第一話「婚約破棄と畑の夢」
王城の大広間は、きらびやかな燭台と宝石のような笑い声に満ちていた。
そのただ中で、王太子殿下は冷たい声を放つ。
「アリシア・エルド侯爵令嬢。君との婚約は今日限りで破棄する」
空気が張り詰めた。
周囲の令嬢たちが扇で口元を隠し、くすりと笑う。
侍従たちは目を伏せ、父と母も顔をこわばらせている。
けれど、私は――不思議なほど、心が静かだった。
「君は地味で、王妃にふさわしくない」
殿下はそう告げ、隣の華やかな公爵令嬢へと視線を向ける。
その姿を見ながら、私は胸の奥で小さく呟いた。
(……これで、畑ができる)
怒りも、悲しみも、なかった。
ただ、長年押さえ込んできた“願い”が解き放たれる音がした。
私は、前世の記憶を持っている。
異国で農業を学び、土を愛し、作物にすべてを捧げていた記憶。
肥料を工夫し、水路を掘り、荒れた土地を蘇らせる喜びを知っている。
けれど、この国の貴族社会で、その知識を口にすれば「変人」扱い。
「淑女が泥に触れるなど下品」
「畑は農民のもの」
そう教え込まれ、私は庭の片隅でひそかに土を触るしかなかった。
婚約破棄。
それは、絶望ではなく解放。
式典を終えて退出する私に、侍女がそっと囁く。
「アリシア様……どうかお気を落とされませぬよう」
「ありがとう。でも大丈夫よ。だって――畑を耕せますから」
侍女は目を瞬かせ、困ったように笑った。
「やはり……変わっておいでですね」
数日後。
私が移り住んだのは、侯爵家の辺境の別邸。
父が「せめてもの慰めに」と与えてくれた荒れ地だった。
水路は枯れ、畝は崩れ、倉は崩れかけている。
けれど、私には宝の山に見えた。
「この土……まだ生きてる!」
しゃがみ込み、土を手に取る。黒い粒が指にまとわり、かすかに湿り気を残す。
――息をしている。
私は興奮で胸を熱くし、前世の知識を頭の中で並べる。
「まずは水路の掘り直し。堆肥は落ち葉と灰で……」
そこへ、痩せた農民の老人が現れた。
「お嬢様、こんな所で何を?」
「畑を耕します」
「は、畑……? 冗談でしょう」
「本気よ。あなた、鍬を貸してくださらない?」
老人は狼狽えた。
「貴族様の手に合う仕事じゃありません! 指が切れてしまう!」
「ええ。切れても構わないわ。ずっと、やりたかったの」
私は袖をまくり、鍬を握った。
ごつり、と硬い土に刺さる。
腕に衝撃が走るけれど、不思議と痛みはない。
土を返すたび、虫が這い出し、草の根が切れ、光が差し込む。
「……本気でなさるのですか」
「ええ。あなたも一緒にどうです?」
老人はため息をつき、やがて小さく笑った。
「まったく、変わったお嬢様だ。……よろしい。手伝いましょう」
日々、私は土を耕した。
少しずつ仲間も増えていく。
水路に水が戻り、堆肥の匂いが漂い、芽吹いた苗が風に揺れると――人が集まった。
「収穫したら本当に食べていいのですか?」
「もちろん。あなたが耕した畑なのだから」
「こんなに実がつくなんて……去年は一粒も取れなかったのに!」
涙を浮かべる農民を見て、私の胸も熱くなる。
――土は裏切らない。
やがて噂が王都まで届く。
「婚約破棄された侯爵令嬢が、辺境で畑を耕している」
最初は笑い話だった。
だが、笑いはやがて驚きに変わる。
「辺境で大豊作?」「飢えて離散した村人が戻っている?」
そして――ある日。
若き辺境伯が馬に乗って現れた。
陽に焼けた顔に驚きと希望を宿して。
「……君が、この土地を蘇らせたのか?」
「ええ。土と水と、少しの知恵で」
「少しの……? 俺の兵でも何年もできなかったのに!」
その瞳に、未来が宿っていた。
私は、ようやく理解する。
――これはただの畑ではない。
――国を変える始まりなのだ、と。




