第8話「逆節の囁き、契約の歌」
王都広場で生まれた〈板歌〉は、たちまち街道へ広がった。
旗を担ぐ若者が声を揃え、茶屋の星守たちが拍を刻み、村の子どもたちが覚えた節を口ずさむ。
「旗◎二十束、乾麺○十束、麦茶△一桶――公共労は五十人分」
数字が歌になり、人々は笑いながら覚え、囁きに惑わされることは減っていった。
だが――影は黙ってはいなかった。
ある夜、街道の二の灯で、星守の子がふいに眉をひそめた。
「……歌が、違う」
耳を澄ませば、林の向こうから別の節。
「旗◎は隠し、乾麺○は倍に――△は虚ろ、労は嘘」
逆節。
数字を崩し、リズムをずらし、耳に不安を植える歌。
若者の一人が「どっちを信じれば」と動揺し、旗の足が乱れた。
だが、星守の子は小さな灯を掲げ、声を張った。
「本当の歌は――雲→星→太陽!」
灯が順に点り、茶屋の扇隊長がすぐに拍を合わせた。
本来の板歌が重なり、逆節は風に消えた。
翌朝、星守の子が倉に駆け込んできた。
「アリシア様! 歌が……歌が偽られてます!」
私は机に新しい板を置き、数字を書きながら答えた。
「逆節は影の声。でも歌は契約にできる」
「契約……?」
子どもたちが首をかしげる。
私は赤い紐を取り出し、旗の耳に結んで見せた。
「歌を歌ったら、この紐に触れる。――声と手を結ぶの。歌が違えば、手も違う。声と手を合わせた歌だけが契約になる」
ルディが頷き、補足した。
「剣の誓いは口で終わる。契約の歌は、声と手が揃わなければ成立しない。――これなら影は真似できない」
「じゃあ、板歌を……契約の歌に」
扇の隊長がにやりと笑い、拳を握った。
その夜。
倉の前に集まった人々の前で、私は新しい歌を示した。
「旗◎二十束――手を重ねよ」
「乾麺○十束――紐を結べ」
「麦茶△一桶――灰を落とせ」
「公共労五十人分――灯を合わせよ」
数字を歌い、所作を加える。
声と手、灯と味。
四つが揃ったときにだけ、歌は完成する。
子どもたちは大喜びで覚え、老人は拍を刻み、若者は真剣に紐を結んだ。
契約の歌が辺境に満ちていく。
だが、影も動いていた。
街道の三の灯で、逆節の囁きがまた流れた。
「旗は隠す、麦茶は濁す、労は怠け、灯は偽り」
だが、歌に合わせて紐を結ぼうとした瞬間――紐は結べなかった。
灯も節と合わず、麦茶の渋味も残った。
偽りは契約にならない。
囁きを放っていた影は、苛立ちに小瓶を投げ捨てて消えた。
だがその瓶が割れ、甘い匂いが立つ。
粗製粉――まだ終わってはいない。
王都から戻った文吏が、報告を差し出した。
「広場でも逆節が囁かれた。だが“契約の歌”を取り入れると、囁きは破れた。
――人々は言った。『声は影でも、手は影じゃない』」
私は胸の奥で小さな灯を感じた。
声と手、味と灯。
それを結ぶことで、影の囁きは風に消える。
夜更け、倉の前でルディが私に問う。
「アリシア。……君はなぜ、ここまで“続ける”仕組みにこだわる?」
私は少し黙り、それから答えた。
「前の世界でね。……“仕組みがなければ、どれほどの畑も一度で終わる”のを見たの。
仕組みがあれば、人が変わっても、畑は続く」
彼は目を伏せ、そしてまっすぐに見返した。
「君自身は……続きたいのか?」
胸の奥に、一瞬だけ熱が走った。
私は笑みで隠し、歌を口ずさむ。
「旗◎二十束――手を重ねよ」
ルディは短く笑い、私の手袋の上から、静かに手を重ねた。
契約の歌は、影の囁きよりも確かに響いていた。
(つづく)




