黒い影の兆し
グレンヘイヴン中央ビル・セキュリティオフィス。
午前十時。
窓の外には穏やかな陽光が差し込んでいるのに、室内には妙な静けさが漂っていた。
いつもなら軽口を飛ばす同僚たちの声や、コーヒーメーカーの電子音が響いているはずなのに──今日はそれがなかった。
シャムスはタブレットを片手に、黙ってニュース映像を見つめていた。
『市内でまたも通り魔事件──加害者は取り押さえられた直後、突然死亡。原因は依然不明』
その言葉が耳を離れない。
どこか、二ヶ月前のエルムレイクでの惨劇を思い出させた。
あれ以来、影という言葉を口にすることさえ避けてきたのに、脳裏では何度もその黒い輪郭がよみがえる。
「おいおい、やけに暗い顔してるじゃねぇか、ハンサムボーイ」
不意に声をかけられ、シャムスはタブレットから視線を上げた。
エリオットがマグカップを片手に立っていた。
シャツの袖を無造作にまくり上げ、無精髭を残した顔にいつもの軽い笑みを浮かべている。
この職場の副主任であり、年上の先輩。
軽口ばかり叩くが、トラブル時には誰よりも冷静で、チームをまとめる面倒見の良さがある。
口調はちゃらんぽらんでも、現場での判断力は本物だ。
「また幼馴染みのセニョリータと喧嘩でもしたか?」
「してねぇよ。……ただ、ニュースが気になってな」
「ニュース?」
「最近、“発作”で人を襲う奴が多いだろ。どいつも目が真っ黒で暴れるって話だ」
「ははっ、まさかお前、超常現象でも疑ってんのか?」
「……ちげーよ。ただの勘だ」
「勘ねぇ。お前、勘が当たるときは決まってろくなことが起きねぇからな」
「それは否定できねぇな」
エリオットが向かいの椅子に腰を下ろし、マグをゆっくりと揺らした。
その仕草一つに、場数を踏んだ大人の余裕がある。
シャムスはそういうところが少し羨ましかった。
自分はまだ21歳。仕事も覚えたばかりで、落ち着いているように見えて、心の奥では焦りや不安を隠せていない。
エリオットのように「構えていられる男」には、まだなれそうもなかった。……とはいえ、彼もまだ28歳なのだが。
「ま、あんまり思いつめんな。お前、猫だったら今ごろ尻尾が逆立ってるぞ」
「は?」
「昔、“シャムス”って名前のシャム猫を飼っててな。無愛想なくせに、たまにすげぇ真剣な顔をしてた。お前見てるとつい思い出すんだ」
「……うるせぇよ、猫好きおじさん」
「お、覚えてたのか。猫は気まぐれだが、俺は面倒見がいいぞ」
「……勝手にしろ」
軽口を交わす。
その短いやり取りの中に、確かな信頼がある。
エリオットは冗談めかしているが、いつも本当に周りを見ていて、誰かが沈んでいれば必ず声をかける。
この職場で“兄貴分”と呼ばれているのも、伊達ではない。
だからこそ、そんな彼の軽口が、少しだけ救いになった。
シャムスはふっと息を吐き、もう一度タブレットを見下ろした。
別のニュースが再生される。
『グレンヘイヴン西地区で通り魔事件。加害者は錯乱状態のまま死亡』
画面の隅に映る現場──そこに、どこかで見た“黒い揺らぎ”のような影が写っていた気がして、心臓がわずかに跳ねた。
(……まさかな。あれは、もう終わったはずだ)
そう思い込みながらも、胸の奥に小さな不安がこびりつく。
まるで過去の悪夢が、街のどこかで息を吹き返しているように。
その瞬間、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
いつもと変わらぬ音のはずなのに、今日は妙に不吉に響いた。




