静寂に走るひび
午前七時。
シャムスはスマホのアラームを無視しながら、うつ伏せのまま片手を伸ばした。
「……うるせぇ」
やっとの思いで止めると、隣の部屋から小さな足音が聞こえる。
「シャムス、起きてる?」
「起きてる……って言ったら嘘になるな」
扉が静かに開き、リナナが顔を覗かせる。
黒髪の少女。十歳のまだ幼い顔立ちだが、瞳の奥には消えない静かな影が宿っていた。
「朝ごはん、作ってみた。パンと、卵と……えっと、焦げてるけど」
「焦げてるのは料理の成長過程だ。……多分な」
よろよろと立ち上がり、シャムスはリビングに向かう。
ソファの上には彼のジャケット、壁際にはセキュリティ会社の制服。
シンプルな部屋だが、子供向けの絵本が混じり、最近の生活の変化を物語っている。
ダイニングテーブルの上には、卵が変な形で固まった皿があった。
「見た目は……まぁ、努力は認める」
「味はがんばった」
リナナは胸を張る。
シャムスは無言で一口食べ……数度咀嚼し、眉をしかめた。
「塩どんだけ入れた」
「たくさん。しょっぱいのは元気のしるしって聞いた」
「誰のどんな理論だそれ……」
彼女がしょげそうになるのを見て、慌てて言う。
「でも、ありがとな。朝から作ってくれただけで十分だ」
リナナはぱっと笑い、トーストをかじる。
その時、テレビが気になるニュースを流した。
『昨日未明、グレンヘイヴン市内で発生した無差別暴行事件について──』
画面にはモザイクのかかった映像。
路上で叫びながら人を襲う男。
通行人が逃げ惑う。
『犯人は取り押さえられたものの、暴行の動機は不明。薬物反応も検出されず──』
リナナがテレビに目を向け、不安げにつぶやく。
「……怖いね」
「どこにでも気狂いはいる。関わらなきゃいいだけだ」
言いながら、シャムス自身の心にざらついた違和感が残る。
(影の時と……似てる気がするのは、考えすぎだ)
──平穏は戻ったはずだ。
終わったはずの悪夢だ。
そう自分に言い聞かせる。
「今日は学校?」
「うん。……行く」
リナナは少し迷うような表情を見せる。
シャムスは彼女の頭に手を置く。
「無理に気張らなくていい。何かあったら逃げろ。助けを呼べ。俺が行く」
その言葉を聞いた瞬間、リナナの目が安心で緩む。
これが、この街での彼女の唯一の拠り所なのだ。
午前八時半。
シャムスは制服の襟を整えながら、玄関の鍵を閉めた。
エレベーターに乗ると、隣の部屋の老婦人が声をかけてくる。
「今日もお仕事かい、シャムス君」
「はい。変な依頼が来なければ、平和ですけどね」
「この街も物騒だそうじゃないの。気をつけてね」
「ええ、まぁ……」
エレベーターが一階に着き、外へ。
朝の光が街を照らし、道行く人々を包む。
その中に、黒髪をポニーテールにした少女が立っていた。
クレメンタイン・ハミルトン。
カーディガン姿で、バインダーを脇に抱えている。
「おはよう、シャムス」
「おはよう。今日も大学か?」
「もちろん。あなたは?」
「仕事」
二人の間に、言葉よりも自然な空気が流れる。
クレメンタインは楽しげに目を細める。
「リナナは?先に行った?」
「途中まで送った。……なんか、落ち着かない雰囲気だな」
「例のニュースのせいでしょ。でもグレンヘイヴンは安全よ。少なくとも、あの村よりは」
「そうだといいが」
クレメンタインは笑って、軽く拳で肩を叩く。
「大丈夫。あなたがいるんだもの」
不意の言葉に、シャムスは少し視線をそらす。
(……聞き慣れねえ)
その照れた様子に、クレメンタインはわずかに顔を赤らめる。
だがその照れが、世界に足りない温度を灯していた。
それが──。
平凡で、かけがえのない一日の始まりになるはずだった。
まだ、誰も知らない。
この都市に再び、影が忍び寄っていたことを。
この平穏の裂け目から、地獄が溢れ出すことを。
彼らの運命が、再び暗闇に試されることを──。




