その5☆変わらない信号
キーン……コーン……カーン……コーン。
お馴染みのやる気ないチャイムが校舎に鳴り響いてそれと同時に放課後が登場し、本日も何事もなく終わりを告げてしまった。
クラスの九割以上が帰宅部の俺達はコレと言った用事もないので自然と教室に残る奴らと出て行く奴らに分かれる。
「じゃあ、またな」
の挨拶を交わして、フクちゃんとニイとヤマピーの三人は冗談を言いながら教室を後にした。
「ミラン(パチンコ屋)が今日も俺を呼んでいる!」
とか何とか叫んで、そのすぐ後をヨッシー(井之上善明)が慌ただしく出て行く。
ユウちゃんは気が付くと、もう姿を消していて残っているのは何と無謀にも今日から大学進学に青春を捧げようとしているアーちゃん(藍川卓)やカネヤン(金田勝)、
それにセンター試験はカンニングで乗り切ろうと今から準備をしている策士、ナベちゃん(渡辺一幸)などだ。
三人はそれぞれが持ち寄った問題集を囲んで大手術に挑む外科医のように真剣な顔で額を突き合わせている。
凄い熱気だ。
その熱気に少し圧倒されながら机を覗くと『分数の計算』と書かれた問題集の表紙が目に映り、俺は固まった。
……高二だよな? 俺達。
暫く覗いていると三人は一様にう~んと唸り出し、そのうち頭をグシャグシャと掻きむしり始めた。
いきなりアーちゃんが立ち上がり、
「分母の馬鹿野郎!」
と叫んで、スゴイ勢いで教室を出て行ってしまった。残った二人は互いの顔を見合わせた後、
「分母の馬鹿野郎!」
と、同じセリフを吐いてその後を追うように出て行った。
一体何が起きたと言うのだろう。
沈黙した教室、俺はハア~とやるせない溜息を吐くと自分の席に行き、鞄を持つと面白みが失せた教室を後にした。
冷えた廊下を足早に歩き、色がくすんだ階段を若者らしく軽快に降りた。
昇降口でお気に入りのナイキ・エアマックス95(俺が生まれた時くらいに流行したスニーカー。親父が輸入関係の仕事をしていた為、家には新品のエアマックス95があと五足ほどある)を鼻歌を歌ながら靴箱から取り出した。
「銀亜ちゃん」
後方で俺の名前を呼ぶ声がして動きを止める。チッと特大の舌打ちを響かせると首だけをその方向へ捩じった。
「ガキの頃みてーに、そんな呼び方すんなよなリコ」
「……ごめんなさい。ギンって呼ばなきゃ駄目なんだよね?」
リコは右手で自分の頭を叩く仕草を見せ、愛玩動物のように舌先をチロッと出してやや上目づかいで俺の顔を覗き込んだ。
その可愛らしさは、もはやプロ級で大概の野郎どもはコレにやられちまうだろうな……と思った。
「駄目って訳じゃねーけど……」
俺がそう言うとリコはフフッと笑んで、じゃあ銀亜ちゃんでイイよね? と楽しげに声を弾ませた。いや良くないから。
「銀亜ちゃん、今帰り?」
「あ? ああ、そうだけど」
「じゃさ、一緒に帰らない?」
そう言いながらリコは右肩に提げていた鞄の位置を直した。ファスナーの先端部分にぶら下がっている緑色で目玉の大きい、宇宙人みたいなキャラクターのアクセサリーにくっ付いている鈴がチャリンと鳴る。
「ああ、……良いけど。つーかお前部活はどうしたんだよ?」
リコはもうっと言うような顔をして期末テストが近いから今週は休みじゃないと少しむくれた感じで俺を見つめた。
二年B組はやはり学校側から見放されているらしく、期末テストの『き』の字も知らされていなかった。
久しぶりに聞いたソレは遥か彼方に忘却された単語であり、酷く懐かしい。
黙っているとリコはまた、一緒に帰ろ、と言い、俺のブレザーの左袖を結構強めに引っ張り、帰りを促した。
「ちょ、引っ張んなよ。ちょっ……待てよ!」
まるでキムタクみたいなセリフを吐いた俺を無視してリコは柔らかく笑み、
「一緒に帰るの久しぶりだぁー」
と、子供のようにはしゃいでいた。
そんなリコの可愛らしさとこんな場面をトシヤや他の男子生徒に目撃されたらヤバイ、言い逃れが出来ないなと内心ドキドキしていた。早く帰ろう。
年季が入った鉄製の靴箱を開けたリコの足元に何通かの、俗に言うラブレターがバサバサと音を立てて床に落ちた。リコは慣れた手つきでそれらを拾い、靴箱の上でトントンと揃える。
「もうっ……朝も入ってたんだよ、毎日毎日みんな暇なのかな?」
リコは凄く困ったような顔をして、銀亜ちゃんどう思う? と俺の目を見つめてきた。
「んー? っていうかソレ自慢だろ? 私はこんなにモテるの~スゴイでしょ? みたいな」
ニヤリと笑んでリコの持っているラブレターに視線を送る。薄いピンクやブルー、ライトグリーンを纏った淡い恋心がリコの手の中で無邪気に踊っている。
「もうっ、茶化さないでよ。ほんとに困ってるんだから」
「……ソレ、どうすんの?」
俺はむくれ顔のリコに握られている、ある意味幸せな手紙たちを指差した。
「一応、読んで……」
「呼んで?」
「そのあと……捨てちゃう、かな?」
「捨てちゃうんだ!(笑)」
からかうように言うと、リコは恥ずかしそうに顔を赤くして、
「しょうがないじゃない、だって毎日くるんだもん」
と言い、余命幾ばくもない手紙たちを優しい眼差しで見つめた。
「ほら、やっぱり自慢だ(笑)」
「違うよ~!……もう行こ、銀亜」
リコは手紙を鞄の中に無造作に入れるとローファーを取り出して履き、その姿をぼんやり眺めていた俺を笑顔で手招きする。
ちょっとだけ嬉しくなったが、一緒にはしゃぐのはどうかと思ってクールを装い、
「おお」
と、ぶっきらぼうに返事をして俺はその後をついて行った。
街は朝と変わらずにクリスマスを讃え、鮮やかに色付いていた。
西の空から降りそそぐ、濃い蜜色の夕日がそれらを染め、ついでにリコの横顔も染めている。
不覚にもその横顔に見惚れてしまった俺をリコは一瞥し、
「もうすぐクリスマスだね~」
と、弾んだ声を上げた。
ああ……と素っ気ない返事をした俺をリコはまた見つめて、
「……そっか、銀亜ちゃん、クリスマス嫌いなんだよね」
と、どこか寂しそうにぽつりと呟く。
「別に嫌いじゃねえけど」
「でも、どっちかって言うと嫌いな方でしょ?」
リコが顔を覗き込んで来る。目が合うと照れくさいのでわざと外し、
「さあなぁ」
と言い、夕焼けに染まる西の空を黙って見つめていた。
少し気まずくなった空気を変えようとしたのかリコは明るく振る舞い、上空を飛んでいる旅客機から伸びるオレンジの色鉛筆みたいな飛行機雲を指差して、あれが十五分くらい空に残っていたら次の日は雨になるんだよ、銀亜ちゃん知ってた? とか、今度の月九の脚本は久し振りに野島伸司なんだって、楽しみだな~。とか言いながら微笑んでいた。
俺はあぁとか、へーとか気のない返事ばかり繰り返していて無骨な男を演じていた。
暫く歩くと大通りの交差点に差し掛かり、信号が青に変わるのを待っていた。
大人しく信号待ちをしている俺達の前を過積載丸出しの大型ダンプがブロロロロッと大きなエンジン音を響かせ、走り去って行く。
ダンプが巻き起こした風でリコの艶のある長い黒髪が揺れ、リコは右手で髪を押さえた。
信号はなかなか青にならず、
「ココ、いつも長えんだよな~」
と、俺が独り言を言うとリコは街の雑音に消えてしまいそうなほど小さな声で呟いた。
「違ってたらゴメンね。銀亜ちゃんがクリスマス嫌いなのってさ、もしかしたら私の……私のせい?」
「あ? お前何言ってんだよ、そんな訳ねーじゃん」
不思議な事を言うリコを見つめると、その視線から逃げるようにリコは下を向き、小さく首を左右に一回振る。
「違うの……違うの」
リコは子供みたいにそれだけを繰り返していて、俺は意味が分からなくて、
「違うって何が? 分からねえよちゃんと言ってくれよ」
そう強い口調で問う俺の顔をリコは弱々しい感じで見上げ、
「おばさんが……銀亜ちゃんのお母さんが亡くなったのってクリスマス・イブの前の日なんだよね」
こちらを窺うようにリコは言葉を漏らした。
「……ああ、そうだな」
母さんは十年前のちょうどこんな夕暮れ時、飛び出してきた車に轢かれて死んだ。
まだ三十二歳だった。
俺は当時七歳で死がどういう物かイマイチ理解していなくて、薄暗い病院の安置所に静かに横たわる母さんを見つめ、
「何でお母さんは眠ったままなの? ねえ何で?」
と、頻りに訊いた。
黙っている親父や医者に、何で? 何で? としつこく訊く俺の頭を看護婦さんはただ黙って優しく撫でてくれた。
「お母さんはね、お空に帰って行ったんだよ」
と、俺の頭をただ優しく撫でていた。
それからの俺は空を眺める時間が増えた。嫌な事があった時、空を眺めた。良い事や嬉しい事があった時も空を眺めた。
空は母さんだった。
空を眺め、母さんはいつか帰ってくるんじゃないか……と思う日と、もう永遠に会えないんだと思う日が交差する。あれからもうすぐ十年が経過しようとしている。
「それがどうかしたのかよ?」
リコはまた俯いた。沈黙が生まれ、それが俺達を包んで少し息苦しい。信号はいつの間にか青に変わっていたが渡れる雰囲気じゃなくなってしまった。
「私を……私を助けようとして……銀亜のお母さんは」
そこまで話すとリコは突然泣き出した。声を出して泣いた。通りを走り抜けるバイクの耳を劈くようなエンジン音とリコの鳴き声が重なり、それなまるで競い合うみたいに激しく続いて行く。
「知ってたよ」
チカチカと点滅する歩行者用の信号機を見つめ、俺はそう呟いた。
「知って……たの?」
「ああ、次の日、親父から聞いた」
信号はまた赤に変わってしまった。あの日からこの信号は一体何回変わったのだろう?
「……ごめんなさい」
リコの左頬を一筋の涙が伝い、そして落ちて行く。こんな時ドラマの主人公はどんなセリフを言うのだろうと思った。カッコつけている訳じゃなくて、泣いているリコの為に。
言葉なんかいらなくて、ただ強く抱きしめればイイのだろうか?
「別にお前が悪い訳じゃない。だから……だからもう泣くなよ」
リコは、うんと呟き、またゴメンねと言って頬に流れた涙を手の甲でゆっくりと拭った。
「……私、どうしたら良いかな?」
「どうって?」
「だって銀亜ちゃん、時々すごく哀しい、寂しそうな顔するじゃない」
「してねーよ」
「ううん、私には分かるの。銀亜ちゃん今すごく寂しいんだろうなぁとか、あっ今、お母さんの事思い出してるのかなぁとか……」
そう言ってリコは精一杯微笑んだ。そんなリコの気使いや優しさが胸に痛いほど沁みた。
「お前は昔からスゲー優しいよな。何で俺なんかにそんな優しいんだよ」
リコは少しだけ俯いて、
「……何だってイイじゃない、バカ」
と、小さな声で答えた。
俺達二人の間の微妙な距離を冷たい十二月の風が吹き抜けて行く。
また、沈黙が生まれた。街にはたくさんの雑音が溢れているがこちらまでは届かない。
俺は何回か咳払いをして、
「俺、馬鹿だしさ、何つーかその……うまく言えねーけど、お前がさ、……お前が幸せなら、それが一番イイんじゃねーの?」
そう言って笑って見せた。
少しの時間が流れてリコも微笑み、
「ありがとっ」
と呟いて俺達はまたクソ長い信号が青に変わるのを静かに待っていた。
近くにある児童公園から小さな子供のはしゃぐ声が聞こえてきて、ガキの頃、リコと良くその公園で遊んだ事を思い出す。俺とリコは物心ついた時から一緒にいて、家も隣り同士の幼馴染だ。
一緒の幼稚園に通い、小学校、中学、高校と約十四年間俺の隣にはリコがいた。
夕闇に変化して行く街を見つめながら、ふと思う。
俺はリコの事が好きなのだろうか?
……分からない。
いつも近くにいるのが当たり前で、離ればなれになるなんて考えもつかないこの現状に俺はただ甘えているだけなのだろうか?
もし、リコとトシヤが付き合う事になったら俺は……俺は心からおめでとうと、そう言ってやる事が出来るのだろうか?
……分からない。
「銀亜ちゃん、青になったよ? 行こっ」
「……ああ」
俺達はいつまで一緒にいられるのだろう? 明日まで? 明後日まで? 一年後? 十年後?
多分、再来年の春までだろうな――と思った。
リコは大学に進み、小さい頃からの夢だった教師を目指し、俺は……俺はどこに行くのだろう?
薄っぺらく夢のない俺達はどこに流れ着くのだろう?
「ねえ銀亜ちゃん、今月の二十九日って何の日か分かる?」
リコは嬉しそうに口元に笑みを浮かべて俺を見つめる。
「んー? 大晦日の二日前だろー……ああ、アレだ! 前田対原田の宿命の一戦! 観たいんだよなアレ」
片手でシャドーボクシングの真似をするとリコは口を尖らせ、
「違うよ~! もう。……本当に知らないの?」
と、物悲しげな表情を浮かべ、俺の目をじっと見つめてきた。
不慣れなその空気に鼓動が速くなる。鼻から息を吸い込んでゆっくりと口から吐き出す。
「知らなねー訳ねえじゃん。お前の誕生日だろ?」
リコは嬉しそうに破顔する。
「覚えててくれたんだ、ありがとう」
短く頷くとリコはまた口を開いた。
「銀亜ちゃん、その日何か予定ある?」
少し考えたが特に何もなかった。首を横に振る。
「だったらさ、その日ウチに来ない? 私の誕生日会とお姉ちゃんの婚約祝いをやる予定なんだ。ねえ、イイでしょ?」
「へー、マコさん結婚するんだ」
マコさんは俺達より六つ年上で、今は確か県下でも有数の企業の秘書をやっている。リコと同様、文句の付けようのない美人だ。
だが性格はかなりの男勝りで昔、リコにちょっかいを出した近所の悪ガキは良くシメられていた。気さくで頑張り屋で芯が強い。そんなところが少しだけ母さんに似ていた。
「うん、来年の春に式を上げる予定」
「ふ~ん、そっかぁ……おめでとう」
無邪気に喜ぶ俺に、リコは自分の事のように嬉しそうに微笑んだ。
「きっと綺麗だろうなぁ、お姉ちゃん」
リコは感慨深げと言った表情で潤んだ瞳を空に向けた。俺も空を見上げ、マコさんの事を思っていた。
不意に今隣りにいるリコもあと何年かしたらそうなってしまうのかと思うと俺はすごく切なくなってきて涙が出そうになり、必死でソレを抑えた。
(お前の方が……きっと綺麗だよ)
リコに聞かれないようにそっと心の中で囁いた。リコは変わらずに空を見上げ、想いに耽っている。
……リコの隣りは誰の物なんだろう? リコもいつか誰かと結婚して母になり、幸せな家庭を築いて行く。その時、隣りにいるのはどんな奴なんだろう?
「約束だよ、二十九日絶対来てね?」
「あ? ああ、……暇だったらな(笑)」
冗談を言う俺にリコは笑い、
「絶対来てくれるよ、だって銀亜ちゃん私との約束破った事今まで一回もないもん」
と確信的に言う。
「……リコ」
「ん? 何、銀亜ちゃん」
「十七歳、おめでとうな」
立ち止まり、真剣な顔で言う俺にリコは照れくさそうにはにかみ、
「まだ早いよぉ……でも、ありがとう銀亜ちゃん」
と言い、真っすぐ俺を見つめ、そして屈託なく笑った。