灰色の予兆
朝のセキュリティオフィスは、妙に落ち着かない静けさに包まれていた。
シャムスはモニター群の明滅を眺めながら、缶コーヒーを指で転がしていた。苦味が重たい。眠気はないのに、体だけが落ち着かない。
「なあ、シャムス。昨日のスポーツニュース見たか? あの選手、また移籍だってよ。落ち着きなさすぎだろ」
エリオットが椅子を反らして話しかける。
いつもの軽い調子だが、相変わらず情報が早い。
「見た。本人が落ち着きたいのかどうかも怪しいけどな」
「だよなあ。……ってか、お前、缶コーヒー転がしすぎ。何考えてんだ?」
「別に。考え事ってほどでもない」
本当は朝から続くざらついた胸騒ぎのせいだった。
ニュースの不穏な報道や、街に漂う微妙な空気は無関係じゃない気がしていた。
だが、過敏になりすぎても良くない。エルムレイク以来、危機感が強くなりすぎたのは自覚している。
エリオットはそれ以上突っ込まなかった。
代わりに指を鳴らして、自分のスマホ画面をシャムスへ向けてくる。
「ほら見ろ、昨日からの噂になってる“黒い影”の動画。どいつもこいつも撮影センスが悪すぎてマジで何にも見えん。幽霊でも狙ってんのかよ」
「……くだらねぇ」
「そう言いつつ、お前見るんだよな。ほら、早く反応しろよ」
つい視線がスマホ画面へ向かう。
確かに画質は悪く、影が揺れているように見えるだけだ。
エリオットは肩をすくめる。
「俺からしたら、ただの夜景のノイズだな。まあ、こういう噂が立つと、変な通報も増えるけど」
「仕事が増えるって意味なら、歓迎はしねぇな」
そんな他愛ない会話でほんの少しだけ気が紛れた。
エリオットはこういう空気を作るのが上手い。無駄話の振りして、シャムスの気配をちゃんと見ている。
その時だった。
バン、と金属扉の開く音がオフィスの空気を割る。
ガレスが分厚いファイルを片手に入ってきた。
「お前ら、ちょうどいいところにいたな。
すぐブリーフィングルームに来い。状況が変わった」
その声は落ち着いているのに、背景に張り詰めた危機の匂いがあった。
シャムスとエリオットは素早く立ち上がり、ガレスの後を追う。
廊下を歩く間、ガレスは短く言った。
「市内で異常通報が急増している。警察からも“未確認の暴行事件”の連絡が相次いでいる。……正直なところ、嫌な流れだ」
シャムスは喉の奥が重くなるのを感じた。
嫌な予感は、やはり無視できなかった。
エリオットは眉をひそめながら呟く。
「まさか、前みたいな……?」
ガレスは足を止めず、低く答えた。
「まだ断定するには早い。だが、用心して動け」
ブリーフィングルームの扉に手がかかった、その瞬間だった。
建物の外から、破れた悲鳴が響いた。
次いでガラスが砕ける鋭い音。
廊下の空気が一気に凍りついた。
エリオットが息を呑む。
「……今の、なんだ?」
ガレスの瞳が鋭く細まる。
「緊急対応だ。二人とも武装しろ。
状況は現場で把握する」
廊下の奥で誰かの叫び声が弾けた。
今まで曇天の下に潜んでいた不穏が、一気に牙を剥く。
地獄の一歩手前が、ようやく扉を開いた。




