その17☆ファブリーズの匂い
いつものように街で遊んでいたフクちゃん達は酒を飲んだ勢いで、普段は決してする事のない『ナンパ』をした。その時、引っかけた女の一人が当時、ブラック幹部の女だったらしく、後日火遊びがバレた女とフクちゃん達は事務所に連れていかれて文字通りの半殺しの目にあった。
以前見せてもらったがフクちゃんの背中や腹部には鉄パイプを火で炙り、押し付けられた痕がくっきり残っている。目を背けるほどにケロイド状になった皮膚が変色し、爛れ、痛々しかった。あの光景を俺はずっと忘れないだろう。
「まさか、あの……」
先輩は頷いた。ポケットからまた煙草を取り出して火を点ける。
「団長だよ」
俺は震えていた。それは恐怖であり、不安であり、嬉しさでもあり、複雑な感覚が絡み合った不思議な震えだ。『ブラック・トゥループス東征剛』この街最強にして、最恐の人物。ヤンキーどもの憧憬の象徴であり、生きる伝説のような男だ。
……だけど俺は勝利した。その怪物に紛いなりだったとしても、俺は勝ったんだ。腹筋に力を込め、その震えを押さえ込んだ。
「覚悟した方が良いぞ米倉、覚悟が足らねーとあっという間にジ・エンドだ」
先輩は左手を首の真ん中に持って行くと、手首を捻るようにして前後にスパッと振った。
「死ぬなよ、米倉」
憐れみを多分に含んだ顔で俺を見つめる。その視線を振り払い、俺は無理に笑んで正論の言葉を吐く。
「人間はいつか死ぬさ、そうだろ? 先輩」
いつの間にか空には分厚い雲が覆い、今にも雨が降り出しそうになっていた。
大地に降り注がれた雨は川に流れ、やがて大海へ辿り着く。
人は誰でも皆、行きつく先、帰る場所があり、そして安息の地がある。
親が死んで孤児の俺は一体どこに行くのだろう? どこに帰ればいいのだろう?
アフロに言った言葉が頭の中でリフレインする。
これからどうなるかなんて誰にも分からない。でも前に進むしかないんだ。
「……違えねえ」
先輩は力無く笑い、俺も同じように笑った。
俺達二人は金網に背中を預けて遠くの空をぼんやり眺めていた。見えない明日を見ようとするように、ただぼんやりと。
「吸うか?」
ラッキーストライクの箱が俺の前に掲げられた。暫くその箱を見つめ、首を左右に振る。
「いや、イイ。煙には依存したくねえ」
二人の背中で金網がギシギシと鳴く。先輩は少し残念そうな顔をして煙草をポケットに戻し、自分の頬を触り、
「コレは依存じゃねーのか?」
と呟いた。俺は遠くを見つめたまま、その言葉を考えていた。東征剛との戦いの痕跡。昨日の事なのに、それはまるで失われた季節、日々の向こう側にあるように感じた。酷く年を取ってしまった感じがして身体がだるくなる。だが、まだ戦いと精神の奥底、中心が疼いている気がする。もう自分では抑えられない。どうする事も出来ない。
「……違えねえ」
「なあ米倉、お前女はいねえのか?」
突然、そう言われて不意にリコの顔が浮かんだが俺は首を振り、少し笑んでいねーよと答えた。
「惚れてるヤツは?」
「どうしたんだよ先輩」
「いや何、惚れた女でもいればスリルなんて求める必要はねえんじゃねーかと思ってよ」
そこまで話すと先輩は笑った。
違うんだよ先輩、刺激はそう言うモノじゃない。俺が俺でいられる唯一の感覚なんだ……と言おうとしたが止めた。所詮価値観の違いだなと思ったからだ。先輩は、
「やっぱ、屋上は寒いな」
と、白い息を吐いて、
「じゃあな米倉、年金貰うまでは生きてろよ」
そう銜え煙草で言い、背中を丸めて屋上を後にした。
その背中を見送る俺と屋上に、空は冷たい雨を降らして校庭に蔓延っていたざわめきや身体の熱を奪って行った。震える指先を見つめていると、先輩が吸っていた煙草の残り香が微かに漂っていて、それが先輩の匂いなんだろうと俺は思った。
出入り口に向かいながら自分のブレザーの肩口を嗅いでみたが、この前降りかけたファブリーズの匂いが少しするだけで地面屋のおっちゃんが言う、『そいつ独特の匂い』と言う奴は結局見つからなかった。




