その14☆アキバとアフロとイザベルと
授業を受けていても、友達と話していても頭の中はパーティーの事でいっぱいだった。
一体どんな奴が挑戦してくるのか、考えただけでもゾクゾクする。
楽しみがあると時間の経つのは早いもので、気が付くともう放課後になっていた。
談笑に沸く教室を俺は誰にも気づかれないように気配を消して鞄を持つと、そそくさと出て行く。
だめだ、笑いが止まらない。まるで好きな女とデートに出かけるみたいだ。大きな声で笑い出したいのを何とか耐えて、靴を履きかえたが堪らずクククッと笑いが零れた。
正門まで歩くと門星先輩が静かに佇立しているのが見え、記念すべき最初の相手は先輩か? と腹筋に力がこもる。自然と呼吸を戦闘用に深く切り替えて近付いた。
先輩は相変わらずの鋭い眼光でこちらを捕捉すると、その深い黒とは対照的に柔らかく笑んだ。
全身の力が抜ける。どうやら戯れの相手じゃなさそうだ。
「何だ米倉、残念そうな顔してどうした?」
「どうしたじゃねーよ先輩、勘違いさせんなよな」
俺はあからさまに大きな溜息を吐き出して見せた。先輩の目が丸くなる。
「何がよ?」
「今日から俺の戯れが始まったんだよ、つーか先輩こそココで何してんだよ?」
地面を指差すと先輩は少し言いづらそうに、ああ……とだけ答え、俺から視線を逸らした。しつこく見つめる俺をまた深い黒が覆う。
「ちょっとな……それより戯れって何だよ? 面白えのかそれ」
俺は得意気な顔をして笑った。まだ始まってもいないのに気分だけがやけに高揚している。
遊戯が開始されたらどうなってしまうのだろう?
「明日、時間があったら話してやるよ先輩。ヘヘッ、勃起してもしらねーぜ」
その言葉に先輩は、バーカと軽い口調で言い、笑顔でじゃあなと右手を振って正門を後にして、その後ろ姿を見送ると、俺は先輩とは反対方向に歩み出した。
走り出したい気分だ。昨日まで色彩がくすんでいた世界が嘘のように色を持ち、それは熱まで発しているみたいに感じた。身体が軽い。生まれ変わったらきっとこんな感じだろう。早くパーティーが開催される事を望んだ。
辺りを見渡したがそれらしい人影は見当たらず、少し残念な気持ちと逸る気持ちが俺の足を動かした。
十五分ほど歩き回り、寂れた商店街まで来たが俺の名を呼ぶ者は一人も現れず、がっくりと肩を落とした。溜息を二回吐き、項垂れた視線の先に自販機が見えたので、とりあえず喉でも潤そうかとポケットから小銭を出してコイン投入口へ小銭を入れた。
落ち込んだテンションを上げようと炭酸ジュースのボタンを押す。受け取り口がガコンと鳴り、取り出そうと中腰に屈んだ――、
その時だった。
「米倉銀亜だろ?」
反射的に左の脇の下に挟んでいた鞄を投げ捨てる。
その勢いのまま、声のした方に振り向いた俺の双眸が捕捉した声の持ち主は脳天が河童のように禿げかかった、ポッチャリ気味の中年オヤジだった。
四十代前半くらいだろうか? 牛乳瓶の底みたいな分厚いレンズの眼鏡をかけ、久し振りに走ったのかゼーゼーと肩で息をしている。アラレちゃんみたいなその眼鏡が小刻みに上下動しているのを見つめながら俺は視線をゆっくりと下に向けた。
まず、眼に映し出されたのは不摂生の象徴のような、ボッテリと膨らんで垂れ下がったタヌキ腹。
その腹を覆い隠すように全体的にヨレヨレの、くたびれた感じが否めないチェック柄のカジュアルシャツが纏わりつき、弾け飛びそうなベルトと年代物に見せかけた、ただ洗っていないだけの薄汚れたジーンズが洩れなくセットで現れて、その下、明らかに天寿を全うしているだろうと思われるメーカー不明のスニーカーがみすぼらしさにトドメを刺している。
背脂たっぷりの丸い背中の上には、深緑色のリュックサックが、その体内に何を飲み込んでいるのか知らんが許容量を超えんばかりに丸々と肥え、ドッカリと乗っかっている。週末、アキバで地下アイドルを追っかけていそうなそのオッサン。この冬一番の寒気がこの街に訪れたのにも関わらず、オッサンの極端に狭い額には薄らと脂に塗れた汗が浮かんでいる。
……何だこの生き物は。
想像していたのとは全く違うモノが現れ、俺は固まった。
思いがけない大物(笑)の登場に我が街のストリートは水を打ったように静まり返っている。
どれだけの時間対峙していただろう。オッサンは突然、思い出したように叫んだ。
「よ、米倉銀亜! い、いざ尋ちょ、尋常に、しょ、勝負し、チロ!」
……オイ、噛み過ぎだろ。
チロって何だよチロって……。つーか家でちゃんと練習して来いよな、こういうのは最初が肝心なんだからよ。シラけるだろ、分かってねーなオッサン。
俺はやるせない溜息を吐くと絶対お笑い芸人にはなれない、なっちゃいけないオッサンを見つめた。オッサンはかなりの興奮状態で呼吸激しく、小刻みに震えながら早くも不器用に身構えた。
極端なほどの内股で肥えた上半身を前に倒し、腰を後ろに突き出している。なんちゅう奇妙な構えだ。何かトイレを我慢しているみたいで非常に残念だ、と俺は思った。
オッサンはフゥーフゥー言いながら髪の毛フッサフサの俺を凝視してくる。一定の距離を保ち、見つめ合っている俺とオッサン。客観的に見るときっとスゴイ絵だな。何か笑えてくる。名前も知らない不格好な構えを取る禿げたオッサンの熱い視線が俺を包みこんで、馬鹿馬鹿しくて笑いが込み上げてきた。
「先に言っとくけどよ、手加減はナシだぜ?」
込み上げる笑いを抑えるようにその台詞を吐き出した。オッサンはビクッと一回震え、構えを解いたが顔をブルブルと振り、また不器用な感じで構えた。本当にトイレを我慢しているみたいだな。俺も軽く息を吐くと静かに身構えた。徹底的に鍛え上げた両腕、地面屋のおっちゃんの顔がぼんやり浮かぶ。
『結局、最後にモノを言うのは熱なんだよ兄ちゃん。情熱の熱、熱意の熱、それが身体のど真ん中にある奴は強え』
怖い物知らず、素人の強みが身体を支配している。気づくと俺はまた笑んでいた。
遠くで鳴る、建設現場のコンクリートが瓦解するような音と、フゥーフゥーと出入りするオッサンの特大な鼻息が妙なコントラストをなして周囲に薄く広がる。ジリジリと間合いを詰めて行く両者。対峙する二人の間にある空気、空間が徐々に張りつめた物へと変わって行く。
……おお、コレは存外、気持ちが良いぞ。感情が急速に高ぶって行くのを感じる。コレだ、俺の求めていたのはコレだったんだ。
今までとは少し違う笑みが顔に溢れた。それを見ていたオッサンの喉仏がゴクリと大きく動いた。向かって左、皮脂で光るこめかみ付近から脂が混濁した汗が一筋垂れる。
この先に何があるのか知りたくなった。その思いがどんどん大きくなる。
早く、早く知りたい。
俺は右の掌を空に向けた状態で前にピンと突き出し、人差し指を前後に動かしてオッサンを挑発する。
「さあ、本能の向こう側を見に行こうじゃねーか」
オッサンは意を決したようにウォオオオオオッと野太い叫び声を上げ、飛びかかってきた。
極端な内股を頼りなく運び、間合いを詰めてくる。すぐさま身構えた。
オッサンの細い三白眼はこれ以上ないくらいに見開かれ、眼球は血走り、俗に言う『鬼の形相』なのだが如何せん、フットワークが悪すぎる。間合いが永遠のように長く感じられる。
引退間際の落合かお前は。
オッサンは一人だけ重力が違うのでは? と心配になるくらいの動きの悪さでやっとこさこちらの間合いに進入してきた。何だコレは? 見ようによってはリハビリだ。
フンッと鼻息を漏らし、凡そパンチとも呼べない代物をオッサンが披露する。
空を切る音さえもしない、丸みを帯びた軟らかそうな拳に合わせて素早く右ストレートを繰り出した。
俺の攻撃スピードの方が速いのは一目瞭然で、必然的に先にヒットし、拳がオッサンの顔面を捉えると、オッサンは脂ギッシュな頬をブルブル震わせて後ろに勢い良く吹っ飛んだ。
まるでB級のコメディー映画みたいにゴロゴロと後方でんぐり返しを繰り返す、哀れなオッサン。
信用金庫の隣、まだ準備中のラーメン屋の店先に二つ並んで置かれていた水色のポリバケツに頭から見事に突っ込んで止まった。
……スゲーな。
衝撃で中の残飯が飛び散り、辺りに生ゴミ特有の酸っぱい匂いが充満する。
その時、オッサンが背負っていたパンパンなリュックのジッパーが壊れたのか、中から見るからに怪しいピンク色の髪をした少女系フィギュアが生ごみの海に落下した。
横たわる、生ゴミだらけのオッサンと怪しい人形。スゲー図だぞ、コレは。
タイトルをあえて付けるなら『現代社会における快楽とその苦痛』とでも言い表わせば良いだろうか?
とにかくこれは凄い状況だ。
短い時間、意識を失っていたと思われるオッサンはハッと起き上がり、傍に落ちていた眼鏡(分厚いレンズなだけあり、ヒビは入っていなかった)を拾ってかけると通勤電車で寝過ごしたサラリーマンみたいに周りをキョロキョロ見渡した。
すると生ゴミの海で優雅に泳ぐフィギュアを見つけ、いきなりパニックに陥ったように頭を抱え出した。オッサンは俺に殴られたショックよりも、そのフィギュアが自分に了承もなく生ゴミと交際を始めてしまった事の方がショックだったみたいだ。
プルプル震える両手で、もはや汚物と化したソレを拾い上げ、
「ああ! 何て事だ~! イ、イザベルごめんよぉぉぉ! 大丈夫かい!? イィザァベェルゥ~!」
と、両目に涙を浮かべて縮れた麺がところどころ付着しているフィギュアの頭を愛撫し始めた。
超ド級のキモさに俺は言葉を失う。
人間、理解不能な局面に出くわすと声が出ないものだと知る。
オッサンは酸っぱさ漂う汚物の上できちんと正座をし、鼻からはダバダバと血を流しながら愚直にフィギュアの頭を撫でている。
興ざめ。
今まで俺の身体の隅々にあった戦闘意欲を一瞬にして剥ぎ取られた感じだ。身体が重い。
道路反対側の歩道を歩いていた帰宅途中の小学生達が、
「何あれ~? 変なの~」
と、言ってオッサンを指差して笑いながら通り過ぎる。
俺も一緒に笑いたかったが、その変なオッサンと思いっきり関わっている事を思い出し、軽い目眩がした。首を左右に振り、短い溜息を吐き出す。幾分冷えてきた外気との温度差で、息は白い足跡を残したがすぐに消えて行く。
何も遺さない、何も変わらない。
俺はブレザーのポケットに右手を突っ込んで、携帯を取り出した。液晶を開いてオッサンに向け、写真を撮る。静かな商店街に陽気なシャッター音が響いて、小さな画面にもう一人の小さなオッサンが誕生した。それを確認して登録ボタンを押し、またポケットに戻した。
沈みかけた夕陽が街や俺達を同色に染め始めている。今日はもう帰ろう、何か疲れた。
「じゃあなオッサン、達者でな」
俺は鞄を拾い、家に帰ろうと踵を返した、その時、夕暮れに溶け込んだ大きな人影が双眸に映し出された。
「お前、米倉銀亜……だろ?」
太く無骨な声だった。
足元に流れるその人影を辿り、視線を上げると百九十センチ近い大柄なアフロヘアーのあんちゃんが静かに立っていた。




