その12☆保田圭より小倉優子
パーティーの時が来た。
朝からどんよりとした重苦しい雲が空を覆っていたその日、俺は早めの昼食をすませて
おっちゃんが言っていた三年の校舎へと足を運んだ。
約二年前、右も左も分からなかった入学式の日、新しい環境に少し興奮した俺達はお喋りに夢中になってしまい、この校舎へと迷い込んだ。
ガラの悪い当時の三年生に案の定カラまれてもう絶体絶命の大ピンチの時、一緒にいたタケシがレアなエロ本を持参していた為、それを生贄にし、何とか難を逃れる事が出来た。その後みんなでタケシの無駄なエロに感謝し、それから三日間くらいタケシは救世主の称号を得る事になった。三年の校舎はそんな思い出の場所なのだ。
くすんだ壁を見つめながら昔を振り返り、俺はフフッと笑った。
渡り廊下を抜け、三十メートルほど歩くと視界が開けた。俺は足を止めると、前方を睨んだ。
視線の先、目標が一人静かにそこに立っている。
まるで自分がそこにいるような錯覚が起きた。また身体が震え、視線が揺れる。
昨日の猫の時とは全く別物の何かが、身体の内側で生まれた。恐怖でもなければ緊張でもない、コレは一体何だろう? 自分でも良く分からなかった。
脳裏におっちゃんの柔和な笑顔が浮かんだ。
なあ、おっちゃん。コレは何だ?
明確な答えなど出なかったが足は着実に進んで、俺は目標と対峙した。
俺と門星先輩は一定の距離を保ち、無言のまま暫く、互いのポテンシャルを探った。
「誰だお前? 何年だ」
沈黙を破るように先輩の鋭い眼差しが俺を射抜いた。
意外にも身長は然程高くはなかった。百七十三の俺とほとんど同じくらいだ。
だが、写真とは比較にならないほどの硬度と熱がその眼差しには含まれていた。
また内側がざわつく。全身を流れる血液が暴れ出しそうなほどに。
鋭い一重の眼を覗き込むようにして口を開く。
「二年すよ、先輩」
俺の言葉はどこか享楽が見て取れた。意識してはいないがその顔は笑っていたのかも知れない。
実際、楽しかった。
新しい玩具を買ってもらった子供のようだと思った。嬉しさで身体がブルブルと震えた。
先輩は(二年が何の用だ?)と言わんばかりの表情でこっちに疑問符を投げてくる。
上ずりそうな声を腹筋で無理やり押さえつけて、目標を睨んだ。
「先輩……俺の、俺の刺激の為に逝ってくれ!」
その言葉を吐き出すのと同時に先輩に向かって勢い良く突っ込んだ。
もう我慢できなかった。
先輩の顔が一気に硬質なモノに変化して素早く身構えた。無駄のない合理的な動きだ。
おっちゃんと二人で築き上げた右をまず試そうと思い、俺は左の拳を軽く握り、動かしてジャブを放つ。拳の出っ張り部分、中手骨が先輩のブレザーに接触する、ザラリとした感覚が皮膚を通して神経回路に伝わり、届くと瞬間的に判断すると右拳を強く握り込んだ。目標を睨みつけ、渾身の右ストレートを先輩の顔面目がけて、ぶっ放した。
右拳が冬の乾いた空気を切り裂く小気味良い音を発して、先輩の左顔面を捉えた、と思った。
だが寸前のところでユルリと躱され、伸び切った右腕を素早い動きで掴まれた。
筋肉に先輩の手が食い込み、俺の身体がどこかフワリと宙に浮くような感覚が包んだ。
その感覚が走った直後、(ヤベッ!)と思い、腰を沈めようとしたが遅かった。
先輩が自分の身体を鞭のように撓らせ、俺の下腹部に潜り込んだ。
弾薬が爆ぜるような瞬発力で先輩の背中が俺を跳ね上げた。
視界と世界がぐるりと一変し、心地良い無重力を刹那の時間、垣間見たあと、そのまま薄汚れたコンクリートの地面に背中ごと叩きつけられた。
ドバン! とウォーターベッドを高所から落としたみたいな音が身体を通して聴こえて、全身の骨にヒビが入ってしまったかと思わせる痛みが神経を支配して息が出来ない。
グラつく双眸で目標を捕捉しようと眼を凝らすと、先輩はどこか悲しそうな瞳で俺を見降ろしていた。
何だよ、その瞳は……。
痛みを堪え、歪んだ顔で凝視する俺に、
(立てよ)
と、目標の分厚い唇がそう動いた。
この野郎……怒りが痛みを制した。
俺は腹筋に力を込めると反動をつけて一気に起き上がる。バックステップの要領で後ろに飛んで、一旦目標から離れると、間合いを広げた。鋭く前方を睨む。
先輩は良く、欧米人がやるそれのように両手を広げて厳つい肩を竦めた。
「まだやるのか? 二年坊」
大人が子供に向かって諭すような、そんな口調で先輩は薄く笑んだ。
俺は先輩の顔を睨んだまま、地面に唾を吐き捨てる。
目標は短い溜息を吐くと億劫そうに身構えた。
俺はそんな目標に向かって馬鹿にしたように嘲笑を浮かべた。刺激を存分に楽しむ為に。
何なら中指も立てて良かったが、その必要はなかった。
先輩の殺気を帯びた濃密な黒い眼差しがこちらに向けられて、ゾクゾクとした寒気なのか怖さなのか、それとも未知なモノに対しての嬉しさなのか、内側で何かが蠢いているように感じた。
間合いに気をつけながら俺は上着を脱ぎ捨てた。その下に着ているカッターシャツも素早く脱いだ。投げ捨てる。冬の寒空の下、上半身裸になった。その様子を見ていた先輩の顔に(何だ? コイツ)と、少しの戸惑いの色が追加された気がした。
今まで黒一色だったところに戸惑い、不安、そして確実な『揺らぎ』の色がじわじわと広がって、黒を侵食して行くように見えた。
良いぞ先輩、段々色彩豊かになってきたじゃねーか。
俺は身構えた。
戦闘に勝利するには、いかに相手の精神を揺さぶるかにかかっている。
完璧な人間なんてこの世には多分いなくて、未知なモノに対峙した時、人は平常ではいられない。
恐怖は不安を生み、不安は焦りを呼び、焦りは必ず隙を生む。その生じた隙をどれだけ的確に突けるかどうか……勝負のカギはそこにかかっている。
膝を軽く曲げ、ジリジリと間合いに侵入する。
先輩がチッと舌打ちをして、
「考えやがったな、クソ」
と小声で吐き捨てた。
俺はヘヘッと笑んだ。どうやら先輩も気づいたらしい。
なぜわざわざ上着を脱いだのか。
柔道の攻撃はまず相手の胸元の道着を掴む事から始まる。それを起点にして攻撃がスタートするのだ。
掴む物がないと言う事は、そのスタートがないのと等しく、つまり柔道を封じたと言っても過言ではなくて、間違いなく俺が一歩有利になったと言う事だ。
俄然ヤル気になった十七歳の身体は水を得た魚のように流動的に動く。
軽やかなフットワーク、スニーカーの靴底がリズミカルなスキール音を奏で始めた。
シッ! と短い息を吐き出して強めのジャブを小刻みに放ちながら仕掛けるタイミングを見計らう。
上下左右にジャブをねじ込み、それを三回続けて目標の懐に飛び込んだ。
先輩が腰を屈めるようにしてガードを上げる。
構わず、その上から渾身の右ストレートをぶち込んだ。
肉と骨がぶつかり、軋む音と微かに聴こえた先輩の呻き声が混ざり、俺の本能的な部分を忌憚なく刺激する。固く閉じられたガードに向かって、何発も何発も拳を放った。
楽しい。
刺激がこんな楽しいモノだとは今更ながら気が付いた。
どうした、狼!?
こんなモノかよ!?
もっと工夫しろよ!?
俺を熱くさせろ!
感じさせろよ!
ほら!?
どうした!?
俺が勝っちまうぞ!?
俺が……俺が№1だ!
そう心の中で叫んで最期の一撃を喰らわそうと右拳を強く握った時、今まで閉じられていたガードが音もなくスッと開き、その奥にある鋭い眼がギラリと黒光りした。
極上の黒。
寒気が俺の全身を走った。
その後の事は、正直良く覚えていない。
顎と鳩尾に一回ずつ、重い衝撃が加わり、身体中の機能が完全に停止して、俺は薄汚れたコンクリートの上に倒れた。
視線の先、空が歪んで何色かも分からない。
先輩が近づいてくる気配がする。
必死に起き上がろうと試みたが、気持ちとは裏腹に身体が言う事を聞かず、すぐに諦めた。
不思議と悔いはなかった。
「お前、何なんだよ」
先輩はあおむけに倒れている俺を覗き込むようにして言い、腕の感覚を確かめるみたいに手首をクルクルと捻った。時折舌打ちを交えながら。
俺は笑った。自分でも何が可笑しいのか分からないが、とにかく笑った。
先輩の特大の舌打ちが聞こえて、笑い声と重なった。
「本気で意味分かんねえ」
先輩は溜息まじりに言うと、少し離れたところにあった俺の上着を拾ってきてくれて、こちらに投げて寄越し、そして無言のまま右手を俺に向かって差し出してきたので俺はその手を掴み、上半身を起こした。
先輩の唇同様、分厚い手だ。大人の男の手だと思った。短い時間、自分の掌を見つめていると、また先輩が何なんだよ……と呟くのが聞こえた。顔を上げて、深い黒目を凝視する。
「刺激中毒者だよ、先輩」
その言葉に、ハッと短い溜息を先輩は吐き出すと、やっぱりマジで意味分かんねえわ……と言い、呆れたような顔をするので俺はヘヘッと笑って返した。
「やっぱ噂通り強えな、先輩。面白えわ」
言うなり、上着を羽織った。試合後にガウンを羽織るボクサーみたいだなと自分の事ながらそう思った。
何かカッコイイな俺。
「遊戯を始めるんだ、刺激に満ちた……きっとスゲー事になる。先輩もやらないか?」
その問いかけに先輩は首を横に振る。口元が幾分緩んだように見えた。実際笑った。低く太い声で。
「お前何か知らねえけど、面白え奴だな。名前教えろよ、覚えといてやるからよ」
そう言われて、フルネームを他人に言うのは久し振りだなと思った。もしかしたら自分で言うのは初めてかも知れない。以前のような嫌悪感は意外となくて少しの時間、親父の事を思い出していた。
先輩の深い眼差しを臆する事なく見つめ、言う。
「米倉銀亜だよ」
米倉銀亜……先輩がそう反芻して、笑った。
「米倉か、覚えとくよ、何か変な名前だしな。つーか、年取ってから大丈夫なのかこの名前で」
俺はチッと今までで最大の舌打ちを響かせると、たっぷり先輩の顔を睥睨した。
ヘヘッと先輩が子供みたく笑んで、肩を竦める。
「余計なお世話だよ先輩。保田圭の今後を周りが心配するくらい余計なお世話だ」
「俺は保田圭よりも小倉優子がいつまであのキャラで行くのか、そっちの方が心配だけどな」
「……それは俺も心配だ」
冬の寒空の下、男二人の笑い声が木霊する。
先輩にやられた顎と腹がかなり傷んだが、俺は先輩より大きな声で笑った。
生を実感していた。
こんな感情は久し振りだ。大声で笑ったのはいつ以来だろう?
一通り笑った後、
「何かお前とはまた会いそうな気がするぜ」
と先輩は言い、孤独な狼の異名通り、少し寂しそうな雰囲気を残して静かにその場を立ち去り、俺はまた冷たい地面に寝転がった。
不意に眠気がしてくる。安堵を含んだ眠気だ。自分では分からなかったが緊張していたのかも知れない。
ぼんやりと空を眺めた。
上空は薄いグレーの絵筆をそっと引いたみたいに灰色の雲が広がり、青空は皆無だったが昨日までとは何かが違っているように思えた。
綺麗な色彩は決してなかったが俺にはこれ以上ない、カラフルな絵画のように見えるから不思議だ。
「きっと明日は輝く日になる……」
嬉しくなり、そう呟いた。
遠くで何かのサイレンが響いたが、もう良く聴こえなかった。