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第三章 夜の選択

 秋が深まり始めたころ、街を歩く人たちの服装もすっかり落ち着いた色に変わっていた。

 わたしは駅前のカフェの窓際に座って、カップの中のカフェオレをもう何度目かわからないくらいかき混ぜていた。

 ――まだ翔太は来ない。

 就職活動が行き詰まってきてから、デートどころか、ゆっくり話す時間すらなくなっていた。

「ごめん、明日も説明会入っちゃってさ」

「また面接重なって……」

 そんなメッセージばかり。

 最初は「がんばってね」と言えたけど、何度も続くうちに、返信する言葉も迷うようになっていた。

 それでも今日は久しぶりに時間ができたらしく、数日前に「日曜、午後空いたよ。会える?」と連絡が来たときは、思わず声を上げて喜んでしまった。

 雅人さんにも「久しぶりに翔太さんと会えます」と、メッセージを送った。

 ――だから、今日こそは。

 時計を見る。待ち合わせの時間から、もう二十五分が過ぎていた。

 駅前の広場では、人が次々と行き交う。カップルや買い物帰りの家族、そして仕事の電話をしながら歩くスーツ姿の人。

 その中に翔太の姿を探して、わたしは何度も顔を上げた。

「……遅いなぁ」

 口に出してみても、答える人はいない。スマホを取り出して、メッセージを確認する。既読も未読もないままの画面が、やけに静かに見えた。

 時間が経つにつれて、心のどこかが少しずつ冷えていく。

 五十分が過ぎたころ、やっとスマホが震えた。

 思わず息をのんで、画面を開く。

「悪い、急な面接が入った。また連絡する」

 たったそれだけの文章。

 絵文字もスタンプもない。

「……そっか。面接、入っちゃったんだ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 頭ではわかっている。

 翔太が悪いわけじゃない。就職活動は今が大事な時期だし、きっと焦っているんだ。

 ――だけど。

 胸の奥が、どうしても重かった。

 ここまで来るのに、服も悩んで、髪も巻いて、少しだけ香水までつけた。それなのに、彼はもう別の場所にいる。わたしの知らない場所で、わたしの知らない顔をして。

 冷えたカフェオレを飲み干して、席を立つ。店を出ると、午後の空が少しずつ夕暮れの衣装を纏いつつあった。

 後ろからカップルの笑い声が聞こえてくる。それだけで、胸がぎゅっと締めつけられた。

「……わたし、本当に何やってるんだろ」

 思わず足を止めて、スマホを開いた。画面には、さっきの短いメッセージがそのまま残っている。

「また連絡する」――その「また」が何度目なのか、もうわからなくなっていた。

 指先が震えながらも、「がんばってね」とだけ返信を打つ。

 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。でも、返事はなかった。

 駅のホームから、発車ベルが聞こえてくる。電車のドアが閉まる音が、妙に遠く感じた。

 ――これが【支える】ってことなのかな。

 そんな言葉が頭に浮かんで、胸の奥で苦く消えた。

 翔太を信じたいのに、どこかで寂しさが止まらない。歩きながら、小さくため息をついた。

 夕風が頬を撫で、髪を揺らす。その冷たさが、涙のかわりみたいだった。


 駅前のカフェを出てから、なんとなく帰る気になれず、わたしはそのまま公園へ向かった。

 夕闇の迫る公園は、昼間とはまるで別の場所みたいに静かで、街灯の下に伸びたベンチの影が長い。人気のない遊歩道を歩いて、わたしは一番奥のベンチに腰を下ろした。

 バッグからスマホを取り出して、無意味に画面を眺める。

 さっきまで翔太とのやりとりが表示されていたトーク画面。

 その最後の一文が、白い光の中でにじんで見える。

「悪い、急な面接が入った。また連絡する」

 スマホを握りしめたまま、わたしは空を見上げた。一番星だろうか、かすかに星がひとつだけ光っていた。まるで、無人の公園で一人ベンチに座るわたしのようだ。

わたしは一番星の写真と、無人の公園の写真を撮った。

 冷たい風が吹き抜けて、肩をすくめる。

 ――誰か、そばにいてほしい。

 そんな気持ちが、胸の奥でじんわり広がっていく。

 気づいたら、親指が画面を滑っていた。

 開いたのは、雅人さんとのメッセージの履歴。

 前に交わした何気ない言葉が並んでいる。コーヒーの話、天気の話、そして「仕事が忙しくてね」という一文。

 そのどれもが穏やかで、落ち着いた声が聞こえてくるようだった。

 わたしはためらいながらも、文字を打ち始めていた。

「寂しいです」

 さっき撮った二枚の写真を添付する。

 ――送信していた。

「なにしてるの、わたし!」

 我に返り、すぐに取り消そうとしたけれど、既に「既読」がついてしまっていた。

「……うそでしょ……」

 心臓が一気に跳ねる。

 どうしよう、何て思われるだろう。変な子だって思われるに決まってる。

 そんなふうにパニックになっていると、スマホが震えた。

 雅人さんからの返信だった。

「すぐに行くから、そこから動かないように」

 その一文を見た瞬間、頭が真っ白になった。

「い、行くって……だめです!」

 慌てて文字を打ち込む。

「冗談です! 何でもないです! 本当に大丈夫です!」

 震える指で送信ボタンを押す。

 でも、既読はつかない。

「……まさか、もう出てたりしないよね……?」

 胸の鼓動が速くなる。

 あんなメッセージで、わたしのために来るなんて、ありえない――そう思いたいのに、雅人さんの性格を思い出す。

 ――誠実な人。

 ――約束を守る人。

 そして【誰かの寂しさを見過ごせない人】

「……やっぱり、来ちゃうかも」

 でも、この場所がわかるはずはない。だってメッセージはただ一言「寂しいです」だけなのだ。

 雅人さんは、どうやってわたしを見つける気なのだろう。

 ベンチに座り直して、両手で顔を覆う。

「なんで、送っちゃったんだろ……」

 頬が熱いのに、指先は冷たい。

 時間がどれくらい経ったのかわからない。風の音だけが、やけに大きく耳に残る。

 ――来れるはずない。

 ――でも、来てくれたら、うれしい。

 そんな矛盾した思いが、胸の中でせめぎ合う。

 夕闇が迫る公園のベンチで、動けないまま、ただ時間だけが流れていく。

 街灯の下に落ちた自分の影が、長く伸びて揺れた。


 そのときだった。

「……佐伯さん」

 静かな声が、夜気を割った。

 顔を上げると、街灯の光の中に雅人さんが立っていた。

 息が詰まる。

 スーツの上にコートを羽織り、額にかかった髪が少し乱れている。いつも穏やかな彼の表情が、今はどこか切なげだった。

「桐生さん……どうしてここが……」

「メッセージに添付されていた写真からです。この公園、私も時々散策するんですよ」

 彼は息を整えながら、ベンチの前まで来る。

 わたしは慌てて立ち上がった。

「す、すみません! あのメッセージ、冗談のつもりで……本当に、こんなつもりじゃ――」

「いいんです」

 その声は、驚くほどやわらかかった。

「私が勝手に来たんです。翔太の代わりに、せめて君の顔を見て謝罪したくて」

 そう言って、彼は少しだけ目を伏せた。街灯の光が、雅人さんの横顔を淡く照らしている。

「翔太がまた、来なかったのでしょう? 本当に申し訳ない。あいつは昔から、不器用で……夢中になると周りが見えなくなる。今日のこと、私からも謝らせてください」

 その真摯な言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。

 翔太の父親としての言葉――なのに、どうしてこんなに優しく響くんだろう。

「そんな……謝らないでください。翔太さんが大変なのは、わかってるんです。ただ、少し……寂しかっただけで」

 自分でも驚くくらい、声がかすれていた。

 沈黙が落ちて、風の音だけが通り抜ける。

 気まずさをごまかそうと、わたしは笑ってみせた。

「……よかったら、桐生さんが代わりにデートしてくれますか?」

 口が勝手に動いていた。

 言ってから、息が止まる。また何を言ってるんだ、わたし。

 慌てて視線をそらす。

「じょ、冗談です。今日は変なんです、わたし」

 自分の笑い声が、情けないほど震えていた。

 でも、返ってきたのは――予想外の言葉だった。

「……私でよければ」

 顔を上げると、雅人さんが微笑んでいた。

 からかうでもなく、照れるでもなく。まるで春の午後みたいに、穏やかで優しい笑みだった。

「本当に、私でよければ。少しでも君の気が晴れるなら、喜んで付き合いますよ」

 その瞬間、胸の奥で何かが静かに音を立てた。

 風がやわらかく吹いて、街灯の光が揺れる。

 わたしは俯いたまま、小さく頷いた。

「……じゃあ、少しだけ。一緒に歩いてくださいませんか?」

「ええ、もちろん」

 雅人さんが差し出した手に、わたしはそっと手を重ねた。

 温かかった。まるで、冬の夜に灯る小さな焚き火みたいに。

 ふたりの足音が、並んで石畳を踏む。その音が、やけに静かな夜の公園に溶けていった。


 駅前から少し離れた街の灯が、夜のガラスに反射してきらめいていた。

 雅人さんにエスコートされて、わたしはホテルのロビーに立っていた。天井の高い空間に、ピアノの旋律が静かに流れている。

「せっかくだから夕食でもどうですか?」

 そう言われて、わたしは一瞬戸惑った。でも、その言葉の響きがあまりに自然で、気づけば「……はい」と答えていた。

 レストランの窓際の席。ガラス越しに見える夜景は、まるで宝石みたいに瞬いている。

 テーブルには白いクロス、そしてキャンドルの小さな灯。その柔らかな光の中で、雅人さんがワイングラスを手に微笑んだ。

「緊張してますね、佐伯さん」

「そ、そんなことないです……! ただ、こんな場所、久しぶりで……」

「そうですか。若い人はこういう空気、少し背伸びして感じるものですよ」

 軽やかに笑う声が、ワインの香りに混ざってふわりと広がった。

 いつも喫茶店で見せる穏やかさとは違う、大人の雰囲気。それが不思議と嫌じゃなくて、むしろ胸の奥が少しくすぐったくなる。

 料理はひと皿ごとに運ばれてきて、どれも丁寧で美しかった。ナイフとフォークを持つ雅人さんの仕草まで、目を奪われてしまう。

「桐生さん、ワイン詳しいんですね」

「まぁ、年を重ねると自然と覚えるものです。佐伯さんは、飲める方ですか?」

「少しだけ……」

 そう答えたとき、グラスに注がれた赤い液体が、ライトに照らされて揺れた。

 ひと口飲むと、体の奥がじんわり熱くなっていく。

「おいしい……」

「でしょう? 今夜の君の表情に、よく似合ってます」

 その言葉に、思わず視線を落とす。

 心臓が小さく跳ねた。

 お酒のせいなのか、それとも雅人さんの声のせいなのか――わからなかった。

 気づけば、会話はどんどん柔らかくなっていた。翔太の話、学校の話、喫茶店の話。話すたび、雅人さんの笑みがやさしく返ってくる。その穏やかさに包まれているうち、時間の感覚がゆるやかに溶けていった。

 翔太のお父さん。本来ならそういう距離の人。

 けれど、目の前にいるこの人は、わたしの中ではもう【恋人の父親】という枠から、少しずつ外れつつあった。

 彼の声を聞くたび、胸の奥が柔らかく痛む。その痛みは、いけないとわかっていながらも、どこか甘やかで、手放したくなかった。

 三杯目のグラスを空にしたころ、わたしはぽつりと呟いてしまった。

「……今日は、帰りたくない、です」

 言ってしまった。

 意識のどこかで止めようとしたのに、言葉が先に零れた。グラスの縁を指でなぞりながら、顔を上げられなかった。

 雅人さんは少しだけ目を見開いたあと、静かに微笑んだ。

「そうですか。……それなら、もう少しお付き合いましょう」

 その声に、心臓が跳ねた。何も起きていないのに、世界が少し動いたような気がした。

 ――そして、わたしたちはレストランを出た。

 エレベーターの中。鏡に映る自分の顔は、ほんのりと赤い。

 隣に立つ雅人さんは無言で、視線を前に向けている。沈黙が怖いのに、同時に心地よかった。

 音を立てて、エレベーターが最上階で止まる。

 部屋の扉が開くと、ほの暗い照明の中に静かな空気が満ちていた。デスクの上にはノートパソコンと、無造作に置かれた原稿用紙の束。

「ここは……?」

 思わず声が漏れる。

「ええ。長く借りてるんです。まあ、自分の書斎みたいなものですね」

 雅人さんはジャケットをソファにかけ、穏やかに笑った。

 そういえば聞いたことがある。条件さえ合えば、ホテルはそんな使い方もできるって。

「広い家にひとりでいるより、こっちの方が落ち着くんですよ」

 その言葉の中に、どこか孤独の影があった。

 胸の奥がチクリとした。

「今日はここに泊まって行ってください。私は夜型の人間だから、執筆はほとんど夜間です。佐伯さんは気にせずに、そのベッドを自由に使って下さい。毎日ベッドメイキングされているから、清潔ですよ」

「でも……」

「遠慮はいりません。奥には浴室もあります」

 わたしは頷いて、浴室へ向かった。

 湯気の中で、心がゆっくりとほどけていく。鏡に映る自分の顔が、いつもより大人びて見えた。

 ――わたし、雅人さんのことが好きなんだ。

 思考の隙間から、そんな言葉が浮かんできた瞬間、胸が熱くなった。

 翔太の父親。恋してはいけない相手。でも、それでも惹かれてしまう気持ちは、どうしても抑えられなかった。

 浴室から出ると、雅人さんはデスクに向かい、黙々とキーボードを叩いていた。その姿が、不思議なくらい静かで美しい。

 光の輪の中に彼だけが存在しているように見えた。

「お風呂、ありがとうございました」

 わたしはベッドの端に腰を下ろして言った。

「どういたしまして」

 顔を上げずに、優しくそう答える。その声だけで、胸の奥が熱くなった。

「……雅人さん」

 始めて名前で呼びかけると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。

 視線が絡む。それだけで息が詰まりそうになる。

「わたし……ずっとあなたのこと、考えてました」

 言葉が震えた。

 止めようと思ったのに、もう止まらなかった。

「翔太さんの……お父さんなのに、そんなこと思っちゃいけないって、わかってるのに……好きになっちゃいけないって、わかってるのに……」

 雅人さんは何も言わず、そっと椅子から立ちあがると、わたしの隣に腰を下ろす。そしてゆっくりと手を伸ばし、わたしの髪を撫でた。

 その仕草があまりにも優しくて、涙があふれた。

「抱いてほしい……」

 自分の声が、信じられないほど小さく震えていた。

 雅人さんはしばらく黙ってわたしを見つめ、それから静かに息を吐いた。

「今夜は、もう何も言わなくていい。ゆっくりとお休みなさい」

 そう言って、もう一度、髪を撫でた。

 その掌のぬくもりが、すべてを包んでいく。拒絶ではなく、慈しみのような優しさだった。

 わたしは嗚咽をこらえるようにして頷き、ベッドに横になった。

 彼は席へ戻ると、再びキーボードを打ち始める。その音が、夜の静けさにやさしく混じっていた。

 その音を聞きながら、わたしは静かに目を閉じた。

 ――どうして涙が止まらないんだろう。

 胸の中でそんな問いを繰り返しながら、わたしは眠りに落ちていった。

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