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Blue Rose  作者: 汐月 羽琉
第一章 対面
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寂しげな瞳

 私の人生を左右する決断は、いつだって、私じゃない誰かがしてしまう。


 超高層ビルと呼ぶに相応しい荘厳な建物。目の眩むような高さである、最上階から数えて二番目のフロア。私はそこに立っていた。

 目の前には嫌味のない高級感が漂う、重たそうな扉がある。その扉に取り付けられた白いプレートには『専務室』と記されていた。

 たった三文字なのに、とてつもない存在感。どうにも動けなくてそれを眺めていると、私の頭はここに立つことになった経緯をぼんやりと再生し始める。

 ――伯父さま。今、何と……?

 ――お前を高谷商事の専務付き秘書へと推薦した、と言った。

 唐突に告げられたのは、三月の末のことだった。

 この国どころか、世界にまでもその名が轟いている巨大企業、村田コンツェルン。多数の傘下企業を抱え、その権力は財界どころか政界にまで及ぶという。

 親会社たる村田を頂点として百を超える傘下が存在するが、その中でも第一から第五までの序列がある。特に第一から第三までの傘下はほとんどが古参であり、数が限られていることもあって、第四・第五傘下と区別して『上位傘下』などと呼ばれていた。

 その『上位』であり、しかもたった三グループしかない第二傘下の一角を担う、高谷グループ。そしてその高谷グループの中でトップ企業に当たるのが、高谷商事だった。

 専務といえば、会社において社長や副社長の次に権力を持ち、経営に当たっている人だ。それだけでも充分な衝撃なのに、しかもそんな大企業の専務付き秘書に、私を推薦した?

 当然、俄かには信じられなかった。

 だって、私は。

 ――伯父さま。私はただの、一社員ですよ……?

 大学を卒業後、新卒として高谷商事に入社したけれど、そんなことができたのは伯父が高谷グループの代表と友人だった、というコネがあったからだ。

 そうでなかったら、あんな高い志望倍率の中、とてもではないが採用過程で生き残れた気がしない。

 しかも私は、別に高谷商事にどうしても入りたかったわけではなかった。採用されたくてたまらなかった人たちにとってみれば、きっとふざけるなと言いたくなるだろう思いだろうけれど。本音としては、もっと自分自身で考え、自分がやってみたいと思った仕事に就きたかった。

 だから、正直嫌な予感しかしなかったのである。もしかして、またか、と。

 ――お前が入社した時のコネクションを使っただけだ。

 返された言葉はなんとも予想通りで、笑いさえ込み上げてきそうになるほどだった。

 代議士である伯父は、周囲に存在する総ての(えにし)を、自分が更に上へ伸し上がるための糧としている。

 私も、そのひとつの駒なのだ。

 村田コンツェルンとのパイプをもっと太くすることは、伯父にとって何よりも重要なことなのだろう。

「……よし」

 小さく口にして気合いを入れ直してから、重厚な扉をもう一度だけ睨みつける。

 もうそろそろ、時間だ。挨拶をする覚悟を決めなければならない。

 この扉の向こうには、もうすでに専務が待っている。数えるほどしか会ったことのない、この会社を動かす重要人物が。

 『会った』といっても、正確には姿を見かけたというぐらいだ。多分、上層部でもなければ、この会社のほとんどの人間が私と同じようなものだろう。

 しかし、その姿を一度でも目にした人間は、彼を決して忘れられないと思う。

 緩くパーマがかかったミルクティー色の髪。彫りが深くて、外国の彫刻のような顔。ここまでなら少し不真面目そうな印象を与えがちだが、その横顔はいつでも真剣だった。そして、決して背が高いわけではないけれど、いつでも背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿をしている。そういう彼は、どこにいてもとてもよく目立った。

 いざ。

 手に微妙に汗を掻いているのを感じつつも、ようやく私は扉をノックした。

「はい」

 途端、柔らかなテノールが返ってくる。

 こんな声をしているんだ。そう思ったら、ますます緊張感が高まって心臓が跳ねた。

「し、失礼いたしますっ……秘書課におります、白坂(しらさか)みゆ、と申す者ですが……!」

 そのせいで声が裏返り、かなり恥ずかしい。

「ああ、聞いてるよ。入って」

 でも、返ってきた声はとても冷静だった。私のそんな声の調子なんてまるで関係ないとでも言うかのように。

 大丈夫。別に取って食われやしないんだから。

 もう一度覚悟を決めて、ドアノブに手をかける。

「失礼いたします」

 言いながら入室して、深く一礼した。

「改めまして、初めまして。白坂みゆと申します。本日より秘書として務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 何度も頭の中でシミュレーションしていた言葉は、淀みなく発することができた。おかげで少し緊張が緩む。

「いいよ、そんな固くならなくて。顔上げて?」

 相変わらず冷静で、だけど柔らかい声。それに従って顔を上げる。

 その瞬間、私は息を呑んだ。

 遠目から眺めていたのと寸分違わぬ、いやむしろもっと凛とした雰囲気を醸し出しているその姿。

 こうして正面から向き合うと、初めて瞳の色までを正確に知ることができた。色素が薄いのか、明るい茶色をしている。大きな窓から射し込む光を反射していて、とても美しい。

 私はその目に視線が吸い寄せられ、逸らすことができなかった。

 まだ、かなり若い。今年で二十六歳だということであるし、実際若いのだが、それを差し引いても年より若く見える。

 この人が、専務。

 グループ全体の統率に回っているらしく、社長である代表や副社長である次期代表は、滅多に会社へ出勤することはない。

 そんな風に多忙を極めるお父さまとお兄さまに代わるようにして、この会社の経営に関して、実質ほぼ総てのことを一手に引き受けているらしい。

 どこから聞いたのかも分からない情報が、瞬時に頭の中を駆け抜けた。でも今は、そんなこと本当はどうでもよくて。

 私が息を呑み、惹きつけられたのは――彼の瞳だった。

 この人の目は、寂しいと叫んでいる。

 思った瞬間、おこがましい、と血の気が引いた。何も分かりはしないくせに、どうしてそう思ったのだろう。自分自身が一番理解できなかった。

 だが、専務の声が思考から私を引き戻す。

「『白坂みゆ』……正確には初めてじゃないよね? 廊下で何度か擦れ違った」

 覚えていてくださった?

 目を見開きながら、勢いよく顔を上げる。その時になって、初めて真正面から専務の表情を捉えた。

 声とマッチした柔和な笑顔を浮かべていて、こちらの緊張をほぐそうとしてくれているのが感じられる。だけど、何かが違う。どこか違和感があった。

 じっと見つめる私の不躾な態度にも、専務は穏やかな笑みを崩さない。

 刹那の後、感じていた違和の正体が分かってしまった気がした。


 作り物なのだ。


 この笑顔は、彼の本心を覆い隠して繕う武装。そう感じてしまったが最後、また違った緊張が押し寄せてきて落ち着かなくなった。

「まぁ、座りなよー」

 私が何も言えないでいると、専務は応接用であると思われるソファに身を投げ出している。

「でも、そっかー、『みゆ』かぁ」

 呟く専務の口調がわずかに変化している気がした。少し怪訝にも思ったが、貰った言葉には素直に従うことにする。

 専務と向かい合うようにして座ると、柔らかな感触が私を受け止めてくれた。きっとこのソファは最高級品だ。どうでもいいことを考えることで、気を紛らわす。

「……ってことは。みゅーちゃん、だねぇ」

 けらけらと楽しそうに笑う目前の彼に、先ほどまでの厳粛な色の影はない。

 この人は、本当に先ほどまでの専務と同一人物だろうか? ギャップへの驚きは隠せなかった。

「え。みゅーちゃん、ですか……?」

 おかげで、妙な呼び名への反応がしばらく遅れてしまう始末である。

 別なことに気を取られていたせいでツッコミを入れることができなかったけれど、生まれてこの方、そのようなあだ名をつけられた覚えはなかった。自然と顔は引きつっていた。

「うん、そー。みゅーちゃん」

 私の思いを知ってか知らずか、専務はにっこりと笑みながら肯定する。

 それには何とも反応できずに困り、ただ苦笑いをしていると、ますます楽しそうに声を上げて笑っていた。

 ひとつ分かった。これはきっと、仕事用ではない場合の表情や口調なのだろう。多分、彼には仕事とプライベートで別な顔があるのだ。誰しもそうかもしれないけれど、割と極端な形で。

 一社員だったときには知らなかったことを、私はこれからこうして知っていくのだろうか。

「ま、さっそく仕事がたっぷりあるんだけど」

 ひとしきり笑ったと思ったら、口調と声質が微妙に変化する。

 立ち上がって移動していくその姿は私が今まで見てきた姿と相違なく、背筋がしっかり伸びている。つまり、仕事用に向かう態度へとまた切り替えたのだろう。スイッチのオンオフがきっちりしていて、そういうところはさすがだった。

 どっしりとした木造のデスクと、やはり高級品なのだろうと分かる回転椅子。そこに座って優雅に足を組んだ専務は、何枚かの書類を差し出してくる。

「悪いけど、この書類のコピー、頼んでもいいかな? 秘書課に顔を出してきた後でいいから」

 それとも、もう出してきた? と訊かれ、慌てて首を横に振った。

「いえ、まだこれからです」

「そう。僕のところに先に来てくれたんだ。ありがとう」

 それは秘書課の新しい上司にアドバイスをもらったからなのだが、お礼を言われれば素直に嬉しい。しかも同時に満面の笑みを向けられていれば、普通は喜びに満ち溢れるところなのに。

 私の心は裏腹で、とても悲しくなった。

 この人は、手放しで笑ったことがあるのだろうか。そんな失礼なことを思い浮かべてしまい、慌てて振り払う。

「では、行って参ります。すぐに戻りますが……」

「いいよ。別に、そんな急がなくても」

 笑みを向けられれば、やはりそのたびに悲しさが湧き続けた。胸の痛みを無視し、私は勢いよく一礼してからその場を去った。

 どうして、これほどまで彼の笑顔に心が揺さぶられるのだろう。

 分からないのに、悲しいのに、惹かれていく。寂しさが彩るあの瞳に、引き込まれる。

 寂しさに満ちていて、同時にまるで総てを拒んでいるかのようで。踏み込んでくるな、と、美しく透き通るあの薄い茶色がそんなふうに訴えていると思えて。

 まともに正面から向き合って話したのは初めてのくせに、こんなことを考えているなんて、どうかしている。

 分かっているのに、秘書課のスペースに向かって歩く間も、思考は止まらなかった。

「――ああ、白坂さん。聞いているよ」

 自己紹介をして頭を下げれば、課長だというその人は頷いた。

 社長秘書と副社長秘書のデスクは、やはり空席だった。恐らく今日も社長と副社長は外を回っているのだろう。秘書の方々も同行しているに違いなかった。

 私が見ていたことに気づいたのか、課長もそちらに目を遣りつつ「ああ」と声を上げる。

「社長と副社長の秘書は、お二人と一緒に行動していらっしゃるから。それに、一応デスクはあるけど、ここには実際は所属してないし」

 グループ全体の統括業務に当たっていることが多いため、高谷商事ではなく、代表と副代表の下に直接所属している形になるのだろう。

 コンツェルン、ひいては高谷グループのスケールの大きさを物語っている。思わず感嘆の吐息が飛び出してしまうほどだ。

「まあ、君も多分、ほとんど専務と行動を共にすることになるだろうと思うよ。専務室には秘書のデスクもあるしね」

 さっきは、緊張していたり専務の変化に驚いていたりという状態でしっかり確かめられなかったけれど、そうだったのか。

「でも、これからよろしくね」

 笑顔を向けられ、私も微笑みを返した。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 頭を下げると、課長の笑みがますます深まったのが視界の端に映って、ようやく先ほどから張り続けていた気が少し緩んだ気がした。

「とりあえず、さ。白坂さん」

 他のメンバーにも挨拶を一通り済ませ、書類を抱えて再び専務室に戻ろうとしていた時、課長が声をかけてくる。

 振り返って首を傾げると、課長はなんとも言い難い複雑な表情をしていた。

「専務、けっこう気難しい人だから頑張って。人当たりはそこそこいいんだけどさ」

 目を瞬かせていたら、そんな言葉を落とされる。

 気難しい……?

 少し会話しただけでは全くそういう部分を感じることはできなかったため、きょとんとしてしまった。しかも、思わずまじまじと課長の顔を見る始末である。

 私のそんな反応が予測できていたのか、課長は面白そうにけらけらと笑っていた。

「専務が今の職に就任なさったのは、彼が二十四歳の時だよ」

 今の私と同い年の頃、つまり、二年前に彼は専務となったのだ。いくら親族経営とはいえ驚くが、専務がどれだけ優秀であるのかの表れなのだろう。

「その間、一人も秘書がついていらっしゃらなかったと思う?」

 だから、それはそうなのだ。専務という、重要かつ仕事量が半端なものではない役職の人物に、秘書がついていないはずがない。

「……もしかして」

 そこまで聞けば、大方の察しはつく。

「そう、多分大正解。二年前から今まで、三人くらい秘書がついたんだ。でも、全員が専務からペケが出た」

 先ほどまでの専務の様子。周囲からいつも聞かされていた評価。そして私の抱いていた印象。それらを総合すれば、見えてくるものがある。

「……課長からご覧になって、専務のご判断は正しかったのですか?」

 客観的な第三者の視点から見て、その選択は間違いだったのか。専務は、それほど利己的な人間だろうか?

「ん? まあ……正しかったんじゃないかな。専務、それでもだいぶ長い目で見ていらっしゃったからね。それなのに結局駄目だった、ってこと。専務の秘書としては使えない、って」

 それを聞いて、一安心する。

「それなら、辞めろと言われた時は私の落ち度ですよ。専務が気難しいとかではなくて」

 言った途端、課長は大きく目を見張って、直後豪快に笑った。

「あはは、強いねぇ」

 そう評価してもらえるような発言だっただろうか。訝しむ思いが顔に出ていたようで、上司たる人は更にくすくすと笑っている。

「俺から見れば、彼らは充分に頑張っていたよ。充分すぎるぐらいにね。きっとあの人の秘書でさえなければ、かなりの評価を貰えたかもしれない」

 ひとしきり笑った後、どうして『強い』と評したのか、訳を話し始めてくれた。向かう先がよく分からず、ただじっと耳を傾ける。

「あの方はね、かなり優秀な人だよ。驚くぐらいにね。そういう自分の基準で周囲を見てしまう癖があるんじゃないかな。だからその分、凡人はね追いつけない。だから彼にとっては『使えない』ってことになってしまうんだ」

 なるほど、と合点がいく。

 だから、「専務の秘書としては」という言い方だったのか。

「……専務についていけるように頑張ります」

 少し不安が湧くけれど、そうとしか言いようがなかった。

「無理しすぎないこと。何かあったら相談して。力になるから」

 頷きつつもそう言ってくれる課長の気遣いに一礼して、必要な書類やパソコンの入った鞄を抱えながら、私は秘書課から出た。

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