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Blue Rose  作者: 汐月 羽琉
第一章 対面
2/7

そぐわぬ力

 エレベーターで目的の階まで上がり、さっきと同じようにノックをする。

 返事を聞いてから入ると、専務は黙々と仕事をしていた。

「ああ、そのデスク。白坂のデスクだから好きに使っていいよ」

 専務が使っているのは、広い部屋の奥の窓際にあって、どっしりとした重厚感があるデスク。ちょうど、部屋に入ると一番に目に飛び込んでくる配置だ。

 それを二回り小さくしたようなデスクが、部屋の右側に置いてあった。専務のデスクに直角となるように。

 そういえば、課長も専務室には秘書用のデスクがあると言っていた。言葉通り、秘書課に戻っている暇はあまりなさそうだ。

「……ありがとうございます」

 一礼すると、専務はくすくすと笑い声をあげた。

「だって多分、秘書課の方のデスクとか使ってる暇なんかないよ。僕の秘書になった限りは」

 そして課長と同じようなことを述べる。それは『専務』の仕事がどれほど忙しいかを物語っていて、また身が引き締まる思いがした。

 たとえ伯父に『高谷』というビッグネームとのパイプを繋げるための道具として利用されているだけなのだとしても、私は今日からこの人の秘書なのだから。私は私だけができることを、精一杯やるだけ。

 心においてまで、伯父の思い通りになる気などなかった。

「じゃあ早速、仕事ね」

 向けられた笑み。柔らかく、相変わらず私の余分な緊張を解いてくれようとしてくれている笑みだと分かる。

 だから私も、笑顔でそれを受け取った。

「はい。承知いたしました」

 でも、どうしてだろう。笑顔を向けられれば向けられただけ、この人の内に巣食っている黒いものをまざまざと見せつけられるような感じがした。

 笑いたい、なんて少しも思っていなさそうなのに、なぜ常に笑みを浮かべているのだろう。どうして、きっと自分をも擦り減らしているに違いないのに、そんな作り笑顔を向けるのだろう。

 余計なことだ。どうしようもないぐらい、お節介なことだ。ちゃんと分かっている。

 だけど、やっぱり自分の思考を止めることは難しくて。

「……白坂?」

 呼びかけの声に、はっとする。しかも、パソコンのキーボードを打つ手がいつの間にか止まっていた。

「は、はいっ」

 やってしまった、と思いながらも慌てて顔を上げる。集中しているならまだしも、仕事中にぼんやりしていたために返事が遅れるなんて。

 身が竦む思いだったし、実際、無意識に肩が縮こまるようになっていた。

「初めてだし、この環境にも慣れてないんだから、そんなに気にしなくていいよ。この資料、コピー取ってもらえる?」

 咎められると思っていたのに、専務はくすりと笑っただけで、叱る言葉のひとつもなかった。私の怯える思いが顔に出ていたのかもしれない。

 正直に言えばかなり意外だった。仕事に厳しい人だ、と専務の仕事ぶりを知る人からは必ず聞こえてきたし、短い時間にもそれを実感していたから。

 差し出された一枚の紙を、立ち上がって受け取る。

 恐る恐る目を見るようにしたら、彼はただ柔らかい笑みを向けるだけだった。それに息をついた瞬間、怯えが一気に緩む。そういう私は、本当に現金だ。

「何枚分お取りすればよろしいでしょうか」

 それでも、仕切り直してしゃんと背筋を伸ばすことができたことだけは、自分を褒めたいと思う。

「うん、定例会議で使う分だから、とりあえず二十あればいいかな」

「二十枚ですね。承知いたしました」

 短いやり取りの後、部屋を出て隣のコピー室へ移動。大きく息を吐きだした。

「何やってるの、本当……」

 初日だから大目に見てもらえただけで、こんなこと有り得ない。専務の優しさで目をつぶってもらえただけだ。

 コピー機が立てる音に紛れ込ませるようにして呻る。

「しっかりしなさい」

 自分の頬をぴしゃりと張った。

 コネで秘書となった事実は変えられない。それを嫌と思うのなら、自分が何をしていけるのかを考えなくてはならない。コネだから、ではなく、私だから必要としてもらえるように。

 それなのにこの体たらくでは、あまりにも情けないじゃないか。

 もう一度大きなため息を吐き出したところで、脳裏によぎるのは専務の笑顔。

 笑顔はたとえニセモノでも、分かる。あの優しさが偽りなんかじゃないこと。

 あの人はとても優しくて。優しいからこそ、恐らく傷つきやすくて。そのために、黒いものをあれほど抱え込んでしまったのかもしれない。

 そこまで考えて、またはっとする。

 気が抜けていただけに飽き足らず、会ってまだ数時間しか経っていない相手に対して、何を分かったような口を利いているのだ。

 あまりに図々しいことを悟り、自己嫌悪に陥る。

 ――そんなに気にしなくていいよ。

 先ほど言われた台詞と、あの小さな笑みが頭をよぎった。

 心臓が胸を打つ。

 ニセモノまみれの彼の表情の中、たった一瞬だけ浮かべられた笑み。勘違いなどではない、確かに本物だったと思う。

 私がそう信じたいだけかもしれない。けれど、それでも――あの瞬間に纏っていた空気は、ぴりぴりと張り詰めたものではなかった。

 その考えすら図々しいな、と小さく苦笑を(こぼ)す。だけど、コピーが進む規則的な音を聞いているしかない状況に、思考は進むばかりだった。




 数時間後。鳴り響いた終業のチャイムに気づいて、パソコンの画面に向けていた顔を上げる。

 すると、同時に専務も顔を上げていたらしく、目が合った。

「……白坂、終わった?」

 私が抱えていた仕事そのもの自体が少ない上、今日中に終わらせなくてはならないというものはほとんどない。

 初日であることから、専務が気を遣ってくれたのかもしれない。

「はい」

 まとめるように指示のあった資料をプリントアウトしたものを手渡す。

 それにじっと目を通していく専務。別にそんな必要性はないことは分かっているのに、緊張が押し寄せる。

「うん。いいんじゃないかな。もう上がっていいよ。お疲れさま」

 問題がなかったことには安心して息をつく。だけど同時に首を傾げたい思いもあった。

 定時は過ぎたし、特に仕事がなければ帰っていいのは当たり前だ。

 だけど、専務は全く帰り支度を進める様子がない。

 もちろん、激務の人である。彼がすんなりと帰れないのかもしれないことぐらいは、私にも予測できていた。

 できている、けれど。

 だからこそ、私は躊躇ってしまう。専務からすればできることは少ないのかもしれないが、私はこの人の力になるためにいるのに。

 私はそう思っていても、余計なことだろうか。ぐるぐるぐるぐる、思考が頭の中で渦を巻く。

「専務、は……」

 どうにかこうにか振り絞った声は、微かに震えていた。

「まだ残ってるし、それ片付けたら帰るよ?」

 それに気づいているのかいないのか。専務はただ、にっこりと笑みを浮かべただけだった。

 直感的に、嘘だ、と思った。

 だが、感じたことは口にしようもなくて。

「……ありがとうございます」

 ゆっくりと頭を下げてからデスクに戻り、荷物をまとめて、挨拶して部屋を出た。

 ――いいえ、専務のお仕事が終わるまでお手伝いします。

 そう言い張ったところで、頑として聞き入れてはくれないことが何となく分かる。出ていくしかなかった。


 今の「お疲れさま」は、「一人にしてほしい」と言われたように思えたから。


 私は嫌われてしまったのだろうか。

 駅に向かいながら、ぼんやりと思う。

 専務から発せられていた張り詰めた雰囲気は、共に過ごしている間にも緩むことはなく。しかも、私に向けられていたと思うのは、十中八九勘違いではない。

 心が遠い。

 ほぼ初対面なのだから、距離があるのは当然のことだ。私だって同じである。

 でも多分、彼はその距離を縮める気なんてない。

 どうしてか、そう感じてしまった。

 あの薄茶色の瞳から。耳に柔らかく響く声から。立ち姿から。全身で拒絶されているような、そんな感覚を覚える。

 吐き出したため息は、あっという間に周囲の空気に溶けて消えた。




 こうして始まった私の秘書生活。続く日々は、毎度毎度驚きの連続だった。

 たとえば、専務の仕事ぶり。

 優秀な人だとは聞き及んでいた。しかし、実際に目前にすると、言葉にさえならない。

 一番の驚きは、語学の堪能さだ。

 商社にいる以上、複数の国の言葉を話せること自体は驚かない。だが、専務の場合は、日・英・伊・独・仏・中という六か国語を使いこなしていた。その上、よくよく聞いてみれば、英語はアメリカ英語とイギリス英語がしっかり使い分けられていた。

 初めて耳にしたときは自分のそれを疑ったが、間違いなかった。英語の得意な同期に確かめたら、「専務は使い分けてるよ」との言葉を得られたから。

 他にも挙げ出したら、多分きりがない。

 いざという時の判断の早さだとか、先を読み行動していく勘のよさだとか、相手が何を求めているのか察する能力だとか。

 総ての実力が突出していると言っても過言ではないと思う。

 彼があまりの若さで要職に就いたからか、「親の七光りだろう」と陰口を叩く人間もいるという。

 だけどあの人は、七光りなんか関係なくて、ただただ自分の力で伸し上がってきた人だと思う。

 グループ本家の人間だからだと誰が思っても、私はそう思わない。

 それに、七光りだったら何だというのだ。そこに胡坐をかいて何もしない人間ならば問題だが、専務はどう見ても違う。

 与えられた役目の中で何ができるのか。何をするべきなのか。彼は誰より分かっている。

 専務の力は、この会社にとって必要不可欠なのだから、何だっていい。

 会社近くにある居酒屋へと踏み入った私は、店員さんに声をかけて中に入れてもらった。

「あ、みゆ! こっちこっち」

 聞き慣れた声に、私は視線を巡らせる。

 中高の同級生であり同僚でもある友人から、仕事終わりの飲みに誘われていたのだ。

 今日は金曜日。同じように仕事帰りと思われる人たちが、皆で思い思いにお酒を飲んでいる。

「前は毎日顔見てたのにねぇ。何か、久しぶり」

「確かにそうだね。久しぶり」

 前は同じ部署だったから毎日会っていたし、お昼もしょっちゅう一緒に食べていた。でも、私が秘書となってからはたまに廊下ですれ違うくらいで、話している暇もなかったのだ。

 お昼はお昼で、専務が外出すれば一緒に行って外で済ませたり、仕事が進まなくて作業を続けながら食事を済ませたりと、やはり時間を合わせることが難しい状況だったのである。

 何しろ本当に忙しい人である専務。そんな人の傍で働くということは、私も当然忙しさを増していた。決して前の部署が暇だったわけではないけれど。

「座りなよ」

 笑顔で促され、私も笑い返しつつ頷いた。向かいに腰を下ろし、近くにいた店員さんに烏龍茶をお願いする。私は下戸であるため一滴も飲めないのだ。

 一方、お酒の大好きな友人は、私が少し残業をしている間に、グラスをすでにひとつ空けていたらしい。すごいペースである。

「で、どうなの? 高谷専務は」

 烏龍茶が来ると同時に、友人がすでに頼んでいたらしいフライドポテトが並べられた。それを摘まもうとした瞬間の問いであり、自然と首を傾げる。

「どうって?」

 友人は声を上げて笑い、フライドポテトを口に放り込んだ。

「そりゃ、どんな感じ、ってことよ。あの専務に、みゆがどんな印象を持ったのか。少し気になって」

「あの、って」

「気難しくて、仕事に厳しくて容赦ないって有名な専務」

 気難しい。仕事に厳しい。容赦がない。やはりというか、皆の目にはそう映っているとのこと。

 そんなことはないのに。

 確かに、専務は仕事に対してとても真面目だし、厳しいと言われるのは分かる。でもそれは、どんな雑務にも真摯に向き合っているだけのこと。

 ひとつのミスで全てが狂う可能性があることや、どこから綻びが生じるか分からないからこそ、ミスをすればもちろん叱られる。それを厳しさの一面と取る人もいるのかもしれない。

 だが、頭ごなしに怒るようなことは今まで一度だってなかったし、どこが悪かったのかをミスのたびにきちんと順序立てて指摘してくれる。

 私が自分で処理しきれないほどのミスはフォローしてくれるし、私自身でどうにかできるのならば、もう一度信じて任せてくれる。

 ちゃんとミスなくやり終えれば、何より嬉しい言葉をかけてくれた。

 ――白坂なら、ちゃんとできるって思ってた。

 そう言ってもらえれば総ての苦労が報われた気がして、「ああ、また頑張ろう」と素直に思える。

 専務がそれこそ誰にも負けないくらい努力しているところを間近で見ていて、そういう人に褒めてもらえることほど喜ばしく、身が引き締まることはなかった。

 日本の経済を大きく動かしているような大企業の経営を担う立場に、あの若さで立つということ。どれほどの重圧だろう。

 私には全く想像できない。自分の行動ひとつで、会社の明日が決まるような毎日なんて。

 押し潰されそうになっても一向におかしくないのに、彼は惑わない。

 自分にできること、自分にしかできないこと、自分がやるべきこと。そういうものを、精一杯の力でやろうとしているからだ。重いものを背負い立つ、覚悟があるからだ。

 一度でもあの人のすぐ傍で働けば、その覚悟を肌で感じる。無責任な印象など、語れなくなるはずだ。

「……専務は、そんな人じゃないよ」

 自然、グラスを強く握りしめる。

「強い覚悟を持ってて……仕事に対して真摯に向き合ってるだけだよ」

 そして、笑っていてもどこか寂しさが巣食っている――とは、さすがに言えなかった。私だけがそう思っているだけかもしれないイメージなど、言ってはいけないと思ったのだ。

「ふぅん……」

 少し間をおいて、友人はそう言ってふんふんと頷く。目を瞬かせる私にはお構いなしに、彼女はいかにも美味しそうな飲み方でグラスを綺麗に空けてしまう。

 怪訝な思いのままただそれを眺めていたら、にっこりと微笑まれた。

「みゆがそう言うなら、きっとそうなんだね」

 ほんの少し戸惑っていた私に対し、また混乱をもたらす唐突な言葉。

 首を(ひね)る私を見て、友人は優しく微笑んだ。

「みゆは、人を見る目があるから」

 へ?

 そんな思いから、ぽかりと口が開いたのが分かる。間抜けな声が実際に漏れ出ていたのかもしれない。友人がけらけらと笑っていた。

「みゆ、もしかして自覚ない?」

 ちょっと唇を尖らせると、くすくすと笑いながらもそんなことを言われる。

 自覚も何も、私は今目の前にいるこの人物が何を言っているのかすら、未だによく理解できていない。

 どうにも分からなくて眉間に皺が寄った私を見かねたのか、友人は笑ったままでまた言葉を紡いだ。

「みゆはさ、どんなに苦手な人に対してでも、ひとつでいいからいいところを見つけようとするでしょ。でも、知ってる? それがどれだけ難しいことか」

 確かにその通りではあるけれど。ぐるぐると渦巻く感情を押し留めることがどれほど難しいのかも、知っているつもりではいるけれど。

 それが先ほどまでの話とどう通じるのか、よく分からない。

 また首を傾げれば、「みゆらしい」と友人が更に笑い声を上げた。

 誰にでも何かしらひとつはいいところがある、なんて、自分でも詭弁だと思う。それでも、私はできれば信じたい。

 けれど、それが人の見る目があるということに通じるかどうかは別問題だと思う。

 友人は、まるでそういう思考が分かっているかのような顔で、私の頭を撫でた。

「……あたしが言いたいのは、さ。人をちゃんと真正面から見ようとするみゆが感じたことなら、信じていいと思うよ、ってこと。専務の、印象」

 目を見開いた。

 私が専務に持った印象が語ったものだけではないことに気づいていて、その上でそれは間違っていないと友人は言っているのだ。

「……うん、ありがとう」

 まったく、これではどちらが鋭いと褒められたのか分かったものじゃない。

 微笑みを返して、友人の言葉を噛みしめつつも、胸に何かが突き刺さるような異物感があった。もちろん、心情的なものが原因で。

 間違ってくれていた方がいいのかもしれない。寂しさがあの人を支配し、巣食い、外側にまで滲んでいる、なんて。

 いいや、かもしれない、じゃない。絶対に間違ってくれていた方がいい。

「だから、難しいことは考えなくていいの。みゆはみゆらしく向き合ってみなよ。いつもみたいに」

 専務に対する複雑すぎる印象に考え込んでしまっていたからか、再びぽんぽんと頭を撫でられる。励ましてくれたのだ。

「ありがとう」

 改めてお礼を言えば、友人も柔らかく笑った。

「さ、飲もう飲もう」

「や、私は飲めないから」

「知ってるよ」

 烏龍茶やノンアルコールのカクテルなどでお付き合いして、ビールが次々と友人の胃の中へ消えていくのを、私は笑って見ていた。

 見ていた、のは、いいんだけど。

「飲みすぎだよ……」

 明らかなる千鳥足が危なっかしくて、反射的に体を支える。でも力がなく、慎重さもそれなりにある彼女を私がしっかり支えるのは、ほぼ無理な話だった。

「だってムカつくのよぉっ」

 泣きながら私に抱きついてくるのはいいが、お酒臭い。

 やたらにペースが速いと思ったら、どうやらヤケ酒だったらしい。私を誘ったのも、愚痴を言うためだったとのこと。

 何でも、彼氏にフラれたんだとか。

 男性と付き合ったことが一度もない私にとってみれば、全く以て別世界の話だ。

「もー……。呑みすぎは体に毒だよ?」

 閉店時間の間際まで飲み続けたのだから、いくら強くても酔うに決まっている。私は隣で呑みっぷりを見ていただけだが、それでも気持ち悪くなりそうな勢いだった。

「分かってるわよっ」

 酔っているせいで涙脆くなっているのか、しゃべりながらも友人は鼻をくすんくすんと鳴らしていた。

「歩ける?」

「歩けないー」

 そうだろうな、とちょっとため息をついて、どうにかこうにか店の外に連れ出した。その時、ちょうどいい具合にタクシーが通りがかり、手を上げて止める。

 友人を先に押し込めて、彼女が住まうアパートの所在地の辺りまで行ってもらえるよう、運転手さんに告げた。

 タクシーの中でも、友人はずっと泣き通し。一緒に乗っている私は、おかげさまでかなり気まずかった。

 泣き上戸だったっけ? 現実逃避のようにそんなことを考えつつも、合間合間に合槌を打って、どうにかやり過ごした。

「ほら、着いたよ。鍵は?」

 酔っ払いを半ば担ぐようにしながら階段を上るのは、かなりしんどかった。何とか友人の部屋の前までたどり着いて、鍵を出させる。四苦八苦しながらも部屋に運び込むことに成功し、私は大きく息をついた。

「ねぇー、みゆぅ」

「ん? 何?」

 ベッドに降ろしてから布団をかけたところで、友人が声をかけてくる。

 顔を上げて首を傾げると、友人は再び涙目になっていた。

「あたし、何がいけなかったのかなぁ……」

 酔っぱらっているせいで、とろんとした目。でもその奥にある色は真剣だった。

 何と答えたらいいか分からない。

 壁にかかっているコルクボードいっぱいいっぱいに、友人とその別れた彼氏のツーショット写真が貼ってあった。どの写真に写る彼女も、とても幸せそう。全開の笑みでカメラにピースマークを向けている。

 そして隣にいる『元』彼氏も、同じように笑っているのに。

 どこかで、ボタンを掛け違えてしまったのか。どこかで、擦れ違ってしまったのか。それはきっと、本人たちでさえ分からないかもしれないこと。

「何を間違えちゃったんだろ……」

 重く、暗い調子の呟きに声をかけようと思ったその時には、友人は眠りの世界に落ちていた。

 そんな彼女の布団をそっと直してから、「鍵はポストに入れておきます」とメモを残す。

 しっかりと戸締まりをして、メモに残した言葉通り、ポストへ鍵を放り込む。ポストがダイアルロック式で、他人が容易に開けられないようになっているのは知っていたから。

「彼氏、か……」

 私は男女別学の学校出身で、しかも中高は寮生活だったこともあり、ほとんど女子校と同じような環境で育った。ゆえに、極端に出会いが少なかったということもあり、一度も彼氏がいたことはない。

 でも、今日ヤケ酒をしていた友人も同じ学校の出だし、ちゃんと彼氏がいる子はいた。

 ただ単に興味がなかったことやタイミングを逃がし続けたことにより、今年で二十四歳になるというのに、『彼氏いない歴』とやらを順調に増やしている。

 恋愛的な意味で本気で誰かを好きになったことがまず一度もない。恋をしたくないとか、そういうわけでもないのだけれど。

 単純に、『恋』が何であるのかがよく分からないのかもしれない。

 だから、恋愛によってあれほどまでに傷つき、悲しむことのできる友人が、私には眩しかった。

 その時、車のヘッドライトが目を刺して、比喩ではない眩さに目を閉じる。

 車をやり過ごした後、周囲を何とはなしに見渡した。もうだいぶ遅いのに、街の明かりは消えることがない。人々がまだまだ活動を続けている証。

 その時、ふっと専務の顔が浮かんだ。なぜだろうと不思議に思ったけれど、すぐに納得する。

 朝、彼の顔色はいつもよくない。あれは夜によく眠れていないということであり、もしかすると根を詰めて作業を続けているかもしれないことを表している。いつ休んでいるのか疑問だった。

 あの人が心からの安息を得られる日は、あるのだろうか。

 そんなことを、ただぼんやりと思った。

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