その11☆暗闇から飛んできたモノ
ガタガタと音を鳴らしながら、古小屋の木戸をおっちゃんは開けた。
長い年月換気をしていなかったのか、鼻を突くカビ臭い匂いと湿気が中から押し出されるように洩れてきて、俺は軽く咳き込んだ。おっちゃんが小さく笑う。
「兄ちゃん、覚悟は良いかい?」
そう言うと、不敵な笑みとともに懐から煙草を取り出して静かに火を点ける。
一口ゆっくりと吸って吐き出すと、こちらを強く見据え、小屋の中に入るようにと俺に指示を出す。
一歩、前に踏み出して小屋を見つめた。夕暮れの妖しげな西日と古小屋の不穏な空気が俺の身体の内側、奥底にある刺激を求める何かに触れた。
「面白え……」
不意にそう、口から零れた。
腹に力をグッと込めて、歩みを進める。腐りかけた敷居を跨いで中に入ると後ろで木戸が閉まる音がした。小屋の中は思ったよりもカビ臭さは無く、広さ十畳ほどもあるだろうか、薄暗くて良く分からない。
それよりもまず俺の知覚が捉えたのは『匂い』だった。湿気やカビ臭さを凌駕する、何か脂が饐えたみたいな強烈な匂い……獣の匂い? その思いが頭の隅を過った時、小屋の奥で微かな物音がした。
何かいる……。
俺は反射的にガードを上げた。膝をやや沈ませ、身構える。トクンと心臓が鳴いた。
音のした方に神経を集中させ、ガードはそのままで少しずつ気配のする方へ寄った。
獣の匂いがグンと強くなり、顔を顰める。
瞬間、何かが俺に向かって飛び込んできた。凄いスピードだった。ガードも間に合わず、その物体は胴体、やや右側にぶち当たり、衝撃で身体が左へと傾いだ。
左足を半歩前に出して踏み止まる。暗闇の中、視界の端に黒い影が映り、ソレは飛んできたと思われる方向とは逆の闇の中へと消えた。
はっきりとは確認できなかったが動物だ……と思った。
中型の獣。
軽い痛みが広がる脇腹を右手で擦りながら周囲を警戒する。外からおっちゃんの陽気な感じの声が届いた。
「どうだ見えたか? 兄ちゃん」
問いかけてくるおっちゃんに、俺は、
「いや……」
と、だけ答えてまた身構えた。
暗闇の先、いるはずの見えない目標を凝視する。浅くなっていた呼吸を深く整え、それを何回か繰り返した。前方の闇の中、気配が動く。
地面を小刻みに強く叩く音が響いて暗闇が揺らいだ。
「ギャニャアアアアアー!」
来た! 濁った咆哮と同時に黒い物体が俺目がけて飛んでくる。
今度ははっきりと見えた。その獣の正体は――猫だった。
野生化した大きな黒猫。
牙を剥き出しにして、ソイツは上げたガードの更に上、左のこめかみ付近にぶち当たる。
痛みで顔が歪み、それと少しの恐怖も生まれた。舌打ちをして後ずさりながら出入り口近くまで身を寄せた。どう戦おうか思考していると、またおっちゃんの声が届いてきた。
「怖いかい兄ちゃん。まあ無理もねえ、猫の怖さはよ実際対峙した人間にしか分からねえ。野生の強さはよ、人間ではなかなか太刀打ち出来ねえよ。最初に言っちまうとな、ほとんどの奴はソイツにゃ勝てねえよ、勿論俺もな。だけど十分、いや五分だな、その場に留まる事が出来たなら、……そんときゃ兄ちゃんは本物になれる」
おっちゃんが放った『本物』という言葉が再び俺をヤル気にさせた。
顔を両手でバチバチと叩き、暗闇へ向かう。
「俺は勝ちますよ、刺激の為なら、無聊を埋めてくれるのなら……何にでもなってやる」
鼻から思い切り息を吸い込み、吐き出しながら暗闇に向かって吼えた。
ビリビリと小屋の中の空気が振動し、心の中で確実に芽生え始めていた恐怖が消えた、ような気がした。
黒猫の耳を劈く濁声が闇を満たして攻撃態勢に入った事を感じ取った。
同じ轍は二度と踏まない、踏んでたまるか。
柔らかく身を屈め、前方の一点だけに全ての神経を集中させると、研ぎ澄ました聴覚をリーダーにして目標の位置を探る。すぐに猫の気配が俺の間合いに接触した。
今だ!
と思い、小さく畳んだ右を繰り出した。
これ以上ないドンピシャのタイミングで捉えたと思った。だけど右拳は何の感触も伝えては来なくて、獣の強い匂いだけが鼻腔を掠め、同時に左脚に激痛が走り、反射的に振り上げた。ギャウウと濁声が響いて猫の気配が遠ざかる。
咬まれた……と俺は思った。
ジクジクと刺すような痛みが左の脛に生まれ、顔を顰める。
「くそ……」
そう吐き捨てて、辺りに意識を張り巡らせたまま、二三度足首を回してみた。痛みはかなりあったが動作に支障はないように感じられた。
床に唾を吐き、また構える。身体の中心が幾分熱くなってきた気がする。運動により体温が上昇したのだろうか?
「結局、最後にモノを言うのは熱なんだよ兄ちゃん。情熱の熱、熱意の熱、それが身体のど真ん中にある奴は強え。そう言うこったな」
おっちゃんは最後に『うん』と確認するように言い、一人ごちる。
その言葉を聞いて、嬉しさなのか興奮なのか俺の身体を何かが駆けた。
受けた痛みは心地良さへと変わり、熱は目標へと立ち向かう糧となっていた。
人間の奥底に眠る戦闘の本能が緩やかにその扉を開いたみたいだった。
いや、確実に開いたのだ。そう確信した。
俺は膝を軽く折り曲げて、脚にありったけの力を込めて構える。
筋繊維を限界まで収縮させると弾力良く、靴の裏が地面を蹴り飛ばし、連動して前方に思い切り右拳を突き出した。
ボッ! と言う今までとは比ぶべくもないほどの音と衝撃が拳を軸に走り、闇を刺激した。
もう一度俺は吼えて猫の気配を探した。暗闇に眼を凝らす。
研ぎ澄まされた全ての感覚が簡単に暗闇の中にいる猫を捕捉する。その方向に全エネルギーを放出しようと近付いた瞬間、後ろの木戸が静かに開いた。
「そこまでだ兄ちゃん。時間だ、五分経ったよ」
おっちゃんはいつかのように左の手首を叩いて、笑んだ。
その柔和な笑顔を強く睨んだ俺に、おっちゃんは満足そうに頷いた。
「理性と野生が混濁した良い面貌になってきたじゃねーか兄ちゃん。俺の若い頃にそっくりだ」
言い終わり、また大きく頷いた。
小屋の外に出ると、
「合格だよ」
と、おっちゃんはぼそりと呟いて、薄汚れたズボンのポケットから一枚の色褪せた写真を取り出して俺に寄越す。見ると、写っていたのは男の顔写真だった。
黒の短髪を頭頂部で尖らせたヘアスタイル、眉間には薄ら縦皺が刻まれていて、世の中のルール全てを拒否するような反抗的な眼差しが酷く印象的だ。
分厚い唇がそれらにユーモラスなアクセントを付け加えている。年齢は俺と同じか、少し上くらいだろうか? 視線を写真からおっちゃんへと移行すると、いつの間にか煙草を吹かしていた。一口ゆっくりと吸い、吐き出して口を開く。
「そいつは兄ちゃんの無聊を埋める最良の相手だよ。名前は門星諒、聞いた事ねえかい? 兄ちゃんと同じ学校の生徒だよ、三年生だ」
その言葉で思い出した。フクちゃんやジョー達武闘派がウチの学校には孤独な狼がいる、いつだったかそんな話をしていた。変わり者で誰とも群れたがらず、だが確実にこの学校で一番強えと評判の狼がいると。そいつの名前が確か、門星諒。写真の中の鋭い眼差しが俺の刺激を求める熱と合致して写真を持つ手が少し震えた。
「身体は正直だな兄ちゃん、嬉しがってるじゃねーか」
震えている手を指差しておっちゃんは嬉しそうに笑み、
「もう準備は整ってる。明日の昼休みに三年の校舎に行くとイイ。きっとそいつが兄ちゃんの無聊を埋めてくれる。俺が保証するよ、明日はパーテー(パーティー)だな」
おっちゃんはヘヘッと破顔して、煙草の先の灰を指で弾くようにして地面へと落とした。
パーティー……。
その言葉が夕闇に溶け込んで、胸がザワザワとざわめいた。




