料を集め、会議室に移動し、幹部クラスで対処について話し合う。会議で決定した内容を社内に回し、お客様に対して現状を説明する。

 損失を出さない、あるいは最小限に留めるために、専務の判断の下、社員皆が全力だった。もちろん、私だって例外じゃない。

 目まぐるしく状況が動く中でも、専務が狼狽えることなく対応してくれるから、必要以上に慌てることはなかった。

 本当は、「大丈夫」なんて言えるほどの状況ではなかったと思う。それでも、専務の言葉には目には見えない強い力が不思議とあって、絶対に大丈夫だと信じられた。

 他の社員たちとしても、それは同様だったのだと思う。

 仕事はミスの対処だけではない。他のお客さまや仕入れ先とのやり取りについても、疎かにはできない大切な仕事だ。ミスの埋め合わせ、そして同時にこなさなければならない業務。途方に暮れてしまいそうな状況から考えれば、社内の動揺は驚くほど小さかった。

 他業務についても、専務は他の社員の比ではないほどの量であるが、どれも疎かにすることなく片付けていく。新たにミスを生み出さないように、と迅速だが慎重に対処しているのが分かった。

 私は懸命にそれをサポートした。正直、仕事はいくらでもあった。コピーに駆け回り、資料を作り、専務の代わりに社員からの連絡を聞き、専務の意思を伝え――目まぐるしく時間は流れていく。

 一旦キーボードから手を離し、私は小さく吐息をついた。

 パソコンの画面の右下に出ている時計を確認すると、時刻は二十三時を大きく回っている。あと一時間足らずで日付が変わるのだ。

 もちろんのこと、就業時間は疾うに過ぎている。しかし私たちは相変わらず仕事に忙殺されていた。

 確認はしていないが、今日はきっと、どのフロアもまだ煌々と明かりがついていると思う。かくいう私も全然終わりそうにない。このペースでいくと、多分最終電車には間に合わないだろう。

 最終を乗り過ごしたら問答無用でタクシーだから、ちょっと財布には痛い。でも、目途が立たないと帰るに帰れないのだ。目を酷使しているせいか、頭も肩も痛い。

 でも、弱音を吐いている暇はない。一分一秒でさえ惜しいことなのだし、頑張ろう。両頬を軽くぴしゃりと叩いて、もう一度気合いを入れ直した。

 これだけはやりきってから帰ると決めた資料を完成させるため、残りの文章を打ち込んでいく。

 専務の方からもキーボードを叩く規則的な音が聞こえてくる。そのBGMが、集中をより深くさせてくれた。

 それからは疲労なんて忘れて没頭していた。息まで詰めていたのか、終わった瞬間に大きく吐き出す。

 誤字脱字やおかしな言い回しがないかをチェックした上で資料をプリントアウトし、専務の方へ向かう。

「専務、できました」

「どれ?」

 専務の長い指が紙の束を受け取り、真剣な瞳で隈なくチェックしていく。私は緊張しながらその様子を見、言葉を待った。

 やがて、専務はが満足げな表情をして頷く。

「いいよ、概ねオーケー。直すところもいくつかあるけど、あとは明日でいい。短時間でよく頑張ったね、白坂」

 その言葉がもらえただけで幸せで、頑張ってよかったと思えた。そして俄然やる気になり、意気込んで尋ねる。

「次は何をしましょうか?」

 すぐにやらなければならない仕事は山積している。人がいくらいても足りないのでないかと思えるぐらいには。その中で優先して片づけるべきものがあれば、専務の負担を減らすためにも頑張りたかったのだ。

 だけど。


「いや、白坂はもう上がっていいよ」


 予想だにしていなかった台詞に固まる。高揚していた気分が、一気に下降していくような気がした。

「へ……?」

 そんな間抜けな声が漏れ出た私にくすくすと笑いつつ、専務は私が手渡した書類をデスクに置く。

「もう上がっていいよ、って言った。体、大事にしなよ。そんなに丈夫ではないんでしょ?」

 知られていた、と思って、ぐっと息を飲んだ。

 普段はそこまで意識することはないが、確かに私はあまり体が強い方ではない。小さい頃から、疲れが溜まるとよく熱を出していた。亡くなった母が体の弱い人だったから、恐らくその遺伝もあるのかもしれないけど。

 専務がそういう私を気遣ってくれているのは痛いぐらいに分かる。でも、自分の限界は自分が一番よく分かっていて、今日はまだやれるのに。

「……これから何日か、この死ぬほど忙しい状態が続くよ。休める時に休まないと。今日がよくても、明日からの激務が積み重なれば、疲れは溜まっていくよ?」

 私の思考を顔色から読み取ったのか、先回りするように専務が言った。

 やはり、正論だ。頭では分かっているし、気遣ってもらえることをとても有難いとも思う。

 だけど感情がそれを拒否した。私だって譲れない。譲りたくない。

 だって、私が帰ってしまった後、この人はどうするのだろう? そのまま仕事を続けるつもりではないのか。ほとんど確信のようにして思う。

「……専務はどうなさるのですか?」

 細い声で尋ねると、専務は私を一瞥し、すぐにふっと逸らす。

 まるで興味を失ったかのように。

「……僕のことはいいから、早く行きなよ。最終、出ちゃうよ?」

 いや、違う。多分、初めからこの人は『私自身』には何も興味がない。私だけではなく、周囲にいる人たちのほとんどに。

 物語っている気がするのだ。こちらを見ているようで、ここではないどこかをきっと見ている目が。楽しげに笑っているようで、その実においては何も感じていなさそうな顔が。

 だからこそ、今の言葉は突き放されたのだと感じた。最初の日と同じく。

 専務の姿は、「一人にしてくれ」と叫んでいるみたいだ。やっぱり、初日と同じ。そういう雰囲気を察してしまえば、私にはそのままそこに居続けることなんてできない。

 専務にとって、私という存在への印象や価値観は、初日から何も変わっていないのかもしれない。

 頭に浮かんでしまうと、なぜだかとても虚しかった。自分自身で考えたことのくせに。

 私は専務にどう扱われたいのか。どう思われたいのか。いくら自問したところで、それについての答えは出そうになかった。

「はい……お気遣い、ありがとうございます。失礼します」

 声を震えさせずに言えていただろうか。

 ドアの手前で改めて頭を下げ、鞄を抱えて部屋を出る。完全に閉めるまで視線を向け続けたが、専務がこちらを見ることはない。やっぱり、全身で拒絶されている気がする。

 重たい扉を閉めてしまえば、物音ひとつ聞こえはしない。

 廊下を数歩進んでから、今出てきたばかりの専務の執務室を振り返った。何と言葉にしたらいいのか分からない思いが込み上げてくる。

 出てくる様子がないところからして、やはり予想通りそのまま仕事を続けているのに違いなかった。疲れが溜まっていくよ、なんて、どうしてその口から言えるのだろう。

 最も根を詰めているのは自分なのに。

 ただでさえ、最近は顔色があまりよくない。よく眠れていないと察する状態で、激務を背負い続けているのだ。無理もない。

 どうか、自分の体を労わってあげてほしい。そんなことを私が言ったところで、「大袈裟だよ」と笑われてしまうかもしれないけれど。

 そもそも、あの拒絶を前にして、口にさせてもらえるかどうかすら自信がなかった。


 あのミスが発生してから、数日。

「専務、こちらは」

「ああ、それはもういいよ。あとは僕が引き取るから、白坂はこっちを片付けてくれる?」

「承知しました」

 細かい指示をされながら、私は忙しく動き回る。

 驚くべきほどのスピードで、ミスに端を発した騒動は収束に向かい始めていた。

 それは社員が一丸となって解決のために奮闘したためでもあるが、でも最も貢献していたのは、大げさでも何でもなく、専務だった。

 弱冠二十六歳でこの大会社の専務を任され、しかももうすぐ社長を継ぐかもしれないというのは、一部の人が言うような七光りなどではない。

 たとえ誰が(そし)っても、日々肌で感じている私には分かっている。私の仕えているこの人は、七光りだけで上に立つ者ではないと。

 でもそれと同じぐらい強く感じるのは、専務という人物の危うさだった。

「こちらで、終了です」

「うん、了解。これで最後だ」

 素早くパソコンを操作しつつ笑う彼を、私はそっと窺う。

 今までにないくらいに顔色が青白い。

 ミスが発生してから、専務は家にはほとんど着替えだけのために帰っているらしい。さすがに疲労の色が濃く、私が席を外している時を狙って眉間を繰り返し揉んでいることも、たまたますぐに戻る用事があって見てしまった時に知っていた。

 つまり、ここのところますます眠っていないのではないのだろうか。

「……専務」

 邪魔してはいけない、と考えるのに、心配が拭いきれなくて思わず呼んでしまう。

「んー?」

 気のない返答をする彼は、パソコンの画面から目を離さない。

「それぐらいの内容ならば私が代わりにいたしますから、今日は早めにお帰りになっては……」

 余計なことだと警告する自分もいるからこそ、声が小さくなる。専務が今度こそ顔を上げるので、怒られるだろうかと少し首を竦める。だが予想に反し、くすくすと笑っている。

「最後だし、自分の手で終わらせたいんだよ」

 そんな言辞に逆らえるだけのものなど、私が持ち合わせているはずがなかった。この会社での仕事に一番の誇りを持っているのが誰で、人一倍真摯な態度で向き合っているのが誰か、知っているから。

 本当は無理矢理にでも止めたいのに。そんなものはもう後でいいから、とにかく休んでください。言葉を紡ぎそうな唇を縫い付けて、傍に寄るために動き出しそうになる足を床に縫い止めて。専務の姿をまっすぐに見つめる。

 彼は気づいているのかいないのか、またも私に目線を合わせようとしない。それがほんの少し辛くて拳を握るが、逸らそうとは思わなかった。

 しばらくして、キーボードを打つ音がようやく止まる。

「よし、終わり」

 呟きが聞こえた瞬間、私は心からほっとした。

「……白坂、悪いけどコーヒーお願い」

「はいっ」

 少しでも安らいでほしい。そういう思いから、急いで用意しつつも、いつも以上に丁寧にコーヒーを淹れ始める。

 これでようやく専務も休んでくれる。顔色はもはや土気色と言ってもいいのではないかというほど悪いけど、これ以上無理をせずにゆっくり休息を取ってくれれば、きっと快方に向かう。

「白坂、それが終わったら運転手手配してもらえるかな。宮苑(みやぞの)に行くから」

 しかし、コーヒーカップを用意していた私の背後から、そんな指示が飛んできた。

 宮苑グループ。村田コンツェルン内で高谷以上の権威を振るう、傘下ナンバーワンのグループのひとつだ。

「宮苑、に?」

 コーヒーを注いだカップを差し出しつつ尋ねると、専務はゆっくり頷いた。

「そう、宮苑。次期代表に会いに行く」

 宮苑の次期代表といえば、まだ十七歳の男の子のはず。つまり高校二年生だが、そんな若さでも、すでに父親についてグループの経営に関わっているといつだか聞いた。

 高谷のビル群と一本の太い道路を挟んだ向こう側にあるのが、宮苑のビル群。

 村田本社のビルを中心として、同心円状に広がっている村田傘下のビルたち。

宮苑と、もうひとつの傘下ナンバーワングループである上條グループのビル群は、より中心に近い位置にいた。

 中心からの位置。それこそが、どれだけコンツェルンに貢献しているかを表す指標であり、村田傘下たちの誇りであり、努力の対象である。より中心に近ければ近いほど、ヒエラルキーの上位にいるということだから。

 高谷は長い間、傘下の頂点に立つ宮苑と上條(かみじょう)に近づくべく、もがいてきた。ここ数年の急成長により、現在は勢いからすれば大差ない、というところまで来たのだ。

 推測するに、この人の力によって。

 自分を省みず、無茶をしてでも高谷に尽くしてきたからこそ、できたことなのかもしれない。このような身を削るような働き方も、私が秘書についてから始まったことではないだろう。

 だからこそ、今回だけは、絶対に従うわけにいかなかった。

「……それは、いけません。専務」

 指示に逆らったのは、初めてのことだった。

 一瞬だけだが、専務は目を見張った。それから小さな音を立ててカップをソーサーへ戻し、静かに尋ねてくる。

「……何を言ってるの?」

 訝しげな様相ながら、鋭い色を湛える目。竦みそうになるが、どうにか次の言葉を発した。

「先ほどから顔色がよろしくありません。このままでは倒れてしまいます……!」

 本気を示したくて、必死になって声を張り、専務を見つめる。交わった視線はいつも通りすぐに逸らされてしまうが、それで折れる私ではない。

「それが今日でなくとも差し支えないことであるなら、明日に回して、どうか今日はもうお休みになってください」

 お願いします。もはや懇願のような口調で頭を下げた。

 専務にはもっと、自分自身に興味関心を持ってほしかった。

 仕事に対し真剣に取り組んでいるその瞳は、まるで「自分なんてどうでもいい」と言っているみたいで、悲しくなる。

 エゴであるのは分かっているけれど、これ以上の無理が祟って専務の身に何かがあったら嫌だ。

 重い沈黙だった。息を止めてしまいたいと思うぐらいの静けさに、小刻みに震えている私の足。

 永遠にも思えた時間は、専務の小さなため息によって終わりを告げた。

「もう次期代表にアポ取ってあるから、無理だよ。次期代表も僕も忙しいから、時間を合わせるのは大変なんだ。お願い、早くして? 約束の時間に間に合わない。白坂がやらないなら、自分で呼ぶけど」

 何も伝わらなかった。無力感で、足元から崩れ落ちそうになる。

 一世一代の勇気は、呆気なく否定されてしまった。これ以上、私には言い募ることは不可能である。

 私の声が届かない。専務の心には響かない。

「……はい。出過ぎたことを申し上げました。申し訳ありません」

 分かってもらえなかった悔しさに唇を噛んでも、今さらだ。

「いいよ。こっちこそ、気遣わせてごめんね」

 そんな上辺だけ優しい言葉より、休むと頷いてくれた方がよっぽど嬉しかったのに。恨み言のように心中でひとりごちつつ、私は内線を取り上げた。番号をプッシュしていると、飲み終わったカップを自ら片付けようとしたのか、専務がアームチェアから身を起こしていた。

 次の瞬間。

「――ッ専務!?」

 ほんの少しばかり持ち上げられていたらしいカップが、デスクの上でガチャンと耳障りな音を立てる。専務が床に倒れ伏す。

 彼は立ち上がったはいいものの、一歩も歩くことが叶わず、そのまま座り込むように崩れ落ちたのだ。

「専務!!」

 あまりのことに硬直していた私は、呼びかけながらすぐに駆け寄る。

 専務はぐったりと動かなかった。思わず触れた手が、汗ばんでいるのに氷のように酷く冷たい。

 どうしよう。パニックになりかけて空気が浅くなったような感じがしたが、すぐにそれを宥めるために深い呼吸に切り替えた。

 今ここには私しかいない。私が落ち着かなくては、何も始まらないのだ。

 まずは救急車。専務を楽な体勢にさせつつ、報告するべきところに報告する。自分がこれから取るべき対応を頭の中に浮かべて、すぐに行動に移した。

 それからが大変だった。

 直接の上司である秘書課長に事情を説明すると、順次連絡を入れろとの指示を受けたので、私は救急車に同伴した。

 運ばれた病院で医師の診察と処置を受けて、ひとまず専務は数日入院ということになった。

 下された診断は、やはり過労だった。

 総てのことを背負わなくていいのに。いくら専務が万能だからって、何もかもを一人でできるわけではないのだ。重荷を分けてもらって、負担を減らせるよう手助けをするのが、私の仕事なのに。

 つまり、信用して任されていないという事実に他ならない。そういう自分が情けなかった。

 専務は病院着に着替えさせられ、ベッドに横になっている。じっと瞼を伏せたまま、まだ目を覚ましてはいない。枯れ切ってしまった彼の身体に力を注ぐがごとく、点滴がぽつぽつと規則的に雫を垂らしている。私はその様子を見つめていた。

 ふと、いくらか改善してきたようにも思える顔色に目が行き、そっと手を握った。体温も少しずつ戻ってきているみたいだ。

 私の力が、専務の元気に変換されればいいのに。握る手の力が僅かに強まる。

 それに反応したのだろうか。

「……ん……」

 呻き声にも似た声が聞こえて、はっとする。視線を向けた瞬間に、薄く目を開けた専務と視線が交わった。

 それを視認し、座っていたスツールから思わず立ち上がる。

「専務……!」

 頭に響かないようにと直前で声量は抑えたけれど、声が震えるのまでは止められなかった。

 状況が把握できないのだろう。戸惑ったように瞼を何度か開閉させてから、専務はようやく口を開いた。

「あれー……? みゅーちゃん?」

 いつもと違う、語尾が少しだけ間延びする口調。変わった渾名(あだな)。一度だけ見たことがある、オフの時の態度だ。

「僕、どうしたんだっけー?」

  あの時とは違って、彼の声はあまりに弱々しい。それでも、困惑混じりにくすくすと笑っている。

「ここは、病院です……。専務は、倒れられて」

 ますます声が震える。

 気づくと、目からは熱い雫が流れ落ちていた。

 安心感からか、今までの緊張の糸がふっつりと切れたからか、一筋伝ったかと思えば、溢れ出て止まらない。ぼろぼろ、ぼろぼろ。慌てて拭おうとするのに、決壊してしまった堰は修復しようもなかった。

 専務の息を詰めた音が小さく聞こえてどうにかしたいのに、次から次に流れ落ちていく。

「すみ、ませっ……すぐ、止めます……!」

 言葉とは裏腹に、全然止まってくれない。どうしよう。いきなり泣き出して、わけが分からないと思われる。焦るのに、焦れば焦るほど勢いは増した。

 その時、長い指が不意に伸びてきて私の目元を拭った。

 驚いて大きく目を見開いたが、その正体はすぐに分かった。

 小さく笑いながら、専務が涙を拭ってくれていた。

「……ありがとー、みゅーちゃん」


 そうやって向けてくれた表情は――笑顔。困ったような、少し幼い笑みは、初めての本物だった。


 看護師さんを呼ばなくちゃ、とか、早く泣き止まなければならないのに、とか。間違いなく考えているのに、意識の外みたいで。

 それだけ、私は彼の笑顔に気を取られていた。

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