表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

エピローグ 秋の庭

 秋の陽ざしが、やわらかく庭を包んでいた。紅葉しかけたモミジの葉が風に揺れ、金色の光を反射している。

 ウッドデッキのテーブルには、ポットに入った紅茶と、焼き菓子の皿。その向かいで、雅人さん――今では「お義父さん」と呼ぶ人が、ゆったりとカップを手にしていた。

 庭の向こうでは、娘の咲良が飼い犬のアリスとじゃれ合っている。

 あの子の笑い声が風に乗って響くたび、胸の奥がやさしく温かくなる。

「……いい天気ですね」

 わたしはカップを置きながらつぶやいた。

「うん。こういう午後は、時間が止まったみたいに感じる」

 雅人さんの声はあいかわらず穏やかだが、昔より少し低くなったように思う。

 彼の髪には、うっすらと白いものが混じっていた。だけど、背筋はまっすぐで、目元には相変わらず静かな光が宿っている。


 あの夜から、月日は流れた。

 次の日の朝、翔太から就職内定を知らせるメッセージが、わたしのスマホに届いた。そのメッセージを受けたのは、雅人さんのベッドの中だった。

 もしも雅人さんに抱かれていたら、わたしはそのメッセージをどんな気持ちで読んだだろうか。

 徹夜で執筆をしていた雅人さんは、わたしに向かってほほ笑むと、「行ってやってください」と告げてくれた。


 翔太と結婚して、もうすぐ八年。

 咲良が生まれて、五年。

 わたしたちの結婚を契機に、雅人さんはホテル暮らしをやめて自宅に戻ると、同居を勧めてくれた。

 家族になった。

 そう言葉にできる日が来るなんて、昔のわたしは想像もしていなかった。

 ――でも。

 ふと、胸の奥に小さな棘のようなものが疼いた。それは消えることのない「もしも」の記憶。

 わたしは、ためらいながらも口を開いた。

「……お義父さん」

「うん?」

 紅茶の香りがふわりと立ちのぼる。わたしは少し視線を落としたまま、静かに続けた。

「あの夜のこと……覚えてますか?」

 彼の指が一瞬だけ止まった。でもすぐに、静かにカップを置いて微笑んだ。

「もちろん。忘れられるわけがない」

 わたしは小さく息を吸った。

「……あの夜、もしもお義父さんが、わたしの希望を受け入れてくれていたら――未来はどうなっていたんでしょうね」

 言葉を発した瞬間、胸の鼓動が早くなるのがわかった。

 庭で咲良の笑い声が響いている。その無邪気な声が、どこか遠くに感じられた。

 雅人さんは少しだけ空を見上げ、光に目を細めた。

「そうだな……」

 しばらく沈黙が落ちた。

 風がモミジの葉を一枚、わたしたちの間に落とした。彼はそれを指先でつまみ、ひらりと宙に返した。

「美咲さん。もしも、あの夜……私が君を愛してしまっていたら」

 低く、静かな声だった。

「君はきっと、こうして笑えてはいなかったと思う」

「……」

「翔太も、咲良も、ここにはいなかった。君があの夜くれた『告白』は、私の人生の中で一番痛くて、そして一番美しい時間だった。でも――それは、君の未来を壊してはいけない時間でもあったんだ」

 彼の言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「……あの夜の告白、御迷惑ではありませんでしたか?」

 少し笑いながら尋ねると、雅人さんも静かに笑った。

「迷惑? そんなわけないさ。あの夜、君が涙を流しながら想いを伝えてくれたこと――あれは、私の中でずっと灯りみたいに残ってる。だからこそ、君が今幸せそうに笑っているのを見るたびに、自分の選択は正しかったんだって思えるんだ」

 風がまた吹いて、木々の枝を揺らした。モミジがひらひらと舞い、テーブルの上に落ちてくる。

 わたしはカップを手に取り、ふたたび微笑んだ。

「……ズルいです」

「え?」

「そんなふうに言われたら、また好きになっちゃいそうで」

 雅人さんは目を細め、軽く首を振った。

「それなら、それでいいさ。『恋』は形を変えて、生き続けるものだから」

 その言葉が、心に静かに落ちてきた。

 咲良の笑い声が、再び庭に響く。

 わたしは紅茶をひと口飲み、目を閉じた。香りの奥に、あの夜の記憶がかすかに蘇る。

 でも今は、それが痛みではなく、やさしい余韻として胸に残っている。

 ――もしも、あの夜、抱かれていたら。

 ――もしも、あの夜、未来を変えていたら。

 そんな【もしも】は、もう必要ない。

 わたしは静かに目を開け、笑った。

「お義父さん、咲良とアリス、どっちが早く走れると思います?」

「うーん、アリスかな」

「いえ、咲良です。絶対、あの子のほうが勝ちます」

 そう言って笑うと、雅人さんも同じように笑った。

 秋の光が、わたしたちの間にあたたかく差し込んでいた。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ