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第一章 彼氏の父親

 九月の風は、少し切ない。

 夏の名残がまだ街に漂ってるのに、空の色だけが秋の顔をしてる。

 そんな中、わたしはバイト先の喫茶店を上がったあと、ふと思い立って翔太のアパートへ向かっていた。

 ――久しぶりに、顔が見たい。

 桐生翔太は大学四年生、この時期になっても内定が取れていない大変さはわかってるともりだ。けど、最近はメッセージを送っても「ごめん、今ちょっと立て込んでる」の一言で終わり。あの人の声も、ずっと聞いていない。

「……翔太、いないかな」

 彼の部屋の前に立って、わたしはそっとインターホンを押した。

 ピンポーン。

 しばらくの静寂。

 やっぱり留守か、と思った瞬間――

「はい?」

 ドアの向こうから、低く落ち着いた声がした。

 え? 翔太……じゃない。

 玄関が開いて出てきたのは、スーツ姿の中年の男性だった。背筋がすっと伸びていて、上品な雰囲気をまとっている。部屋を間違えたのかと、わたしは一瞬戸惑った。

「あ、あの……すみません。ここ、桐生翔太さんのお部屋ですよね?」

「そうですよ。君は?」

「えっと……佐伯美咲といいます。翔太さんの、大学の……友人で」

 咄嗟に「彼女」とは言えなかった。なんだか、この人の前では言いづらい。

 男性は少しだけ口元を緩めて、うなずいた。

「そうですか、翔太のお友達でしたか。私は翔太の父で、桐生雅人といいます」

「……お父さん、ですか!」

 思わず声が上ずる。

 そういえば翔太、何度か言っていた。「親父は近所で暮らしてる」と。けど、まさかこんな形で会うとは。

「すみません、突然お邪魔してしまって」

「いえ、こちらこそ。私もちょっと翔太のことで来ていたんですが、あいつ、先ほど外出してしまって。手持ちぶたさなので、あいつの部屋を整理してやってたんですよ」

 雅人さんは玄関の中から一歩下がって、わたしに中へどうぞと促した。

 おずおずと足を踏み入れると、いつもの翔太の部屋が、妙に整っていた。机の上に散らばっていた履歴書も、きっちり揃えられていて、カーペットには新しいコーヒーの香りが漂っている。

「翔太が、就職活動のことで少し行き詰まっていましてね。相談を受けていたんです」

「そう……なんですか」

 わたしは靴を脱ぎながら、少し胸が痛くなった。翔太、やっぱり悩んでたんだ。わたしには、「大丈夫」としか言わなかったくせに。

「で、さっき面接先の会社から連絡が入って。急に二次面接を受けに行くことになったようです」

「二次面接? それ、すごいじゃないですか!」

 思わず顔が明るくなる。

 雅人さんは静かに微笑んだ。

「ええ。焦っているようでしたが、いい知らせになればいいですね」

「はい……。最近、なかなか会えなくて、ちょっと心配してたんです」

「就職活動というのは、精神的にも重いものですよ。私の時代でもそうでしたが、今はさらに厳しいようです」

 言葉の端々に、息子を思う優しさがにじんでいた。でもその優しさが、どこか寂しげにも見えた。

「翔太さんのお母さん……奥さまは?」と、聞くのがためらわれたけど、つい口をついて出た。

「もう、十年前に亡くなりましてね」

「……そうだったんですか。すみません」

「いえ、気にしないでください。翔太も、母親のことでは苦労をかけました」

 雅人さんは、穏やかに笑っていたけれど、その瞳の奥に深い影があった。その横顔を見ていると、翔太の面影がふっと重なる。

 ――目元の形、似てる。

「……翔太さん、きっと今日うまくいきますよ」

「そうだといいですね。あいつには、もう少し自分を信じてほしい」

 窓の外から、秋風がカーテンを揺らした。静かな部屋の中で、時計の針の音だけが小さく響く。

 わたしは、翔太が帰ってくるまで少し待たせてもらうことにした。雅人さんはキッチンに立ってコーヒーを入れてくれる。

 けれど、その間ずっと――なぜだろう。翔太のことよりも、目の前にいる雅人さんの静かな横顔が、妙に気になってしまった。


「佐伯さん」

 不意に名前を呼ばれて、わたしはびくっとした。

 雅人さんは、穏やかな笑みを浮かべたまま、湯気の立つコーヒーカップをテーブルに置いた。

「彼女だと、翔太から聞かされていました。大学の後輩で、喫茶店でアルバイトをしている、と」

「あ、はい……。そんな話、してたんですか、翔太さん」

 思わず顔が熱くなる。

 彼、あんなに忙しそうにしてるのに、わたしのことを父親に話してくれてたなんて。それだけで、ちょっと胸の奥が温かくなった。

「翔太は、君のことを『しっかりしてる娘だ』と褒めていましたよ」

「えっ……ほんとに言ってました?」

「ええ。就活で疲れている時でも、佐伯さんと話すと落ち着くって」

 ――ずるい。そんなこと、わたしの前では一度も言ってくれたことないのに。

「最近は、直接話すことがめっきり減っちゃいましたけど」

「そうなんですか?」

「はい。最近、全然会えてなくて……」

 言いかけて、わたしは慌てて立ち上がった。

「す、すみません。長居しちゃって。そろそろお暇を――」

「よければ、もう少し話をしませんか」

 雅人さんの声は、落ち着いていて、不思議と拒めない響きがあった。

「翔太の様子を、父親としても知っておきたいんです。君の目から見た翔太を」

 ……そう言われたら、断れない。

 わたしはもう一度腰を下ろした。

 窓の外では、木の葉が風に揺れて、柔らかな影を床に落としている。

「最近の翔太さん……あまり元気がないです」

「やはりそうですか」

「就活、うまくいってないみたいで。面接に落ちたとか、エントリーをやめたとか、そういう話ばっかりで」

 自分でも気づかないうちに、ため息がこぼれていた。

「それに、わたしが『たまには会おうよ』って言っても、『今は余裕ないから』って。冷たくされてるみたいで……」

 言葉が止まる。愚痴を言うつもりじゃなかったのに。

 でも、雅人さんは何も遮らず、静かにうなずきながら聞いてくれていた。

「なるほど。翔太は、昔から一度にいろんなことを抱え込む癖がありましてね」

「そうなんですね」

「母親が亡くなったときも、涙ひとつ見せなかった。あいつなりに『自分がしっかりしなきゃ』と思っていたんでしょう」

 雅人さんの声は、懐かしさと少しの痛みが混じっていた。

 その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりしてくる。

「でも、わたし……少し寂しかったんです」

「え?」

「支えたいのに、支えになれてるのかわからなくて。『頑張って』って言っても、逆にプレッシャーになってる気がして」

 我ながら、みっともない言葉だと思った。

 けれど、雅人さんは小さく笑って言った。

「佐伯さん、それは悪いことじゃありませんよ」

「え?」

「支えようとする気持ちを持っている時点で、もう十分、翔太にとって救いなんです」

「……そう、でしょうか」

「ええ。親としても、感謝したいくらいです」

 そう言って、彼はコーヒーカップに口をつけた。ほのかな香りが、ふっと鼻をくすぐる。

「翔太は、不器用です。素直に頼ることができない。けれど、君の存在をちゃんと支えにしていると思います」

 その言葉が、心に染みた。

 誰かに認めてもらえるだけで、こんなに楽になるなんて。

「……ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。息子を想ってくれてありがとう」

 雅人さんの穏やかな笑みの中に、少しだけ翔太の面影を感じた。

 どこか似ているけれど、父のほうがずっと静かで、包み込むような優しさを持っている。

 わたしは、熱くなった頬を隠すようにカップに口をつけた。

 秋の風がカーテンを揺らし、部屋の空気をやさしく撫でていく。


 ――気づけば、もう日が傾き始めていた。外はすっかり夕方。窓の向こうで茜色の光がゆっくりと沈んでいく。

「ずいぶん話し込んでしまいましたね」

 雅人さんが、柔らかく笑う。

「いえ、なんか……つい。こんなに話を聞いてもらえると思わなくて」

「話すことで気が楽になるなら、それでいいんです」

 その言い方が、本当に優しくて。

 なんだろう――父親みたいな、でもそれだけじゃない、包み込まれるような安心感があった。

「翔太のことは、私もできる限り支えたいと思っています。ですが、親があまり口を出しすぎても、息苦しくさせてしまう」

「……そうですね。翔太さん、そういうとこあります」

「でしょうね」

 苦笑しながら、雅人さんはスマートフォンを取り出した。

「もしよければ、君にお願いしたいことがあるのですが」

「お願い、ですか?」

「これからも翔太のことを――見守ってやってほしい」

 思わず、胸が熱くなった。

「もちろん、わたしでよければ……。でも、そんな大それたこと」

「君の存在が、あいつにとって一番身近で素直になれる場所なんでしょう。だから、時々で構いません。翔太がどんな様子か、教えてもらえませんか」

 そう言って、雅人さんはスマホの画面をわたしの前に差し出した。

 連絡先の登録画面。

「私のメッセージアドレスです。翔太には内緒で構いません。父親として気を揉んでしまうものでね」

「……いいんですか、そんなことして」

「少しズルいお願いですよね。でも、心配なんです」

 彼の苦笑に、どこか少年のような不器用さが見えた。

 ――この人、本気で翔太くんを想ってるんだ。

 そう思った瞬間、わたしは自然と自分のスマホを取り出していた。

「わかりました。時々、翔太くんのこと、報告しますね」

「ありがとうございます。君なら、きっと正直に伝えてくれると思います」

 画面に「桐生雅人」という名前が表示される。

 その一瞬、なんだか特別な約束を交わしたような気がした。

「……こうして見ると、翔太さんと目元、やっぱり似てますね」

 思わず口にすると、雅人さんは少し照れたように目を細めた。

「そうですか? あいつは『似てない』と頑なに言うんですが」

「いえ、似てます。優しいときの表情とか」

「はは、それはうれしい。あいつの中にも、まだ優しさが残ってるということですね」

 穏やかに笑うその姿を見て、胸の奥が少しざわついた。

 ――この人、いい人だな。

 そう思うと同時に、何か温かいものが込み上げてきた。

「わたし、もう少し頑張ってみます。翔太さんのこと、ちゃんと支えたいし」

「ええ、頼もしいです。きっと、あいつも君に感謝していますよ」

「そうだといいですけど……」

 ふっと目が合う。

 その視線が、どこか懐かしいような、安心するような――不思議な感覚だった。

「翔太を頼んだ、と言ったら、少し重いですかね」

「いえ。むしろ、うれしいです」

「そう言ってもらえるなら、安心しました」

 その言葉のあと、部屋にしばし沈黙が落ちた。時計の針の音だけが、静かに響いている。

 外から聞こえる虫の声に耳を傾けながら、わたしはカップを両手で包んだ。まだほんのりと温かい。この温度が、雅人さんという人そのものみたいに思えた。

「そろそろ帰ります。暗くなっちゃいましたし」

「送りますよ」

「いえ、大丈夫です。すぐそこですし」

 玄関で靴を履くとき、雅人さんが穏やかに言った。

「ありがとう。君と話せてよかった」

「わたしも、です。なんだか、気持ちが少し軽くなりました。翔太さんによろしく」

 外に出ると、空気はすっかり秋の匂いだった。夕暮れの風が、優しく頬を撫でる。

「今日は本当に、ありがとうございました」

 アパートの階段を下りながら、わたしは雅人さんに頭を下げた。

「父親なんかが急に姿を現して、驚かせてしまいましたね」

「そんな、全然です。むしろ……なんか、ほっとしました」

 思わず正直な気持ちが漏れてしまう。

 慌てて笑ってごまかすと、雅人さんも小さく笑った。

「君と話していると、心が落ち着きますね。翔太が惹かれた理由が、少しわかった気がします」

「えっ……そんな、からかわないでください」

「本心ですよ」

 ふいにそんなことを言われて、胸の奥がどきりと鳴った。

 ――やめてください、そんなまっすぐ見ないで。

 目を逸らしたいのに、どこか逸らせなかった。

「それでは、失礼します」

「ええ、気をつけて帰ってください」

 そう言って、軽く会釈をして別れようとしたその時、ふと口が動いた。

「あの……」

「はい?」

 わたしは一瞬迷ったけど、勇気を出して言った。

「わたしのバイト先、駅前の『カフェ・マロン』っていう、喫茶店なんです」

「そうでしたか。翔太から聞いたことがある店ですね」

「それで……もし、近くに来られることがあったら、寄ってください」

 我ながら、ちょっと唐突だった。けど、なぜか伝えておきたかったのだ。

 もう一度、話してみたい――そんな気持ちが、心のどこかに芽生えていた。

「いいんですか? 息子の彼女の職場に顔を出すなんて、少し照れますが」

「もちろんです。お父さんなら大歓迎ですよ」

 言ってから、自分で『お父さん』と呼んでしまったことに気づいて、顔が一気に熱くなる。

「す、すみません! なんか、つい……」

「はは、構いませんよ。……久しぶりに『お父さん』って呼ばれた気がします。翔太はいつも『親父』ですからね」

 その声が、どこか優しい響きを帯びていて、わたしの胸は再度きゅっと締めつけられた。

「じゃあ、今度コーヒーを飲みに行きましょう。君の淹れる一杯を楽しみにしています」

「えっ、わたしが淹れるんですか?」

「もちろん」

「……じゃあ、頑張って練習しておきます」

 自然と笑い合った。

 その瞬間、夕暮れの残光がビルの間からこぼれて、雅人さんの横顔を柔らかく照らしていた。

 光の中の彼は、年齢よりもずっと若く見えて、落ち着いた雰囲気の奥に、どこか寂しさを隠しているようだった。

「それじゃあ、佐伯さん。翔太のこと、これからもよろしくお願いします」

「はい。わたしも、あの……またお話できるのを楽しみにしてます」

「こちらこそ」

 手を軽く振って、わたしは道を歩き出した。背中に感じる夜風が、少しだけ暖かい。

 アパートの階段の上で、雅人さんがまだこちらを見ている気がして、思わず振り返りたくなったけど――やめた。

 代わりに、スマホを取り出して、さっき交換したメッセージアドレスをもう一度見つめる。

【桐生雅人】

 たった四文字なのに、なんだか特別に見えた。

「……変なの、わたし」

 小さく笑って、夜空を見上げる。薄く残る茜色が、ゆっくりと群青に溶けていった。

 その色の変わり目が、まるで自分の気持ちみたいで――わたしは胸の奥でそっと呟いた。

 ――また、会えるといいな。

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