その8☆震える身体
無遅刻無欠席の記録は今日もまた更新されて、門番の嘉瀬は俺が毎日定時に来ている事が不思議らしく、舌打ちをしながら太い首を傾げると怪訝そうな表情でこちらを一瞥した。
別に俺は時間にうるさい人間ではないし、かと言ってルーズなのかと言われればそれも違う。
遅刻なんて特にどうだって良いと思うのだが一度意識してしまうと、それが崩れるのがなぜか怖くなる。
例えばジンクスみたいな奴がそれの典型で、靴下を右から履いたり、テレビの音量は必ず偶数じゃないと落ち着かないとか、考え出したらキリがなくてもうほとんど強迫観念に近い。結果がどうであろうとただの偶然だと一喝する事が出来たらどんなに楽だろうかと思う。
でもそれを神経質に気にしている事が人間の証明なのかも知れないが。
上履きに履き替えて教室の扉を開けると、いつものざわめきが俺を出迎えた。
まだ始業前で教師の姿は教壇には無く、代わりに教卓をリングにしてジョーとフクちゃんが腕相撲をして盛り上がっている。
ギャラリー達の低い声援が教室内に木霊して熱気は最高潮、傍らに置かれている机の上には千円札や小銭が無造作にばらまかれて、試合が長引くに連れ、ギャラリーはもう狂乱の域に達そうとしている。
勝負は膠着状態だったが、誰かの『いけー!』と言う声にジョーが素早く反応して一気にフクちゃんの右腕を倒しにかかった。何とかこらえていたフクちゃんだったが、ジョーの黒人並の腕力にはかなわず、教卓に腕を叩きつけられた。
勝負が決し、狂喜乱舞するギャラリー。
ジョーに賭けていた奴らは高々と両腕を掲げ、フクちゃんに賭けていた奴らは下を向いて力無く肩を落としている。
好勝負の余韻の中、担任の古泉が登場し、腕相撲観戦で朝のエネルギーを使い果たしたみんなは大人しく着席した。俺も席に着き、鞄を机の中にしまう。
古泉の念仏みたいな授業が始まるとクラスのほとんどの奴らが机に突っ伏し出して俺は笑んだ。
退屈な授業に耐えかねて、上着のポケットからipodを取り出してイヤホンを耳に差し込むと起動ボタンを押した。少しの沈黙の後、hideの『DICE』が流れ始めてそれまであった感覚が霧散して行き、替わりに激しいビートとリズムが身体の隅々にまで広がる。
眼を閉じると日常と言う、在り来たりの世界が消えて、音が激しさを増す。二番のサビの部分をhideの高音ボイスが駆け抜けた時、俺はジメンヤのおっちゃんの事を思い出していた。
おっちゃんの生きてきた世界はきっと強烈でそして鮮烈で、それは紛れもなく今まで知らなかった世界だ。その未開の世界が刺激を欲している俺の奥底にある『スイートスポット』を確実に捉え始めていた。
もしかしたら、抜け出せるかも知れない、この退屈な日常から……。
そう考えていたら身体が抑えられないくらいブルブルと震えた。
二時限目も三時限目もいつもと同じく過ぎて行き、四時限目に差し掛かろうとしていた休憩時間になぜか体育教師の嘉瀬が俺達のクラスに現れた。
男子生徒のほとんどから嫌われている嘉瀬の予期せぬ登場に、教室はブーイングの嵐で異様な空気を孕み出し、今にも爆発しそうなほど膨らんでいる。
嘉瀬は教室内をゆっくり見回すと、
「静かにしろ!」
いきなり、そう低く大きな声で叫んだ。それまでの空気は一蹴されて、
その迫力に教室内は水を打ったように一気に静まり返った。もう一度辺りを見渡すと嘉瀬はフンッと鼻を鳴らしてツカツカと歩くと俺の前に立った。
眉間に自然と縦皺が刻まれ、眼は拒絶するように嘉瀬の髭剃りあとの濃い顔を睨んでいた。嘉瀬は俺の顔を見据えたまま、暫く黙っていてみんなの視線がこちらに集中する。
(チッ、何なんだよ? めんどくせーな……)
その思考を理解したのか一つ息を吐くと口を開いた。
「米倉、ちょっと職員室まで来なさい」
いつもの嘉瀬なら高圧的な態度で『来い!』と命令口調で言うのに丁寧な物言いに気持ち悪さと不安が俺の内側で生まれ、胸がざわついた。
言われるまま席を立ち、黙って歩く嘉瀬の後ろを追従してすぐ手前の階段を降りた。
静かな廊下を歩いている時も嘉瀬は何も言って来なくて、俺は最近の出来事を可能な限り反芻したが別に呼び出しを受けるような事は思い当たらなくて軽く舌打ちをした。
程なくして職員室に着き、扉を開けて中に入るように促される。
仏頂面で中に入ると、何人かいた教師たちの視線が一斉に俺を捉え、何だか息苦しい。
教師たちの顔に、同情や憐れみ、恐怖や悲しみの色が見えた気がして、
その様々な色が俺を染めて深く浸透し、身体の自由を奪っていくみたいに感じた。
何でここにいるのか意味が分からなくて、溜息を放つと、この場所に連れてきた嘉瀬を強く睨んだ。
薄く睨み返され、嘉瀬はその青い顎を前にクイッと突き出した。
その先に目をやると真新しいテレビがあり、その画面の中、背広を着た四十年配くらいで男のアナウンサーが緊張した面持ちで何かを伝えている。
慌ただしいスタジオ、画面左上に『報道特別番組』の文字とその対角に『日本人を乗せた大型旅客機墜落か!?』の文字が俺の目に映った。
胸が締め付けられて画面を見つめる視線が揺れる。
アナウンサーに新しい原稿が渡されたのか、スタッフと思しき人物がテーブルに紙を置いて素早く立ち去る。アナウンサーと正対するカメラに切り変わり、その顔が更に険しい物に変化した。
「えーたった今、乗客の日本人の死亡が確認されました。亡くなられたのは東京都在住の米倉壮一郎さん五十三歳。えー繰り返します、亡くなられたのは米倉壮一郎さんというお名前の方です」
――いつもと変わらない、在り来たりだったこの日、資本主義に飼われた親父が、
突然死んだ。