No.15 境界の夜と、記録の交差点
宇高澄香との邂逅を経て、蓮は自分が“記録される側”でありながら、同時に“記録に向き合う者”へと変わりつつあることに気づく。
彼女から渡されたメモにあった「3月1日 20:00」に指定された旧配電施設を訪れた蓮は、そこに自分の知らない行動記録が記された日記と映像データを発見する。
さらに、同じ団地の制服を着た見知らぬ少年が現れ、「次は3月4日 午前3時、団地旧変電区画、“R”が現れる」と告げる。
“R”──記録の中にだけ存在する、蓮の“もう一人”。その姿がついに現れる時が迫っていた。
部屋の中は静まり返っていた。葛城蓮は、自分の部屋の机に向かい、日記帳を広げていた。
蛍光灯の下でページを繰る指が、一瞬だけ止まる。
見慣れたページの合間に、明らかに“自分の文字”ではない筆跡の記録が差し込まれていた。曲線の癖、文末の処理、そして使われている語彙――それらはどこか冷たく、効率的すぎる言葉選びだった。
「遮断完了。次は確認。」
たった一行だけの走り書き。日付は書かれていないが、日記のページ間に挟まれていたことから、最近のものに違いなかった。
(俺の字じゃない。でも……俺が書いたかもしれない)
何度も見た夢が、脳裏をよぎった。無機質な白い部屋、沈黙する少女。
今夜は違った。
夢の中で彼女は唇を動かした。だが、音はなかった。ただ、視線だけが蓮をまっすぐ射抜いていた。
「……なんて言ったんだ」
時計はすでに2時を回っていた。
蓮はコートを羽織り、机の引き出しに日記と手帳をしまった。スマートフォンには、鳴海から未読のメッセージが一通。「注意しろ。記録は常に先回りしている」
3月4日 午前3時。場所は団地旧変電区画。
“Rが現れる”とされたその刻限へ向かい、静かに家を出た。
道中、風が強く吹き抜け、街灯がわずかに揺れていた。蓮の影が長く伸びる。
(誰かに……見られてる?)
その予感は、振り返っても消えなかった。見えない目が、どこかにある。そんな気配が、ずっと背中を離れなかった。
団地に近づくにつれて空気は重くなり、周囲の音がひとつひとつ消えていく。まるで世界が“録音を止めた”ような沈黙。
蓮は裏手のフェンスを越え、旧変電施設の外壁に手をかけた。
扉は、すでに開いていた。
まるで、誰かが“ようこそ”と迎えているかのように。
内部はひんやりとしており、懐中電灯の光が制御盤と古びた金属架台を照らしていた。機械のほとんどは取り外されていたが、記録棚と一台のモニターだけが、なぜか現役のように設置されていた。
壁一面には、紙とデジタルが混在した記録ファイル。文字の色も書式も統一されていない。手書きのメモ、消えかけたインク。配線だけが新しかった。
そのなかの一つを手に取ると、記録はこう綴られていた。
「対象:R 行動記録不明瞭 カメラ干渉あり」
別の記録には、蓮自身の名前が記されていた。
「対象:K(葛城) 観測継続中 分離兆候明確化」
背筋が粟立った。誰かがずっと、自分と“R”を見ていた。そして観測者は、別のどこかにいる。
そのとき、部屋奥のモニターが起動した。
映っていたのは、団地の敷地を歩く自分自身の姿だった。時間は現在。3月4日 午前2時57分。
次の瞬間、隣のモニターが切り替わる。
そこには、同じ建物の別アングルが映っていた。そして――もう一人の蓮が、確かに立っていた。
髪の癖、立ち方、服のしわの寄り方。
だが、その目だけが違った。感情の読めない瞳。まるで記憶すら持たない人形のように。
(いる……本当に、もう一人の俺が)
そのとき。
背後の扉が軋む音と共に開いた。
「ようやく、同じ時に立ったな」
蓮はゆっくりと振り返る。そこにいたのは、自分と寸分違わぬ顔をした“男”だった。
「お前が“俺”でいる限り、俺は“観測”する側にいた」
「……お前が“R”か」
「名前などどうでもいい。ただ、記録の外にいた存在。それが俺だ」
Rと呼ばれた彼は、まっすぐ蓮の前に立ち、言葉を続けた。
「今夜を境に、選べ。観測されるか、観測するか。
記録されるか、記録を書くか。
お前が名乗れば、俺は消える」
「どういう意味だ」
「俺は“お前が見ていなかった時間”そのものだった。
だが今、お前は見ようとしている」
Rはゆっくりと後ろの扉に手をかける。
「ならば、次にその扉を開けるのは、お前自身でいい」
そう言い残し、Rは静かに扉の向こうへと姿を消した。
蓮はその後ろ姿を見つめながら、拳を握り締めた。
(俺は、選ぶ。次は、俺が記録する側になる)
その瞬間、モニターに変化が起きた。
Rの姿が、どの記録からも消えていた。
あたかも最初から存在していなかったかのように。
部屋には沈黙だけが残されていた。
そのまま一時間近く、蓮は何もせず立ち尽くしていた。
ようやく帰路についたとき、空がわずかに白みはじめていた。朝の匂いが遠くに混じり、生活が再び動き始める気配があった。
帰宅後、蓮は新しいページに日記をつけた。
「3月4日 午前3時、“俺”と出会った。観測対象から、観測者への移行開始」
ページを閉じる直前、スマートフォンが震えた。
差出人:「U」
件名:「交差点通過」
本文:
「次の観測者は“君”です。対象データ“R”削除確認。
次の記録指示は追って通達します」
(Rは、記録上からも消えた……?)
だが、蓮は直感的に知っていた。
消えたのは“表面”だけ。裏側にはまだ、彼の痕跡が焼き付いている。
次回予告:
Rの残像が消えた夜。だが記録の空白は、新たな“監視の形”を呼び込む。
再び送られてきた“U”からの指令、その宛先にはもう一つの名が――
次回「反転する観測者と、知られた時間」へ続く。