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妖精の尻尾  作者: 黒崎メグ
本編
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六話 店長【2】

 その日は、秋の香りのする日だった。夏のまばゆい光と熱さが過ぎ去り、庭先の落葉樹がほんのりと色づき始めたそんな秋の日だ。

 エドワードはその日、母の提案でロンドン動物園に出掛けることになった。普段、一日の大半を家で過ごすエドワードの母が、その日ばかりは外に出掛けることを望んだのだ。

元よりエドワードの母は外出が好きだった。馬車の車輪の音を聞き、伝わる振動に身を任せながら、流れる景色を見るのが取り分け好きだったのである。病を患ってからは、外出は控えるようになっていたのだが、その日ばかりは爽やかな秋空に誘われたのだろう。

 エドワードの母は使用人に馬車を用意させ、エドワードのエスコートを受けロータリーに横付けされた馬車へと乗り込んだ。母が乗り込んだのを確認して、エドワードも使用人から受け取ったバスケットを大事に抱え、それに続く。バスケットの中身は、使用人に作ってもらった弁当と母の発作用の薬だ。そして、二人が乗り込んだのを確認して、御者がドアを閉めると、馬の嘶きと共に、蹄の音と車輪の音が軽快なリズムを刻み始めた。

 ロンドン動物園は、バッキンガム宮殿近くのエドワード達家族が住む一等地からは北東に位置している。馬車を使えば一時間は掛からない距離だ。その小さな外出は、エドワードにとっても、エドワードの母にとっても久方ぶりのことで二人の心は躍っていた。

 だが、その楽しい気持ちは最後まで続かなかったのである。それは、昼食の席での出来事だった。

 動物園に隣接した公園内で、芝生の上に大きな布を敷き、バスケットを広げたまさにその時、うっと呻き声がして、エドワードが振り向けば、胸を抑え、芝生の上で苦しそうに身を丸めた母の姿があった。顔色が悪く、呼吸もかすれたように尾を引いている。そのように苦しそうな母の姿をエドワードは、屋敷で一度だけ目にしたことがある。発作だ。エドワードがそう結論付けるのに時間は掛からなかった。エドワードは、震える手でバスケットの中から薬を取り出し、母にそれを飲ませた。粉末状のそれに咳き込みながらも、エドワードの母の喉元は確かに上下する。それによって、母の呼吸は大分落ち着いたように見えた。しかし、以前として顔色は冴えず、母を励ますように握った手はいつもより冷たいような気さえする。

 そう感じた瞬間、エドワードの胸に不意に恐怖が浮かんだ。

 その恐怖に駆られるままに、エドワードに手に力がこもる。握った手を通して伝わった力に反応して、母の口から呻き声が漏れた。エドワードはその声に、はっとして、声を張り上げた。

「母さん! 母さん!」

 そのエドワードの声を聞きつけていつしか周りには人垣ができている。けれど、人々は遠巻きに様子を窺うだけで、手を差し伸べてくれる者はいない。エドワードのなかで、不安と苛立ちが膨らんで、涙が込み上げてきた。エドワードは鼻をすすり、それに耐えようとしたが、視界がぼやけるのは防ぎようがない。母の手を握るのとは反対の手で目元を拭うと、その間に、何やら人垣のなかでざわめきが起こった。何事かと、エドワードがいまだにかすむ目を向けると、人垣を掻きわけて、一人の青年が姿を現したところだった。青年のプラチナブロンドの髪が目に眩しかった。その髪色自体は珍しいものではなかったが、彼の印象的な菫色の瞳には覚えがあった。以前、出掛けた折に母の薬を受け取りに病院に寄ったことがある。そこで、母の担当医と彼が話している姿を目にしたことがあったのだ。

 彼はその時のように、エドワードと目が合うとふっと微笑んだ。そして、そのままエドワードの隣までやってくると、身を屈め、「大丈夫」とエドワードの肩を叩く。その一言に感情のたがが外れ、エドワードは堪えていた涙が溢れ出してくるのを感じた。

「母さんを、助けて……」

 辛うじて、嗚咽を堪えながら、エドワードが言葉をしぼり出すと、彼は再度「大丈夫」と言う。そうして、彼はエドワードの母の傍らに膝をついて、懐から小さな布袋を取り出した。それはエドワードの母が指輪をしまっている小さな宝石箱ぐらいの大きさで、その中から出て来たのは親指の爪くらいの大きさの七色に光る石だ。

 彼はその石を、何の迷いもなくエドワードの母の口元へと運んだのである。

 これにはエドワードも驚いた。

「母にその石を飲ませる気ですか!」

 涙を流しながら茫然と男の仕草を見守っていたエドワードは、慌てて男の腕にしがみつく。だが、彼はそれを交わして、その石を母の口の中へと押し込んでしまった。

「安心して。これは石ではなく、薬を水飴で溶いて固めたものさ」

 エドワードが半信半疑で母の様子を窺っていると、彼の言葉を証明するように、母の顔色が回復してくる。

 母の手を通じて伝わるぬくもりに、エドワードはどっと身体の力が抜けるのを感じた。

「よかった」

 エドワードがもらした言葉に、青年は優しい頬笑みを浮かべる。

「君は良く頑張ったよ。だけど、安心するのは早い。一応、医者に見せた方が賢明だと思うよ」

 彼の言葉に、続いて人垣の中から声があがった。

「今、医者を呼びに行っている奴がいるから、そのままそこに寝かせておいた方がいい」

 どうやら、エドワードが無情に感じた人々は、冷静な対応をしていたらしい。彼らに苛立ちを覚えた自分を恥じながらエドワードが青年を見やれば、彼はその言葉に肩を竦めて見せたところだった。

「じゃあ、俺の役目はここまでだね」

 そう言って青年はその場を去ろうとする。人垣を形成していた人々も、事が収まる兆しを見せたことで散り散りに自分の居場所に戻ろうとしていた。しかし、彼らと同じように背を向けた青年を、エドワードは慌てて呼び止めた。

「待ってください。お礼を。お礼をさせてください」

「別に、俺はお礼が欲しくて助けたわけではないよ」

「でも、それでは僕の気持が収まりません」

 そう言って、エドワードが敷物の上に置かれたままの母のハンドバックから小切手を散り出すと、青年は怪訝そうに眉を顰めた。

「必要ない」

「しかし……」

 尚も食い下がろうとしないエドワードに、青年は溜息を吐く。心底呆れているようであったが、エドワードとてお礼もせずに納得できるものではなかった。青年は何事か思いを巡らせるように空を仰いだ。その様子に、エドワードが訳もわからず涙の乾いた目を瞬かせる。すると、青年は芝生の上に横たわる母の姿とエドワードを順に見比べ、にこりと笑った。

「よし、ではこうしよう。俺と一つ契約をして欲しい」

「契約ですか?」

「そう、俺はお金いらない。そのかわり、君にしばらくうちの店で働いて欲しいんだ」


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