その2☆アンチクリスマス
寝入り端に身体がビクリと一回痙攣して、俺は目を覚ました。
まだ、まどろんでいるような意識の中、壁にかかっているハト時計が「クルックー、クルックー」と鳴いたので視線を這わせると、あらヤバイ。いつもなら家を出ている時間じゃありませんか。
慌てて飛び起きると覚束ない足取りで階段を駆け上り、自室へ行くと素早くパジャマを脱ぎ捨てて生まれたての姿まであと一歩のパンツ一丁になり、クローゼットにかかっている制服とカッターシャツ、その下のプラスチックケースに丸まっている靴下を乱暴に取り出して着用し、学習机の脇に置かれていた鞄とテーブルの上で寂しく放置プレイ中だった携帯をムンズと掴むとケツのポケットに押し込んだ。
寒いので毛糸のマフラーを探したが見当たらず、舌打ちを響かせて半開きだった自室の扉を押しのけた。
バタバタと慌ただしく、今度は階段を駆け降りる。
そしてその勢いのまま、洗面所へと駆け込んだ。
顔をバシャバシャと洗っている途中、
(しまった。制服を着る前に顔を洗っておけば良かった)
と軽く後悔した。洗面所の鏡に映る寝ぐせ満開のもう一人の自分が
『人生は後悔の連続です』
と、言ったような気がしてムカついた俺は蛇口を捻ると冷たい水を鏡に向かってかけ、その顔を歪めてやった。
(ヘッ、どうだこの野郎)と心の中で嘲笑い、気分を良くして鼻歌まじりにジェルを取り、寝ぐせに撫でつけると手を洗って歯を磨き、身支度は完了した。
鏡の中のイケメンと暫し見つめ合い、時間がない事を思い出した俺はまた慌ただしく動き出した。
リビングでつけっぱなしのテレビはいつの間にか主婦御用達のワイドショーが流れていて、大物俳優の熟年離婚を取り上げ、ああでもない、こうでもないと騒ぎ立てている。
俺は興味なしの顔でソレを一瞥し、本体の主電源を押してテレビを消した。
先ほどまで白々としていた空は濃い青空へと変わっていた。
柔らかな日差しが東の空から斜に伸び、クリスマス色に溢れる街を反射する。
十二月の街は――いや日本は少しの時間、外国に変化する。
和の国、日本にこんなにもクリスチャンがいるとは思ってもいなかった。
テレビや新聞、その他各種の情報媒体を見てみるとケーキ屋とおもちゃ屋の露骨な販売欲が垂れ流されていて、男は彼女の点数稼ぎに流行りの物は何かと情報集めに奔走し、子どもはここぞとばかりに親に媚を売る。苦笑したイエス・キリストを横目に街は生産と消費をただ繰り返すだけで、クリスマス本来の意味を考えている奴なんて皆無に等しい。
花屋の店先を通り過ぎる頃、店頭に並んだポインセチアの鮮やかな赤色を見つけて、ふと死んだ母さんを思い出す。
母さんは赤が好きだった。特に紅の方の紅が大好きで、身の回りの物は出来る限り紅で揃えていた。
ある日、買い物帰りの昼下がり、抜けるような碧い空を指差して、
「あの空が真っ紅になったら、きっと毎日楽しいのにね」
と、優しく微笑んでいた。
不思議な女性だった。そして素敵な人だった。
そんな母さんがあの親父のどこに惹かれたのか、それは謎だった。もう誰も知る事のない永遠の謎だ。
……いや、知りたくもないけれど。
歩きながらそんな事を考えていると、いつの間にか目的地である学校目前まで来ていて俺はケツのポケットに押し込まれている携帯を取り出して時刻を確認した。
すると授業開始まで、あとたった三分しかないと言う現実を携帯は無常にも表示している。
逆算して今のままのスピードだと百パーセント遅刻だ。携帯をポケットに戻し、鞄を小脇に抱えた。
走るしかない。
二回ほど屈伸をして膝関節を運動させる。そのあと一回大きく深呼吸して、俺はタイムオーバー寸前のマリオみたいに猛ダッシュした。
先ほどの柔らかな日差しは豹変し、今度は身を切るような寒さが頬や身体を突き刺して行く。
無酸素運動の限界である四百メートルを越えた頃、最終コーナーである煙草屋が視界に入った。
その角を右に曲がればそこから百メートル、正確には九十七メートル直線が続き、
……見えてきた! 田舎の中学生でも今は着そうにない原色一色(緑色)のダサダサジャージを、
なぜか最新のトレンドと勘違いしている体育教師の嘉瀬(三十九歳独身・剛毛)が佇立しているところがゴールなのだ。
ここまでくればもう大丈夫だろうとスピードを緩め、安堵したのも束の間、嘉瀬は右腕をスイと高く上げて何やら左腕の手首のところを見出した。
次の瞬間、俺の耳に嘉瀬の「三十秒前ー!」という低い声が聞こえてきた。
ふざけんな、カウントダウンかよ!? てかアイツは両手を使わなければ数を数えられないんじゃなかったのか!? また急いで走り出した。
十、九、八、七、六、五――残り三秒でギリギリ何とか間に合い、俺は校庭に滑り込んだ。
セーフ、危ない危ない。こんなところで一年八カ月続けてきた無遅刻無欠席の記録を途絶えさせるわけにはいかない。
俺はゼーゼーと肩で息をし、額にうっすらと浮かんだ汗をブレザーの袖口で拭うと、重そうな鉄扉を閉めている嘉瀬を勝ち誇った顔で見つめた。
嘉瀬はチッと鋭く舌打ちをして、面白くなさそうに何かをブツブツ呟くと鉄扉と鎖を結合させて、朝の業務を終わらせる。
男子生徒をいびるのが趣味の嘉瀬は男どもから頗る評判が悪い。
卒業式にお礼参りと称して、とてもじゃないがココでは言えない事を計画している奴らを俺は何人か知っている。
さらば嘉瀬、ご愁傷さまです。
一年後の卒業式を考えると無性に可笑しくなり、笑いがククッと零れた。
「米倉~、お前何笑ってんだよ」
俺を睨む嘉瀬の両眼は軽く充血していて、こめかみには血管も浮き出ている。
あ~あ、怒ってんな。てかそんな簡単に怒るなよ。
コレは独自の見解なのだが、自分に自信のない奴はすぐに憤る。怒のオーラを出す事によってそれ以上自分の中に入って来られないように、言わば『バリア』を張るのだ。そうする事で弱い部分を守っているに違いない。
きっとソーローだな、コイツ(笑)
「いや~違うんすよ、最近かなり寒くなってきたな~と思って」
俺は超が付くくらい適当な事を言って、両手を大袈裟に擦り合わせるとハァーと息を吹きかけた。
その様子を黙って見ていた嘉瀬はフンと鼻を鳴らすと、
「お前は大丈夫だろ? どう考えても」
と言い、粘性の嫌な笑みを顔全体に広げた。俺は意味が汲み取れず、
「どういう事ですか?」
と、訊き返した。コレがいけなかった。
嘉瀬は嫌な笑みを更に深め、たっぷり間を置くと、
「昔から、馬鹿は風邪ひかないって言うだろ?」
と、ほざきやがった。
このソーロー野郎め、言ってくれるじゃねーか。
内側から込み上げてくる怒りを抑え、嘉瀬をクールに睨んだ。
嘉瀬は教師とは思えない蔑んだ視線をこちらに投げてくる。
俺は鞄を地面に捨てて嘉瀬に一歩詰め寄り、「あ?」と呟く。
朝から睨みあう、教師と生徒。
一触即発の空気の中、俺が口撃をしようと口を開こうとしたその時、
キーン……コーン……カーン……コーンと授業開始を知らせるKYなチャイムが辺りに響き、
嘉瀬は、ハハハハッと声高らかに笑うと校舎の方に歩いて行ってしまった。
「ま、待て……待てこのハ、ハゲ!」
全くハゲていない、むしろモサモサの嘉瀬には当たり前だがダメージを与える事など出来ず、そのまま嘉瀬の姿は校舎に消え、誰もいない校庭に俺はポツンと一人取り残される形となり、恐ろしく滑った自分を呪った。
溜息を吐き出して鞄を拾い、口の中に溜まった唾を吐くと空を見上げる。
視線の先、遠くを飛んでいるカラスが碧い空に消えて行く。
昨日をコピーしたような今日が、一日が始まろうとしていた。