エピローグ 秋の庭
秋の陽ざしが、やわらかく庭を包んでいた。紅葉しかけたモミジの葉が風に揺れ、金色の光を反射している。
ウッドデッキのテーブルには、ポットに入った紅茶と、焼き菓子の皿。その向かいで、雅人さん――今では「お義父さん」と呼ぶ人が、ゆったりとカップを手にしていた。
庭の向こうでは、娘の咲良が飼い犬のアリスとじゃれ合っている。
あの子の笑い声が風に乗って響くたび、胸の奥がやさしく温かくなる。
「……いい天気ですね」
わたしはカップを置きながらつぶやいた。
「うん。こういう午後は、時間が止まったみたいに感じる」
雅人さんの声はあいかわらず穏やかだが、昔より少し低くなったように思う。
彼の髪には、うっすらと白いものが混じっていた。だけど、背筋はまっすぐで、目元には相変わらず静かな光が宿っている。
あの夜から、月日は流れた。
次の日の朝、翔太から就職内定を知らせるメッセージが、わたしのスマホに届いた。そのメッセージを受けたのは、雅人さんのベッドの中だった。
もしも雅人さんに抱かれていたら、わたしはそのメッセージをどんな気持ちで読んだだろうか。
徹夜で執筆をしていた雅人さんは、わたしに向かってほほ笑むと、「行ってやってください」と告げてくれた。
翔太と結婚して、もうすぐ八年。
咲良が生まれて、五年。
わたしたちの結婚を契機に、雅人さんはホテル暮らしをやめて自宅に戻ると、同居を勧めてくれた。
家族になった。
そう言葉にできる日が来るなんて、昔のわたしは想像もしていなかった。
――でも。
ふと、胸の奥に小さな棘のようなものが疼いた。それは消えることのない「もしも」の記憶。
わたしは、ためらいながらも口を開いた。
「……お義父さん」
「うん?」
紅茶の香りがふわりと立ちのぼる。わたしは少し視線を落としたまま、静かに続けた。
「あの夜のこと……覚えてますか?」
彼の指が一瞬だけ止まった。でもすぐに、静かにカップを置いて微笑んだ。
「もちろん。忘れられるわけがない」
わたしは小さく息を吸った。
「……あの夜、もしもお義父さんが、わたしの希望を受け入れてくれていたら――未来はどうなっていたんでしょうね」
言葉を発した瞬間、胸の鼓動が早くなるのがわかった。
庭で咲良の笑い声が響いている。その無邪気な声が、どこか遠くに感じられた。
雅人さんは少しだけ空を見上げ、光に目を細めた。
「そうだな……」
しばらく沈黙が落ちた。
風がモミジの葉を一枚、わたしたちの間に落とした。彼はそれを指先でつまみ、ひらりと宙に返した。
「美咲さん。もしも、あの夜……私が君を愛してしまっていたら」
低く、静かな声だった。
「君はきっと、こうして笑えてはいなかったと思う」
「……」
「翔太も、咲良も、ここにはいなかった。君があの夜くれた『告白』は、私の人生の中で一番痛くて、そして一番美しい時間だった。でも――それは、君の未来を壊してはいけない時間でもあったんだ」
彼の言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……あの夜の告白、御迷惑ではありませんでしたか?」
少し笑いながら尋ねると、雅人さんも静かに笑った。
「迷惑? そんなわけないさ。あの夜、君が涙を流しながら想いを伝えてくれたこと――あれは、私の中でずっと灯りみたいに残ってる。だからこそ、君が今幸せそうに笑っているのを見るたびに、自分の選択は正しかったんだって思えるんだ」
風がまた吹いて、木々の枝を揺らした。モミジがひらひらと舞い、テーブルの上に落ちてくる。
わたしはカップを手に取り、ふたたび微笑んだ。
「……ズルいです」
「え?」
「そんなふうに言われたら、また好きになっちゃいそうで」
雅人さんは目を細め、軽く首を振った。
「それなら、それでいいさ。『恋』は形を変えて、生き続けるものだから」
その言葉が、心に静かに落ちてきた。
咲良の笑い声が、再び庭に響く。
わたしは紅茶をひと口飲み、目を閉じた。香りの奥に、あの夜の記憶がかすかに蘇る。
でも今は、それが痛みではなく、やさしい余韻として胸に残っている。
――もしも、あの夜、抱かれていたら。
――もしも、あの夜、未来を変えていたら。
そんな【もしも】は、もう必要ない。
わたしは静かに目を開け、笑った。
「お義父さん、咲良とアリス、どっちが早く走れると思います?」
「うーん、アリスかな」
「いえ、咲良です。絶対、あの子のほうが勝ちます」
そう言って笑うと、雅人さんも同じように笑った。
秋の光が、わたしたちの間にあたたかく差し込んでいた。
(了)




