『タニシ長者と速記』
あるところに、小作人のじいさまとばあさまがいました。子供がないのがただ一つの悩みでした。あと、最近ひざとか腰とか痛いんですよね。あ、ふとんが硬くて寒いときは寒いんですよね。ついでに、小作人って、暮らしがよくないんですよね。あと、速記力?歳をとると、耳も聞こえないし、手も動かないし、若いころみたいに速く書けないんですよね。いや、全盛期はどのくらい速く書けたかという質問には答えませんけど。
そんなわけで、じいさまとばあさまは、泉のほとりにある水神様に、ひざ…じゃなくて、子供を授けてくださるように頼みました。水神様は、まあ、田舎の水神様ですので、立て込んだ願い事などありませんでした。すぐに願いをかなえてやりました。
次の日、ばあさまは、産気づきました。じいさまは慌てて産婆さんを呼びに行きましたが、ばあさまのところへ戻ったときには、もう、産まれていました。じいさまは、することがなくなってしまった産婆さんと、世間話をしようと、年齢を聞いてみましたら、ばあさまより年下でした。
じいさまは、産婆さんに謝って、帰ってもらい、ばあさまに赤ん坊はどこか尋ねましたが、ばあさまが、何とも言えない表情をするのです。その表情の意味は、すぐにわかりました。赤ん坊というか、産まれたのは、タニシだったのです。
じいさまとばあさまは、タニシの世話をしたことはありませんでした。でもやってみたら、簡単でした。お椀に水を入れて、じいさまとばあさまが食事をするときに、米粒をお椀に何粒か入れてやるのです。すると、タニシは、米粒がどうやってわかるのか、近寄ってきて、少しずつ食べるのです。見ていて飽きません。
タニシは、だんだん大きくなりました。でも、まあ、タニシですので、親指くらいの大きさにしかなりませんでしたが。
五年くらいたったでしょうか。じいさまとばあさまは、ことしの刈り入れを終えて、庄屋様のところに年貢を持っていかなければならなかったのですが、ひざと腰があれで、もうすっかり秋なので、ふとんが硬くて寒いんです。あしたでも、いいのでしょうが、きょう持ってくるように言われているのです。あ、じゃ、あしたじゃだめですよね。でも、ひざと腰があれなんですよね。要は、嫌だったのです。やめちゃおうかな、じいさまがそう思ったときでした。
「とと様、とと様」
じいさまを呼ぶ声がするのです。じいさまはあたりを見回しましたが、誰もいません。庄屋様のほうから取りに来てくれたのかと期待したのですが、庄屋様は、小作人を何十人も抱えていますので、そんなことをしてくださるわけがないのでした。
「とと様、わしが庄屋様のところへ行ってくべえ」
まだ声が聞こえます。疲れているのでしょうか。いや、疲れてはいますけど、それは事実ですけど、妙に時宜がちょうどいい空耳なのです。
空耳じゃありませんでした。タニシでした。タニシがしゃべれるのを、きょうのきょうまで、じいさまは知らなかったのです。
「お前がどうやって、庄屋様のところへ行くだ」
タニシが自信ありげに答えます。あ、タニシの自信ありげな様子は、描写できません。
「俵を馬に背負わせて、わしをくらの上に乗せてくだされ。とと様のかわりを務めてみせますだ」
まあ、そう言うからには、自信があるのでしょう。じいさまは、言うとおりにしてやりました。タニシを乗せた馬は、一見、馬だけで、庄屋様のお屋敷へ向かっていきました。後世、自動運転とか呼ばれるはずです。
驚いたのは庄屋様です。馬が自分で年貢を運んできたのです。大勢の小作人を抱えていますが、こんなことは初めてです。きょう運んでくるはずなのは…。
庄屋様が、じいさまのことを思い出したときでした。
「庄屋様。父のかわりに年貢を運んできましただ」
馬がしゃべった。庄屋様は思いました。
「庄屋様。馬のくらを見てくだされ」
庄屋様が馬のくらを見ると、タニシが一匹乗っています。
「お初にお目にかかりますだ。父のかわりに年貢をお持ちしましたで、改めてくだされ」
どうやら、タニシがしゃべっているようです。まずは年貢を確認した庄屋様は、タニシをつまんで屋敷に戻り、膳を勧めました。
「これは結構な馳走で。こんなえれえものがいただけるなら、毎年、わしが持ってきますだ」
お愛想も言えるのか。庄屋様は感心しながら、タニシが膳を平らげるのをずっと見ていました。おもしろくてたまりません。
「タニシ殿、おかわりはどうじゃ」
「じゃ、少しだけいただきますだ」
「たんと上がらっしゃれ」
また、膳が減っていきます。どこからどうやって食べているのでしょう。これは飽きません。庄屋様は、すっかりタニシに心を奪われてしまいました。
「いや、こんなにうまい膳は初めてでしただ。長居をするつもりはねえですが、腹がくちくなってしまったで、少し休ませてもろうてから帰らせてもらいますだ」
タニシの腹って、どこなのだろう。庄屋様はタニシの周りを回りながら観察しましたが、わかりませんでした。
「なあ、タニシ殿、物は相談なんだが」
「庄屋様、何でも言うてくだされ。膳のお礼というわけではないが、何でも聞きますだ」
「どうだろう、このままここにおられんか」
「それは、どういうことですじゃ」
「わしは何だか、タニシ殿が気に入ってしまってな。うちの婿になってはくれまいか」
「へえ、婿に。わしは一も二もねえですが、とと様とかか様に尋ねてもらいてえ」
「それも筋じゃ。早速迎えを出そう」
さあ、そうは言ったものの、庄屋様、大変です。上の娘と下の娘に相談です。
「お父様、何の冗談ですの。そのようなお話、はいと言えるわけがないではありませんか」
上の娘は答えました。もっともです。庄屋様、下の娘に懇願します。頼む、庄屋に二言はないのだ。お前だけが頼りだ。どんな願いでもかなえてやるから。
幸い、下の娘は、気のよい娘で、庄屋様の願いを聞いてくれました。もっとも、上の娘が悪いわけではありません。タニシの婿を取れと言うほうが乱暴です。
そういうわけで、じいさまとばあさまが到着するやいなや、祝言が執り行われ、タニシは、庄屋様の下の娘の婿になりました。下の娘は、プレスマンを六色全部買ってもらいました。控え目ないい娘です。上の娘なら、もっと強欲なことを言ったでしょう。しかし、タニシの婿を取れと言うほうが乱暴なのは変わりません。単に、上の娘は、このこととは関係なく、もともと強欲だというだけのことです。
タニシの婿と下の娘は、仲むつまじく暮らしました。下の娘がすることといえば、夫の入ったお椀に、御飯粒をあげるという程度でしたが。あ、そうそう、毎日、水神様の泉に水をくみに行って、水をかえることも忘れませんでした。
一月ほどして、タニシの夫が里帰りをすることになりました。下の娘も、きれいな着物を着て、夫が入ったお椀を持って、馬に横座りして、夫の家に向かったのでした。
馬は、少し揺れました。お椀の水が、少しこぼれました。下の娘は、水が少なくなると、夫が苦しくなるのではないかと気になってしまい、水神様の泉のところで、馬を降りました。
下の娘は、お椀の水を一旦全部空けて、水神様にお参りし、泉の水をくみました。おや。
お椀の中に夫がいません。さっき、馬を降りたときにはいたのですが。下の娘は、あたりを見回しましたが、見当たりません。まさかと思ってげたの裏を見ましたが、それは大丈夫でした。下の娘は、馬を降りたところ、水を空けたところ、水神様、泉、全部、丁寧に確認しましたが、夫はいません。下の娘は、少しおかしくなって、田んぼに入ってタニシをたくさん捕まえましたが、どれも夫ではありませんでした。親指ほどの大きさのタニシなど、一匹もいないのです。きれいな着物は泥だらけ、きれいなお化粧も涙でぐしゃぐしゃになって、もう、どうしようもなくなって、下の娘は、水神様にお願いしました。夫はどこへ行ってしまったのでしょう。夫にもう一度会わせてください。
この日も、水神様に立て込んだお願いなどなかったので、下の娘の願いは、すぐにかなえられました。
「こんなに泥だらけになってしまって」
どう控えめに表現しても、いい男としか言えないいい男が、後ろから話しかけてきます」
「…どちらさまでしょう」
「お前の夫だよ」
この人は何を言っているのでしょう。どうせうそをつくのなら、もう少しタニシっぽくしてほしいのですが。
「わからないのも無理はない。水神様のおかげで、この姿になれたのだよ」
「はあ…」
話してみると、他人なら決して知らないようなことを知っていますし、何やら夫っぽいような気もしますが、何か、それだと普通だなぁ、などと思いながら、夫っぽい、いい男と一緒に、夫の実家に到着すると、下の娘は、自分でも理解できていない、タニシの夫が人間になったという物語を、しゅうととしゅうとめに話さなければならないのでした。
でも、まあ、何となくいい感じにおさまって、下の娘は、夫の朗読で速記をしたりして、毎日そこそこ楽しく暮らし、元タニシの夫は、庄屋の家を継いで、タニシ長者と呼ばれたのでした。
教訓:人間に戻ったタニシの夫が、なまっていないのが気になる人は、まあ、いてもいい。タニシ長者の家は、明治になってからは、本谷氏と名乗ったという。