その21☆白は世の中で一番綺麗な色
結局、俺は一旦自分の家に戻り、斬られたブレザーを着替えるとまた学校へと戻ってきた。
待ち合わせの裏門で気だるそうに煙草をふかしていた先輩は俺を見つけると屋上の時と同じように靴の底で煙草を揉み消して遠くへと投げた。
「ヨッシャ、んじゃ行くか」
そう言うなり先輩が歩き出す。煙草の匂いとともに。
「どこ行くんだよ先輩」
「良いからついて来いよ」
無言の先輩の背中について行く事十分あまり、俺達は平屋建ての古い木造アパートの前に立っていた。空の色と相反する小豆色の屋根。瓦の隙間から薄いグリーンの草が生え、冬の風に揺れている。
表札もないそのアパートを見つめる俺に、先輩は黙ってブレザーのポケットから鍵らしき物を取り出すと鍵穴に差し込んでドアを開けた。ドアの金具が傷んでいるのか女の悲鳴に似た甲高い音が短い時間、辺りに響く。まだアパートを見つめていた俺に、
「上がれよ」
とだけ言い、先輩は建物の中へと消えた。
中に入ると半畳ほどの広さの狭い玄関にアパートに負けないくらいの古びた木製の下駄箱があり、その上に女物の白いパンプスが置かれていた。薄暗く、古びた玄関には不釣り合いで違和感がある。
「何ココ、先輩の家?」
短くああ、とだけ答えた先輩が俺の視線がパンプスを捉えている事に気づいたのか、
「ソレは別に気にしなくても良いぜ」
とまた短く言った。
先輩は靴を脱ぎ、二つの小さな段差を跨いで部屋の中へと入って行く。俺もスニーカーを脱いで踵を揃えると先輩の靴とは反対側、玄関の右端に置いた。
「何だ米倉、随分行儀が良いじゃねーか」
先輩がフンッと笑う。
「ガキの頃からの習慣なんだよ。揃えねーと気持ちがワリーんだ」
部屋に上がると先輩が入り口近くにあったファンヒーターを手前に移動させてスイッチを入れた。すぐにヒーターが起動して排気口から熱を吐き出す。八畳ほどの和室は中央に正方形で市松模様のコタツが陣取り、その少し先、南側に十四型の液晶テレビが置かれ、こちらを向いている。
濃い緑色の砂壁が部屋の周りを囲んでいて、黒ずんだ柱から伸びる梁の上には恐らく空箱だろうと思われるラッキーストライクが綺麗に並べられていて宛らクリスマスのようだ。
部屋の一番奥に目を向けると、携帯電話のショップの店頭に良く置かれている有名女優の等身大パネルが立てかけてあり、俺に微笑んでいる。真ん中には『学生半額!』の赤い文字。
「ソレも気にしなくて良いぜ、米倉」
先輩が徐に煙草を取り出して、火を点けた。八畳の部屋はすぐにその香りに包まれて、先輩の匂いになった。
「先輩も一人暮らしなのかよ?」
コタツに入りながら俺が訊くと先輩はコタツの電源を入れ、右横の襖を開けて中に消えた。覗くと襖の奥は二畳くらいの台所になっていて、灰皿と缶入りのお茶を手にして戻ってくると、
「ああ」
と先輩は小さく答えた。お茶を俺の前に静かに置く。興味深げに視線をキョロキョロ泳がせていると、
「俺の事より米倉、お前の事だよ」
そう、先輩が呟いた。俺を見つめるその眼は相変わらず鋭くて強いモノだったが、今までとは違う何かが含まれているような気がした。それが何かまでは分からないが……。
「双龍の二人からは逃げられねえぞ米倉、どうする?」
「……どうするって、別にどうもしねえよ。俺はただ刺激を味わいたいだけなんだよ。毎日退屈なんだ。無聊を埋めるスリルをくれるなら大歓迎だぜ」
先輩が吸っていた煙草の灰を一回、灰皿へと落とした。それから溜息とともに煙を吐き出す。室内がやけに静かでその音が大きく感じられた。
「気楽なもんだな米倉、そんな簡単な相手じゃねーぞ」
「分かってるよ先輩。向こうも二人でこっちも二人、なによりブラックの四代目がついてんだから大丈夫だろ」
俺はコタツの掛け布団の裾を自分の方に引き寄せると、先輩の底の見えない黒眼を見つめ、そう言った。先輩は吸っていた煙草を灰皿に押し付けて消し、俺から視線を外して窓の向こう側をぼんやりと見つめた。
「驚いたか?」
「ああ、多少はな。だけど、ただ者じゃねーと思ってたからよ。でも辰巳だっけ? 戻って来いって言ってたみてーだけど……」
先輩は変わらず窓の外を眺めていた。その眼には一体何が映っているのだろうと思った。
「辞めたんだよ俺は。……ただそれだけだ」
俺に視線を戻すと、そう呟いた。
「何で辞めたんだよ? 持ったいねーじゃねえかよ先輩。ブラックの次期団長だったんだろ? スゲーじゃん、誰でもなれるってモノじゃねーし」
俺が一息にそう言うと先輩は面倒臭そうに頭を掻いて、それきり黙ってしまった。
重苦しい沈黙が俺達に降ってきて、気まずくなった俺はふと玄関の方を見た。先輩の向こう、白いパンプスが視界に入って不意に俺はそれが先輩の顔に落ちた影の原因ではないのだろうかと感じた。
「あのパンプスが何か関係してんのかよ?」
俯いた先輩の鋭い眼だけが俺の方を向いた。今までで一番強く、尖った眼だった。内臓どころか俺の未来まで見透かされそうだ。暫くして先輩は俺から視線を外し、チッと舌打ちを鳴らす。静かな和室にその音が反響した。
「いつになく勘が良いじゃねーか、米倉」
先輩が薄く笑んだ。その眼に鋭さはもう無くて、その代わり少しの諦観が滲んだような気がした。新しい煙草に火を点けると先輩は徐に立ち上がった。
部屋の一番奥、砂壁に掛かっていたコルクボードの前に行き、手を伸ばすとすぐに戻ってきた。その手に一枚の写真が握られている。
「昔の話だけどな」
銜え煙草でそう言った先輩がその写真をコタツの上に置いた。手に取って見てみると、どこかの街並みが写っていた。煌びやかな光を背景に男女六人が笑顔でこちらを向いている。
知っている顔がいくつかあった。辰巳と九十九、東にそして先輩だ。その先輩に寄り添うように一人の女が微笑んでいる。白のワンピース、ロングストレートの黒髪、知性的な眼差し、雪のように白い肌が夜の街と呼応しているみたいに光り輝いていて、それが一番強く受けた印象だった。どこかリコに似ている……と思った。日付は二年前の夏になっている。
「あの靴はこの人のかよ、先輩」
俺は写真の中で微笑む女を指差した。先輩は短く頷く。
「ああ、ミズホのだよ。あいつは白が好きだった。服や靴とか持ち物のほとんどを白で揃えていてよ、あれはいつだったか、俺訊いたんだよ、何で白ばっかり集めるんだって。そしたらあいつ『だって白は世の中で一番綺麗な色でしょ?』って。俺は良く分かんなかったけど、あいつはいつも笑ってそう言うんだよ」
先輩は佇立したまま、窓の外に目を向けていた。向かいの家の黒い屋根瓦に昼の濃い陽が当たり、キラキラと反射を繰り返している。遠くで何かのサイレンが鳴っていて薄い硝子戸から透過し、静かな室内がその音で満たされた。
「今もなんだろ? 先輩」
俺は貰ったお茶のプルトップを開けてそう訊いた。コクリと一口飲んだ。先輩は首を小さく左右に振り、いや……と、力無く呟く。煙草の先、その使命を果たした灰が畳へと落下する。
「この前、お前が言っていた通りだよ米倉」
「何がだよ?」
先輩の視線は外を見たまま、動かなかった。きっと二年前の夏が先輩の胸に去来しているのだろうと思った。
沈黙が続いてサイレンもどこかに遠ざかり、ファンヒーターの起動音だけが唯一の音源だった。次の言葉を待っていると先輩の唇から緩やかに言葉が洩れて、その静寂が掻き消された。
「人はいつか……死ぬってことさ」
先輩の切れ長の双眸から音もなく涙が溢れた。その涙は両方の頬を流れて顎先で一つになり、畳へと落ちて行く。
「先輩……」
先輩は変わらず窓の外を見たまま、動かなかった。涙だけが命を持ち、頬を流れているようだ。先輩は静かに泣いた。
「俺は守れなかったよ、ミズホを……」
二年前の夏、先輩の彼女は当時ブラックと対立していたチームのメンバーに拉致された。
隣町のアジトで監禁されそうになった彼女は隙を見て逃げ出し、助けを求めて必死に逃げた。だけど運悪く歩道橋のところで捕まり、揉み合っている時に階段で躓き、そして頭を打って亡くなった。
哀しみの中、先輩はそれを凌駕する怒りを持って対立していたチームのメンバー全員を殲滅した。怒りの対象を排除したあとに訪れたのは乾ききった悲しみで、それからの先輩は抜け殻のようだったそうだ。
結局、先輩はブラックを辞めた。冬も終わりに近づいた良く晴れた日の夕方、辰巳達の前から姿を消した。
「それが辞めた理由かよ? 先輩」
「……ああ」
俺はいつか屋上で先輩と話した事を思い出していた。
先輩は好きな女でもいれば……と笑っていたが本当は泣いていたのだろうか?
その悲しみを誰にも打ち明ける事が出来ずに、本当は泣いていたのだろうか?
先輩は短くなった煙草を灰皿へ捨てた。ブレザーの袖口で頬を流れた涙を拭いた。
「駄目だな、最近涙もろくなっちまってよ。もう歳かな俺」
赤い目をして先輩は無理に微笑んだ。俺が同情の表情をしていたのか先輩はこちらを一瞥して、
「笑えよ、米倉」
そう、涙が滲んだ目で呟いた。
部屋にはまた静寂が生まれて、それは無遠慮に俺達を支配し、拘束して行く。不必要に暖められた室内がその重苦しさを増長している。
「……それでも、ヤルのか?」
「ああ」
「大切なモノを失うかも知れねーぞ? それでもイイのか?」
大切なモノ。俺に何があるのだろう? 尾崎も死んでhideも死んで、そして母さんも死んで大切なモノはみんな死んでしまった。
そんな俺に守るべきモノなんてあるのだろうか? 俺は可能な限り考えたが、結局何も思い浮かばなかった。そんな薄っぺらいボンクラなんだと改めて再認識した。
「刺激しかないんだよ俺には。それを捨てたら俺が俺じゃなくなっちまう」
言うなり、目の前のお茶を一気に飲み込んだ。二百CC足らずのお茶は苦みを残してすぐに胃の中へ落ちる。
「大人になれよ米倉。そんなこと言ってたらツライだけだぜ?」
「うるせーな、余計なお世話だよ先輩。これは俺の趣味なんだよ、文句言われる筋合いはねえ」
何かが違ってきている。直感的に俺は感じ、無理やり悪態を吐くと立ち上がった。先輩はまだ何か言いたそうだったが、俺は気づかない振りをした。スリルの熱が醒めてしまうような気がした。
玄関で靴を履き、先輩の方を振り返るとやるせない、悲しそうな眼差しが俺を捉えたがそれにも気づかない振りをした。勢い良くドアを開ける。南向きの玄関の外から少しオレンジがかった陽が入り込んで目を刺激する。涙が滲んだ。それは眩しさからくる生理的な物だと俺は自分に強く言い聞かせた。
「じゃあな先輩。……お茶ご馳走様」
光の先を見つめて、そう呟いた。
もう振り返らなかった。




