その20☆B型はカマイタチに注意
日溜まりに闇が二つあるようだった。
俺は今日死ぬかも知れない、そんな不吉な予感が奴らを見た時から頭をずっと離れないでいる。
「気をつけろ米倉」
右隣りに立っている先輩の声は硬く張りつめている。浅黒く日焼けした顔、その額から汗が浮き出てきて、一つ顎先へと落下した。
「まさか双龍の二人が直々に来るとはな」
歩きながら先輩はそう言葉を洩らした。闇までの距離は凡そ三十メートルほどだ。遮蔽物のない校庭、闇の二人は俺達を視認しても泰然自若としていてこちらとは対照的だ。
「ソウリュウ? 何だよそれ」
「分かりやすく言えばブラックの始末屋だ。敵対している人間を排斥する為のな。イイか米倉良く聞けよ、向かって右に立ってる長髪のヤツは九十九龍次だ。ヤツはあまり腕力は無いが得物を使うから気をつけろよ」
「得物?」
「ナイフとかだよ、左のデカイのは辰巳健二でヤツは自分の腕力に絶対の自信があるから得物は使わねえ、だけど……」
「だけど何だよ、先輩」
「掴まれたら最期だ。ヤツの握力から逃れるのは百パーセント不可能だと思え」
闇まで十メートル、俺達は足を止めた。視線を上げ、前方を睨む。視界に入った二人は間違いなく昨日の奴らだった。俺達四人の周りに緊迫した空気が立ち込めて、鳩尾辺りがギリッと軋んだ。
「久し振りだな、門星」
デカイ方、辰巳とか言うヤツの低い声が耳を刺激する。隣りの九十九は薄い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「知り合いか? 先輩」
「……ああ、でも昔の話だ」
先輩は二人に視線を固定したまま、そう言った。額の汗は不思議と消えている。少しの沈黙の後、辰巳が続けた。
「東が寂しがってるぞ、早く戻って来いよ門星」
先輩の面貌が硬く引き絞られた。そのままの視線で地面に唾を吐き捨てる。
「もう終わったんですよ俺は……。俺はもう無関係だ」
それを聞いて辰巳は笑んだ。粘着性を含んだ酷く嫌な笑みだ。気分が悪くなり、俺も地面に唾を吐いた。
「終わらないんだよブラックは。俺が初代で龍次が二代目、東が三代目で門星、お前が四代目なんだよ」
辰巳の眼つきが更に鋭い物へと変わる。だが、どこか楽しかった昔話をしているようにも感じた。俺は事情が良く飲み込めないでいた。昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、校庭に広がっていた生徒達の気配が消えて行く。先輩の表情は変わらない。
「戻る気はねえ……か。フン、まあ良い、その話は後だ」
辰巳の鋭い眼が先輩からこちらに移行し、俺を捉えた。内臓まで見透かされそうな深い黒。先輩の視線の鋭さが分かった気がした。意識に反して全身の筋肉が硬直する。口の中に唾液が溜まっていき、反射的にゴクリと飲み込んだ。
「不毛なお喋りを聞いてんのはもう飽きたぜ」
先ほどまで薄い笑みを浮かべていた九十九が呟いた。静かな声、その顔に笑みはもう無かった。
「そろそろ……」
言った九十九が着ている黒のロングコートの内側に手を入れた。すぐに抜き出されたその手に一メートル弱の白木の棒のような物が握られている。最初、俺はソレを木刀だと思った。でも違った。九十九は左手を白木の中央部やや下寄りに持ち、右手を先端に持ち替えた。力強く握り、そして引き抜いた。
「成敗と行こうか……」
握られた白木の先、光を拒絶した銀色の刃が現れた。刀身をグレーの波紋がうねり、時折その身に蒼い空が映し出されている。空を薄く切り取ったようだ。場違いにも俺はソレを美しいと思った。思わず見惚れた。
「米倉ッ!」
先輩の叫び声が響き、視線を闇に振り向ける。闇の半分が消えていた。九十九がいない。
「左だ馬鹿ッ!」
再び先輩が叫んだ。左に振り向いた。俺の歩幅で二歩先、九十九は全ての感情を破棄した顔で素早く袈裟切りの形で刀を振り下ろした。
ヒュッと言う風を切る音と閃光のような煌めきが走り、俺に向かって飛んでくる。マズイと感じ、全力でバックステップする。研ぎ澄まされた刃先が右手に巻いていたハンカチを掠め取るようにヒットし、それを真っ二つに切り裂いた。
「米倉ッ!」
先輩の叫び声がして、こちらに駆け寄ろうとする気配がした。俺は血が滲んだ右の掌を開き、水平に動かしてそちらに向け、その動きを遮った。視線は九十九の冴え冴えとした眼を見たままで。
「これは俺の戦闘なんだよ、邪魔すんなよな先輩。やっと面白くなってきたトコなんだからよ、そこにいろよ」
「そうだ門星、手ぇ出すんじゃねえぞ」
低い地鳴りみたいな声、辰巳の声かと思ったがそれは紛れもなく今、俺を斬ろうとしている九十九の口から出た言葉だった。
眼が血走っている。クールな印象はもう消滅していた。睥睨する九十九の唇の両端に笑みが浮き出てきてすぐに溢れた。狂人染みた笑いだ。その笑みが俺にも伝染して、自然と笑みが零れる。
『イイ度胸じゃねーか、ガキ』
刀を上段に構え、その腕の間にある底の知れない深い闇のような眼がそう言った気がした。
俺は身構えた。同時に九十九の眼に殺意の色が加わる。痛いくらい張りつめた空気の中、俺と九十九がジリジリと間合いを近付ける。鼓動が高鳴る。アフロ男との戦闘では比べ物にならないほどの。
「間合いに気をつけろよ、米倉」
どこかイラついた感じで先輩が言う。右の拳を左の掌にパシンと打ちつけた。
「オーケイ」
間合いに着眼し、闇を睨みつけながら俺は答えた。昨日の雨で幾分湿った地面、その地面を静かに移動する闇、呼応する互いの息遣い、至高の時間だった。
「そうだ米倉、一つ言い忘れてたけどよ」
辰巳の言葉が濃密に膨らんだ戦闘の色彩を濁らして俺は少しイラついた。チッ、邪魔すんじゃねーよ。
「何だよ?」
「……東のガキ、今朝死んだぞ」
心臓にそっと氷を当てられたような気がした。世界が止まる。完全に――。
「う、嘘だ」
「お前が殺したんだ」
「違う!」
俺は首を左右に振った。……俺が殺した? そんな事はない。そんな事は……ない。
「考えるな米倉ッ! 来るぞ!」
先輩の怒号に似た叫び声が響く。視線を前に振り戻した。瞬間、飛んできた閃光が俺の上半身を的確に捉えた。バックステップも間に合わず、閃光が身体を駆け抜ける。俺は斬られた。
「米倉ッ!」
俺は……死んだ。そう思った。これでスリルも終わりか、と刹那の時間そう逡巡した。だけど俺は自分の体に色々な感覚がまだある事に気がついて斬られたと思われる場所に手をやった。
ブレザーは切れ、その下のカッターシャツも切れていたが肉はすんでのところで無事だった。指先が体温を感じている。まだ生きている? 心の中で呟いた。
刃先が軽く接触したのか皮膚がチリチリと痛んだが出血は見られなかった。視線を指先から闇に向けると九十九は顔面、向かって右のこめかみ付近を手で押さえて地面に蹲っている。足元に白木の日本刀と長方形の黒い物体がその横に落ちていた。
「門星、てめえ……俺に向かって携帯投げつけやがってどういうつもりだ」
黒い物体は先輩が投げつけた携帯電話だった。そのおかげで俺は助かったのだ。
「ふざけるなよ、てめえ……」
血の底から湧いてくるような野太い声が校庭に轟いた。九十九のこめかみから紅い血が溢れて、女みたいな白い肌を流れるとその紅は九十九の怒りと呼応して激しく煌めいた。
「殺ス」
九十九が刀を拾い、立ち上がる。今までとは違う恐ろしい顔が危機感を増幅させた。
「逃げろ……米倉、早く」
先輩が呻いた。だが俺はその忠告を無視して構えた。
先輩は刺激中毒者をまだ理解していないらしい。こんな楽しい遊戯をわざわざ放棄してどうする。九十九が素早く一回素振りをして、俺達四人の間にある空気を切り裂いた。緩やかに身構える。先輩が言葉にならない呻き声を上げた。
――来る。
そう思った時、辰巳の舌打ちが木霊した。九十九も何かに気づいた様子でチッと舌を鳴らすと渋々刀を鞘に収めた。……何だ? どうしたんだよ? 俺は構えを崩さなかった、いや崩せなかった。
少しの静寂が四人を包み、平穏が僅かの時間、戻ってきたみたいに感じた。俺が口を開きかけた時、遠くから体育教師嘉瀬の声が俺達に飛んできた。
「何やってんだお前ら!」
一瞬、時間で言ったらほんの二秒、嘉瀬の方に意識が行った。次に闇に眼を向けた時、俺の視覚に闇は映らなかった。二人は前にいなかったのだ。
「後だッ米倉!」
悪意を帯びた熱が俺の背後で咲いた。振り返る事も出来なかった。九十九は俺の三メートル先、辰巳に至っては五メートルほど先に佇立していたはずで、そんな馬鹿なと思ったが事実俺の背後で声がした。
「俺達からはもう逃げられねーぞ、ガキ」
闇のどちらかがそう言い、いつかのように俺の脇をすり抜けて二人はどこかへと消えた。
「大丈夫か、米倉」
先輩は落ちていた携帯を拾うとそう呟いた。俺を見るその顔は余命幾ばくもない癌患者を見るような憐れみを多分に含み、その眼差しが俺の身体の真ん中をざわつかせた。
「そんな顔すんなよ先輩。ブラックの四代目ともあろうお方がそれじゃ示しがつかねーよ」
俺は無理におどける口調で言ったが先輩の表情は変わらなかった。
ただその話はもうイイ、とだけ静かに言った。先輩がブラックの四代目候補だと知った時は多少驚いたが、それよりも先輩の顔にその時見えた陰のような物の方が気になった。
何かがあったんだなと感じた。俺みたいなボンクラでは計り知れない何かが闇と先輩の間に。
暫くそう思考していた。
「オイ、米倉。もう授業始まってるぞ、何してんだお前ら」
嘉瀬は相変わらず高圧的な態度でそう言うと俺の肩に手をかけ、そのまま腕に力を込めて手前に引き寄せる感じで俺を振り向かせる。九十九に斬られた上半身を見つけると、嘉瀬の目が限界まで見開いた。
「何だよソレ……お前斬られてるじゃねーか」
戦闘の痕跡を見つめる嘉瀬の視線が痛いほど傷に食い込んで、思い出したみたいにその部分がヒリヒリと痛み出す。俺は冷静に、ああコレすか? と小さく言い、
「やだなあセンセー今日のめざましテレビ観て来なかったんですかB型はカマイタチに注意って出てたじゃないですかカマイタチですよコレあの占いメチャメチャ当たりますね」
大真面目な顔で言う俺に先輩は軽く笑んで、馬鹿にされたと感じたのか嘉瀬の眉間には深い縦皺が刻まれた。空気が淀んで息苦しい。あ~あ、面倒臭えなコイツ、マジでよ。
「米倉、放課後職員室まで来い。お前もだ門星」
嘉瀬は俺達を睨みつけると仏頂面をして校舎へと歩いて行った。行くわけねーだろバカ、と遠ざかる嘉瀬の背中に吐き捨てて、これからどうするかを考えているとその思考を読み取ったのか先輩が、
「策を練るなら場所を変えるぞ」
と呟いた。俺は少し驚いたが、ああ、と頷いて柔らかな日差しが広がる校庭を歩き出した。




