静寂の前のざわめき
午後の陽射しが、キャンパスの芝生を柔らかく照らしていた。
秋風が通り抜け、木々の葉がさらさらと鳴る。どこにでもある平穏な午後。
だが、クレメンタイン・ハミルトンの胸の奥には、朝から妙なざわつきが残っていた。
ニュースで流れていた、あの不可解な事件。
「突然、人が暴れ出して周囲を襲った」──そんな報道は、どこか遠い世界の出来事に思えた。
だが彼女の脳裏には、二ヶ月前の“あの夜”の記憶が、薄く影のようにこびりついて離れない。
「……まさかね」
クレメンタインは自分に言い聞かせるように呟き、教科書を閉じた。
「クレム!」
背後から弾む声がした。振り向くと、赤毛をポニーテールにした女子学生──ベッカ・ハートが手を振っていた。
「今、ニュース見た? なんかまた変な事件あったんでしょ。怖くない?」
「怖いっていうか……気味悪いよね」
「ほんとそれ! でもクレムなら平気そう。ほら、護衛してくれる彼氏いるし?」
ベッカのニヤリとした笑みに、クレメンタインは思わずむせた。
「な、なに言ってるのよ! シャムスとはそういう関係じゃない!」
「でもこの前、一緒に街歩いてたじゃん? あれ見た人、めっちゃいたよ。『誰あのイケメン!?』って女子たちの間で話題になってたし」
「えぇ……やめてよ、そういうの」
「紹介してって言われたら、しちゃダメだからね。あんたの見る目を信じてるから!」
ベッカの茶化しに、クレメンタインは深いため息をつく。
「ほんとあんたって……」
「はいはい、わかってる。あたし最高の友達でしょ?」
「図々しいんだから」
それでも、口元には微笑みが浮かんだ。こんなくだらないやりとりが、クレメンタインは嫌いではなかった。
二人は学内のカフェに入った。カップの中でミルクが白く渦を描く。
その時──ふとテレビのニュースが切り替わった。
緊急速報。市内中心部で「暴徒化した市民による襲撃事件」が多発しているという。
画面には、警察が制止する中、何かに取り憑かれたように暴れる男の姿。
その瞳は黒く濁り、まるで人ではない。
「……なに、これ」
ベッカが息を呑む。
クレメンタインの心臓が跳ねた。
まるで、あの夜が──再び、始まったかのように。
彼女は震える手でスマートフォンを取り出す。
「……シャムス、出て」
通話の発信ボタンを押したその瞬間、校内の遠くで悲鳴が響いた。
ガラスの割れる音。
何かが走り、ぶつかり、倒れる。
そして──人のものとは思えぬ、濁ったうなり声。
「クレム……?」
ベッカが青ざめて彼女を見る。
クレメンタインは椅子を蹴って立ち上がった。
「ここを離れよう、ベッカ!」
その声が、静かなキャンパスを切り裂いた。




