スパダリに溺愛される心当たりが全くないので、その婚約はお断りさせていただきます。
問1.あなたはとある貴族から婚約打診を受けました。
お相手は名門カペー侯爵家次期当主であり、王立騎士団近衛部隊・副隊長を務めるアルフォンス・カペー様(25)
剣の腕はもちろんのこと、王立アカデミーを首席で卒業されるほどの頭脳。部下や同僚からの信頼も厚く、相手によって態度を変えることもない。容姿端麗で、その青い瞳に見つめられて倒れなかったご令嬢はいないとか。そんな、誰もが憧れる将来有望な青年から送られたのは真っ赤な薔薇の花束。
カードには
『何度かお会いしてからずっとあなたのことだけを想っています。何不自由のない暮らしのなかで、私とともにこの先の人生を共にしてほしい。』
と情熱的な一言が添えられていました。
以上を踏まえた上で、この申し出にふさわしい返答を簡潔に答えなさい。
誰か教えて欲しい。この問いの最適解を。
ちなみに私、子爵令嬢ルイーズ・シュミット(20)の答えはこちら。
―大変光栄なお話ですが、諸般の事情によりお受けいたしかねます。アルフォンス様につきましては、そのお人柄とご活躍に見合う素敵なお相手が見つかりますよう、心よりお祈り申し上げます。
ええ、断りましたとも、即決で。家族や使用人の反対をすべて押し切って。
だって私、アルフォンス様と会話をしたこと、一度もないんですけど?
もしかしたらどこかの舞踏会や晩餐会で挨拶をしたかもしれないけど、あんな目立つ人と一言でも交わしてたら絶対に覚えているはず。
普通の貴族令嬢だったら、こんなありがたいお話をいただいて素直に喜んだのかもしれないけど。前世が日本人だった庶民の感覚としては、ね。
…いや普通に怖いわ。
この一言に尽きた。だって本当に面識がないのよ。
例えば私が絶世の美少女で一目惚れされたなら分かるけど、残念ながらこの世界では平凡な栗色のストレートロングにこげ茶色の瞳。肌は白いけど、その分そばかすが目立ってる。
家柄だってカペー家に見合うどころか格下の、赤字経営まっしぐらの貧乏子爵家。小さな領地だし、お父様も宮廷官僚をしているから今のところ領民に苦しい思いをさせずに済んでいるのは良かったけど、タウンハウスの維持費や弟カミーユの学費もかさんで貴族としてはとにかく貧乏!結婚によるカペー家のメリット、ゼロどころかマイナス。
なんでもいいから健康で丈夫な跡継ぎを産んでくれそう、ついでに浮気の心配もなさそうっていう線もあるけど、病弱という設定でここ最近のパーティーは全部欠席してるのよね。だって毎回ドレスを新調する余裕なんてないし。
そんなわけでアルフォンス様が花束を贈った相手はきっと幻かなにかだ。仮に本当に見染めたお相手が私だったとしても、あとからきっとがっかりするはず。
期待が大きい分だけ、違った時の落差は激しい。その時にはもう後戻りできないなんて、お互い不幸なだけ。だから、これで良かったのよ。そもそも私結婚するつもりもないし。
侯爵家からの婚約をお断りしたことで、お父様が左遷されたらどうしようと思っていたけど、あれから十日。今のところそんな気配もない。
きっと、他の候補のお家に打診したよね。アルフォンス様と結婚したい良い家柄、優れた容姿のご令嬢なんて山といるもの。
そう思った私は今日も元気に「夜のお仕事」に出かけていくのだった。
**
「失礼いたします。チケットを拝見させていただきます。」
私はストレートの髪をきっちり結い上げ、パンツスーツ姿で受付に立っていた。
ここはエルンスト歌劇場。国内では比較的新しい劇場だけど、若い世代を中心に、今一番人気のある箱だ。
貴族階級は、2階より上でゆったり観劇できる桟敷席。庶民が楽しむ1階の普通席。そして大商会や一般富裕層が、役者たちを一番近くで見ることができる1階前方特別席。
この3つのゾーンのうち、貴族のご令嬢ご婦人を桟敷席でアテンドするのが私の仕事。
まあ私も貴族なんだけどね!貴族だからこそ、お客様が望む事、してほしくない事がわかるっていうわけ。
お父様のツテで、歌劇場での仕事を紹介してもらって早1年半。今ではこの二重生活にもすっかり慣れた。社交界に未練もなかったから、お茶会やパーティでの付き合いもなかった私が貴族バレする心配もなく。
品のいいスタッフがいて良かったとお客様からの評判も上々です。
何を隠そう前世では三ツ星ホテルレストランのホールスタッフとして働いていた私。どんなに人手不足でも、厨房が殺伐としていても、笑顔を絶やさず乗り切った時の高揚感が好きだった。
忙しければ忙しいほど、生きてる!!って血がたぎるあの感じ。最後のお客様を送り出して、みんなでどしゃぁ~~っと背中の力を抜く時の充実感。
ずっと接客で生きていきたい。そう思っていたのに、三十目前で交通事故にあって死んでしまった。
17歳の誕生日にそんな前世を思い出してからは、辛かった。
だって貴族の世界は何事もゆったりしすぎていてあまりにも退屈で。学校を卒業したら輿入れするまで所属する場所がないという虚しさ。だからうちの懐事情がとても良くないと知った時には、チャンスだと思ったの。
前世の記憶がある以上、普通の貴族令嬢として正しく生きていくなんて無理だもの。だったらこの世界でも仕事して生きていこうって。
幸い我が家には、優秀な跡取りがいる。5つ下の弟カミーユが成人して家督を継げばシュミット家も立て直せる。まずはそれまでの繋ぎで、私が家計を支えれば、winwinじゃない?
お父様とお母様は複雑な顔をしていたけど、我が家の現状と私の容姿スペックじゃ玉の輿に乗れる確率なんてそうない。毎月安定した収入を稼いでくるから、孫の顔とやらはカミーユに期待して欲しい。
私は結婚しなくても今が一番幸せなんだもん。たとえお客様に無理を言われたとしても。
「ねぇ、あなた。チケットを見せろだなんて、この私がラトゥール伯爵家の長女だと知らないのかしら。特別席を取っているに決まっているでしょう?とんだ無礼を働く無知なスタッフがいたものね。」
貴族間での席違いや、日付の勘違いはよくあること。だからどんなお客様が相手だろうと、基本的に顔パスはしない。
のだけど、たまにこうしてモメるお客様がいるのよね。
この子、確か王立アカデミーの隣のクラスでボスだった子だ…。
私はそんなことを思いながら最高の笑顔で彼女に頭を下げた。
「もちろんアンヌ・ラトゥール様のことは存じ上げております。私がチケットをご確認させていただくのは、麗しいアンヌ様の客席に部外者が立ち入らないよう、快適に観劇していただくための配慮でございます。美しい蝶には適切な虫よけが必要かと。」
私の返答に、アンヌ様は「あら。」と表情をゆるめた。
「よく分かっているわね。まあ、そういうことなら仕方がないわ。チケットを出しなさい。」
アンヌ様はそう言って侍女にチケットを提示させた。
よし、日付オッケー客席オッケー。
「今夜は少し冷えますので、客席にひざ掛けをご用意させていただきます。どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ。」
「あなた、名前は?」
「はい。当劇場桟敷席の担当をしておりますレベッカと申します。」
「そう。覚えておくわ。」
いや、あなたの同級生だったルイーズ・シュミットですけどね?
地味な同級生は綺麗さっぱり記憶に残らない。人間の脳って都合の良いようにできてるなぁと顔見知りを接客するたびに思う。おかげで気兼ねなく働けるから、今ではこの地味顔に感謝だ。
私はすぐにインカムでボックス席付近のスタッフに連絡をとった。
「こちらレベッカ。ただいまB14席にアンヌ・ラトゥール様ご案内しました。紫色のひざ掛けの用意をお願いします。アンヌ・ラトゥール様です。」
「こちらミリア、了解しました。お疲れ様です!」
桟敷席で名前を呼んでお席にご案内するのは、手っ取り早く特別感をもってもらうためだ。それにスタッフに親しみを感じてくれれば、向こうも無茶は言わないはず。
支配人に無理いって、魔道具職人を手配してインカムを作ってもらって正解だった。おかげで、きめ細かいサービスが提供できる。
さて、一通りご案内が済んだら次はカクテルの準備。エルンスト歌劇場では、桟敷席と特別貴賓席のお客様には特別な飲み物ー演目に合わせたイメージカクテルを出している。
たとえば今夜はレモンの木の下で身分違いの二人が恋を囁き合うシーンがあるから、レモンリキュールを使った爽やかなカクテル。ピンク色の甘いカクテルと二層にして、恋の行方をイメージしてみました。
ちなみに一般席では役者の絵姿を売っている。グッズの売り上げの一部は役者に還元されるというシステム。前世の職場で、ミュージカルや舞台に足しげく通っている後輩から聞いていた知識をもとに、こちらも支配人に直談判した。
こんなに好き勝手やらせてもらっていいのかなと思うけど、コンテンツ以外での満足度や売り上げをあげるのに貢献できて、エルンスト劇場の評判は上々だ。前職並、いやそれ以上にやりがいのある仕事がみつかって本当によかった。
惜しむらくは、身分を隠して働いているからまだ正規職員になれないってことかな。
そんなことを考えながらカクテルサーブの準備をすすめていると、同僚のジャンが近寄ってきた。
「今夜も絶好調だな、レベッカ。毎回驚くけど、ほんと貴族の令嬢とは思えねぇよ。」
「ジャンこそ、黙っていれば貴公子なのに喋ると本当に、あれよね。」
「おめーに言われたかねぇよ。俺は本来舞台裏の担当だったんだから無理言うな。」
「ははっ、その節はごめん。でも似合ってるよ。」
そう、ジャンは生粋の下町育ちで裏方部隊だった。そんな庶民をどうして貴族のアテンド係にしたかって?
そりゃあ顔が良かったからの一言に尽きる。
最初会った時思ったんだよね。彼はそれなりの恰好をさせて髪型を整えれば絶対に化けるって。結果、貴婦人の接客担当としていいね高評価連発中。特別手当ももらえて最近やっと弟たちに色々買ってあげられるようになったらしい。
可愛くて優秀な弟、やりがいのある仕事、気の合うスタッフ。
これ以上に楽しいことなんてある?
というわけで、貴族令嬢として結婚するなんて微塵も考えていない。もちろん、十日前に書面でお断りした婚約の申し出のことなんてすっかり忘れていたというわけ。
それが今、どうしてこうなってしまったのだろう…?
「シュミット家の皆様におかれましては、婚約の申し入れをぜひ再考いただけないかと思いまして。手紙だけでは私の本気が伝わらないだろうと、こうして馳せ参じた次第であります。私を受けいれられない理由を教えていただければ、至らぬ身ですが精一杯改善させていただきますので。」
そういって我が家の応接間のソファで深々と頭を下げたのは、アルフォンス・カペーその人だった。
いや。至らぬ身って、至ってるよ。あなたの完璧さは天界にまで至ってますから。
というか間近でみるとこの方、本当にスパダリだ。アカデミーの子たちが騒いでいたのが今なら分かる。
分かるからこそ、今うちにいるという現実が怖すぎる…。
大混乱を極めているのは私だけではないようで、お父様もお母様もガタガタ震えている。多分、私が我が家の負債総額を算出した時よりもずっと。
「再考だなんてそんな。私どもはこんな光栄なお話をいただけて大変嬉しく思っておりました。一度は娘の意志を尊重しましたが、アルフォンス様にご足労いただくほど望まれるなら、どうぞ今日のうちにでもお持ち帰りください。荷物は後ほど送りますので。」
あ、お父様が私を売った。お母様が私を守って…くれるわけないか。お母様、ミーハーだもんね。
両親のパニックぶりをみて逆に冷静になった私は、紅茶を一口飲むとふうと息を吐いた。
「ありがたいお申し出と、お忙しい中ここまで来ていただいたことには心より感謝いたします。
誤解無きよう申し上げますが、アルフォンス様にはなんの落ち度もありません。今回のお話をお受けできないのは、ひとえに私の力不足にあります。」
「力不足?」
一体なにが?と言いたげに不敵な笑みで聞き返したアルフォンス様の目をみて、私は続けた。
「ご覧のように、我が家は貴族としての責務を十分に果たしているとはいえない状況です。その上私もアルフォンス様の隣に立てるような才覚や華があるわけでもなく。アルフォンス様にはもっとふさわしいご令嬢がいらっしゃるはずだと、書面に書いたのは偽りなき本心です。」
「なるほど。でも私にふさわしい結婚相手がどうか、決めるのは私自身だよね。」
アルフォンス様の青い瞳でまっすぐそう言われたら、確かに~!と思わずにいられない。
うん。そうだよね。アルフォンス様が私で良いって言うなら良いのか、そっか…。
規格外の美貌にうっかり流されそうになった私は、ふと大事なことを思い出した。
「お待ちください。私とアルフォンス様って、お話したことは一度もないですよね?」
そう、婚約を申し込まれる心当たりがなさすぎるんだわ。心のモヤモヤを吐露してすっきりした気持ちの私とは反対に、アルフォンス様は大きな目を見開いたまま固まっていた。
「ル、ルイーズ…?」
お父様の声がかすれている。場の空気も冷たい。
え、ちょっと待って…。
もしかして、話したこと、あったりした?
必死に過去の記憶をたぐっていると、予想に反してアルフォンス様はふふっと笑った。
「そうだね。君とは面識がなかったね。」
だから怖いって、と思ったのは私だけだったらしい。
悪戯っぽく笑う顔は、甘い破壊力抜群でお母様を撃ち抜いた。
一体何に納得したのか分からないけど、アルフォンス様は満足げな顔で帰って行かれた。
「また来ます。」と言っていたけど、正直二度とこないでください案件だ。
それから私は両親をなだめつつ、いつものように夜のお仕事に通い続けた。
最近弟のカミーユまで呆れた目で私を見てくるのは、気のせいだと思いたい。
「さっ、気持ち切り替えて仕事しよっ!」
私は早めの夕食にサンドイッチを食べ終わると立ち上がって上着を羽織った。
「すげぇお貴族様に無条件で求婚されてるのに、あっさり断って仕事しよとか切り替えてるお前が一番怖いわ。」
「なに言ってるのよジャン。無条件だから怖いのよ。愛人囲いたいから都合のいい正妻になってくれって言われるほうが納得できるでしょ。」
「お前さぁ、そういうとこなぁ…。」
ジャンが何か言いたげに私を見たけど、今夜は新作舞台の封切りだ。こんなところでのんびりしている暇はない。気合いを入れてお客様をお迎えしなくちゃ。
私たちはきっちり身だしなみを整えると、いつもの笑顔で受付に立った。
1階の一般席とは違って、貴族層は比較的ゆったり入ってくる。混んでいるなら馬車の中で待ちましょ、の姿勢だからそこまで混雑することはない。
私たちは一人一人のお客様に丁寧にごあいさつをしながらチケットを確認していく。
「レベッカさん、こんばんは。」
可愛らしい声でそう挨拶してくれたのは、ロクサーヌ・デュボワ様だ。来年から王立アカデミーに通われる16歳の可憐なお嬢様で、私たちスタッフにも丁寧に接してくれる。
「ロクサーヌ様、ようこそいらっしゃいました。」
「今日の新作を楽しみにしてきました。今日は久しぶりに兄もあとから来るんです。」
「それは光栄にございます。では後ほどお席にご案内して、お二人がそろいましてからお飲み物をお持ちしますね。」
そういえば、ロクサーヌ様には異母兄がいたな。歳がはなれているからか仲が良いのか、何度か一緒に観劇にいらして、私も応対したことがある。
すごく優秀でかっこよくて、兄当てに声をかけてくるキツめのご令嬢が多いから、普段は母方の姓を名乗っていると仰っていたような。
その話を聞いて、お兄様の方にはお声がけを控えていたのよね。女性にうんざりしているんじゃないかと思って。最低限の接触しかしていないから、正直印象に残っていない。
とにかくその薄い兄があとから来るのだ。私はインカムでその旨を桟敷席に申し送りすると、次のお客様のアテンドに入った。
お迎えが落ち着くと、今夜も満席の桟敷席へとカクテルをサーブして回る。今夜は未成年のお客様も多いので、先にノンアルコールのものをお配りしていく。初めて劇場にくるお嬢様がわくわくそわそわしている様子はとっても微笑ましい。
ロクサーヌ様と初めてお会いした時のこともよく覚えている。
その時は幼馴染の方といらしていたけど、あまり体調が良くなさそうだった。
華やかなドレスを着ているご令嬢にはよくあることで、肩や腕を露出していると冷えるのだ。それでも、同行者の男性に気を遣わせまいと我慢してしまう健気なご令嬢は多い。
私は飲み物を温かいものに切り替えると、薄くて暖かい羽織とひざ掛けをお持ちした。
「申し訳ありません。本日、空調の調子が悪くて館内少し冷えているようです。よろしければ皆様にこちらをお配りしておりますのでご利用ください。」
「そう?僕は寒いと思わないけど。」
「それは代謝がよろしいのですね。羨ましい限りです。一般的にご婦人の方が寒さを感知しやすいようですので、念の為こちらをかけさせていただきますね。」
女性陣全員寒がってますからね~という謎の圧で、私はロクサーヌ様の肩に羽織をかけた。どこかホッとした表情を見ると、やっぱり本調子じゃなかったのだろう。
幼馴染の方がご学友に挨拶に行くと席を離れたタイミングで、私はフットレストを持ってきてロクサーヌ様の足元に添えた。
「よろしかったらこちらもお使いください。足を置くと少しは楽な姿勢になります。照明も少し落としておきますね。」
羽織や顔色の悪さが目立たないよう、私は気付かれないギリギリまで席の灯りを落とした。
「時々様子を覗きにきますので、もし観劇できないほど体調が悪くなるようでしたら、お声がけください。」
「なにからなにまでありがとうございます。私、男性と二人で出かけるのが初めてで。なのに体調が思わしくなくて、不安で…。」
「大丈夫ですよ。お連れ様が恥ずかしい思いをせずに済むよう、こちらで帰りの馬車を手配いたします。」
「そう言ってもらえて少しホッとしました。ありがとうございます。」
その笑顔に、思わず百合の世界へ足を踏み入れそうになったのは内緒。でもそれくらい可愛らしい方なのだ。以来、劇場でお会いするたび声をかけていただけるようになった。
今日はお兄様と一緒に観劇するのをとっても楽しみにしている様子。
ロクサーヌ様のお兄様なのだから素敵な方なのだろうなぁ。微笑ましい気持ちで桟敷席の裏通路を歩いていると、遅れてきたのだろう。一人の男性がジャンの案内でこちらに歩いてくるところだった。
私は端によって姿勢をただすと頭を下げた。
「やあ、先日はどうも。」
先日?おかしいな。最近お声がけした男性は皆年配の方で、こんな若いお客様はいなかったはず。
というか、やたらいい声だな。
…あれ?
ちょっと嫌な予感がしておそるおそる顔をあげると、そこにはアルフォンス・カペー様がにこやかに笑っていらっしゃった。
絶対気付かれてるけど、ここは押し切ろう。
「本日はようこそお越しくださいました。」
私はスタッフとして再び頭を下げた。
「レベッカ、お客様のご案内をお願いします。お席はA8、お連れ様がお先にお待ちです。」
完全接客モードのジャンにヘルプを求めることなどできるはずなく、私は「承知しました。」と答えるしかなかった。
桟敷席A8でお連れ様を待っているのはロクサーヌ様で。つまり、アルフォンス様はロクサーヌ様の兄にあたるわけで。
「”君”とは面識がなかったね」ってこういう意味だったのか。
なるほど、お話したこと、何度もありましたね…。
私は鉄壁の接客スマイルをはりつけたままアルフォンス様をお席へご案内し、飲み物をサーブした。
「本日の演目は結婚式までの行き違いをユーモアたっぷりに描いたアルノーの新作でございます。にぎやかで刺激的な雰囲気をイメージし、シャンパンの中にベリー類と南国の珍しい果実パイン、それにローズマリーをいれております。ロクサーヌ様の方には、シャンパンの代わりにジンジャーエールを使用しておりますので、どうぞご安心してお召し上がりください。」
「こちらのウェルカムドリンクは、いつもレベッカさんが考えているのですよね?私、毎回楽しみにしているんです。」
「恐れ入ります。」
「妹からいつも話はうかがっていますよ。劇場へいけばいつも演目の感想よりもまずあなたの話をしていますからね。不思議な方だ。」
「もう。お兄様ったら内緒にしといてって言ったのに。」
「仕方ないだろう。私も彼女のファンなんだから。」
ロクサーヌ様にそんなに喜んでもらえてるのは嬉しいけど、これ私、一体どんな顔で聞けばいいのだろう。
とにかく上演も始まるし、いたたまれなくなった私はそっとお二人の席を離れた。
「ねぇジャン、急に体調悪くなったからもう帰ってもいいかな。」
「はぁ?お前ナメてんのか。」
「いや、ちょっと本当に具合が悪いの、いろんな意味で。」
さすがに私の様子がおかしいと思ったのだろう、ジャンの表情が変わった。
「おい、大丈夫かよ。」
「うん。家に帰ればすぐ治るやつだから。」
「熱があっても出勤してくるやつが帰りたいとかマジでヤバそうだな。支配人には俺から伝えておくよ、一人で帰れるか?」
ジャンのまっすぐな心配に良心が痛むけど、仕方ない。うん、と私が頷こうととしたその時、背後から声がした。
「心配ない。彼女は私が送って行こう。」
桟敷席に近いとはいえ、ここはスタッフしか入れない待機スペース。
嫌な汗をかきながら振り向くとそこには劇を見ているはずのアルフォンス様が立っていた。
「お客様…?」
「大丈夫だ、ルイーズ嬢の家には先日訪れたばかりで道も分かっているよ。」
その一言で、ジャンはすべてを察したのだろう。この方が、「無条件で求婚してきたすげぇお貴族様」だということも。
「あの、一人で帰れますから。それにロクサーヌ様を残しては…。」
「彼女には侍女と護衛が付いているよ。それとも3人で仲良く我が家へ帰りたいかな?」
キリキリキリキリィ…と胃が締め上げられる音がするのは気のせいでしょうか。
ジャンは私の肩をポンと叩き、私は私で「自宅でお願いします。」と答えるだけで精一杯だった。
「今夜のイメージカクテル、とても美味しかったよ。」
しばらく無言が続いた帰りの馬車で、ふいにアルフォンス様が呟いた。
「ありがとうございます。」
気まずい状況だけど、あれを褒めてもらえるのは嬉しい。今回はドタバタ劇だから、どういうカクテルにするか悩んだだけに。
「私に婚約を申し込まれるより、仕事ぶりを褒められるほうが嬉しいようだね。」
これ、なんて返事するのが正解なんだろう。
前世の記憶を思い出してから、貴族令嬢として何が正解なのか分からないことだらけだったけど、アルフォンス様に関しては謎オブ謎。分からないしかない。
「君は誰にも気付かれていないと思っていたようだったけど、夏の王室晩餐会ですぐにわかったよ。」
「夏の…?」
そういえば、去年参加していたな。王太子様のお誕生日で、主要な貴族は子供を連れて出席するのが義務だったっけ。なぜか私が連れていかれて、アカデミーを卒業してから参加したのは結局その晩餐会だけだったけど。
「君はどんな男性にも目もくれず、会場で提供されているカクテルに夢中だった。最初は、よほどアルコールが好きなのかと思っていたけど、しばらく観察していて気付いたよ。彼女は、劇場にいる優秀なスタッフだと。」
そうです、イメージカクテルのアイディアに使えないかと、フードとドリンクに夢中で誰とも踊らずお父様に海より深いため息をつかれたのは私です。まさか、観察されていたなんて。
「面白い令嬢がいるものだなと、その時軽く挨拶したんだよ。」
「えっ?嘘。」
「残念ながら、君の記憶には残らなかったみたいだけどね。」
アルフォンス様はそう言って少し寂しそうに笑った。うっ、ごめんなさい。罪悪感が半端ない。
「それから、ロクサーヌから頻繁に君の話を聞くようになってね。私が妹に同行しても、君は必要以上に私に接触しようとしなかったね。」
「ええ。女性に囲まれることの多い方でしょうから、必要最低限の対応の方がよろしいかと。申し訳ありません。まさかロクサーヌ様とアルフォンス様がご兄妹とは知らずに…。」
「いや、いいんだ。放っておかれるっていうのは、こんなにも快適なのだとあの場で思い知ったよ。自分でいうのもなんだけど、この地位とこの顔で過剰に世話を焼かれることが多くてね。」
「そうでしょうね…。」
心からの同情をこめてそう言うと、アルフォンス様はそれだよ、と笑った。
「君は、君だけはそうやって近付いてこない。だから、追いかけたくなってしまったのかもしれない。まさか全力で逃げられると思わなかったけどね。」
すみません、今でも逃げようと思っていますが。
私は身の危険を感じてアルフォンス様の隣からはす向かいへ席を移ろうとした。その瞬間、腰に手をまわされてぐっと抱き寄せられた。
「あのっ…。」
「もう一度言わせて欲しい。一緒に過ごしたいと思うのはルイーズ嬢だけだ。どうか私との婚約を受けいれて欲しい。どうしようもない私の片恋を、見捨てないで欲しい。」
きらきらと、アルフォンス様の青みがかった銀髪が輝いていた。
まぶしい。こんなにもまぶしい人の隣に、私がいていいはずがない。
「あの、」
やっぱりお断りを、と思った私の先手は封じられてしまった。
「話したことがないからとか、釣り合わないからとか、そういう理由で断るのはなしだよ。」
「ぐっ…。」
思わず令嬢らしからぬ声が出てしまったのは許して欲しい。
確かにアルフォンス様はかっこいいし、こんなに近くで好意を寄せられて心が躍らないわけはないけど。でも、なんで?どうしてこうなったの?私はただ、家族を支えるために仕事を頑張っていただけなのに。
「案外、強情なんだね。まあ、だからこそ手っ取り早くそこらの男を捕まえて結婚しようなんて思わず自ら働きに出たんだろうけどね。」
アルフォンス様の声が少し低くなったのは気のせいだろうか。
「私と結婚しても、仕事は続ければいい。あの劇場は当家の所有だからね。望むなら支配人のポストをあけようか。」
「えっ!?だって、エルンスト家の管轄では…。」
「エルンスト家は母の生家なんだよ。」
「そう、だったんですね。でも私、今のポジションで十分満足していますから。」
支配人の首は飛ばさないで欲しい。とってもいい上司なんだもの。
「結婚後は、シュミット家へ惜しみなく援助しよう。」
「いえ、我が家のことはおかまいなく。」
「そうだ、結婚すればロクサーヌは君の妹になるよ。あれが妹では嫌かな?」
「そんなことないです。あんなに可愛いらしい方が妹なら、毎日幸せに決まっています!」
「うん。」
「えっ…?」
あ、しまった。これはもしかして、ハメられたのでは???
私は身をよじってアルフォンス様から離れた。
「解せません。なぜそこまで私にこだわるのですか?」
可愛いは作れるように、おもしれー女枠だって、作れる。この先アルフォンス様の目にとまるような面白いご令嬢だってもっといるはずなのに。でも、私が何を言ってもアルフォンス様には響かないようだった。
「ごめんね。でも諦めて。今までこんなに何かを欲しいと思ったことはないんだ。今だって、本当はもっと抱きしめたいのを自制しているんだから。」
自制せずとも私が今すぐ馬車をおりますがー?と言おうとして、やめた。
だってアルフォンス様の顔が、あまりにも可哀そうな子犬に見えてしまったから。辣腕として有名な近衛隊副隊長が、子犬なわけないのにね。
そんな風に見えた時点で、手遅れなのかもしれない。
でも、せめてもう少しだけ。
「…考えさせてください。」
いきなりオッケー!なんて応えられるほど、貴族慣れも男慣れもしてないんですよ。
そんな私の葛藤を見透かしたのか、アルフォンス様はにっこり笑った。
「うん、いいよ。でも結果は同じだけどね。君が諦めてくれるまで、何度でも君に愛を囁こう。」
私は屋敷に着くまでアルフォンス様に右手を握られていた。この悪い顔から、逃げられる気がしない。
転生しただけでもびっくりなのに、その上こんなにも凄い人から好かれるなんて、人生何が起こるか本当に分からないな。
馬車の窓越しに、アルフォンス様が蕩けるような笑顔で私のことを見ていた。
直接お顔を見ることが出来なくて、私はぎゅっと力を込められた手の強さを感じながら、ガラス窓のアルフォンス様を、ただ見つめ返すことしかできなかった。
馬車が遠回りをして屋敷に戻っていると気付いたのは、しばらくたってからのことだった。
最後までお付き合いいただき大変ありがとうございました。
この短編のほかにも、完結済の長編・中編。現在連載中の長編を書いています。
同じく異世界恋愛モノなので、もしよろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。
また別のお話でお目にかかれることを願って。
どうもありがとうございました。
夕波




