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第二章 ディスタンス

 夜の喫茶店は、昼間と違って静かだ。

 閉店後のテーブルを拭きながら、わたしはスマホをカウンターの上に置いていた。

 バイト仲間の由香が奥でレジを閉めている間、画面がふっと光る。

 ――翔太からだ。

 ここ数日、全然連絡がなかったから、反射的に手が止まった。

 画面を開くと、短いメッセージが並んでいる。

「親父から聞いた。突然来てたみたいで、ごめん」

「ちゃんと話せなくて悪かった」

 たったそれだけなのに、心の奥がきゅっと掴まれた。あの時、ほんの少しでも会えたらよかったのに。

「追伸:しばらく会社訪問が続くから、会う時間あんまり取れないかもしれない」

 最後の一文を見た瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。

「会えないかもしれない」って、そんな簡単に言わないでよ。

 わたしはしばらく、スマホを握ったまま黙り込んでいた。

 由香が声をかけてくる。

「美咲、どうしたの? 顔、曇ってるよ」

「ううん、なんでもない」

「桐生センパイから?」

「……うん」

 由香は、なんとなく察したように苦笑した。

「就活中だもんね。うちの兄貴も去年そんな感じだったよ。家族より企業の予定優先、みたいな」

「わかってるんだけど……やっぱり寂しいよね」

「そりゃそうだよ。でも、あんたなら大丈夫でしょ?」

 励まされても、心はあまり晴れなかった。

 ただ、由香の言葉を聞きながら、わたしは思い出していた。

 ――「翔太を見守ってやってほしい」

 あの日、雅人さんが静かに言った言葉。

 その声が、今も頭の奥に残っている。

「……そうだよね。わたし、ちゃんと見守らなきゃ」

 呟くように言って、スマホの返信画面を開く。

 指先が迷いながら、何度も文字を打っては消す。

「寂しい」なんて言ったら、きっと彼は困る。

「会いたい」って言っても、どうせ無理をさせてしまうだけ。

 だったら――

「大変そうだけど、無理しないでね。応援してるよ。頑張って」

 そう打ち込んで、送信ボタンを押した。

 たった一行。でも、心の奥を削るような一行だった。

 送ったあと、すぐに既読がつく。

 けれど、返事はこない。

 画面を見つめるうちに、胸の奥の寂しさがゆっくり膨らんでいく。

「……がんばって、か」

 自分で打った言葉が、少しだけ遠くに聞こえる。

 ほんとうは、「頑張らなくていいよ」って言いたかった。

 でも、それを言ったら、彼の支えになれない気がして。

 雅人さんなら、こんなときなんて言うんだろう。

 たぶん、「焦らず、ベストを尽くしなさい」とか、静かに微笑んでくれるんだろうな。

 思い浮かべたその姿が、なぜか心を少しだけ温めた。

 閉店作業を終えて外に出ると、街灯の下の風が冷たくて、白い息がほのかに光る。

 スマホをポケットにしまいながら、わたしは小さく呟いた。

「……ほんとに、頑張ってね、翔太」

 返事がなくても、届いてると信じたい。

 そのまま見上げた夜空は、星がまばらで、どこか寂しげだった。でも、ひとつだけ、遠くで強く瞬いている星があって――

 わたしは、それを見つめながら小さく笑った。

「負けないからね、わたしも」

 それは、翔太に向けた言葉でもあり、少しだけ、自分に言い聞かせるような言葉でもあった。


 昼下がりの『カフェ・マロン』は、いつもより少しだけにぎやかだった。

 窓の外では街路樹が色づき始め、秋の光が店内にやわらかく差し込んでいる。

――カラン

 客の来店を告げるカウベルが鳴った。

「いらっしゃいませ――」

 声をかけて顔を上げた瞬間、わたしは思わず息をのんだ。

 扉の向こうに立っていたのは、スーツ姿の雅人さんだった。

 柔らかい笑みを浮かべて、わたしに軽く会釈してくれる。

「こんにちは、佐伯さん」

「き、桐生さん……!」

 思わず声が裏返る。

 まさか本当に来てくれるなんて。

「約束、覚えていてくださったんですね」

「もちろん。せっかく教えてもらったんですから、寄らないと失礼でしょう?」

 落ち着いた声に、胸の鼓動が少し早くなる。店内の他のお客さんがちらちらと彼を見ていた。

 そりゃそうだ――スーツ姿でこんなに絵になる人、そうそういない。

「おひとりですか?」

「ええ。少し休憩を兼ねて、コーヒーをいただこうと思いまして」

「でしたら、窓際のお席が空いてます」

「ありがとう。……じゃあ、そこで」

 案内しながら、なんだか背筋が伸びてしまう。お冷を運ぶ手も、いつもより慎重になっていた。

「ご注文はどうされますか?」

「せっかくなので、佐伯さんのおすすめを」

「え、わたしの?」

「ええ。君がどんな味を選ぶのか、興味があります」

 そんなふうに言われたら、もう断れない。

「じゃあ……おすすめブレンドで。香ばしいのに、あと味が少し甘いんです」

「それをお願いします」

 注文を受けて厨房に戻ると、すぐに由香が飛んできた。

「ねぇねぇ、美咲。今のお客さん、誰?」

「え? 誰って……」

「スーツの人! めちゃくちゃいけてるオジサマじゃない? モデルみたい!」

 思わず吹き出しそうになった。

「や、やめてよ、聞こえたらどうするの」

「えー、でも本当のことじゃん。知り合い?」

 翔太の父親だと言って、変な詮索はされたくなかった。

「う、うん……知り合い。友達の……お父さん」

「お父さん!? ウソ、あんなダンディなお父さんいる?」

 由香のテンションに押されながらも、わたしは顔が熱くなるのを止められなかった。

「いけてるオジサマ」なんて言葉、普段なら笑って流すのに、今日はなぜかうれしい。

 ――やっぱり雅人さん、誰から見ても素敵なんだ。

 わたしはコーヒー豆を挽きながら、ふとそんなことを思っていた。

 香ばしい香りが立ち上るたびに、心が落ち着く。落ち着くはずなのに、胸の鼓動だけは早くなる一方だった。

 ドリップポットから細いお湯を落としながら、そっとつぶやく。

「……うまく淹れなきゃ」

 カウンターにカップを置き、そっと運ぶ。

 テーブルの前に立つと、雅人さんは本を読んでいた。その姿はまるでグラビアの一枚みたいで、思わず見とれてしまう。

「お待たせしました。おすすめブレンドです」

「ありがとう」

 彼はカップを手に取り、ゆっくりと香りを確かめた。

 そして、一口。

「……いい香りですね。穏やかで、確かに少し甘い。君の雰囲気に似ている」

「え?」

 また、そんなことを言う。

 心臓が跳ねたのを悟られたくなくて、慌てて笑ってごまかした。

「そ、そんなことないですよ。ただのブレンドです」

「いえ、ただのブレンドじゃない。心がこもっている味です」

 その穏やかな言葉が、まるで午後の陽だまりみたいに胸に染みていった。

 厨房に戻ると、由香がすぐに寄ってきた。

「ねぇ、あの人、絶対ただの【友達のお父さん】じゃないよね?」

「ちょっと、どういう意味」

「だってさ、見た? あなたに向けたあの微笑み方。大人の余裕って感じ!」

「……やめてよ、もう」

 笑いながらも、頬が熱いのを隠せなかった。

 由香が首をかしげる。

「でもなんか、美咲、うれしそうじゃん」

「え……そう見える?」

「うん。顔がほわってしてる」

 そう言われて、思わず両頬を押さえた。

 ――そんな顔、してたんだ。

 もう一度カウンター越しに雅人さんを見やると、彼は窓の外の木々を眺めていた。優しい横顔に、秋の光が淡く映えている。

 その姿を見た瞬間、胸の奥がふわりとあたたかくなった。

 わたしは知らないうちに、小さく微笑んでいた。


 あの日から、雅人さんは時々お店に顔を出してくれるようになった。

 週に二度のときもあれば、一週間あくときもある。けれど、そのたびに「こんにちは」と穏やかな声がして、わたしは思わず笑顔になっていた。

「佐伯さん、今日は冷たいものをお願いします」

「アイスコーヒーですね?」

「ええ、君のおすすめで」

 そんなやり取りが、すっかりお決まりになっていた。

 ほんの数分話すだけなのに、なぜか気持ちが落ち着く。

 お客さんとして以上、でもそれ以上でもない――そんな微妙な距離。

 だけど、そんなある日。

 いつものように休憩室でエプロンを直していると、由香がスマホを見ながら目を輝かせた。

「ねぇ、美咲。あのオジサマのこと、ネットで見つけちゃったかも」

「え? どのオジサマ?」

「ほら、美咲の【友達のお父さん】」

 由香がスマホを差し出す。

 そこには雑誌の記事みたいなものが載っていて、タイトルには「作家・加納倫太郎、次回作インタビュー」とあった。名前こそ違うが、添えられた写真は、どうみても雅人さんだ。

「さ、作家さん……」

「そう! どうりで雰囲気あると思ったんだよね~。あの落ち着き方、絶対ただ者じゃないと思ってた!」

「……知らなかった」

 心の奥が、ほんの少しざらついた。

 ――作家さん。

 そんなこと、一度も聞いてない。何度も話したのに。

「ねぇ、美咲。もしかして、あの人にとっても美咲って特別なんじゃ――」

「ちょ、ちょっと! 変なこと言わないでよ!」

「はいはい、冗談冗談。でもさ、作家の知り合いとかすごいね~」

 由香の言葉を聞きながらも、わたしはその【知らなかった】という事実に、心のどこかがもやもやしていた。

 翌週の午後、雅人さんはまた来店した。

 わたしはトレイを抱えながら、いつもより少し緊張していた。

「こんにちは、佐伯さん」

「こ、こんにちは」

 声が上ずる。どうしてこんなに意識してるんだろう。

「今日はホットにしようかな。少し肌寒いですし」

「はい、かしこまりました」

 口調が硬くなっているのが自分でもわかる。厨房でコーヒーを淹れながら、頭の中で言葉がぐるぐる回る。

 ――言うべき? それとも、黙っておく?

 でも、知ってしまった以上、何も言わないのも気まずい。コーヒーを雅人さんの前に置き、わたしは意を決して口を開いた。

「あの……桐生さん」

「はい?」

「えっと……その……」

「?」

 じっと見つめられて、心臓が跳ねる。

「――あの、昨日、知っちゃったんです。桐生さんが……作家さんだって」

 雅人さんの手が一瞬止まった。

 けれど、すぐに苦笑が浮かぶ。

「……そうでしたか。やはり隠し通せませんね」

「い、いえ、隠すとかじゃなくて! その、聞いてなかったので……ちょっと驚いただけで……」

「言わなくてすみません。肩書きで見られるのが、どうも苦手でして」

 その言い方が、とても穏やかで、逆にわたしのほうが申し訳なくなった。

「わ、わたしこそ……変なこと言ってごめんなさい」

「謝ることではありませんよ」

「でも……なんか、知らなかったのがちょっと寂しくて」

 つい、本音が漏れてしまった。

 口にした瞬間、顔が熱くなる。

 けれど、雅人さんはほんの少しだけ目を細めた。

「そう言ってもらえるのは、嬉しいですね」

 その穏やかな笑みを見たら、胸のもやもやがすっと消えていった。

 気づけば、わたしは小さく笑っていた。

「じゃあ……これからは、ちょっとずつ教えてくださいね」

「ええ。約束しましょう」

 雅人さんはコーヒーを一口飲み、湯気の向こうで静かに微笑む。その瞬間、秋の午後の光が差し込み、彼の横顔を淡く照らした。

 まるで、小説の一場面みたいに。

 わたしは、その景色を胸の奥に焼きつけた。


 その日のバイトが終わったのは、閉店から少し経った夜九時すぎだった。

 エプロンを外して裏口から出ると、ひんやりした風が肌を撫でる。秋の夜って、こんなに冷たかったっけ。

「お疲れさま、佐伯さん」

 突然名前を呼ばれて、わたしはびくっと肩を揺らした。

 振り向くと、街灯の下に雅人さんが立っていた。

 黒いジャケットのポケットに手を入れ、穏やかな笑みを浮かべている。

「き、桐生さん!? どうしてここに……?」

「店を出たところを偶然お見かけしてね。暗いから、少し心配で」

「え、えっと……ありがとうございます」

「歩いて帰るのでしょう?」

「……はい」

「それなら、少しだけご一緒しても?」

 そんなふうに言われたら、断れない。わたしは頷いて、一緒に歩き出した。

 街の灯りは遠く、通りの両脇にある並木が静かに揺れていた。足元で落ち葉がかさりと鳴るたび、ふたりの距離がほんの少し近づく。

「この道、大学のほうに抜けるんですね」

「はい。夜は人通りが少ないので、ちょっと怖いですけど」

「そうでしょうね。……送って正解でした」

 静かに笑う声が、秋風に溶けていく。わたしはそんな彼の横顔を、そっと盗み見た。

月明かりに照らされた頬のラインが、どこか柔らかい。

「……今日は、少し話したいことがあって」

 雅人さんが、不意に口を開いた。

「話、ですか?」

「ええ。のことです。作家であることを黙っていた理由を、ちゃんと伝えておきたくて」

 わたしは無意識に立ち止まった。

 彼もまた歩を止め、ゆっくりとわたしの方へ向き直る。

「私はね、佐伯さん。君に『作家』というフィルターを通して私を見てほしくなかったんです」

「……フィルター?」

「そう。肩書きがあると、人はどうしても距離を取ってしまう。私は、君にそうなってほしくなかった」

 その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。

 風が髪を揺らし、静かな夜がふたりを包み込む。

「それに――」と、雅人さんは言葉を継いだ。

「私は君を、息子の恋人としてではなく、一人の人間として、そして気心の知れた友人として見ています」

 「友人」という言葉が、思いのほか胸に響いた。うれしいような、でも、少し残念なような。

「……友人、ですか」

「ええ。年齢も立場も違うけれど、話していると不思議と落ち着く。君の素直さに救われているのかもしれません」

 まっすぐに向けられた眼差しに、息が詰まる。

 どうしてだろう――その瞳の奥を見ていると、胸の奥がざわざわしてくる。

「そんな……わたしなんて、何もできてません」

「いいえ。君と話す時間は、私にとってとても大切です」

 その一言に、胸がときめいた。秋の夜気が頬を冷やしても、胸の奥の熱は冷めない。

「……ありがとうございます」

 やっとの思いでそう言うと、彼は小さく頷いた。

 ふたりで再び歩き出す。

 街灯の光が、歩くたびに途切れ途切れに照らしては消える。そのたびに、彼の影とわたしの影が重なったり離れたりする。

「君の家は?」

「この先の角を曲がったところ、すぐそこです」

「では、ここで失礼しましょう」

 彼は軽く会釈をした。

 その仕草があまりに丁寧で、わたしは何かを言い返すことができなかった。

「……桐生さん」

「はい?」

「わたしも……お話しできて、うれしかったです」

「そう言ってもらえると、報われます」

 微笑むその顔に、胸がじんと締めつけられる。気づけば、視線をそらせなくなっていた。

 ――どうしてこんな気持ちになるんだろう。翔太の父親なのに。

 なのに今、わたしの中のどこかが、確かに動いた。

「おやすみなさい、佐伯さん」

「……おやすみなさい」

 彼が背を向けて歩き去っていく。

 その背中を、わたしはしばらく見つめ続けていた。

 再び冷たい風が吹き抜けたが、やはりわたしの胸の奥の熱はそのままだった。

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