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紙士養成学校の日常6~闇の小馬・後編~

作者: 工藤 湧

 

 その火事は十二月二十二日木曜日の未明、午前三時半頃に突如として起こった。現場は飛鳥田県戸畑とはた駅に程近い、住宅地の一角に建つ二階建ての木造アパート。その一室より何の前触れもなく出火したのである。炎は瞬く間にアパートを覆い尽くし、住民は寝間着姿のまま泡食って真冬の凍れる空の下に逃げ出すはめとなった。

 通報を受けて間もなく現場へ消防車がーー作業に動力や電源を要する車両は馬車ではなく、ガソリン車だーー到着、消火作業が始まった。しかし僅か一時間足らずでアパートはほぼ全焼。日の出前で空は暗かったが多数の野次馬が駆けつけ、辺りは騒然とした雰囲気に包まれた。

 完全に鎮火したのは日も昇った午前八時過ぎのことだった。幸い作業が手早く行われたため近隣への類焼は避けられ、死傷者も出なかった。直ぐに消防や警察の現場検証が始まり、火元が判明した。二階の西端の一室だったが、出火当時住民は不在で、寝煙草等の火の不始末が原因ではないことが判明。しかし火の手は何故か室内から上がっている。では電気系統がショートでもしたのか……と、消防が考え始めた頃、隣室の住民の意外な証言がとれた。

 その住民の話によるとーー火事が起きる少し前、三時十五分か二十分頃のことだ。ガチャーンというガラスの割れるような音が隣から聞こえてきて、目が覚めた。泥棒でも入ったかと思って外へ出てたら、隣室の玄関ドアの横の窓に穴が開いている。そこで割れた所から中を覗きこもうとしたのだがーー

「何か鳥みたいなものが、突然中から飛び出してきたんですよ。一瞬のことですし辺りは暗かったので、どんな鳥かはよくわかりません。でもその直後室内から火の手が上がったんです!」

 まさかその鳥が……消防も警察も耳を疑った。だが出火元の部屋の住民が誰であるかが判明した時、その理由を含めてある「推測」が立ったのである。


 戸畑市の火災発生から三時間ほどが経過した、午前六時半頃。開店前の田原不動産の店内には二人の男性がいた。申蔵と辰也の親子だ。

「上手くいったようだな」

 社長席の申蔵が配達されたばかりの新聞に目を通しながら尋ねると、正面に立つ辰也は頷いた。

「ああ親父。これで亥之介の所にあった物は全て焼失したはずだ。それにしてもとんだ遠出になったな。亥之介の奴、戸畑なんて遠くに住む必要ないだろう。勤め先は州都市内の郵便局なんだからな」

「高卒であいつが最初の二年間勤務したのが戸畑局だったんでな。あそこに生活基盤があったんだ。ま、電車を使えば一時間足らずで通勤できるから、引っ越す気にもなれなかったんだろう。俺の補佐をしてもらうようになったら、この近くに来させるつもりだったがーー」

 それも今では叶わなくなったと申蔵は新聞を卓上に置いた。亥之介は鏑木が仕掛けた罠にまんまとはまり、昨日逮捕されて阿倍野署へ連行された。今日にでも亥之介の自宅に家宅捜索が入るはずだ。黒駒三兄弟に関わる物証が警察に押収されては面倒なことになる。そこで証拠隠滅を図り、亥之介が住むアパートに火を放ったのである。辰也が折った折妖鳥を部屋に侵入させ、マッチで家財に火をつけて。

「辰也、その折妖鳥はどうした?」

「折解きをして、妖紙はちゃんと燃やした。あんなクズ折妖、少しも惜しくはないし、放火の証拠品を手元に残しておくのはまずいからな。ところでーー」

 辰也は一歩足を大きく踏み出すと、ずいと顔を申蔵へ寄せた。

「本当に鏑木をる気なのか、親父」

「本当だ」

 申蔵は瞬きもせず息子をじっと見返した。

「お前が作った取って置きの折妖ーー剣歯虎けんしこを使って殺る。亥之介がサツに捕まったのはあいつのせいだ。このままじゃ俺の腹の虫が収まらん。それにあの野郎のおかげで、俺は親父から散々な目に遭ったんだからな」

午郎ごろう祖父さんにか……。そんなにコルトに欲しかったのか」

「そうだ。そのせいで俺はいつも出来損ないと罵られていた。今思い出しただけでもムカムカする。くそっ!」

 恨み骨髄に徹すと言わんばかりに申蔵は吐き捨てた。そして一回大きく息を吸い込んで気を落ち着かせた後、社長席の引き出しを開け、一枚の封筒を取り出した。

「辰也。これを持って今すぐベイアードへ飛べ」

 差し出された封筒を受け取り、中を改めた途端、辰也はあっと驚愕の声を上げた。入っていたのは三枚の小切手とカジノ場での偽造支払い証明だったからだ。小馬の紙解きを依頼した「相手」から送られたものだった。

「でも親父、一体何故ーー」

「辰也。サツを甘く見るな。いくら俺達が亥之介の所の証拠を消し、たとえあいつが口を割らなくても、奴らは早晩ここを嗅ぎつけてくる。亥之介と寅次がしくじって焼鳥屋で折妖猫を見られてことを忘れたのか」

「忘れるわけがないだろう。あの二人が俺達が留守の間に、余計なことをしなければーー」

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、辰也はふんと呟いた。

「そうだ。あの『おっさん』の話によれば、亥之介がサツに逮捕されたのも、どうもそれが一因らしい。そもそも亥之介の家を焼いたのも時間稼ぎが目的だ。ここが発覚するのを遅らせるために。わかるな」

「わかっている。亥之介の家を調べれば、ここが本拠地であることは警察にすぐに知れるからな」

「そういうことだ。それに黒駒三兄弟は、お前一人が生き残れば何とかなる。昨日は寅次がいたからお前にコルトを二人育てろ……何て言ったが、俺はお前さえいればいいと思っている」

「何だって? 俺一人が?」

「ああ。辰也、これから俺が言うことを良く聞け。ベイアードでその小切手を換金しろ。ベイアードで発行された小切手なら、国内で換金する分には目立たないからな。ただし、それは金を握らせて現地の人間にやらせろ。和州人は目に付きやすいから、お前がやれば足が付く。そして金が手に入ったら、『例の場所』で三日待て。もしそれまでに俺から連絡がなければーー」

 一呼吸置いて申蔵は言った。自分は死んだと思い、国境を越えて隣国へ入り、一旦姿をくらませと。換金した金は今後の活動資金にするように……と。そして染士の女性と結婚して子供を儲け、その子らに紙士術を伝授して新たな黒駒三兄弟の祖とするようにとも。

「黒駒三兄弟の始祖である三人も、血の繋がった兄弟だった。お前には手間と苦労かけさせることになるが、もう一度最初からやり直せ。漉士術と折士術はお前が子供達に教え、染士術は女房に教えさせろ。いいな」

「……わかった」

「これが俺がお前にしてやれる最後のことだ。達者で暮らせ、辰也」

「親父……」

 これが今生の別れになるかも知れないと思ったのだろう。辰也の目には光るものがあった。

「そんな顔をするな。俺は育ての親から殆ど情をかけられなかった。俺の親父は俺を漉士にすることしか考えていなかったからな。だからそれなりにお前に愛情を注いだつもりだったが……。ま、俺も不器用だからな」

「そんなことはない、親父。俺は親父に育ててもらって本当に良かったと思っている。感謝しているよ」

「そのお前の言葉が最高の親孝行だ。時間があまりない。ぐずぐずしていると寅次が出勤してくる。あいつに今の話を知られたら面倒だ。早く出国の準備をしろ!」

「でもその寅次はどうするつもりだ?」

 長兄らしく「弟」の身を多少なりにも案じた辰也だったが、申蔵はへっとせせら笑った。

「あの役立たずには最後に一仕事してもらう。お前を逃がす時間稼ぎをしてもらうためにな。あいつにはお前が泊付きで物件を見に行ったと言っておく」

「だがもしあいつが警察に捕まりでもしたら、どうするつもりだ? それに例の女のこともーー」

「案ずるな。お前が新たな黒駒三兄弟を育てれば済むことだ。それに寅次はベイアードでの一件は何一つ知っちゃいない。奴の口からは俺達の最後の大仕事については、何一つ出てこないからな。あとあの女は『おっさん』に捜すよう、昨日のうちに言ってある。さあ、行け!」

 はい、と力強く答えると、辰也は出国の準備をするため店の裏側へと消えた。その後ろ姿を見送ることなく、申蔵は煙管に火を着け、無言でふかし始めた。


 その日の午後一時過ぎ。ちょうど紙士養成学校本校で会議が始まろうとしていた頃、里中は福原の自宅を離れ、戸畑駅近くの繁華街へやってきていた。昔福原の妻が愛用していた買い物かごを手に、買い物へ出たのだ。

「ちょっとおばさん、本当に大丈夫なの? こんな町中に出てきて」

 足下の地下に潜んでいる竃乙女ーーグリフィーナが不安そうに尋ねてきた。

「そんなこと言ったって、もう今夜の夕御飯のおかずがないのよ。私が来ちゃったもんだから、食べる物がなくなるのも早くってね」

 自分が追われる身であることは、里中も重々わかっていた。しかし福原が帰ってきても夕飯の支度が出来ていないのでは申し訳がない。そこでやむを得ず安全な家を出て乗合馬車バスに乗り、市内一の繁華街へ出てきたのである。何かあった時のために使うようにと、福原から手渡された金を持って。

 とは言うものの、実のところ久しぶりの買い物に里中は内心うきうきしていた。大丈夫、片岡達を殺した刺客は撒いた。警察官に会わないように気を使っていれば心配はない。それに竃乙女達も一緒にいるのだ。何かあったら彼女らが地下から守ってくれるーーと、里中はかなり楽観的だった。

 ーー教頭先生はふろふき大根がお好きだっていうから、まずは八百屋さんね。そこが済んだら次は……。

 などということを考えながら、里中は繁華街を歩き回った。初めて来る場所で土地勘は全くなかったが、特にこれといった問題も生じず、買い物は順調に進んだ。

 八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋と回り、粗方の買い物が終わった午後二時半頃のことだった。繁華街から二百メートルほど離れた一角に何やら人集りが出来ていることに、里中は気付いた。

「あれ、何かしら?」

 満杯になった買い物かごを下げ、里中が人集りの方へ行ってみると、そこには焼け焦げて柱と梁だけになった建物があった。

「まあ……火事ね。怖いこと」

 人混みの隙間から里中はそっと顔を覗かせた。現場周辺には規制線が張られ、まさに現場検証の真っ最中。ところが近くに停められていた警邏馬車パトカーを目にし、里中は慌ててその場を離れた。

 しかしその不信な動きが、かえって相手の目を引いてしまったようだ。三十代くらいの私服警察官が里中に気付いた。警察官は素早く懐に手を突っ込んで何かーー写真を一枚取り出すとちらりと見た。そして写真を直ぐに戻して現場から離れ、彼女の後を追い始めた。

「ファリネ、ついてくるわよ」

「うん、わかっている」

 里中の足下に潜む竃乙女達は即座に異常事態を察し、ひそひそ声で話し合った。私服警察官が里中を尾行している。だが当の里中はといえば呑気なもので、全く感づいていない。

「ここは私に任せて。ファリネはおばさんについて守ってあげて」

「オッケー。気を付けてね、グリナ」

 里中の足下から小さな影が一つ、すーっと離れていったかと思うと、私服警察官の背後へ回った。そして警察官が繁華街にさしかかった次の瞬間ーー

「パパァ! おもちゃ買ってー!」

 突然幼子の声が辺り一面に響き渡った。見れば四、五歳くらいの女の子が私服警察官の裾を引っ張り、だだをこねているではないか。長い黒髪に青い瞳。薄緑色のワンピースを着た、ハーフにも見える人形のように可愛らしい子だ。だがその声たるや、とても子供のものとは思えない。拡声器の声顔負けの大音量なのである。

「だ、誰だお前は! 俺はお前のパパなんかじゃないぞ!」

 驚き、慌てふためいた私服警察官は、その小さな手を振り払おうとした。しかし幼子はぎゅっと手を握りしめ、裾を離そうとはしない。

「買って買ってー! おもちゃ買ってー!」

 あまりの騒々しさに繁華街にいた通行人は次々と足を止め、この「親子」に視線を向けた。呆れた顔、びっくりした顔、笑い顔。様々な表情を浮かべた人々が、二人をじっと見詰めている。あまりの恥ずかしさに顔を赤らめ、私服警察官は乱暴に女の子の手を掴んだ。

「こらっ! 黙らんか! 俺はお前のパパじゃーー」

 ところが私服警察官が怒鳴った途端、女の子はあーんあーんと声を上げて泣き出した。これまた耳を塞ぎたくなるような大声だ。この有様に周囲にいた人は皆顔をしかめた。

「おい、おっさん。ガキが泣いているぞ。何とかしろよ。うるさくてたまらん」

「子供が可愛そうじゃない。そんな乱暴なことするから泣いちゃったのよ」

 周りからは非難轟々、私服警察官はおろおろするばかり。見ず知らずの子供にまとわりつかれ、挙げ句の果てに泣かれてしまったのだから。

 手を離すと、女の子は声を出すことは止めたが、まだべそをかいている。それを見て周囲から人の姿がようやく消え始めた。そして辺りがいつもの繁華街の様相を取り戻した頃ーー女の子の姿は忽然と消え失せた。

「な、何だ? あの子何処に行きやがった……あ!」

 私服警察官は真っ青になった。追っていた女性の姿がもう何処にもない。完全に見失ってしまったのだ。

「わ、わ、しまった! せっかく見つけたのに……。ああ!」

 そしてその直後、彼はうっかり口を滑らせてしまった。女性の顔写真を自分に渡したある「大物人物」の役職を。彼の失言を近くの地下にいたグリフィーナが聞き逃すはずがなかった。

「ふふん、いいこと聞いちゃったー。直ぐに旦那様に報告よー」

 幼児変化へんげの特殊能力を解いて娘の姿へ戻ったグリフィーナは、にたっと笑うと急ぎ里中と番相手の許へと向かうのだった。


「さて、面倒なことになったな」

 同日の二十二日午後二時半過ぎ、紙士養成学校本校校長室。前橋は自席で腕を組んだままうーんと唸った。目の前の応接ソファーには福原、鏑木、武藤の役職教師三人がいる。

「取り調べが行われる前に塚田が自殺したとなると、警察も打つ手がないな。おまけに自宅まで今朝の火事で焼けたとなると……」

「塚田は黒駒三兄弟の一人である可能性が極めて高かったですからねえ……。それにしても駅前で起こった火災現場が、塚田の自宅だったなんて。偶然にしてはおかしいようにも思えますが」

 福原もそう言ったきり黙り込んでしまった。実は今朝の出勤時、戸畑駅近くで火災が発生し、現場から煙が高く上っているのが駅へ向かうバスの窓からも見えたのである。まさかその火事が今回の事件と関わっていたとは、福原はその時は夢にも思わなかった。

「偶然ではないように思えます」

 鏑木ははっきりとした口調で断言した。

「黒駒三兄弟の残るメンバーが証拠隠滅を図り、火を着けたように思えてなりません。口封じのために人を殺すような連中です。それぐらいのこと、平気でやってのけるでしょう」

 更に言えば、自分まで折妖を使って殺そうとしたーーという台詞を鏑木は飲み込んだ。鏑木が塚田を罠にはめたことを、申蔵は知っていると折妖サーベルタイガーは話していた。一体誰がそんな情報を申蔵に流したのか。やはり警察内部に内通者がいるのは間違いない。前橋が今日の「殺人未遂事件」を桐生署ではなく、妖魔局に直接報告したのは正解だったようだ。

「ところで校長先生」

 今度は武藤が前橋に話しかけた。

「今日のーー先程の折妖侵入の事件を聞いて、局長は何とおっしゃっていたんですか?」

「うむ、そのことなんだが」

 腕を解き、前橋は席から三人を見下ろした。

「明日、連中のアジトに乗り込むつもりらしい。局長が直々に選ばれた信頼のおける部下を動員するとのお話だ。無論、その場所への案内はあの折妖サーベルタイガーにやってもらう。頼んだぞ、鏑木君」

「承知しました。私も申蔵に会って直に話がしたい。どうも引っかかっるんです。塚田をはめたぐらいで、本当に私を殺そうとするのか」

「成程。そう言えば局長はこうもおっしゃっていたな。妖魔局以外から、強力な助っ人を一人派遣すると。絶対に裏切ることはない、紙士警察官だということだが……はてさて、誰のことやら」

 前橋は苦笑した。局長は時々こんな「仕掛け」をし、他人をびっくりさせて楽しむくせがあるのだ。問題の助っ人は前橋達にとって意外な人物であることは間違いなさそうだった。

「それで校長、『ガサ入れ』は何時頃にーー」

 と、鏑木が尋ねようとした時、前橋の席の電話が鳴った。前橋は即座に受話器を取ったが、交換手の声を聞いて思わず相好を崩した。

「福原君。娘御から電話だ」

「はい、娘……ですか?」

 福原は一瞬納得がいかないような表情を見せた。娘、即ち竃乙女達は電話のかけ方など知らない。と、すれば里中が代わりにかけたのだろうが、わざわざ電話までよこして何を自分に話そうとしているのか、見当もつかなかったのである。

 何はともあれ、福原は前橋から受話器を受け取った。

「もしもし……おや、グリナか。どうしたのかね? ん……?」

 しばらく相手ーーグリフィーナの話を黙って聞いていた福原だったが、その顔からさっと血の気が引いた。

「今、家の外にいるのか。え、駅前だって! 里中さんも一緒? 何でそんな危ない真似を……何?」

 再び福原は口を閉ざした。どうも思っていた以上に重い話のようだ。

「わかった。とにかく、直ぐに家に戻りなさい。気を付けて帰るんだよ」

 そう伝えると福原は受話器を置いた。ふうと一息付き、ソファーへ戻って福原は言った。

「里中さんが戸畑駅前まで買い物に出て、警察官に尾行されそうになったとのことです」

「何と、外へ出たのか! それで大丈夫だったのか?」

 前橋が身を乗り出すと、福原はこくりと頷いた。

「娘達が気付き、グリナがその警察官にまとわりついて足止めしたそうです。その隙にファリネと里中さんは逃げることが出来ました。それで駅前の公衆電話からここへ電話してきたというわけです」

「そうか……。それは何よりだ」

 前橋のみならず鏑木も武藤も胸をなで下ろした。もし尾行されて福原の自宅にいることが知れたら、黒駒三兄弟の魔の手が迫る危険性がある。夜間にでも襲われようものなら、福原や竃乙女達までも巻き込まれるかも知れない。

「しかしこれで里中さんが戸畑市内にいることが相手にわかってしまいましたね。大丈夫でしょうか」

 武藤が不安げに尋ねると、福原は落ち着いて答えた。

「まあ我が家は郊外の目立たない所にあるから、そう簡単に突き止められはしないと思うけどね。あと校長、娘が重要なことを話していました」

「重要なことだと?」

 真剣な眼差しで自分を見詰める福原に、前橋は息をのんだ。

「はい。里中さんを見失った警察官が言っていたそうです。『せっかく見つけたのに、刑事部長に申し訳ない』と……」


 翌二十三日金曜日の午前八時半過ぎ。登校し、校舎三階の自分の教室にやってきた鳳太は、些かがっかりした。鏑木が一昨日に続き、今日も受け持ちの講義を休むことがわかったからだ。昨日もらった「愛妻弁当」の礼を言い、鏑木に弁当箱を返そうと思っていたのだが、どうも無理のようだった。

 ーーカブさん、今日も休みかよ。ここのところバタバタしているみたいだけど、何かあったのか?

 校内が妙な緊張感に包まれているように、鳳太は思えてならなかった。昨日あった折妖サーベルタイガー侵入事件も、今日には全学生の知るところとなった。直接侵入者を「退治」した鳳太と凰香もあれこれと同級生に訊かれたが、詳しいことは何一つ知らない。何故折妖サーベルタイガーが校内に忍び込んだのか、鏑木が折妖馴らしをかけた後どうなったのか……など。恐らく鳳太達が立ち去った後、学生に知られてはまずいようなことが起きたのだろう。

 やがて講義開始時間の八時四十五分になり、鏑木に代わって一時限目を担当する鈴木が教室に入ってきた。好奇心旺盛な二、三人の学生が昨日の事件について尋ねてきたが、鈴木は「詳細は後ほど学校の方からある」と手短に答え、強引にこの話題を打ち切ってしまった。

 ーーやっぱり何かあったんだよな。あの折妖野郎、カブさん達がいた会議室に真っ直ぐ向かっていたな。ってことは、盗み目的じゃない。あそこにいた誰かに用があったってことか?

 鳳太は講義そっちのけで考えた。ではあのメンバーの誰にどんな用があったのか。口から突き出ていた、あの見るからに残忍そうな鋭い牙。あんな物で噛まれたら人間などいちころだ。どう見ても他者に危害を加えるのが目的で作られた折妖である。

 ーーきっと会議室にいた誰かを襲おうとして、あの野郎はやってきたんだ。でもそれって誰だ? いや、全員が標的ってこともあり得るよな。それに第一、何処の誰がそんな物騒なこと、しようと企んだんだよ!

 謎が謎を呼び、鳳太の頭の中は混乱してきた。しかし自分ですらこんなに悩んでいるのだから、察しのいい凰香もきっと同様の疑問を抱いているに違いない。ただ今朝寮食堂で会った時は、凰香は昨日の事件については何も触れなかった。「約束はちゃんと守るから、講義が終わったら体育館の裏に来て」とは言ってはいたが。

 全く講義に身が入らないまま一時限目、二時限目と終わり、その日の授業は終了。鳳太は凰香に言われたように体育館の裏へやって来た。「約束」とは昨日事件のせいで渡しそびれた食事代をくれるということなのだろう。

 約束通り、凰香はちゃんと指定した場所で待っていた。ところがいざ凰香が蝦蟇口を鞄から取り出そうとした時、またしても「邪魔」が入った。ただし今度は侵入者ではない。教師二人だ。四十代ぐらいの眼鏡をかけた背の高い男性と、まだ若いが小柄で機敏そうな男性。漉士クラスのベテラン教師の永井と、若手教師の長谷部忠正はせべただまさだった。

 いくら兄妹とはいえ、金を渡す現場を教師に見られるのはまずかろう。二人は急いで体育館の中に駆け上がり、資材の陰へ隠れた。幸い教師二人は兄妹の存在に気付いていないようで、体育館の裏側をのんびり歩きながら話し込んでいる。

「しかし参りましたね。主任はいつになったらベイアードから戻られるんですか?」

 長谷部が眉間にしわを寄せて問いかけると、永井も口をへの字に曲げた。

「わからんなあ。校長も詳しいことは教えてくれないし……。年内一杯は俺達でどうにか凌げるが、年明けまで主任の出張が長引いたらまずいことになるぞ。早々に創立百周年記念式典もあるし、それが終われば次期入学試験が始まる。卒業試験の準備にも取りかからなきゃならないし……。主任は何の用でベイアードへ行ったんだ?」

 永井と長谷部は職員室ではこぼせないグチを、人目のないここで言いに来たようだ。教師らの会話を聞いて、鳳太は思った。彼らも藍沢の海外出張の実態を知らないのだと。鏑木もテツから話を聞くまでは同様だったように、前橋は部下にすら詳細を教えていなかったのである。

 ただ、藍沢がベイアードへ何をしに行ったのか、その真実を知る鳳太には前橋の行為が妥当なことであるように思えた。もし、小馬退治の手伝いに派遣されたなどと公表しようものなら、永井も長谷部も腰を抜かすどころでは済まないはずだ。また学生にまで話が広がれば、更なる動揺と混乱を引き起こしかねない。

 が、ここで予想外の出来事が起こった。教師二人の方に誰かが近付いてくる。黒ずくめのぼろ着を纏い、総髪に無精髭。鳳太にとって見覚えのある人物ーーあの退治屋のテツだった。

「よう、永井。隼人は出張から帰ってきたのか?」

 相も変わらぬ皮肉たっぷりの口調でテツは尋ねた。突然の「部外者」の登場に永井は一瞬呆然としたが、表情を一気に引き締めて答えた。

「いえ。まだ主任は帰られていません」

「ほー、まだ戻っていないのか」

 口ではほーなどと言ってはいたが、テツは少しも驚いているようには見えなかった。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたままだ。

「このまま帰ってこない方がいいんじゃないか? そうすれば永井、お前が主任教師に昇格だ。年齢四十二歳以上、教師歴七年以上、紙士免許十段以上。主任になれる条件をお前は満たしているんだろう?」

柵間さくま先輩!」

 余程頭に来たのか、永井の声と目に怒気が宿った。しかし目をつり上げたのは永井だけではなかった。怒りにまかせ、凰香が資材の陰から飛び出そうとしたのだ。慌てて鳳太が体を押さえ込んだので、相手に気付かれることはなかったが。

「永井、もっと自分に素直になれよ。隼人はこれ以上の出世を望んじゃいない。まだまだこの先も主任の座に居座るぞ。あいつがいる限り、本校じゃお前が主任になる日は来ないってことだ」

「いくらあなたとはいえ、それ以上言えばこちらとて黙っていませんよ! 自分は誉れ高き退治屋であった主任を尊敬しています。同じ退治屋でも悪い評判しか聞こえてこない、あなたとは違うんです!」

「ちっ、はっきり言ってくれるじゃねえか。可愛げのない奴だな。それなら鏑木と遊んでやるか。奴はまだ職員室にいるのか?」

「鏑木主任は年休をとられて今日はーー」

 むくれる永井に代わって長谷部が答えると、テツはふんと鼻を鳴らした。

「何だいないのか。ならここには用はないな。あばよ」

 高笑いしながらテツは立ち去ったが、永井の不愉快げな表情は収まらない。さっさとテツが消えた方とは逆方向に足早に去っていった。おろおろしながら長谷部が後を追う。

 やっと人影がなくなり、鳳太と凰香は体育館から出てきた。開口一番、凰香は溜まっていた物を一気に吐き出すように言った。

「お兄ちゃん! あの人、柵間哲雄てつおって人よ!」

「知っているのか、お前」

「退治屋の中じゃ超有名人よ! あんな酷いこと言うなんて、本当噂通りだわ!」

 凰香が言うにはーーテツこと柵間哲雄は和州では一、二を争う腕利きの退治屋だった。漉士としての実力は前橋に次ぐ二十段。折士とは組まずに常に単独で行動している。それだけ己の腕に自信があるのだ。しかも退治屋歴は三十年を越えるというのに、今まで稼業に支障をきたすような大怪我をした経験もない。

 だが彼が有名な理由はその腕だけではなかった。頻繁に違法行為すれすれの「裏技」を使ったり、依頼者と交わした契約事項を無視したり。更に彼の「悪名」を高めているのが、仕事の依頼料だった。相場以上のべらぼうな額を依頼者に請求することで有名なのだ。加えてひねくれ者で態度は横柄、特に自分より立場が弱い者を徹底的になじり倒す。おまけにーー

「あの人、藍沢先生とは物凄く仲が悪いのよ。先生の学生時代の同級生だけど、顔を合わせる度にもう喧嘩喧嘩だったんだって。しかも喧嘩をふっかけてくるのは、いつもあの人の方よ。先生が無視しようとしても、執拗に挑発してきたって話だわ」

「でもどうしてそんなに仲が悪いんだ」

「あの人の双子のお兄さんが先生のルームメイトで、先生ととっても仲が良かったんですって。それが面白くなかったってことらしいわ」

「そんな些細なことでか。ただの嫉妬じゃないか。あのチビ、人としての器も小さいんだな。偉そうな態度をとっているのによ」

 人を非難しつつも鳳太はふと思った。もし凰香に仲の良い「異性」が出来たら、冷静でいられるかと。しかし鳳太はテツのように嫉妬深くはない。相手が余程酷い男ではない限り、喧嘩など売らないだろう。

「あの野郎、とんでもない奴だな。やっぱりあの時一発かましてーー」

「え、あの時って?」

 凰香に突っ込まれ、鳳太はしまったと思ったが、既に手遅れ。鳳太を睨む凰香の目は厳しい。

「お兄ちゃん、前にあの人に会ったこと、あるの?」

「あ、ああ。あいつが図書室に来ていて……な」

「図書室? そう言えばお兄ちゃん、先週の土曜日、珍しく図書室に来たそうね。妖魔大系を見ていたみたいだけど、何調べていたの?」

「どうしてそれを……」

「学校司書のおばさんが話していたわよ。さてはお兄ちゃん、何か私に隠し事しているでしょう!」

 あのお喋りばばあが……などと鳳太が口走る前に、凰香は鳳太の頬を摘まんだ。生まれた時から常に一緒に暮らしてきた双子の兄だ。その癖を凰香は熟知している。その不審な態度から、兄が何か自分に知られたくはないことを隠しているのを、凰香は敏感に感知したのである。

「何を隠しているの、お兄ちゃん! 言わなきゃお金、あげないわよ!」

 凰香は指に力を込め、頬をひねり始めた。たまらず悲鳴を上げる鳳太。

「い、いてて! わかったわかった! 話すから勘弁してくれよ!」

 口が裂けても言えないと誓ったことを、頬をつねられただけで鳳太はあっさり白状する羽目となった。ようやく凰香は手を離し、鳳太はひりひりする頬をさすりつつ話し出した。

「いいか凰香。これはお前にとってかなりショッキングな話だぞ。心して聞けよ」

 仕方なく鳳太は先週の土曜日、十七日に校舎三階であった出来事について語った。藍沢がテツの「告白」により、ベイアードへ小馬退治の手伝いに行かされたこと。その理由は藍沢が退治屋だった頃、和州で小馬を駆除した実績があるからということ。図書室で自分が妖魔大系を見ていたのは、暗黒霧の小馬について調べるためだった……など。しかし鏑木の父親に関する話は、一切しなかった。漉士クラスの凰香には関心のないことであるし、話す必要もなかったからだ。

「そ、そんな……。先生が小馬の退治に……」

 鳳太が懸念していたとおり、凰香のショックは並大抵のものではなかった。それこそ頭をバットで殴られたような、強烈な一撃だったようだ。

「だから言っただろう。ショッキングな話だと。いいか、誰にも言うんじゃないぞ」

「言う訳ないでしょ! こんなこと、誰に話せるのよ! だからあの柵間って人が永井先生に言っていたのね。藍沢先生が帰ってこない方がいい云々なんて……」

 しかも藍沢がベイアードへの海外出張へ行く切っ掛けを作ったのは、こともあろうかあのテツなのだ。凰香にはそのことが許せなかった。

「おまけに先生が小馬を和州で漉いたって情報を、妖魔局に三百万円で売ったなんて……。いくら先生が嫌いだからって酷いわ! あんまりよ!」

「そのことはカブさんもえらく怒っていたな。あのテツって奴はお前のところの主任教師より紙士としての実力は上だ。だから奴のプライドが許さなかったんだろうな。それにしてもーー」

 俺もあいつを許せない……と、鳳太は心底思った。鏑木があの時流した涙を忘れたわけではなかったのだ。やはりあの野郎を一発かましてやらねばと考えた時、鳳太の脳裏にある考えが思い浮かんだ。目を潤ませてわななく妹の肩に手を置くと、鳳太は囁いた。

「凰香。今度あいつに会ったら一泡吹かせてやろう」

「え、でもどうやって? お兄ちゃんも見たでしょう。あの人、永井先生に対してですらあの調子なのよ。私達みたいな未熟者じゃ、馬鹿にされるのがおちよ」

「大丈夫だって。凰香、あいつ俺達とは違って四月入学だよな?」

「うん。入学直後、妖視能力取得訓練時から先生とは仲がーー」

「そうか。それならお前、こう言って自慢してやればいい。私の妖視能力はSSだってな」

 ひっくり返ってもテツが凰香に勝てないもの。それは妖視能力だった。紙士養成学校で妖視能力取得訓練を受けているということは、テツは鬼の眼持ちではない。SSは鬼の眼持ちにしか出現しないため、テツの妖視能力はどんなに良くてもS止まりなのだ。

「昨日の折妖サーベルタイガーだってお前だから見付けられた。あの野郎には見えないんだよ。それであいつの得意の鼻をへし折ってやれ」

「うん、わかったわ。ところで」

 涙を拭うと凰香は目尻をきっと上げた。

「お兄ちゃんが大事なことを教えてくれたから、私も教えるね。お兄ちゃんがその話を聞いた日、つまり先週の土曜日、私先生のお嬢さんに会ったの……」

 凰香は翠と会った時の出来事を鳳太に話した。翠が不吉な予感に駆られ、情報を聞き出そうと凰香に面会したこと。その後の藍沢の自宅での出来事も。

「翠さんも先生が昔、退治屋時代に危険な仕事を請け負ったんじゃないかって話していたわ。きっとそれが小馬の駆除だったのね。しかも十八年前に。あの本の貸出記録カードの日付からして、間違いないわ」

「俺もその貸出記録カードは見た。確かにあの教師の名前があったな。でもお前、何であの本ーー『あおの小馬退治録』なんて借りたんだ?」

「翠さん宛に送られてきた妖紙のリストに、小馬の物があったから。妖紙の行方が気になったのよ。結局、本の何処にも漉かれた妖紙がどうなったかは書いていなかったけど」

 凰香はふと、翠の父親の身を案じる顔を思い出した。藍沢が小馬退治の手伝い目的でベイアードへ渡航したなど、彼女にとてもではないが話せない。翠が前橋の自宅で何を教えられたのかは不明だが、黙っている方がいいに決まっている。これ以上翠の不安をあおることは避けたかったし、あの恐ろしく気の強い娘のことだ。真実を知ろうものなら、今度は前橋の家へ殴り込みに行きかねない。

「それでよ、凰香」

 鳳太の声で凰香は我へ返った。

「俺が流星号に使った妖紙と同じ組み合わせの物が、そのリストの中にあったんだろう? それって本当に偶然じゃないのか?」

「偶然なんかじゃない。だってその四つの妖紙には鉛筆でチェックが入っていたのよ。絶対関係があるわ」

「でもそのリストと路上で拾った妖紙が、どうやったら一本の線で繋がるんだろうなあ……」

「よくわからないわ。全てを知っているのはあの『お菓子をあげたおばさん』だけだし。そのおばさんが妖紙が他人に奪われたって言っているから、盗られた後で何かあったのかもね。……とにかく、今私が明かした話も全部他言無用よ」

「わかった。今ここで話したことは全て俺達兄妹だけの秘密だ」

 そう言ったものの、鳳太の心の底には疑問が淀みのように溜まり込んでいた。流星号に使ったあの赤い妖紙から犯罪の臭いがする。一度きりとはいえ、その凄まじい破壊力を以て木村の折妖ドラゴンを木っ端微塵に粉砕したのだ。要人暗殺にはもってこい……などと鏑木は呟いていたので、破壊行為目的で作られたような気はしたのではあるが……。

 赤い妖紙の出所の謎もわからない。昨日現れた折妖サーベルタイガーのその後に関することもわからない。何かわからないことだらけだよなーー鳳太は諦めに近い心境で空を見上げるしかなかった。


「本当にあそこがもぐり紙士のアジトなんでしょうか?」

 横に立つ私服警察官が首を傾げるのを見て、鏑木は睡眠状態になった折妖サーベルタイガーを懐から取り出した。

「間違いない。こいつがあそこだと言っていたんだからな」

「でもあそこ、不動産屋ですよ。そんなお堅い商売をする店がアジトとは……」

「奴らだってそう簡単には尻尾を出さない。一見しただけじゃわからないような商売にも就くさ。過去には国家公務員の役職がもぐりだったなんて事例もあるくらいだ」

「はあ……」

 二十三日午前十時前。笹原台駅前商店街の一角に建つ「田原不動産」の手前の路地裏から、鏑木と私服警察官ーー菊池良彦きくちよしひこは、店内の様子を窺っていた。菊池は妖魔局直属の警察官。国家公務員中級職採用の俗に言う「ノンキャリア組」だ。故にもう三十はとうに過ぎているが、階級は未だ巡査部長だった。

 妖魔局長の直々の命を受け、菊池は鏑木と待ち合わせるために今朝、紙士養成学校本校へやってきた。鏑木によって覚醒した折妖サーベルタイガーは穏形で姿を消し、二人をでアジトまで案内。折妖サーベルタイガーがもと来た道を辿る形をとったので、馬車くるまを使えず徒歩での移動となった。ただ幸いにも桐生が丘駅から二駅先の笹原台駅前に問題の場所があったため、大した時間もかからず到着したのである。

 アジトへ向かう途中、菊池は事前に阿倍野署の古賀から入手した、幾つかの情報を鏑木へ伝えた。昨日塚田の自宅が火災によって焼失し、予定していた家宅捜索が不可能になったという。この火災については不審な点があるため、所管の戸畑署で現在調査中とのことだ。

 また、塚田が所持していた折妖猫に関する情報もあった。折妖猫は鏑木がかけた折妖馴らしによって、重要な情報を古賀にもたらした。折妖猫の話により、塚田が「仲間」から亥之介と呼ばれていたことが判明。更に鳥勝に侵入した目的があの赤い妖紙であったこともわかった。亥之介の「兄」にあたる寅次が何枚かの妖紙を管理していたのだが、うっかり一枚カラスに盗まれたのだという。恐らくカラスがその妖紙を路上へ落としたのだろう。そこへたまたま通りかかった鳥勝の店長夫婦と孫が見付け、交番へ届けたというわけだ。

 以上のことにより、亥之介こと塚田が黒駒三兄弟の一人であることが確定的となった。ただ、折妖猫は塚田が独自に所持していた折妖。塚田の自宅の場所は知っていたが、仲間の溜まり場、即ち黒駒三兄弟の本拠地までは把握していなかった。よって阿倍野署は残りのメンバーの逮捕には至らなかったのだ。

「折妖サーベルタイガーの話によれば、残る黒駒三兄弟のメンバーは三人。詳細は話せませんが、彼らにはある重要な嫌疑がかかっています。塚田が死亡した今、何としても全員検挙しなければ」

 菊池はかなり気合いが入っているようだった。黒駒三兄弟にかかる嫌疑とは、ベイアードで紙解きされた小馬に関すること。彼らが関与した可能性があるのだが、鏑木はそのことを知らない。ベイアードで小馬が暴れ、甚大な被害がでていることは、テツから聞いている。しかしその小馬があの「リスト」にあった妖紙を、紙解きしたものであるという事実までは知らされていないのである。この件を紙士養成学校本校関係者で知っているのは、藍沢と前橋だけなのだから。

 鏑木は敢えて「嫌疑」について突っ込みは入れなかった。自分は関与無用と感じたからだ。

「さて……。とにかく、これで場所ははっきりしたな。あとはガサ入れするだけだろう? 連絡入れて捜査員を呼ぶのか?」

 鏑木が尋ねると、菊池は大きく頷いた。

「ええ。これから自分が連絡をします。少し時間を下さい」

「そう言えば妖魔局以外からも一人応援が入ると聞いたが、それは誰なんだ?」

「さあ……。そこまではちょっとわかりません。でも妖魔局うちの捜査員と一緒に待機しているはずです。では」

 そう言って菊池は鏑木の側から離れた。駅前まで行って、公衆電話で捜査員を現場へ呼び寄せるのだ。

 されど捜査員が待機しているのは妖魔局のはずだ。州都市のど真ん中にある官庁街の警察庁からこの市西部の笹原台駅周辺まで、パトカーを飛ばしても三十分程度かかる。容疑者三人を取り押さえるためには、少なくともその倍の人数は欲しいところだ。ガサ入れは人質を取られぬよう、店内に客がいない時を狙わねばならない。

 十分ほどして菊池は戻ってきた。捜査員が現場へ到着するまで待機するようにとの指示が出ているという。

「自分はもう少し現場の状態を確認してきます。裏口から逃げられては元も子もありませんから」

 容疑者の逃走を防ぐため、全ての出入り口には人を配置する必要がある。菊池は捜査員が来るまでにそのチェックを行うつもりのようだ。かくして鏑木はまた一人きりとなったが、菊池が離れて五分が経過した頃、田原不動産から一人の男性が出てきた。スーツ姿で二十代くらい、手には革の鞄を下げている。店は開店した直後で、まだ客は来店してはいない。ということは、あの男性は不動産店の関係者なのだ。

 ーーまずいな。あいつ、黒駒三兄弟の一人じゃないか? このままだと逃げられるぞ。

 菊池に知らせようにも、目が届く範囲には彼の姿はない。ここは自分が一民間人のふりをし、足止めするしかなさそうだーーそうとっさに判断し、鏑木はサングラスを外すとさりげなく男性に近付いていった。

「すいません、この近くに公衆電話はーー」

 鏑木の問いかけに男性は一瞬眉をぴくりと動かした。その顔は仏頂面で見るからに不機嫌そうだ。これから仕事に出ようというのに、邪魔をするなと言わんばかりの態度である。だが男性は無言で手招きすると、鏑木を少し離れた人気のない通りへ連れ込み、やっと口を開いた。

「公衆電話は駅の改札前まで行かないとねえよ。そんなことより貴様ーー」

 男性は鞄を開けつつ、鏑木を睨みつけた。

「紙士養成学校の鏑木だな! こんな所までのこのこ来やがって。何の用で来た!」

「俺のことを知っているのか。と、いうことはお前は寅次か辰也だな」

「何だと!」

 男性ーー寅次はそう叫ぶや否や、鞄の中から何か取り出した。相手が手にした物を見て鏑木は息をのんだ。カッターナイフだったのだ。

「鏑木! 貴様、どうして俺のことを知っている!」

「昨日うちの学校に俺目当てに珍しい客が来てな。そいつを手懐けたら、お前達のことを話してくれたというわけだ」

 精一杯平静さを装っていたが、鏑木は内心かなり焦っていた。厳つい体つきはしているものの、鏑木は格闘技はど素人。凶器を手に襲いかかられても身を守る術がない。とにかく、ここは菊池が来るまで時間稼ぎをしなければならない。鏑木は更に話し続けた。

「ついでに言えば不動産屋あそこもその客に案内してもらった。もう逃げようとしても無駄だぞ。お前が黒駒三兄弟の一人であることはわかっている。直に警察がここに来るから、覚悟をするんだな」

「何を言うか! 兄貴の折妖を手懐けただと! 貴様には弟が随分と『世話』になった。礼を言わせてもらうぜ」

 「兄貴」という台詞で、鏑木は相手が寅次であることを悟った。だがその寅次はカッターナイフの刃を指で押し出し、迫ってくる。まさか相手が凶器片手に向かってくるとは。鏑木にしてみれば想定外の事態だ。

 されど寅次にとっても、鏑木との遭遇は想定外の出来事であった。声をかけられた時点で無視をし、さっさと通り過ぎれば済むことだったのだ。ところが鏑木が目の前に現れたことで寅次は完全に逆上。冷静に対処できず、弟の「敵討ち」をすることしか頭にない状態に陥ってしまった。

 これは逃げないと危ない。鏑木が距離をとろうと一歩後退した時だった。鏑木の後方からトレンチコートを着た大男が、突如猛然とダッシュしてきたのだ。大男は鏑木を庇うように前へ出ると、手にした竹刀を振り上げ、一発寅次にお見舞いした。見事な「面」を食らった寅次は頭をさすり飛び退いた。

「畜生、いてえ……。貴様、何しやがる! 許さんぞ!」

「許さんだと? それはこっちの台詞だな」

 大男は竹刀をかまえると、鬼の如く形相で相手を見据えた。

「俺の恩師に刃を向けるとは……。貴様、ただでは済まさんぞ!」

 その後ろ姿に鏑木は呆気にとられた。この大男、よく知る人物だったのだ。が、今この場にいるはずがない人物でもある。どうしてこんな所に……と、鏑木が思っているうちに、大男は寅次に襲いかかった。どうしたことか寅次は大男の顔を見てやや戸惑ったような表情を見せたが、直ぐにカッターナイフを突き出して迎え撃った。

 ーーあーあ、寅次こいつ馬鹿だな。

 鏑木は二人の戦いを眺めながらつくづく思った。

 ーー剣道の有段者で、インターハイやら全国選手権やらで優勝経験もあるこの男に、カッターナイフ一本で立ち向かっても勝てるはずがないだろうが……。

 鏑木の予想通り、両者の戦いは一方的な展開となった。大男は刃を軽くかわしつつ、相手の体や頭に容赦なく竹刀を叩き込む。ものの一分も持たず寅次は凶器を落とし、路上に崩れ落ちた。

 大男が手錠をかけるのとほぼ同時に、別の男性二人が現れて寅次を立たせた。

「暴行容疑の現行犯で逮捕だ。しょっぴけ!」

「はい、墨田警部補!」

 男性二人ーー捜査員は声を揃えて返事をすると、ぐったりした寅次を引きずるように連れ去った。

「先生、お怪我は」

 捜査員の姿が見えなくなると、大男はすぐさま鏑木の許へ駆け寄った。

「ああ、大丈夫だ。少しひやっとしたがな。助かった」

 鏑木は大男ーーかつての教え子である墨田仁すみだひとしに笑顔で答えた。

「妖魔局外からの助っ人とはお前のことだったのか。成程、お前なら絶対に裏切らないな。しかし青波県警にいるはずのお前が、どうしてここに?」

 確かに墨田は卒業後青波県警察に採用され、県内の警察署に配属されたはず。その彼が何故州都市内のこの場にいるのか、鏑木には不思議でならなかった。

「そのことですがーー」

 墨田は沈鬱な面持ちで言った。

「先月、警視庁へ異動になりました」

「警視庁に……? 一体何故?」

「詳細は不明ですが、警視総監直々のご指名との噂もあります」

「そうか……。それで今は何処の配属になっている?」

「警備部警備課です」

「警備部警備課ということは……エスピーか! お前、対妖魔エスピーなのか!」

 はい、と墨田は小さく答えたが、その顔は決して誇らしげなものではなかった。そもそも墨田が出身県である青波県警察を希望したのは、家族の敵を捜すため。実家で家族を惨殺した憎い妖魔を討つのが目的だったのだ。それが都会のど真ん中にある警察庁の警備部に配置転換になってしまった。これでは目指す敵が見付かるはずがない。

 墨田は十四段折士、剣道の腕前もその世界では名を知らぬ者はいないほどの実力者だ。その能力を買われて警視庁へ異動になっても不思議ではない。しかし本人が望んでいるわけでもないのに、わざわざ「田舎」の県警察から引っ張り出すとは。噂通り警視総監の意思が働いているのなら、何らかの裏事情があるのかも知れなかったが、鏑木がその疑問を口に出すことはなかった。

「そういうことか。警察官になるように勧めたのは俺だ。まさかこんなことになっているとは。すまなかったな」

「いえ、先生には深く感謝しています。自分がここまでの折士になれたのは、先生のお力があってこそです」

「なに、お前に折士としての素質があったからだ。お前なら間違いなく俺以上の折士になれる。今後も精進して腕を磨けよ」

「有り難う御座います」

 そう言って一礼すると、墨田は表情を引き締めた。

「ここから先は我々警察官にお任せ下さい。家宅捜索では何が起こるかわかりませんので」

「これからガサ入れか。しかし、お前達随分と早くここに着いたな。菊池が連絡を入れてから十五分ぐらいしか経っていないんじゃないか?」

 そのことでしたらと墨田は種を明かした。妖魔局長は前橋の話から、犯人のアジトは紙士養成学校本校からさほど遠くない場所にあると判断。捜査員を二班に分け、学校を中心に南北の派出所に待機させた。そして連絡があると同時に現場へ向かい、近い場所に待機していた班、つまり墨田がいた班が先に到着したというわけである。

「もう一つの班も間もなく着くはずです。先生、ここは危険です。早く安全な場所へ」

「いや、その件なんだがな。俺は申蔵に直接会って訊きたいことがあるんだ。奴を確保したら、少し話をさせてくれないか」

「申蔵? 黒駒三兄弟の年長の男ですか?」

 と、墨田が尋ねた時、先程の捜査員の一人が息を切らして走り寄ってきた。

「墨田警部補、大変です! 犯人が人質をとって店内に立てこもりました!」

「何だと! 直ぐに行く!」

 墨田は懐へ手を突っ込んだ。所持している折妖を取り出し、覚醒させるつもりなのだろう。ところが捜査員の話はこれで終わりではなかった。

「あ、それがですね……。犯人は鏑木さんと話をさせろと要求しておりまして……」

「先生と? どういうことだ!」

 くってかかる墨田に捜査員は説明した。家宅捜索を行いに来た捜査員の気配を察知したのか、田原不動産の社長ーー申蔵が雇っている事務員の女性の鳩尾に肘鉄をお見舞いして気絶させ、人質にとった。そして女性の喉元にナイフを突きつけ、「こいつの命が惜しければ、紙士養成学校の鏑木をここへ呼んでこい! 話がある!」と、叫んだのだ。

「そうか。それは丁度よかった。俺も奴と話がしたい」

 鏑木は顔色一つ変えずにしらっと言ってのけたが、墨田はそれどころではなかった。

「そんな呑気なことをおっしゃっている場合ですか! 相手は凶器を持っているんですよ! 先生の御身にもしものことがあったらーー」

「大丈夫、心配するな。話が済んだら直ぐに出ていくから」

 引き留めようとする墨田を振りきり、鏑木は田原不動産の正面口から店内へ入った。店の奥、社長席に白髪混じりの男性ーー申蔵がどっかと腰を下ろしている。彼の右隣の席には、意識を失ってぐったりとしている中年女性。その喉元には申蔵が右手に握るナイフの刃がぴたりと当てられている。

 左手で煙管を持ち、ふーっと煙草の煙を一息吐くと、申蔵は静かに言った。

「随分と早い到着だな。ものの五分も経たないうちにここへ来るとは」

 申蔵は相手が直ぐ近くまで来ていることを知らなかったようで、鏑木をまじまじと見詰めた。

「お前の折妖を馴らしてここへ案内してもらった。残念だったな、俺を殺せなくて」

「そうか、剣歯虎はしくじったのか。昨日あいつは帰ってこなかったから、まだお前を始末せず学校あそこに待機でもしているのかと思っていたが、まさかお前の手に落ちたとはな。道理でサツが来るのが早いわけだ」

 鏑木が警察を手引きたと知っても別段腹を立てる様子も見せず、申蔵は淡々と話し続けた。

「さて、本題に移るか。お前をここに呼んだのはな……最後に一つ、面白い話をしてやろうと思ったからだ」

「面白い話……? 黒駒三兄弟に関する話か?」

 訝しげに尋ねる鏑木に、申蔵は初めて少し驚いたような表情を見せた。

「そうか、お前は俺達の正体をお見通しか。なら話は早い。俺に漉士術を仕込んだのは俺の親父ーー午郎だ。知っての通り、俺の本当の親父じゃない。育ての親だ。俺達は三十を過ぎると後継者となる孤児を探し始める。四十九年前、俺の親父もそうやって紙士として素質のある孤児を求めていた……」

 当時は戦争が終結した直後。父親が出征したまま戻らず、生活苦に陥る家庭も少なくなかった。その苦境故に母親や親類に捨てられて浮浪児になったり、施設に預けられる子供も数多くいた。黒駒三兄弟の「掟」では、身寄りのない子供の中から後継者を選ぶことになっている。つまりこの頃は、彼らにしてみれば候補者が「うようよ」いる時代だったのである。

 三十歳になった午郎は方々の孤児院を回ったり、路上にたむろする浮浪児に注意深く目をやった。しかし数だけはやたらと多いものの、「まあまあ」といった感じの子供はいても、「これだ!」という筋のいい子供は見付からない。そんなある日ーー

「親父は道端で兄姉と遊ぶ幼子を見かけた。一目見た途端、親父の体に衝撃が走った。これだ、この子だ。この子ならば自分の後継者に相応しい、辣腕紙士に育てられると。だがなーー」

 申蔵はニヤリと笑った。

「残念なことに、その子供には親がいた。俺達の掟では、親がいる子供は後継者にーーコルトには出来ん。しかし親父はその子が欲しくて欲しくてたまらなかった。喉から手が出るくらい、コルトに欲しかった……」

 何としてもあの子供を手に入れようと午郎は考えた。親を失い、引き取り手が見つからなければ子供は孤児になり、自分の物になる。そう、親さえいなくなればーー

「それには親を殺すのが一番手っ取り早い方法だったが、そんな無茶をすればサツに目を付けられる危険性がある。そこで親父は子供の親について色々と調べてみた。結果、面白いことがわかったわけだ」

 調べたことを元に午郎は悪知恵を働かせ、ある方法を思い付いた。親を殺さずに子供から長期間、場合によっては永遠に引き離す方法を。そしてすぐさま計画を実行、ことは上手く運んで親は子供の手の届かない場所へ無理矢理連れ去られてしまった。かくして狙った子供を身寄りのない孤児にする事に成功したかに見えたがーー

「ここで思わぬ邪魔が入った。孤児院に入る直前に、大陸から引き上げてきたその子供の伯父夫婦が、その子と兄姉を引き取るってしゃしゃり出てきたんだよ。こうして苦労は全て水泡に帰し、親父ははらわたが煮えくり返るような思いで断念した……」

 やむを得ず午郎はその子供が駄目だった時の「保険」として目を付けていた、当時六歳だった別の子供を孤児院から引き取り、コルトとした。その子こそ申蔵だったのだ。しかし申蔵は本当に自分が望んだコルトではない。午郎は申蔵に全く愛情を注がなかった。それどころか苦労が報われなかった腹いせに、苛立ちを容赦なくこの幼子にぶつけてきたのだ。

「親父はことある度に俺はなじり、殴った。お前なんかあの子供に比べればたかが知れている。あの子さえコルトに出来ていれば……とな。俺は親父が憎くてたまらなかった。あの子供をコルトに出来なかったばかりに酒を飲んでは暴れまくり、俺に当たり散らす親父がな!」

 申蔵はかっと目を見開き、鏑木を見据えた。

「だから俺があいつを殺してやった。漉士術さえマスターしちまえば、あんな奴には用はねえ。酒に毒を少しずつ混ぜ、徐々に弱らせてやった。そして俺が二十二歳の時、肝臓を煩ってくたばっちまったよ」

「お前そんなことを……」

 申蔵が育ての親を殺したという事実も鏑木にとっては驚きだったが、実はそれ以上の衝撃は既に受けていた。だが鏑木がそのことを問いただす前に、申蔵が先に喋り出した。

「鏑木、もうわかっただろう? 親父がコルトに欲した子供。それが四十九年前のてめえだ! 当時三歳だったてめえだよ!」

「では親父がベイアードへ連れ去られたのもーー」

「そうだ。親父がベイアード軍に垂れ込んで、情報提供したんだよ。紙士増員に貢献できる、いい人材がいるとな。てめえの伯父貴の帰国があと一ヶ月、いやあと半月遅れていたら、親父はてめえをコルトに出来ただろうよ。鏑木、てめえの親父がベイアードに連れ去られたのは、てめえのせいだ。てめえに紙士の素質があったばかりにな! 恨みたきゃ自分を恨みな!」

 申蔵の叫びを聞きながら、鏑木はショックでぼんやりする頭で思い出した。前橋は以前、鏑木の父親がベイアードに連れ去られたことについて、不審な点があると話していた。ベイアード軍の「振る舞い」を恐れ、学校側は鏑木の父親の能力を懸命に隠そうとしていたという。それにもかかわらず、何故ベイアード軍に発覚したのかと。だが午郎がまさか密告していたとは……。

 また昔、姉もこう言っていた。「伯父さん達が後もう少し引き上げてくるのが遅れていたら、私達孤児院に入って兄弟バラバラになっていたんですって」と。当時は終戦直後の混乱期で、子供三人を引き取って育てるような余裕は何処の家にもなかった。故に親戚縁者全員に子供の預かりを拒まれてしまい、鏑木の父親も断腸の思いで孤児院に入れる手続きをしていたのだ。そこへ兄夫婦が帰国し、ようやく父親も安堵できたのである。

 もし伯父の帰国が遅れていれば、どうなっていたか。午郎はまんまと自分を引き取って養子とし、コルトにしていたはず。当時の自分はまだ三歳、実の親兄弟の記憶もなく、善悪の区別もつかない。何も知らずに午郎の思い通りに育てられ、もぐり紙士という犯罪者に仕立てられていただろう。そのことを想像しただけで、鏑木の体に悪寒が走った。

「俺はな鏑木、てめえのことは親父から聞いていて昔から知っていた。てめえが折士となり、紙士養成学校の教師になったこともな。俺はいつも親父にてめえと比べられていた。俺にとっててめえは腹の立つ存在以外の何者でもなかったんだよ!」

「貴様、そんな腹いせで俺を殺そうと……。お前の親父は俺の親父や兄姉を酷い目に遭わせたんだぞ! そんなことがありながら何を!」

 鏑木は怒りで体を震わせて迫ったが、当の申蔵は全く動じることなく、ふてくされたままだった。

「安心しろ。お前を殺すのは諦めてやる。てめえのその顔を見られただけで十分だ。俺はその怒り憤慨し、地団駄踏んで悔しがる顔が見たくて、てめえをここに呼んだんだからな!」 

 さも楽しそうにひゃあひゃあと申蔵は大声で笑った。腹の底から嘲けり、馬鹿にするかのように。

「話はこれで終いだ。そら、こいつはくれてやる」

 申蔵はナイフを放り投げると、事務員の女性を前へ突き出した。女性が床に倒れ込む寸前で鏑木が受け止め、その体を抱き抱えた。

「墨田! 人質はこちらが無事保護した。捜査員を中へーー」

 その鏑木の叫びに申蔵は一瞬眉をひそめたが、直ぐに空いた右手を足下へ伸ばした。その相手の動きを目にし、鏑木の体に戦慄が走った。申蔵の足下に置かれた物。それは間違いなく一斗缶いっとかんーーストーブ用油を入れる容器だったからだ。

 蓋をとると、申蔵は力任せに一斗缶を蹴飛ばした。満杯に入っていた中身がこぼれて床を濡らし、油の臭いが室内に漂い始める。

「俺は自らの手で育ての親を殺した。だから自分自身の命も己の手でけりをつける。地獄の道連れになりたくなかったらとっとと失せるんだな」

 そう忠告して申蔵は左手の煙管を塗れた床の上に落とした。ぼっと音がして煙管の火は油に引火。床が見る間に炎に包まれる。

「せ、先生! 早く避難を!」

 血相変えて墨田が店内へ飛び込み、鏑木の肩を引いた。ところが墨田の姿を見た申蔵が思いもかけない言葉を発した。

「おい、そこの若いの。お前が墨田か? もしそうならお前の祖父さんの名前は、智明ともあきか?」

「な、何故それを……」

 呆然とする墨田を見て、申蔵はわずかに口元をほころばせた。

「成程、やはりそういうことか。道理で辰也と面立ちが似ているわけだ」

「墨田と辰也が顔が似ているだと? おい貴様、一体それはどういうことーー」

 だが鏑木の問いかけが申蔵の耳へ届くことはなかった。一気に勢いを増した炎に遮られ、申蔵の姿は見えなくなってしまったからだ。もう一刻の猶予も許されない。鏑木は女性を抱え、墨田と共に店外へ脱出した。

「急ぎ消防車を呼べ! 被疑者が油をまき、火を放った。火の回り方が早い。ぐずぐずしていると隣家まで類焼するぞ!」

 墨田が必死になって命じるのも当然だった。ここは商店街の一角、店舗が密集して建っている。もう家宅捜索どころではない。何事かと集まってきた野次馬を追い払い、周辺住民を避難させなければならず、捜査員達は方々に散って奔走する羽目となった。

 冬場で空気が乾燥していることもあり、火は瞬く間に田原不動産の店舗を飲み込んだ。少し離れた場所から猛り狂う炎を鏑木は見詰めていたが、その頬を涙が伝った。父親がベイアードへ連れて行かれた本当の理由を知ったからだ。原因がまさか自分にあったとは。自分が紙士の素質に恵まれていたために父親は……。自分自身に罪はないことはわかっている。しかしそれでも涙を抑えることは出来ず、鏑木は泣き顔を悟られぬよう俯いた。


 火災は約二時間後の十二時半頃に鎮火したが、田原不動産を全焼。右隣の店を半焼、裏と左隣の店も壁や屋根の一部が焼ける被害が出た。警察と消防署の検証の結果、火元である田原不動産から焼死体が一体発見された。発見場所が店舗内だったことから、申蔵の物と思われた。死傷者は彼一人だけで、他に人的被害はなかった。だがーー

「おい、残る一人の被疑者は何処だ!」

 妖魔局の捜査員達があたふたし始めた。黒駒三兄弟の残る一人ーー辰也の姿が何処にもないのだ。辰也は父親とこの店舗兼住宅に同居している。てっきり二階にある住居部分にいるものと思い、捜査員も火事で逃げ出そうとしたところを確保しようとしていたのだが、一向に出てこない。おかしいと思っているうちに火が建物に回り、もはや中へ入れない状態になってしまったのだ。申蔵と共に焼死するという最悪の事態は避けられたが、取り逃がしたことには変わりがない。

 捜査員達の焦りは相当のものだった。被疑者三名全員を必ずや捕らえること。局長からの厳命だったからである。ところが、意識を取り戻した女性事務員の口から、意外な言葉が飛び出した。

「副社長……義樹よしきさんは昨日の朝、青波県へ泊まりがけで仕事に行きました。竹武ちくぶ市にある別荘の売却に関する商談が先日入りまして、物件の確認と持ち主さんとの交渉のため出かけたと社長が……」

 しかし肝心なこと、即ち義樹ーー辰也が竹武市の何処へ出かけたのかは、事務員の女性は知らなかった。この商談は社長である申蔵が進めていたもの。具体的な情報を彼女は何一つ掴んでいなかったのである。この点については寅次も一緒で、同じことしか申蔵から聞かされていなかった。

「青波県警へ連絡を入れ、奴を手配しろ! 急げ!」

 捜査員の叫びを耳にしつつ、鏑木は墨田に別れを告げて現場を去ることにした。もう自分がここにいる必要はなく、自身の用件もなくなったのだ。申蔵の口から語られた、自分の父親に関する信じがたい事実。鏑木自身も頭の中でもどう整理していいのかわからなかったのである。

 ところが捜査員の一人が、近所の住民から一枚の写真を提供される場面を目にして足が止まった。その写真の中に辰也がいるという。鏑木は捜査員に頼み込んで、問題の写真を見せてもらった。

 写真は商店街主催の夏祭りの一風景を撮影したものだった。法被姿の若い男性が数人並んで写っている。その中の右端の人物が辰也だというのだ。決して優しげには見えないそのおもてを見た瞬間、鏑木は愕然とした。確かに墨田とよく似ている。双子とまでは言わないも、兄弟と紹介されても全く違和感がないーーそんな感じだった。

 この酷似ぶりは単なる偶然ではあるまい。申蔵の台詞もそれを裏付けている。彼が墨田の祖父の名前を知っていたことも。鏑木も驚愕したが、何といっても一番ショックを受けているのは当の墨田だろう。自分が捕らえようとした被疑者と似ていると言われれば、冷静でいられるはずがない。

 現場を後にした鏑木は笹原台駅から電車に乗り、紙士養成学校へ向かった。今日一日年休をもらっているので戻らなくてもいいのだが、前橋への報告だけは早急に済ませておく必要があったのだ。

 午後一時半頃、鏑木は紙士養成学校へ到着し、そのまま真っ直ぐ校長室まで足を運んだ。半ドンなので既に帰宅している職員もいたが、前橋は校長室の自席で鏑木の帰還を待っていた。

「鏑木君、ご苦労だった。どうやら大変なことが起きたようだな」

 労うように前橋が声をかけても、鏑木はまともに視線を合わせることは出来なかった。

「はい……。校長はご存じで……」

「うむ。先程妖魔局長から連絡があった。黒駒三兄弟の三人のうち身柄を確保できたのは寅次一人のみ。申蔵は死亡し、辰也は行方不明だそうだな」

「申し訳ありません。自分が申蔵と話すようなことさえしなければーー」

「人質をとられていたのでは仕方があるまい。君には責任はないよ」

「有り難うございます。それから後一つ、別件で話が……」

 鏑木は申蔵が自分を呼び寄せてまで聞かそうとした話を前橋に伝えた。父親の拉致の真実を。前橋は父の遺骨返還に尽力してくれた。故にこのまま自分の胸の内に留めておくわけにはいかなかったのである。

「そうか。鏑木先生のことにそんな事情があったとは」

 黒駒三兄弟が関与していたと知り、さすがの前橋の驚きを隠せない。狙った子供を手段を選ばず手に入れようとする。彼らのコルトに対する執着心の凄まじさを思い知らされたのだ。

「だがそのことで君が思い悩むことはあるまい。幼かった君にどんな責任があるというのだ。気にせん方がいい」

 前橋はそう気を使ってくれたが、鏑木の心は今一つ晴れない。当時の記憶がない自分はまだいい。兄や姉がこの事実をどう受け止めるのか、気がかりだった。

 肩を落としたまま鏑木は一礼して退室しようとしたが、前橋が慌ててその背中へ声をかけた。

「こらこら鏑木君、待ちたまえ。いい話がある。しかも二つだ」

「え……?」

 思いもかけない言葉に鏑木は振り返った。前橋は鏑木にソファーに座るよう促し、両者が向かい合って腰を据えたところで話し出した。

「まずは一つ目。藍沢君がつい先程、現地での『仕事』を済ませた。帰国は二十六日の午後の予定だ」

「藍沢が……帰ってくる。それであいつは『元気』なんですか!」

 鏑木も本当は「無事なんですか」と尋ねたかった。しかし自分が藍沢の出張の真実を知っていることを、前橋に悟られるのはまずい。故に遠回しな言い方をするしかなかったのだ。

「多少疲れたような感じはしたが、元気そうだったよ。搭乗機がはっきりしたら、わしと局長が空港まで迎えに行く手はずになっておる」

「そうですか……。よかった……」

 鏑木は全身から力が抜けていくような、安堵感を覚えた。鏑木にとって藍沢の無事な帰還ほど嬉しい知らせはない。自分の父親の遺骨返還がベイアードからの要請を受ける条件に含まれている。職員室で何気にあんな話をしたことが、藍沢がベイアード政府に協力をする要因の一つになっているはずだ。だから鏑木は何としても彼には怪我なく元気で戻ってきてもらいたかったのである。

「さて……もう一つのいいことだが……」

 鏑木が顔を上げるタイミングを見計らい、前橋はにっこり笑った。

「これはわしにとっても喜ばしいことだ。鏑木君、君の父君の御遺骨、ベイアード政府が返還に応じてくれるそうだ」

「父の遺骨を……ですか!」

 鏑木にはわかっていた。藍沢がベイアードでの小馬退治に成功し、その功績が認められたが故に、米国政府が約束を果たす気になったことを。しかし鏑木はこの件についても知らぬふりをしなければならなかった。

「しかしどうして今頃そんな話が……。伯父があれほど懇願し、校長も局長に直談判してまでされても梨の礫だったというのに……」

「まー、わしがごり押ししたせいもあるが、ベイアード政府もこのまま遺族の意思を無視し続けるのはまずいと思ったんではないか?」

「有り難うございます……!」

 鏑木は立ち上がり、深く頭を下げた。確かに前橋はごり押しした。米国に要請を受ける条件の一つに加えるようにと。前橋と藍沢、この両者の努力があってこそ、父親の遺骨の返還は実現したのだ。

「現地での遺族の受け入れはいつでもオーケーとのことだ。すぐにでも行った方がいい。わしの話はこれでお終いだ。帰って家族に知らせるといい」

「はい! 感謝いたします、校長!」

 そう言うや鏑木は校長室を出て、紙士養成学校を飛び出した。今は一刻も早く家に帰りたかったのだ。自分以上に父親の遺骨の返還をずっと望んできた人物ーー兄と姉にこの吉報を知らせるために。


 週があけた十二月二十六日月曜日の午前十時二十分。一時限目の講義が終わったところで、役職教師四名が校長室に会した。妖魔局長より二十三日の事件に関する報告があり、その内容を告げるために前橋が福原、鏑木、武藤を集めたのである。藍沢の帰国が午後四時頃となる予定なので、前橋も午前中のうちに話しておきたかったのだ。

「さて、その後の捜査状況も含めて伝えておかねばならないが……」

 前橋はそう前置きをして話し始めた。田原不動産の焼け跡から発見された遺体は、歯の治療痕などから申蔵ーー本名・田原孝吉たはらこうきちの物と確認された。店舗内で椅子に座った状態で見つかったことから、社長席から一歩も動かず焼死したものと思われる。

 一方、逮捕された寅次ーー本名・瀬戸直幸せとなおゆきは、意外にも素直に取り調べに応じているという。それというのもーー

「一昨日わかったことだが、辰也ーー田原義樹が実際には青波県へ行っていないことが判明したからだ。寅次も申蔵から辰也は青波県の物件を見に行った……と聞かされていた。ところが実際には……」

 何と辰也は国外へ脱出していたのだ。二十二日午後二時のフライトでベイアードへ高飛びしていたのである。そのことに妖魔局が気付いた頃には、時既に遅し。飛行機はベイアードに到着し、辰也は入国審査を終えて姿をくらました後だった。

 申蔵に騙されたと知った寅次は「申蔵親父の奴、俺をたばかって兄貴を逃がしやがったな!」と、我を忘れて激怒。さらに亥之介が自殺したことを聞かされると「あいつは黒駒のために死んだんだ! これじゃ犬死にじゃねえか!」などと自棄になり、もう黒駒三兄弟のことなどどうでもいいと、知っていること全てを打ち明ける気になった。

 ところがその寅次は、肝心なことを殆ど知らなかった。黒駒三兄弟の活動に関する重要事項は、申蔵と辰也の親子が全て取り仕切っていたからだ。そのため寅次と亥之介はメンバーでありながら大きな「商い」には参加できず、ただ申蔵の指示通りに動くしかなかった。

 寅次が直接関与した事件は、あの赤い妖紙に関することだけだった。その在処を先月、偶然にも亥之介が嗅ぎつけた。郵便局での仕事をしている最中、近所の主婦達が話しているのを耳にしたのだ。拾った赤い妖紙が、警察の保管期限が過ぎて今は鳥勝にあることを。話を亥之介から聞いた寅次は取り戻すことを決意。亥之介が作った折妖猫を鳥勝に侵入させ、捜させたが見つからなかったーー

「成程、そういうことだったんですか。申蔵と辰也が牛耳っていたとは。でも、あの人質になった事務員の女性はどうなんです? 彼女も田原不動産の関係者、何か知っているのでは?」

 鏑木の質問に前橋はゆっくりと首を横へ振った。

「いや、彼女は単なるパート職員で、彼らの裏稼業については一切知らなかったとのことだ。社員全員がもぐり紙士と聞いて、酷く動揺していたとか。まあ、黒駒三兄弟ほどのもぐりであれば、いくら気の知れた相手とはいえど、一般人に正体を明かすような真似は絶対にしないと思うが」

 寅次を取り調べても、黒駒三兄弟の活動実態が殆ど掴めない。それは局長にとっても頭の痛いことだった。局長が最も知りたいと思っていることを、寅次は何も語ってはくれないのだから。田原不動産は全焼し、証拠物も全て消失してしまった。念のため寅次の自宅を家宅捜索する予定ではいるが、大した物証は得られないだろう。ただ妖紙の管理は染士である寅次の役目だったので、黒駒三兄弟が所持していた妖紙が見つかる可能性が高い。

「寅次の話から、今まで事件の経緯については大分解ってきた。時系列順にそれを話していこう」

 前橋は三人の顔を一通り眺めた後、手元にあるメモへ目を落とした。今回の一連の事件で、黒駒三兄弟が最初に関与したのは十七年前の事件。里中が勤める倉庫会社から、十四枚の妖紙を強奪した件だ。この時はまだ辰也、寅次、亥之介の三名は小学生ーーコルトだったので、実行犯はその養父ちちおや達だった。最年長が寅次の父親・卯門うもん、次兄が亥之介の父親・巳鎚みづち、そして末弟の申蔵である。

 この三人は倉庫会社が小馬の妖紙を隠し持っていることを知っていたが、そのことを彼らに教えたのは間に入った闇ショップだった。この闇ショップの元経営者は、倉庫会社を創立した社長らの元同僚、即ち元陸軍専属のもぐり紙士。社長らが小馬の妖紙を託されたことを把握していたようで、卯門に極秘でこの情報を流したのだ。

 妖紙の管理を任されていた寅次の話によれば、先代の黒駒三兄弟はこの時手に入れた妖紙を何枚か闇市場へ流したらしい。卯門が死んで寅次がその役目を引き継いだ時には、十一枚しか残っていなかったという。

 そしてその残った十一枚のうちの一枚が、今回の騒動の発端となったあの赤い妖紙だった。寅次が自宅で虫干ししている時にカラスに持ち去られ、桃木町の路上へ落ちた妖紙を、鳥勝の店長夫婦が拾って警察へ届けた。しかし寅次はそんなこと知る由もない。失った妖紙が警察にあることも知らず、必死に捜し続けた。もっとも所在がわったとしても、のこのこ現れて落とし主だと名乗り出るような真似は出来なかっただろうが。

 赤い妖紙の在処が判明したのは十一月九日。社長代理で不動産店を守っていた寅次の元へ、正午過ぎ一本の電話があった。郵便局での勤務を終えた亥之介が公衆電話から連絡をよこしたのだ。何としても取り戻さねばと考えた寅次は、亥之介に携帯している折妖猫を使うように指示。亥之介は兄の命に従い、桐生が丘駅前まで移動して覚醒した折妖猫を放った。しかし既に妖紙は馬渕の手に渡った後だったので見つかるはずもなく、部屋を荒らしているところを女将に見られるという失態を犯してしまった。

「あ、校長。話の腰を折るようで申し訳ありませんが」

 ここで福原が質問をしてきた。

「寅次が社長代理で店を守っていたと言われましたが、申蔵は何処かへ出かけていたということですか?」

「うむ。当時申蔵と辰也は長期間不在で、戻ってきたのは今月に入ってからだそうだ。事務員の女性は知り合いの所へバカンスに行っていたのではないかと話していたそうだが、どの期間何処へ行っていたのかは……」

 と、答えつつも前橋は内心冷や冷やしていた。そう、彼は嘘をついていたのである。本当は申蔵と辰也が十一月の頭から十二月の上旬まで、ベイアードへ渡航していたことを前橋は局長から聞いていた。二人の渡航目的は小馬の妖紙に関する商談を依頼主と行うため。しかし今ここでその話をするわけには行かない。ベイアードで小馬が暴れたことは、極秘事項なのだから。

 一息つくと、前橋は報告を再開した。申蔵と辰也が店へ戻った直後、彼らにとってゆゆしき事態が起こった。十七年前に妖紙を強奪した相手が、この事実を警察へ通報したという情報が入ってきたのだ。卯門は他言しないことを条件に、倉庫会社関係者を殺害しなかった。だがそれは条件を破れば命はないということでもある。何故今頃になって警察へ届け出たのかはわらなかったが、気性の激しい申蔵には許しがたいことだった。彼は妖紙を奪った当時、口封じのため全員をその場で始末しろと主張していたからだ。

 約束を破った者には直ちに報復を。申蔵は少しも容赦しなかった。辰也が作った折妖サーベルタイガーを放ち、存命する倉庫会社関係者四人の抹殺を画策したのだ。まず真っ先に狙われたのは、直接警察へ赴いた五十嵐だった。通報した翌日の夜、彼の自宅近くで折妖サーベルタイガーに襲わせて殺害。さらに美森県にある日高の自宅も突き止め、襲撃させて命を奪った。そして逃走した片岡を臭いを辿って追跡し、長綱川の河川敷に追い詰めて殺した。

 しかし最後の一人、里中だけは見つけられなかった。女だからそう遠くへは行けまいと甘く見て、最後に回したのが失敗の要因だったようだ。申蔵は執拗に里中を捜し出そうとした。それには報復以外にも別の理由があったが、前橋は今この三人に教えることは叶わなかった。

「でも校長先生。五十嵐さんがリストの件を警察へ通報したことを、どうやって黒駒三兄弟は知ったんですか? まさか警視庁のあの人が……」

 武藤の問いかけに前橋は苦々しい表情を浮かべた。

「残念ながら、そのまさかだ。やはり刑事部長が連中と通じていたのだ」

 警視庁刑事部長。飛鳥田県の警察署刑事課を取り仕切る重要役職であり、同時に県下の妖魔課のトップでもある。警視庁や各県警察には妖魔部長が存在せず、刑事部長が兼任している。紙士法や妖魔産物利用法がらみの事件は、刑事事件になるケースが多いからだ。つまり、警視庁刑事部長は飛鳥田県内の妖魔課全ての情報を把握することが可能なのである。

 刑事部長はその地位をフルに活用し、都合不都合に関わらず黒駒三兄弟に関連する情報を抜き出し、提供した。そして彼らから協力を申し出られれば、力を貸した。結果何が起こったのか。五十嵐が警察へ持ち込んだリストの一件はもみ消され、担当の妖魔課長は左遷。倉庫会社の元関係者三名の命が失われたのだ。

「具体的な証拠はなく、福原君の娘御の話と寅次の供述が根拠だったが、刑事部長はあっさり関与を認めたよ。だが連中に荷担した理由は、まだ判明していない。しかしその様子から見て利害関係はなく、やむを得ない理由で協力していたことはわかった。自分のせいで殺人事件まで起き、もう部長も良心の呵責に耐えられなかったようだな」

 とは言え、刑事部長の内通により多くの事件が起きたのは事実。里中が戸畑市で尾行させられそうになったことも、彼の息がかかった部下がたまたま彼女を見つけたためだ。更に刑事部長は亥之介の逮捕に鏑木が絡んでいたことまで申蔵に伝え、鏑木は命を狙われる羽目となった。凰香が折妖サーベルタイガーを発見したため事なきを得たが、もし凰香が寮へ戻っていたらどういう事態に陥っていたか……。

「申蔵は折妖サーベルタイガーを学校ここへ送り込むといういらぬことをし、結果的に墓穴を掘ったわけだが。それはともかく、刑事部長の取り調べも今後予定されているそうだ」

「辰也を取り逃がしたのは残念ですが、取り敢えずこれで事件は大方解決しそうですね。寅次の家を調べれば、倉庫会社から奪われた十一枚、いやあの赤い妖紙を除いた十枚の妖紙も見つかるでしょうし」

 鏑木は何気にそう言ったものの、前橋の心中は穏やかではなかった。倉庫会社がかつて所持していた妖紙は、今は七枚しか残っていなかったからだ。寅次の証言によれば三枚の妖紙を今年になって紙解きしているという。うち二枚は忍包の、そして残る一枚は小馬の妖紙だ。だがベイアードでの事件が関わっている以上、前橋はここでもその事実を三人に明かすことは出来なかった。

 険しい表情で黙り込む前橋に、鏑木が再度声をかけてきた。

「校長、一つお訊きしたいことがあります。炎に巻かれる寸前、申蔵が言ったのです。辰也と墨田が似ていると。おまけに奴は墨田の祖父の名まで知っていました。もしや墨田と辰也は……」

「そのことか。辰也は申蔵の養子、そこで妖魔局の方でも彼の出生について調べてみた。すると意外なことが解ったよ。辰也こと本名・田原義樹のかつての名は墨田義樹。墨田仁とは又従兄弟同士だそうだ」

 やっぱりーーと、鏑木は呟いた。寅次も墨田の顔を見た時、戸惑ったような表情を見せた。恐らく、「兄」の辰也と墨田の顔がよく似ていたからだろう。

 墨田の祖父・智明は若い頃は折士だったが、親友が起こした「ある事件」に関与した罪で紙士免許を剥奪されていた。そして親兄弟からも絶縁を申し付けられ、妻の実家を頼って州都市から青波県へ移住したのだ。

 智明には兄が一人おり、その兄が辰也の祖父だった。しかし辰也は四歳で申蔵に引き取られる時、児童養護施設にいた。辰也は実の親から育児放棄され、施設に保護されていたのだ。

 紙士としての素質に恵まれ、申蔵の目に留まった辰也。養子縁組みをする際、申蔵は辰也の身元を自分なりに調べ、納得したはずだ。やはり近い親族に紙士がいたと。

 この事実は墨田本人の耳にも届いているはずだ。まさか自分が今回の事件の犯人と血縁関係にあったとは。決して気持ちのいいものではなく、あの生真面目な墨田がどうとらえるのか。教え子の心中をおもんぱかり、鏑木は深く溜め息をつくのだった。

 

 年内最後の授業となる、十二月二十八日水曜日の二時限目の講義。藍沢は半月ぶりに授業に復帰した。藍沢は一昨日の夕方に帰国したばかり。今年はもうそのまま年末年始休みに入るよう前橋は勧めたのだが、一日でも早く復帰したいと自ら望んだのだ。

 だが完全に時差ボケが治っていないようで、講義中藍沢は眠たげに何度も欠伸をしていた。そのせいか教室にはいつもの緊張感がない。気が緩んだのか、向井が呑気に尋ねて来た。

「先生、ベイアードの土産はないんですか?」

「馬鹿野郎! 俺は遊びに行っていたんじゃないんだぞ!」

 お馴染みの怒鳴り声が炸裂し、向井は首をすくめた。その様子に渡辺と土井はくすくす声を殺して笑っていたが、事情を知る凰香はとてもそんな気分にはなれなかった。

 ーーみんな先生が何をしに出張に行ったか知らないから、あんなとぼけたこと出来るんだわ……。

 でも藍沢が無事帰国し、凰香はほっとしていた。実は二十四日、翠から寮の凰香達へ藍沢の帰国を知らせる電話があったのだ。その話は同日の一時限目の講義の前、長谷部から学生にも告げられており、凰香もわかってはいた。それでも「父が明後日帰ってくるの。元気そうだって母が言っていたわ」と、翠の喜ぶ声を聞けて凰香は嬉しかった。

 そして翠と凰香が関わった事件ーー「お菓子をあげたおばさん」こと里中が、翠宛に送りつけたリストと写真に関する事件にも動きがあった。リストの妖紙を奪った犯人が黒駒三兄弟であることを、凰香はラジオのニュースで知ったのだ。この黒駒三兄弟に関する一連の事件は、新聞やテレビなど報道機関でも報じられていたのである。彼らが妖紙を奪い、そのことを被害者が警察に通報したため報復に出たこと。それによって三人の人間が殺害されたこと。犯人四名のうち二名は死亡し、一人は逃走中だということ……。

 されど奪われた妖紙がどうなったかは一切伝えられず、小馬の妖紙に至っては「こ」の字も出てこなかった。ただ小馬の妖紙の行方は「紺の小馬退治録」にさえ記載がなかったこと。妖魔局の手により、秘密裏に処理されたのだろうーーと、凰香は思った。

 もっとも鳳太が流星号に使った赤い妖紙については、鏑木がその経緯を兄妹に教えてくれた。倉庫会社の役員が作り、黒駒三兄弟が奪った物であること。それを黒駒三兄弟が紛失し、鳥勝の店長夫婦に拾われたこと……と、聞いて鳳太も凰香も納得した。成程、これで一本の線に繋がったと。妖紙のリストと路上に落ちていた赤い妖紙を結びつける鍵は、黒駒三兄弟だったのだ。

 また、校内に忍び込もうとした折妖サーベルタイガーについても、正式に学校から発表があった。鏑木が相手が黒駒三兄弟の一人とは知らず、警察と協力してもぐり紙士を捕らえた。それに激怒した残る仲間が鏑木に復讐しようと、折妖を送り込んだ。ところが鏑木が折妖馴らしを施して折妖を手懐け、逆に相手のアジとを突き止めたーーと。「なるほどー、カブさんが先週年休を二日もとったのは、そういうことだったのか」と、鳳太は一人頷いていた。

 鏑木の危機を救った凰香は、兄の鳳太と共に改めて前橋から賞賛の言葉を贈られた。さらにこの功績により鳳太が折妖トーナメント戦で出されていた「警告」も取り下げられた。鳳太がこれでまた調子に乗って何かしでかさないか、凰香は心配だったが。

 それにしてもまさか折妖サーベルタイガーまでもが、黒駒三兄弟の仕業だったとは。もぐり紙士の恐ろしさを身を以て感じた凰香だったが、同時に折妖サーベルタイガーについては何一つ報道されていないことにも疑問を感じた。実は妖魔局はこの情報を報道機関に流していない。紙士養成学校本校を事件に巻き込みたくなかったこともあるが、騒ぎを大きくし、余計なことを突っ込まれたくないというのが本音だろう。

 兎にも角にも色々あったが、これでいつもの学校生活が戻ってくる。もう変なことで頭を悩ますのは止め、学生らしく普段通りに過ごそうーーそう凰香は考え、藍沢の背中を見詰めるのだった。


 講義を終えた藍沢は一度職員室へ戻ると、気を引き締めて校長室へ向かった。今回のベイアードへの出張について、前橋に改めて報告するためだ。妖魔局長への報告は昨日済ませている。だが前橋には出迎えの際に空港で会ったきり。自分の口からきっちり説明する義務があった。

 二人きりの室内で藍沢は何も隠さず、ありのままに起こった出来事を語った。しかし話を聞いているうちに、前橋の目つきが鋭くなってきた。前橋が心配していた通り、藍沢はベイアードでかなりの「無茶」をしていたからである。

「何と危険な真似を……! あれほど無理はするなと申したはずだ」

「確かにあの時自分は小馬に捕まりました。まさか奴があんな特殊能力を使えたとは。和州で駆除した個体はあんな真似できませんでしたから、油断していたんです。もしスティーブの折妖の攻撃が後数秒遅れていたら、自分は確実に石になっていたでしょう」

 藍沢は淡々と語ったが、あの時のことを思い返すと今でも生きた心地がしなかった。近くにスティーブがいる。彼が駆けつけてくれるまで時間稼ぎをしようと、藍沢は小馬にあれこれ話しかけた。相手がそれに応じてくれたからよかったものの、もし無視をされていたら……!

「しかし何故前線に立った?」

「それ以外に方法がなかったからです。奴をあの場所に留める方法が!」

 今回の小馬の目的は縄張りの死守ではなく、復讐のため多くの人間を殺すこと。人が大勢いる場所であれば、何処であろうと構わないのだ。よって手強い相手が来るとわかれば、別の場所へ移動してしまう。つまり駆除チームを敵の潜む場所へ向かわせても、それを察知されれば逃げられてしまうということだ。小馬は気流に乗り、短時間で長距離を移動することが出来る。こんな調子ではいつまで経っても小馬を滅することなど不可能だ。被害が拡大し、駆除作業が長期化する懸念が出てきた。そこでーー

「自分が囮になろうと思い付きました。奴は自分が以前和州で漉いた個体と同一ペアから生まれた、いわば兄弟。その兄弟を殺した自分がいるとわかれば、きっと食らいついてくる。自分を殺すまであの場を動かないだろうと踏んだんです」

 しかも藍沢は和州人だ。己を漉いた和州人を小馬は憎悪している。藍沢の予想通り小馬は猛り狂い、藍沢に狙いをすませた。だがこの自らの提案により、藍沢は危険に晒されることになった。そして間一髪の所で駆除に成功したのである。

「妖紙は紙漉きした直後にその場で燃やしました。その燃え盛る炎の中から、どす黒い煙のような物が立ち上った。直ぐに奴の怨念だとわかりました。二度にわたり紙漉きされ、体を燃やされた奴の恨みと狂気が形となり、現れたのです」

 退治屋だった藍沢は、今まで幾度となく妖紙を焼いてきた。和州で小馬を漉いた時も、最後は現地の住民の前で燃やした。しかしその時は勿論、今まで一度たりとも妖魔の怨念など見たことがなかった。それほどまでに小馬の憎悪は凄まじかったのだ。

「そうか、そんなことがあったとは。だが妖紙を焼いてよかった。あんな物を持っていてもろくなことがない。しかし、よくベイアード側が妖紙を素直に燃やさせてくれたな。米国軍は小馬の妖紙を欲していたはずだが」

「それが全然素直じゃなかったんですよ。紙漉きした直後、将校の一人が自分に銃口を向けてきました。妖紙をこちらによこせとね。でもスティーブの折妖が背後からその将校を襲ったんです。ジェームスが奴を押さえつけて銃を奪い、逆に銃を突きつけてやりました。その隙に妖紙を焼いてスティーブと踏みにじり、灰を土ごと川へ流しました」

 苦笑いを浮かべながら藍沢は話したが、あの将校の顔を思い出すと無性に腹が立った。六十年前、和州陸軍が小馬の妖紙を処分しなかったばかりに、今回のベイアードでの惨劇は起きた。それにもかかわらず、まだ懲りずに米軍が小馬の妖紙を求めてくるとは。藍沢は許し難い思いに駆られ、叫んだ。「お前ら、一体何人死んだと思っているんだ! 米国は和州が犯した過ちを繰り返す気か!」と。

「これでもう二度と小馬やつは復活できません。ま、妖紙を焼くなとは自分は言われていませんし、小馬駆除の協力という米国の依頼は果たしました。でも妖紙を入手できなかったことが、余程癪に障ったのでしょう。帰り空港まで見送りに来てくれたのは、スティーブとジェームスだけでしたよ」

「そうかそうか。米国関係者は顔も出さず、見送ってくれたのはその退治屋の兄弟だけだったか。しかし本当にご苦労だった。君の力で米国からの要請を無事完了できたのだからな」

 前橋は笑顔だったが、藍沢の表情は優れない。事件がまだ解決していないことを妖魔局長から聞いていたからだ。

「校長、黒駒三兄弟が何者かの依頼を受け、小馬の妖紙をベイアードへ持ち出したとのことですが……」

「うむ。逮捕できたのは寅次一人のみ。しかも奴はベイアードでの『仕事』について、殆ど知らないと言っているらしい」

 黒駒三兄弟は確かにベイアードから舞い込んだ「でかい商談」ーー小馬の妖紙の買い取りと紙解きの依頼を受けた。だが寅次が知っていたのは、この話が自分達の許へ来たのが今年の四月の終わりだったこと。依頼主と直接交渉するため十一月から十二月にけての一月あまり、申蔵と辰也が現地へ飛んだこと。そして依頼額がかなりの高額だったことだけであった。

 黒駒三兄弟に仕事を依頼したベイアード人は誰なのか。小馬の妖紙を紙解きさせ、現地を恐怖のどん底へ叩き落とした真の目的は何なのか。交渉の具体的な内容は……等、事件の鍵を握る重要な事柄について、申蔵は何一つ教えてくれなかったと寅次は供述しているという。

 この商談は申蔵と辰也が窓口になって進め、寅次と亥之介は関わることを許されなかった。よって依頼主とどうやって連絡を取っていたのかすら、寅次は聞かされていなかった。ベイアードで暴れた小馬が和州の妖紙を紙解きさせた物と判明した以上、必ずや黒駒三兄弟全員を検挙しなければならなかったのだがーー

「局長も頭を抱え込んでしまっておる。寅次では証人になれないとな。一応ベイアード政府に引き渡す予定ではいるが、使い物になるとは到底思えん」

「やはり全てを知る辰也を捕らえなければ、ことは解決しないと……」

「そういうことだ。奴が二十三日にベイアードへ高飛びしたことも現地警察へ伝えてある。米国警察も血眼になって奴を捜すだろうな。それで身柄を押さえられればいいが、逃げられた時のことを考え、今妖魔局で辰也こと田原義樹を国際指名手配にかける手続きをしている」

「しかし今回の事件で六百名以上の犠牲者が出ました。あんなことまでして、一体奴らは何がしたかったのか……!」

 藍沢は応接セットのテーブルに拳を振り下ろした。黒駒三兄弟に今回の件を依頼した相手の気が知れず、怒りを抑えられなかったのだ。すると前橋はある可能性を指摘をした。ベイアードは来年大統領選挙を控えており、それに絡んだのかもしれないと。

 ベイアードは二大政党制をとっている。自由党と社民党だ。現在政権を執っているのは社民党。そして今回最初に事件が起きたシルバートップスキー場があるアナキア州は、社民党の支持者が多い州だ。自由党、もしくはその支持者が社民党の支持基盤で一騒動起こし、政敵をあたふたさせて評判を落とそうとしたとも考えられるがーー

「とは言ってもこれも想像の域を出ん。だが寅次はこう供述したそうだ。小馬が州を跨いで暴れていると、依頼者から苦情が来たとか。依頼者には小馬がアナキア州から出られては困るような事情があったようだな」

「依頼者はシルバートップ周辺に小馬が縄張りを作ることを期待していたということですか……。確かにあそこは五月になっても雪が残るほど寒さが厳しい。暑さを嫌う小馬が好みそうな場所ですが……」

 藍沢はどうにか落ち着いたようだ。それをを見計らい、前橋は話題を変えてきた。

「それにしても君が和州で小馬を漉いていたとは。その話を柵間君から聞いた時は、本当に驚いたよ」

「すいません、今までお話しもせず……」

「いや、依頼主との契約であれば、致し方あるまい。だがその現場を目撃していた赤大将が柵間君に教えたとは、君も意外に感じたのではないか?」

「はい。でも自分はあの赤大将を責めるつもりはありません。口止めしたわけでもありませんし。それにあいつにはあの時、随分と助けられましたので……」

 問題の赤大将は小馬にこの地に居座られてはこちらも迷惑だと、藍沢に色々な情報を提供してくれた。しかし藍沢が赤大将の行為に報いることは叶わなかった。藍沢が小馬を駆除したことにより、人間が小馬の縄張り周辺の地域を開発することが可能となったのだ。結果、赤大将は住処を追われ、別の場所へ移住せざるを得なくなったのである。

「まああいつが水澤みさわ県で元気に暮らしているとわかって、安心しました。ところでーー」

 藍沢は席から立つと、深々と頭を下げた。

「うちの馬鹿娘が色々とご迷惑をおかけし、申し訳ございません」

 翠が妖紙のリストと写真を前橋へ届けたことに、藍沢は全く怒ってはいなかった。問題はその「ついで」に訊いた、自分の出張についてだ。出張の真実を聞き出そうと翠が向きになり、前橋宅に乗り込んでいく様が藍沢には容易に想像できた。とにかく、顔も性格も自分に似た娘なのだから。

「いやいや、父親思いのいい子ではないか」

 前沢は気にする様子も見せず、声を上げて豪快に笑い出した。

「娘はどうも女房カミさんの様子がおかしかったので、あの様なことを校長に……」

「それは本人もそう言っていたよ。なかなか勘のいい娘だな。おまけにわしに対して物怖じ一つせずはっきり切り込んできた。いや、度胸があるのは大変結構。女にしておくのが実に惜しい!」

「あれは親である自分ですら、手を焼く娘でして……」

 腰を下ろしてため息をつく藍沢の前で、前橋はにこやかに言った。

「何の何の、君に似てしっかりした娘御だ。うん、気に入った。あの娘御がいい連れ合いと結ばれるよう、わしが取り計らおう」

「校長、お気持ちは嬉しいのですが、翠は紙士の男は絶対に嫌だと申しておりまして……」

「そうか。ならば紙士ではない普通の男を当たるとしよう。何人か心当たりがあるのでな」

「有り難う御座います……」

 前橋の厚意が藍沢には有り難かったが、如何せんあの気も我も強い翠のことである。縁談を持ちかけても、「自分の結婚相手ぐらい、自分で見つけるわよ!」と突っぱねるに決まっている。しかし父親譲りの激しい気性が災いし、異性が敬遠して寄りつかないのは明らか。翠ももう来年は二十四歳だ。男性達の間で「女はクリスマスケーキ(二十五を過ぎると価値がなくなるという意味)」などと囁かれるご時世である。早く手を打たねばまずいーー

 と、あれこれ頭を悩ましていた藍沢だったが、娘のことを考えているうちにふとあることを思い出した。

「そう言えば校長、昔翠を誘拐した女が娘にとんでもない物を送りつけてきたとか」

「ああ、里中さんのことか。確かに彼女はあのリストや写真を君の娘御に送ったが……やはり気に障るかね?」

「当然です! あの女は二度も娘をだしに自分を動かそうとしました! 許せません!」

 藍沢は心底腹を立てていた。もし自宅にいたら、差出人が里中であるとわかった瞬間、リストも写真の破り捨ててしまったかもしれない。そう言う意味では癇癪持ちの藍沢が留守だったのは幸いだったのだ。

「藍沢君、落ち着きたまえ。気持ちはわかるが、彼女は今回の事件に関しては完全に被害者だ。元上司や同僚三名が殺害されている。それに彼女がリストを妖魔局へ届けようとしたからこそ、ベイアードでの事件に黒駒三兄弟が関与している可能性が浮上した。違うかね?」

「は、はあ……」

「君の娘御の誘拐にしても、当時彼女は役職にも就いていない平社員だった。彼女にことの決定権はなく、社長の指示通り動いただけだ。彼女も誘拐は気が進まなかったとのことだよ。大目に見てやってくれたまえ」

「しかし娘を事件に巻き込もうとしたことは、いくら校長のお言葉とはいえ……」

 翠が機転を利かせ、前橋の許へリストと写真を直ぐに届けたからよかったものの、自分が帰国するまで待っていたら、厄介なことになっていたかも知れない。黒駒三兄弟がそのことを嗅ぎつけ、口封じと証拠隠滅を計って家族に危害を加えていた可能性も否定できないのだ。家族にもしものことがあったらーーそう考えると藍沢は身の毛もよだつ思いだった。

「彼女には警察に内通者がいることがわかっていた。ああする以外、手がなかったのだろう。君の腹の虫は収まらないだろうが、勘弁してやってくれ。彼女も娘御に迷惑をかけたことは謝っていた」

「そうですか……。それであの女は教頭の家に居座っているんですか……」

「そうだ。今後どうするかは、あの二人に任せるとしよう。警察も妖魔局もあのリストを隠し持ち、奪われたことを隠していた件に関しては、彼女を咎めないと言ってきている。口外したら殺すと、黒駒三兄弟に脅されていたのだからな。そっとしておいてやって欲しい」

 今一つ納得はいかなかったが、前橋の説得に藍沢はおれるしかなかった。翠もあのリストを送られた件については、もう気にはしていないと話していた。怒りの刃を鞘に収めるしかないようだ。

 前橋への報告を一通り終え、藍沢は校長室を後にした。ところが職員室へ戻って自席に着いた途端、今度は鏑木が用があるといって三階の折士クラス上組の教室まで連れ出したのだ。

「どうしたんだ、鏑木。俺に何か用でもあるのか?」

 神妙な面持ちで自分と向かい合う鏑木を目にして、藍沢は首を傾げた。いつものこいつらしくないなと。しばしの沈黙の後、鏑木は口を開いた。

「実はな藍沢、ベイアードが親父の遺骨を返してくれることになったんだ」

「ああ、それなら俺も局長から聞いた。よかったじゃないか」

「二十五日に兄貴が現地へ向かった。明朝帰ってくる予定だ。それで藍沢。お前、向こうでの出張はどうだったんだ?」

「おー、そのことか」

 藍沢は一瞬目線をそらし、にやけた。

「いやー、向こうの飯が口に合わなくてな。米はバサバサして不味いし、ステーキなんて靴底みたいで、硬くて食えたもんじゃない。こっちに帰ってカミさんが作った飯が美味いの何のって……」

「藍沢!」

 いきなり鏑木に怒鳴られ、藍沢は驚いて仰け反った。

「俺はお前がベイアードでどんな目に遭ったのか、見当はついているんだぞ! そんな白々しいことを言うな!」

「え……?」

「俺は聞いたんだよ。テツからお前がベイアードに何をしに行ったのかをな」

「何だと、テツが? あのお喋り野郎、余計なことを……」

 ちっと藍沢は舌を打ったが、鏑木は構わず突っ込んできた。

「もう一度訊く。お前、ベイアードでどうだったんだ?」

「まー正直に言えば、寿命が一気に十年くらい縮まるような思いをしたな」

「やはりそうか……。そんなことじゃないかとは思っていたが……」

 けろっとした顔で答える藍沢を見て、鏑木はやれやれと言わんばかりに俯いた。

「テツは言っていた。お前が今回の件を承諾しなければ、ベイアードが親父の遺骨を返還することはなかったと。お前が小馬駆除に協力してくれたからこそ、俺達兄弟の悲願は達成できたんだ。本当にすまなかった。心から礼を言う」

「おいおい何だよ、水くさい。俺とお前の仲だろう」

 急に相手に畏まられ、藍沢はどう対応していいのかわからなかった。妙な居心地の悪さをおぼえ、この場から逃げ出したい気分だった。

「どんな形であれ、この借りは必ず返す。そうでもしなければ俺の気持ちが収まらん」

「別にそんなことはどうでもいいだろう。今まで通り付き合ってくれさえすれば」

「そうか……。すまないな。それから親父の遺骨返還にお前が関わったことは、兄貴や姉貴には伏せておく。お前の功績を称えたいのは山々だが、お前がベイアードでやったことについて、俺は知らないことになっている。故に他言は出来ん。許してくれ」

「わかっている。俺もその方が都合がいい。どうも人に大げさに誉められるのは苦手なんでな」

 照れくさそうに頭をかく藍沢に、鏑木は安心したように肩の力を抜いた。

「そうか。ところで藍沢、お前現地では通訳をつけてもらったんだろう? だがあんな緊張感溢れる危険な現場に通訳を同行させ、いちいち訳させていたんでは大変だったんじゃないか?」

「通訳? そんなもんはいらねえよ。こう見えても日常会話ぐらいはこなせるからな」

「何? お前、英語出来るのか? 初耳だな」

 意外な事実にきょとんとする鏑木に藍沢は説明した。紙士養成学校へ入学するまでの三年間、藍沢は州都市内で働き、学費を稼いでいた。その時住んでいたアパートで、ボブ・テイラーという若いベイアード人とルームシェアしていたのだ。ボブは恰幅のいい陽気な黒人男性で、英会話の教師として和州に滞在していた。藍沢はボブに三年間、みっちり生きた英語を教わり、入学直前には何の不自由もなく会話を交わせるまでになった。

 ボブは藍沢が紙士養成学校在学中に帰国し、音信不通になってしまった。だが藍沢は今回の出張中、ボブと再会することができたのだ。彼がひょっこり滞在先のホテルを訪ねてきてくれたのである。

「ボブが俺に会いに来たことについて、何やらベイアード政府の差し金のようなものを感じたが、素直に嬉しかった。ボブも六十を越えて頭は真っ白になっていたが、あの陽気なところは少しも変わっちゃいなかったな」

「三十年以上会っていないんだから、そりゃお互い年もとるな。しかしお前が英語を話せること、局長や校長も驚いたんじゃないか?」

「ああ。だがそれ以上に驚いていたのは、米国の退魔庁長官だな……」

 今月の三日、藍沢が前橋に呼び出されて妖魔局へ赴いた時のことだ。通された一室には局長と前橋、そして米国側関係者として在和米国大使と来和した退魔庁長官、それに大使が同行させた通訳がいた。和州側との交渉が進む中、長官と大使はしばしばやりとりを中断し、二人で話し合う場面があった。その声は決して小さなものではなかったが、英語なので和州側にはわからないと高をくくっていたようだ。実際、局長と前橋は不快感を露わにしていたが、英語が堪能ではないため通訳に抗議するにとどまり、相手の様子を窺うしかなかった。

 当然のことながら、藍沢も米国側の態度が面白くなかった。交渉がスムーズに行かないことも無論腹立たしい。しかし藍沢には二人が何を喋っているのか、全てわかっていたのだから。通訳は米国側の人間なので、自国にとって不都合な話は決して翻訳しない。そんなことが数回続いた後、とうとう堪忍袋の緒が切れた藍沢は英語でこう忠告した。

「おい。そういう人に聞かれてはまずいような話は、もっと小さな声でするんだな。あんたらが言っていること、こっちには全て筒抜けだ」

 藍沢の言葉に長官も大使も瞬時に凍り付き、暫く微動だに出来なかったーー

「その時の長官の驚いた顔ったらなかったな。それから後は中断することなく、向こうも真摯に話し合いに応じたよ。全く、こっちをなめやがって。校長じゃないが、それが人にものを頼む時の態度かっていうんだよ」

 そう吐き捨てると、藍沢は腹いせに側の椅子の足を蹴った。

「校長も物怖じせず、ここぞと言う時ははっきりものを言う人だからなあ……。ところで藍沢、話は変わるが……。テツがお前に関する情報を妖魔局に売ったことは聞いているな?」

「ああ、聞いた。三百万だそうだな。御上から少しも遠慮せず金をふんだくろうとは、あいつらしいぜ」

「その金なんだが、そっくり絵梨花えりかに渡ったよ。絵梨花はあの金の裏事情は知らない。ただ出所は妖魔局だと俺が教えたんで、受け取ることにしたようだ」

「絵梨花が使ってくれるのなら、それでいい。ハルが死んでからというもの、俺は彼女や海斗ひろとには何もしてやれなかったからな」

 藍沢が相好を崩すと、鏑木もつられて白い歯を見せた。

「よし。それじゃ仕事が終わったら、久しぶりに鳥勝で一杯やろう。今日は午後三時から開店しているそうだ。勿論俺のおごりだ」

「そうか。それじゃ遠慮なくご馳走になるとするか。言っておくが、あの飯が不味かった話は本当だぞ。ある意味、仕事よりもそっちの方がずっと辛かったな。で、お前が言っていた借りを返すっていうのは、このことだな?」

「馬鹿言え。そんな程度じゃ済まされないだろう。改めてきちんと返す」

 そう言うと鏑木は藍沢の背をぽんと叩いた。この鏑木が言う「借り」はこれよりおよそ半年後、意外な形で返されることとなる……。


「これでやっとお父さんとお母さんを一緒にして上げられたわね」

 親族一同が会した席で、長女の暁子あきこがしんみりと言った。

「そうだなあ。だがベイアードで親父を見た時、俺は泣いたぞ」

 向かいに座っていた長男のみのるも寂しそうに目を伏せた。

 十二月三十日金曜日、晦日の午後一時すぎ。鏑木家の三兄弟の家族総勢約二十名が、州都市内のとある料亭の宴会室に集まっていた。午前中に父・まもるの納骨を済ませ、法事を行うために。

 ベイアード政府が遺骨の返還に応じるーー弟から一報を受けた稔はすぐさま妖魔局へ連絡を入れ、翌々日の二十五日に妻と共に渡米。政府関係者に連れられ、寂れた墓地の片隅にひっそりと眠る父の許に案内された。墓碑は苔むして刻まれた名も殆どわからず、周囲には草が某々に茂って酷い荒れようだった。

 すぐに墓が掘り起こされ、棺の蓋が開けられた。ところが意外なことに、遺体はほぼ原形を留めていた。その父親の亡骸を見て、稔はうつ伏して泣いた。こんな寂しい所で、親父はたった一人で自分達が来るのを待っていたのだ。再会した時、自分達がショックを受けないように姿を留めてーーそう思うと、もう涙が止まらなかった。

 運び出した遺体をその日のうちに荼毘に付し、遺骨を抱いて稔は昨日帰国。一日でも早く父を母と伯父夫婦が眠る場所へ届けたい……という兄弟立っての願いで、今日急遽納骨となったのである。

 兄弟の長年の悲願達成ということもあり、年末であるにもかかわらず三兄弟の家族の殆どが出席した。欠席したのは鏑木の長男・しげるの妻だけ。出産間近で実家に戻っていることもあり、無理はせず今回は見合わせとなった。

 会席料理を口にしながら、久しぶりに顔を合わせた一同は会話に花を咲かせた。だが鏑木の表情は今一つ冴えなかった。父親の拉致の原因は自分にあるーー正直に兄姉に打ち明けたものの、気が晴れることはなかったのである。

「あんなこと気にする必要はないわよ、とおる。あんたあの時、まだ三歳じゃない。あんたに何の罪があるっていうのよ」

 暁子はそう言ってくれたし、稔も犯人が悪いと自分を責めることはなかった。しかし鏑木の心の中はぱっとしなかった。自分が平凡な子供であれば、家族四人で平穏な日々を送れたはずなのだから。

「おい、徹」

 稔の声に鏑木ははっとなり、面を向けた。

「前橋さんにはくれぐれもよろしくと伝えておいてくれよ。年が明けたら改めてこちらの方からもお礼に伺うつもりでいるが」

「本当、これも全てあんたの所の校長先生のおかげなんだからね。よーくお礼、言っておいてね」

 暁子にも念を押され、鏑木は頷いたが、歯がゆさを感じずにはいられなかった。藍沢の功績を伝えられないことが。藍沢が命懸けで小馬の駆除を成功させたからこそ、ベイアード政府が遺骨の返還を了解したのだ。

 ここで鏑木は鳥勝で藍沢が語ってくれたベイアード出張の話を思い出した。

 ーーそら、こいつらが俺と向こうで組んだアレクソン兄弟だ。

 店内で焼き鳥を頬張りながら、藍沢は店長や女将、他の客がこちらの話を聞いていないことを確認した後、現地発行の新聞を見せてくれた。一面トップに「退治屋の兄弟、小馬駆除に成功!」という大きな見出しが踊っている。

 実は米国政府は今回の事件に関し、マスメディアに厳しい報道規制をかけていた。国民が不安を抱き、政府への不信感を持たぬようすることが目的で。しかし藍沢達が小馬の紙漉きに成功したことで、国内に限り規制が解除されたというわけである。

 さてーーその新聞の見出しの下には、並んで記者会見をする四十歳ぐらいの白人男性二人の写真が掲載されていた。この二人が退治屋の兄弟、折士の兄・スティーブ・アレクソンと、二歳下の漉士の弟・ジェームス・アレクソンだった。全米でもそこそこ名の通ったコンビではあったが、軍や政府から依頼されたわけではなく、自ら望んで小馬の駆除作戦に参加したのだ。

 名のある退治屋ですら尻込みするような危険な駆除作戦に何故……。藍沢が不思議に思って尋ねると、スティーブは言った。自分達の姪のためだと。二人の姪は被害にあったスキー場のパトロール隊員だったが、同僚を目の前で石にされたショックで精神を病み、口がきけなくなった。彼女のためにも何としても小馬を討ちたい。敵をとってやりたいと参加を申し出たという。

 ーーそれでこいつらと一緒に小馬を漉いた訳か。直接奴をやったのは、ジェームスか?

 鏑木が何気に尋ねると、藍沢は苦笑した。

 ーーいや、確かにジェームスは印を結んで光を放ったが、あいつの能力は小馬を漉くにはぎりぎりのものだった。光が命中しても小馬は凄まじい執念で必死に抵抗し、なかなか妖紙にならない。だから俺も光を放った。それでやっと紙漉きに成功したとういわけだ。

 ーーそれじゃ直接漉いたのはお前じゃないか。お前の手柄なんだろう?

 ーーところがそういうことにはなっていないんだなあ……。

 ベイアード政府は同盟国とはいえ、和州を格下の国と見ている。よって和州政府に協力を求めたとは、面子にかけても公言できないのだ。今回の駆除作戦は全て米国人の手によって行われたことになっている。和州の手助けはなかったことにされてしまったのである。当然、藍沢の名など報道されるはずもない。

 ーーおい、藍沢! お前、手柄をこの二人に横取りされたんだぞ! 悔しくはないのか!

 ーーいや、全然。

 藍沢は平然と茶をすすりつつ言った。

 ーーさっきも言っただろう。俺は人から大げさに誉められるのが苦手だと。それにもし俺の名が出て見ろ。和州で俺が小馬を漉いたことまで発覚しかねん。この方が俺にとっても都合がいいんだよ。

 ーーいいのか、そんなこと言って。

 ーー構わんさ。俺はスティーブの折妖のおかげで命拾いし、こうして無事に帰国出来た。それに比べたら小馬退治の名誉なんぞ、どうだっていい。

 ーー全く、お前って奴は……。欲がないにも程がある。俺だったら到底我慢ならんぞ。

 鏑木は呆れ果てたように呟いた。だが藍沢は、自ら囮になって小馬を引きつけたことを鏑木に話していない。もし話していたらそこまで貢献しながら……と、鏑木は「組長モード」になって腹を立てていたかもしれなかった。

 ーーそれでこの退治屋の兄弟は英雄扱いか。いい気なもんだな。

 ーーそんなことはない。写真をよく見てみろ。

 藍沢に促され、鏑木は改めて新聞を見てみた。ヒーローインタビューを受けているにもかかわらず、アレクソン兄弟の表情は冴えず、全然嬉しそうには見えない。控えめな、何かあまり気が進まないような顔つきだーー二人揃って。謙虚さを美徳とする和州人ならともかく、このような態度はベイアード人には珍しい。米国人は感情をはっきりと表に出す傾向がある。本当に自分達の力だけで小馬を駆除したのなら、もっと胸を張って会見に臨んでいるはずだ。

 ーー空港で別れる時、二人が言っていたよ。お前の功績を伝えられないのが残念だと。米国政府の圧力を受け、俺の存在はなかったことにされているとな。お前達が謝ることじゃないだろうとは、言ってやったが。

 藍沢は自分の功績を消されたことを何とも思っていないようだったが、鏑木は米国政府の対応が大いに不満だった。相手側の理由はただ一つ、国の面子を守るため。藍沢が言うように、もう和州と対等に付き合ってもいいはずだーー

 そんな心のもやもやをどうにか抑え込んでいた鏑木だったが、暁子が急に目尻を上げたのを見てぎくりとした。これは姉が自分に説教をする前に見せる仕草だったからだ。

「ところで徹。私、前々から思っていたんだけどね」

 案の定、先程までの穏やかな口調が一変、暁子の声が怒気を含んだものと化した。

「そのサングラス、いい加減止めなさい! あんた体格がよくて強面だから、そんな物かけていると『あっち』系の人と勘違いされるのよ。一緒にいる私達まで変な目で見られるんだからね!」

「姉さんこれはーー」

 だが弟に言い訳する間も与えず、暁子の口調は更にヒートアップしていった。

「来年早々、あんたお祖父ちゃんになるんでしょう! そんなことで孫が苛められたらどうするのよ! もう少し自覚を持ちなさい、自覚を!」

「わかったよ……」

 鏑木は渋々サングラスを外すと、喪服の胸ポケットへ入れた。隣で三男のわたるが、「親父、伯母さんには頭上がらないよなー」とからかっていたが、久しぶりに姉の説教をくらった鏑木の耳へは入っていなかった。

「しかし暁子の言う通り、お前はがたいがいいよな。俺達の一族じゃそんな大男はいないのに。妙なもんだな」

 稔はそう言って首を傾げたが、実際その通りだった。稔も兄弟を育ててくれた伯父も、どちらかというと小柄で痩せ型。大男は鏑木だけだ。何か疎外感を覚え、鏑木はふてくされた。

「どうせ俺は親には似ない鬼子だよ。どこかで取り違えられたのかもな」

「あら、大丈夫よ。あんたは間違いなく私達の弟だから。だって」

 暁子は端の席でにこにこ笑う卓の方を見た。

「卓君、お父さんの若い頃にそっくりなんだから。久しぶりに卓君見て、びっくりしちゃった。本当、生き写しみたい」

 えっと小さく叫んで、鏑木は次男の卓をまじまじと見詰めた。父親の面影すら記憶にない鏑木は、遺影の中の父しか知らない。しかもその遺影も兄の自宅にあるだけで、もう数年も見てはいなかった。よって姉に指摘されるまで息子と父が似ているなど気付きもしなかったし、驚きも一入だったのだ。

「それ本当かよ、姉さん。こいつ飄々としているし、何を言っても糠に釘だし……」

「本当よ。この間家を整理していたら、偶然お父さんの若い頃の写真が出てきたの。あんたに見せようと思って持ってきたから、ほら」

 暁子はハンドバッグの中から写真を一枚取り出し、鏑木に手渡した。古ぼけた白黒写真には、ワイシャツ姿の男性が一人写っている。姉曰く結婚する直前の父だそうだが、確かにその姿は卓と瓜二つ。華奢な体つきも、見るからに優しげな顔つきもそっくりだった。その酷似ぶりに鏑木でさえ声が出なかったほどだ。

 鏑木の家族も写真を覗き込み、「うわーすげー、兄貴そっくり」とか「本当よく似ているわね」とびっくりしている。息子達の中で卓だけが親のどちらにも似ていないーーという謎が解け、皆が納得したようだ。

 ところが当の卓はあまり関心がないようで、写真を見てもふーんと一言呟いたのみ。他人事のようにリアクションが少ない。あまり物事にとらわれない性格なのである。

 その卓が先日の「事件」では珍しく激しく落ち込んだ。今はそのショックからも立ち直り、勤務先も異動になっていつもの彼に戻っているが、鏑木はこの息子の行く末を些か案じていた。

 卓はおっとりした性格で口下手、覇気に乏しく出世意欲など微塵もない。気立ての良さと真面目なところが取り柄の、見るからに頼りなさげで面白味に欠ける男性である。郵政省勤務の公務員という安定した仕事には就いているものの、この先どうなるのか。長男は世帯を持ち、間もなく父親になる。三男は大学でラガーマンとして活躍、将来を有望視されて幾つかの社会人チームを持つ企業から、入社の誘いも受けているのだがーー

 ーーまあ、今はそんなことを気にする必要はないか。とにかく、あいつが幸せになればいいんだからな。

 もうすぐ正月、鏑木は取り敢えず難しいことを考えるのは止めた。父の遺骨も納骨できた。藍沢も無事帰ってきた。犯人を一人取り逃がしはしたが、折妖トーナメント戦が発端となった事件もひとまず解決した。これ以上何を望むというのだろう。来年からはまたいつも通りの平穏な、そして多忙な日々が戻ってくるのだ。自分にとって今まで通りで十分ーーそう感じずにはいられない鏑木だった。

 あー、どうにか完結できました。この「闇の小馬」、当初の予定では前後編の二部作で行くつもりでした。ところが「紙士養成学校」ものの短編は、全て書き下ろし。作者も想定していなかったほど長い話になり、三部作となってしまったのです。字数もトータルで十三万字を越えましたし……。もし最初からわかっていれば「紙士養成学校の事件簿」とでもして、長編連載にしていたのですが。評価等を入れられるようでしたら、後編の方へお願い致します。

 さて、今回は完全なハッピーエンドとはなりませんでした。辰也が逃げてしまいましたから。でもこの辰也、作者的には使える(笑)。悪役黒幕として今後の作品に登場させる機会もあるかと思います。

 本作では幾つかの謎も残ったままです。例えば藍沢が和州で小馬を漉いた件について。時期は十八年前であることがわかっていますが、場所と依頼者は出てきていません。でもこれは前編をよく読んで頂ければわかると思います。そして依頼者がこの事実を隠そうとした理由も。他にも「ベイアードで小馬の妖紙の紙解きを依頼したのは誰なんだ?」とか「福原と里中はどうなるんだ?」とか色々ありますが、それは機会があればお話していくつもりです。

 この三部作、どうもぎすぎすした話になってしまいましたので、次回はギャグ満載(?)の話にしようかと考えています。予定は「創立百周年記念式典編」。お楽しみに。


 

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