その15☆戦う理由
分厚い胸板、逆三角形の形状を誇るような、引き締まった胴体。地平線を感じさせる広い肩幅の下には一瞬CGか? と見間違うほど、ぶっとい腕が二本生え、捲り上げられたロングTシャツの袖の先から覗くその腕は何本もの血管が隆起し、今にも破裂しそうになっている。
アフロのあんちゃんが放つ、超攻撃的なオーラが俺を忌憚なく魅了し、内側から熱いモノが込み上げてきて無遠慮に高鳴る拍動が、少しの間、俺を束縛する。
これは一種の一目惚れだ。
乙女のように潤んだ瞳でぼんやり見惚れていると、アフロが指の関節を豪快にバキバキ鳴らし始めた。
おお……コイツは本気で強そうだ。
「的中だぜ、アフロ男」
俺がそう言うと、アフロは嬉しそうに破顔した。体格に似合わない少年みたいな笑顔。涼しげな切れ長の眼に、女にモテそうな浅黒い肌。俺のそれとは対照的だ。そんな事を思っているとアフロは慣れた様子で静かに構えた。
「いざ尋常に勝負、と行こうか……」
アフロの眼つきが硬く、鋭いモノに変わる。
「オーケイ、来いや」
俺も身構えた。瞬時にアフロとの間合いの取り合いが始まる。
目標までの距離は約三メートル、相手の息遣いがギリギリ感じられる距離。アフロの鋭い視線が俺を射抜く度、胸の鼓動が高鳴る。初恋の異性に再会したような高揚感、胸の奥底にしまい込んだ想いをこれから伝えに行く時のような高揚感、その清雅に満ちた高揚感を邪魔するようにアキバオヤジはまだ、
「イザベル~!」
と、ほざいている。
チッ、うるせーよ。気が散るだろ、このアンポンタンめ。チラリと一瞬、時間にしたらほんの一秒ほど、オッサンの方に視線を送った。
その瞬間、殺意に似た寒気を感じた。身体の内側、本能がヤバイと警鐘を鳴らし、慌てて視線を前に振り戻すとアフロが俺の間合いに入り込んでいた。
凄まじいスピード、獰猛な猫科の動物を連想させる、撓るような動きで射程圏内へ突入してくる。
視界全体がアフロで満たされ、溢れた。
相手のゴツイ右腕が一瞬、消えたかと思うと全体重が乗った強烈な右ストレートが俺の眼前まで飛んで来ていた。
ヤベエ――。
全ての神経を注いで、全力で左にヘッドスリップする。刹那、唸りを上げた右拳が顔面スレスレを豪快に通り過ぎ、その右ストレートが放つ風圧が俺の鼓膜を容赦なく叩いて耳鳴りのような金属音が響く。顔が歪んだ。受ければ一発KO確実の攻撃、何とか直撃は免れた。
だが、アフロのゴツイ拳は右頬を薄く掠めていたようだ。瞬間、右頬は熱くなり、ヒリヒリと痛んだ。
「うお~、危ねえ」
バックステップし、一旦距離を取る。ブレザーの下、身体中から冷や汗が噴き出していた。
……コイツ、かなり強え。
「イイ反応だな、高校生」
鋭い眼つきのまま、アフロが言う。
「そりゃどうも」
チッと舌打ちをして、アフロを睨んだ。腹の底がざわつく。プロが素人を褒める、そんな余裕がありありと感じられる雰囲気に少々ムカついたのかも知れない。
俺は視線を敵にポイントしたまま、右手の甲でヒリつく頬を押さえた。触ると一瞬焼けるような痛みが撥ねて、また顔が歪んだ。クソッ、まるで火傷だ。俺は舌打ちと怒りを込めた眼差しをアフロに向けた。
「ひとつ、訊きたい事があんだけど」
そう問いかけると、アフロは構えを崩さずに頷いた。
「アンタ、何者だ?」
「……俺か? 俺は何者でもねえよ、ただ金が欲しいだけのボンクラだ」
そう言い、またジリジリと間合いを詰めてくる。距離に警戒しながら、また訊いた。
「何で金が欲しいんだよ?」
アフロは薄く笑んだ。フフッと軽く息を洩らす。
「質問が二つになってるぞ」
「いいから答えろよ」
語尾に力を込め、強い口調でそう言った。アフロは暫く黙っていたが俺が睨み続けると、やれやれと言う感じで薄く笑んでいた顔を破棄し、小さな溜息を吐くと静かに答えた。
「……病気なんだよ、息子が」
不意に静寂が舞い降りた。何もかもがその静寂に染まり、色彩を失って行く。
俺の顔に少しの憂色が浮かんだのだろう、アフロは『聞かなかった事にしてくれ』と言い、また薄く笑んだ。右頬の痛みはいつの間にか消えていた。
「病気って……何のだよ?」
動揺。
決して戦闘には持ち込んではならない、同情と言う名の感情が俺の内側で広がりかける。
脚や腕の筋肉が弛緩し始めて、身体の真ん中にあるはずの『熱』が徐々に外界へと霧散して行きそうになる。俺は目を閉じて、微かに揺れ動く思いを腹筋に力を入れ、排斥する事に全力を注ぎ込んだ。
憎しみで殴るのではない、怒りでも悲しみでもなくてそこにあるのは純粋な自己証明だ。
暴力だと、否定したい奴は勝手にすればイイ。でも誰が何と言おうとこの場所、この空間こそが俺のいるべき世界、生きる意味だ。
動揺を何とか排斥し、目を開け、アフロを見ると倒すべき相手は押し黙ったまま、俺を殺気の籠った眼で凝視し、その構えを崩さないでいる。戦え戦え戦え、戦ってくれ。アフロの放つ殺気がそう叫んだような気がした。俺は自分の未熟さに溜息が出そうになり、顔を一発叩いた。自分から始めた遊戯、無意識のうちに逃げる意味を探していたのかも知れない。
「オーケイ、戦闘再開と行こうか」
もう逃げる事はない。これ以外に道はなく、俺は戦って死ぬ。そう決めた。
「良かったぜ、怖気づいちまったのかと思ったぞ」
アフロが笑んで、ほっとした感じで息を吐く。ほざけ、俺は冷たいアスファルトに向かって唾を吐き捨て、身構える。戦闘とは攻撃する者とされる者、言わばSとMの交わりであり、現世に存在する最高の戯れだ。人間は誰でもその二つを共有しているが今の俺は間違いなくSで、アフロ男は倒すべき目標だった。
間合いを少しずつ詰めながら、仕掛けるタイミングを見計らう。互いの靴底がアスファルトを舐めるスキール音だけが不気味に響いてそれ以外の音はなく、やけに静かだ。そんな膠着状態を崩したのは暮れかかった西の空から吹く、乾いた風だった。
アフロの傍にある街路樹の枯れた葉が数枚煽られ、空中へ飛んだ。その一枚がアフロの視界を一瞬だが遮ったのだ。
『今だ、行け!』
脳裏でもう一人の俺が叫ぶ。その声に呼応して地面を強く蹴った。ヒュンと風を切る音が耳に心地良い。三メートルの間合いを一気に詰め、玉砕覚悟でアフロ男の懐に飛び込んだ。目標は不意を突かれたのか、何の抵抗も見せる事なく、俺のタックルは迷彩柄のパンツを穿いていたアフロの長い脚に勢い良くヒットし、
「うおっ!」
と言う言葉だけを置き去りにして後方へ尻餅をつく形で倒れた。すかさず、目標の硬い腹の上に跨り、絶好のマウント体勢を取る。アフロはこれ以上ないくらいの焦った顔で、何とか形勢を変えようとケツの下でジタバタもがいたが俺は更に深く腰を落とし、完全に身体を密着させて逃げられないようにロックした。
お互いの身体を纏っている熱が騒ぎ出そうとしている。戦闘と言うカテゴリーで俺達は今、一つに繋がろうとしている。笑みが零れ、Sの血が全身を駆け巡った。そう、ここからが戦いの真骨頂、戯れの幕が上がったのだ。
「さあ、始めっか」
右の拳に力を込める。焼けるように熱い血液が瞬時に集まり出して拳の内側で膨張し始めた。
それをスッと肩の高さまで持ち上げ、アフロの顔面に照準を合わせ、切れ長の眼を覗き込む。
暫く見つめた後、俺は不敵に笑んだ。アフロは焦った顔を一旦停止し、つられてぎこちない引き攣った笑みを見せたが、こちらが一段と深い笑みを顔全体に広げると、今度は対照的にアフロ男の笑みは止み、代わりに目の奥底に諦観を含んだ揺らぎが見えたような気がした。拳を限界まで握り込んだ。
喰らえっ!
渾身の右を繰り出した。熱を帯びたその拳はボッと言う空気を切り裂く音とほぼ同時にアフロの鼻面に完璧なまでにジャストミートする。
ハンマーで硬い石を叩いたような凄まじい衝撃と鈍い打撃音が拳を伝った瞬間、血が霧状になり、辺りに激しく飛散した。間髪入れず、コンパクトに畳んだ鋭い左を繰り出す。これも的確に顔面を捉え、同じように血が飛び散った。右、左と休みなく打ち続けた。
『痛みこそが、嘘偽りのない唯一つの真実』
そう誰かが叫んだ気がして、俺はふと我に返った。
息が切れていた。呼吸のし過ぎで肺が少し痛い。気づけば両拳は真っ赤に染まっていて指の先からポタポタと血が流れ落ち、錆びた鉄の匂いを放っている。アフロ男はすでに戦意喪失していて、見えているのかいないのか分からない虚ろな感じの力ない視線だけが宙を彷徨っていた。
無数の打撃を受けたアフロの鼻は著しく崩れ、壁にトマトか何かを投げつけたみたいに潰れていた。溢れ出た鮮血が、非現実的に赤く、俺の内側、精神に深く侵入してくる。射精直後に似た重い感覚が身体を包み、全てを取り込もうとする。それから逃れるように頭を左右に振って、現実を、アフロを強く見据えた。
……俺が求めていたモノは本当にこれなのか? 痛みと引き換えに手にしたかったのは本当にこれなのか?
「ゲームズ・オーバーだな」
俺の口から出たその言葉は自分でも驚くほど、冷たく機械的な声だった。
アフロは仰向けに倒れていたが、何か言いたげに頭を持ち上げる。
「動かない方が良い、明らかに重傷だ」
こちらの忠告を無視して、アフロは肘を支点にして何とか上半身を持ち上げた。鼻に溜まっていた血が引力の餌食になり、ドロリと流れ出た。
「……なあ、さっきの話マジなんだろ?」
ロングTシャツの袖口で、鼻血を拭っていたアフロの動きが止まり、短い溜息を吐いて俺の顔を一瞥し、血が混じった唾を冷たいアスファルトに勢い良く吐き捨てた。
「嘘だよ、高校生。……嘘に決まってんだろうがよ!」
怒声が街に木霊する。俺は近付くとしゃがみ込んだ。濃厚な血の匂いが鼻腔に入り込んできて頭の芯がジンと冷えた感じがする。
「本当なのかよ? 本――」
「もういいだろ……高校生」
アフロは下を向いてそう呟いた。それが全てだった。俺は立ち上がり、ブレザーの上着のポケットに押し込まれていた皺くちゃの白いハンカチを血で染まったアフロの広い胸へ投げた。
「悪いけど金はやれない。これが遊戯の規約だから」
金が求心力に取って代わり、哀しみがまた一つ増えて行く。これからどうなるかなんて誰にも分からない。……でも、前に進むしかないんだ。
「バイバイ、アフロ男」
俺は血に染まった、互いの存在を確かめ合った相手に背を向けた。視線の先、低いビル群の向こう側、蜜色の夕日がいつもとは違い、やけに眩しかった。




