第14話「記憶の影、記録の歌」
Ⅰ 記憶の揺らぎ
王都の文吏が慌ただしく辺境の倉に駆け込んできた。
「アリシア様! 広場で“去年の収穫はなかった”と叫ぶ者が現れました!」
私は目を見開いた。
「去年の? そんなはずは……」
去年、私たちは確かに麦を収め、麦茶を酌み交わし、契約の歌を響かせた。
けれど群衆の中には、「そんな収穫はなかった」と信じる者が現れているという。
影が“記憶”を偽り始めたのだ。
Ⅱ 倉での議論
板の前に人々が集まった。
私は声を張り、問いかける。
「去年の収穫を覚えている人は?」
何人もの手が挙がる。
「俺は麦を刈った!」
「私は灰を落として麦茶を飲んだ!」
「子どもと旗を振った!」
だが同時に、別の声も上がった。
「いや、そんなことはなかった!」
「倉は空だったはずだ!」
記憶が食い違い、声が乱れ、広場はざわめいた。
影は夢ではなく、過去そのものを歪めている。
ルディが低い声で言った。
「記憶は脆い。夢より深く、人より強く。……どうやって抗う?」
私は震える手で板に新しい欄を書きつけた。
〈記憶の影への備え〉
・記憶は声に留めず、板に刻む
・歌と板を重ね、記録の歌にする
・記録を更新するたび、全員で唱和する
Ⅲ 記録の歌
私は新しい歌を示した。
「去年の旗――二十束
倉の麦茶――一桶
共に飲み――歌を重ね
記録残せ――板と声」
子どもが声を上げ、老人が拍を打ち、若者が板の数字を指差しながら歌う。
記憶は人ごとに揺らぐ。だが記録は揺らがない。
歌に記録を組み込み、記憶を補う。
これが「記録の歌」だ。
Ⅳ 影の囁き
だが影も負けじと囁く。
「板は偽れる。記録は塗り替えられる。声より紙の方が脆い」
人々が一瞬、不安に揺らぐ。
そのとき、ルディが剣を掲げ、広場に響く声で言った。
「ならば記録を守るのは剣ではなく、契約だ! 偽りの板には、歌が合わぬ!」
私は続けた。
「板を偽れば、歌と灯と味が崩れる。影には再現できない!」
群衆はうなずき、再び歌った。
「去年の旗――二十束
倉の麦茶――一桶
共に飲み――歌を重ね
記録残せ――板と声」
声と板と所作が揃い、囁きはかき消された。
Ⅴ 個人的な記録
夜、倉の灯火の下で、私は小さな木札を取り出した。
そこには、私とルディが初めて契約の歌を歌った日の数字と所作が刻まれている。
私は静かに囁いた。
「……これが、私たちの記録」
ルディが木札を見つめ、短く笑った。
「なら、俺も残す。……“アリシアと共に歌った日”ってな」
胸の奥が熱くなる。
記憶は揺らぐかもしれない。
だが、この木札があれば、揺らいでも戻せる。
Ⅵ 婚礼の歌への歩み
ルディが不意に真剣な声を出した。
「……婚礼の歌も、記録にすべきじゃないか?」
私は驚き、彼を見た。
「婚礼の歌を……記録?」
「心は偽れない。けど、人は忘れる。……だから“記録の婚礼”が必要だ」
胸が震えた。
私は木札を握りしめ、小さく答えた。
「……ええ。婚礼の歌を、板に刻みましょう。夢も、現も、記憶も、全部結ぶ歌に」
Ⅶ 影の退き際
倉の外で風が鳴った。
影の囁きが微かに響く。
「記録も燃やせば消える。心を偽れずとも、形は消える」
私は胸を張り、声を返した。
「記録は板に、歌に、人に刻む。……燃えても、歌があれば戻る!」
ルディが私の手を取り、重ねた。
「君と俺が歌えば、記録は続く。……それが剣より強い証だ」
白い倉の壁に映る影は二つ。
寄り添いながら、ゆっくりと夜に溶けていった。
(つづく)




