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八百比丘尼口伝集

八百比丘尼口伝集 長太夫かく語りき

作者: 宮城 英詞

草むらをかき分け道なき道を行く。

辺りは夕刻からじわじわと夜の闇が近づきつつあった。

一体どれくらいここを彷徨っているのか。

長太夫ちょうだゆうは何度もそんなことを思ったが歩む足を止めるわけにはいかなかった。

ひどい負け戦だった。

何日も睨み合っていたと思ったら急に退却して国に帰るという指示。

そして安堵して帰路に帰る途中、敵が背後から襲い掛かってきたのである。

まったく出陣した時から違和感があったが、結果は想像をさらに超えていた。

何が起こったか解らぬまま追い散らされ、逃げまどうだけで精一杯であった。

具足は逃げる際に打ち捨ててしまったし、槍もどこかで落としてしまった。

食料は腰に下げた干し飯のみ。

これでは国に帰るまで持ちはすまい。

長太夫はさらに山深く踏み入りながら考えていた。

通常の街道は通れない。あそこには敵の軍勢や、落ち武者狩りが待ち構えている。

いずれ、どこぞの村に押し入って食べ物を拝借せねばならないだろうが、武器は腰の太刀と脇差、しかも今は自分一人とあっては返り討ちに遭う可能性すらあった。

村に押し入る?

長太夫はそんな事を考えている自分に笑う。

なんと追い詰められたことか。自分は誇り高い武士ではなかったか。

それが今や野盗まがいのことをせねば生き残れないとは。

しかし、今までしたことを考えれば武士も野党も大して変わりはしない。生きるために人を殺し、奪う。根本はそんなに変わりはしない。

はてさて、俺はなぜそんなことを必死にやっていたのやら。

そう思うと、自分がひどく愚かで哀れな人間に思えてきた。

辺りはすっかり暗くなったが、火を使うわけにもいかなかった。

あれは遠くからでもこちらの位置を知らせてしまう。

長太夫は休むこともままならず山道を歩いていた。

そもそもここはどこなのか?

とんと見当がつかぬ。

いずれ休まねばならないが、せめて今の自分がどのあたりにいるかは知りたい。

気が付いたら敵陣に近づいていたということがあっては洒落にもならぬ。

そう思って辺りを見回した長太夫はふと、遠くに明かりが見えるのに気づいた。

地形から見て、沢の方で誰かが野宿でもしているのだろう。

猟師か、落ち武者狩りか、はたまた同じような味方かは判らぬが、長太夫は何か安心感を覚えていた。

長らく一人でいて人恋しさがあったのかもしれない、食べ物があるかもしれぬという期待があったのかもしれない。

長太夫は自然とそちらに足を向けていた。

仮に相手が数人であれば、不意打ちであれば追い散らすことくらいならできよう。

武器や食料はそのあと拾っていけばよい。

もし一人ならしめたものだ。

長太夫は自分の腕には自信があった。

あれだけ戦場で人を殺してきたのだ。慣れぬ方がどうかしている。

敵か味方か漁師か知らぬが有無を言わさず切り捨て、しばらく休むことにしよう。

長太夫は物音を立てぬようその明かりに近づいた。

やはり儂は野盗だな。

長太夫はそんな自分をまた笑った。



 明かりの正体はやはり焚火であった。

 沢のほとりに焚火があり、石に腰掛けた尼が一人いる。

 ……尼?

 長太夫は自分の気持ちが萎えていくのを感じた。

 野盗のごとく落ちぶれたとはいえ、さすがに僧侶、ましてや女を斬る気はしない。

 向こうも同じだろう。武器らしきものと言えば傍らに置かれた錫杖くらいだ。

 向こうは一人、これならわざわざ殺生を犯さずとも休むくらいはできそうだ。

 ここに至り、一息。

長太夫は開き直って堂々と姿を現すことにした。

 草むらから姿を現すと、尼はさすがに驚いたようだった。驚いて振り返る彼女に長太夫はさもありなん、といった顔で焚火の前に歩み寄る。

「慌てるな。少し休んだら立ち去る。」

 そう言って長太夫は尼の向かい。焚火の前に腰掛けた。

 正直倒れこみたい気分だ。

 それほどまでに長太夫は疲れ果てていた。

「落ち武者か……。ずいぶん長いこと彷徨い歩いたようじゃな。」

 尼は憐れむような顔で語り掛けた。

「すまぬが食い物を分けてくれぬか。なに、少量でも分けてくれれば乱暴はせぬ。儂も尼を斬る趣味はないし、何より疲れておるからな。」

 そして、顔を上げた長太夫はそこで息を飲んだ。

 先ほど放った言葉とは裏腹に焚火に照らされた尼の顔は驚くほど若かった。

否、幼いと言った方がよい顔立ちだ。透き通るような白い肌はひどく美しく。この夜の暗闇と焚火の薄辺りではなにか妖艶ですらあった。

「……若いな。偉そうな口をきいておるが、一体いくつじゃ。」

「……さてな、数えなくなって久しい。」

 長太夫の問いを尼ははぐらかす。その受け答えと外見のちぐはくさが何やら不気味ですらあった。

 長太夫は気圧されそうになるまいとあえて居丈高にすることにした。

「こんな所で何をしておる。この辺りは戦場になって儂のような落ち武者がうろうろしていて物騒だぞ。おぬしのようなうら若き尼がひとりで居っていい場所ではない。」

 長太夫の言葉に尼は苦笑した。何を笑っていたのかはわからなかったが彼女は

「ずいぶんと優しいではないか。」

 と、子供に語るように答え、そして竹筒の水筒を差し出した。

 その何か生意気な態度に長太夫は怒鳴り返そうとすら思ったが、一刻も早く水を飲みたいという誘惑と、何より先ほどから感じる不気味さに言葉を飲みこみ無言で水を飲み干した。

「旅の途中、ずいぶん大きな戦があったと聞いてな。その骸を弔うために来ておる。骸はいずれ自然に帰るが、まれに成仏できずその辺を彷徨う輩が多くてな。まぁ、これも御仏に使えるものの役目というものでな。現に今も儂はおぬしの話し相手になっておる。」

 尼の言いように長太夫も苦笑した。

「……なるほど、儂も亡者のようなものか。確かにそれは大変な仕事だ。」

 若いくせになかなかの言いようである。

確かに今の自分は亡者と変わらぬ。

行く道も解らず、ただ死ねないというだけで野山を彷徨い歩いている。

そして人恋しさに明かりにつられて尼に水をめぐんでもらっているのである。

さて亡者と何が違うやら。

長太夫は続けて差し出された握り飯をむさぼり食いながら自分の惨めさをひしひしと感じ始めていた。

食べ終え、一息。

長太夫は夜空を眺める。

恥も外聞も捨てて逃げ回り、自分は何をしたいのだろう。

あの大敗北のあと、国はどうなっただろう?

帰って何をするのか?

そもそも、手遅れではないのか……。

「すまぬが、手持ちはそれきりでな。食い物はもうないぞ。」

 よほど物欲しそうな顔をしていたのだろうか?

 尼の言葉に長太夫は我に返った。

 そして

「いや、もう十分じゃ。」

 と答えると腰の太刀と脇差を鞘ごと抜く。

 水は美味かったし、腹も満たした。もうこの辺で十分だろう。

 長太夫は静かにほほ笑んだ。

「比丘尼殿。すまぬが引導を渡してはくれぬか。儂はここで腹を切る。そこの太刀を駄賃代わりに持っていけ。」

 その言葉に尼はさすがに驚いたようだった。

彼女は目を丸くして首を傾げる。

「……それは構わぬが。別に手負いというわけではあるまい。何を死に急ぐ。」

 不思議そうな顔で尼は問うた。

 それに長太夫は笑顔のまま空を仰いだ。

「逃げ回るのも疲れ、なにもかも阿呆らしくなった。戦を始めた奴も阿呆なら、策を立てた奴も阿呆、それに付き合った儂も阿呆じゃ。業を重ねて見苦しく生き延びて国に帰ったところで何がある。また阿呆に付き合い、殺生を重ね、村を焼くのか?……それこそ阿呆らしく、腹立ただしい。儂はこの糞みたいな世からおさらばして、すべて終わりにしたいのよ。」

 尼は長太夫の言葉に静かに首を振った。

「……それは愚痴じゃな。そんなにこの世が恨めしいか。」

 若い尼にぴしゃりと言われ、長太夫は思わず顔をしかめた。

「ああ、恨めしい。当然じゃ、散々殺生しても成したいことなど何もできず、儂は今や惨めな足軽の落ち武者じゃ。いい事など一つもなかったし、生き延びても同じじゃろう。来世とやらに望みを託すのがなぜいけない。」

「この世に恨みを抱いて逃げ出したとて、あの世には行けぬよ。そんな性根では成仏などかなわぬ。亡者となって野山をまた逃げ回るのがオチじゃ。」

 さて、今から死のうという覚悟を言ったのになんという言いよう。

 たとえ尼とはいえ、まだ年端もいかぬ女子に何が解るというのか。

 尼の言いように長太夫はだんだん腹が立ってきた。

「……お主のような小娘に何が分かる。この世には救いはない。戦は絶えず、田畑は焼かれ、人々は食い物を奪い合っておる。ならせめて武士になって名を上げようとすれば、殺し合い、騙し合いの繰り返しよ。人の上に立つ人間とはすなわち、多くの人を騙し、殺してきた人間のことだ。下々の者は搾り取られ、上の者は豪深き者どもばかり。そんな世にどんな望みがある?お主はなぜ生きておる!」

「知れたこと、死のうと思っても死ねぬからよ。」

 焚火を見つめながら、こともなげに言い放つ尼。

 その言葉に長太夫はもう一度焚火に照らされた尼の顔を見た。若く、美しい顔に似合わぬ物言い。その違和感の答えが昔聞いた伝承の中にあった話……。

「……そういえば聞いたことがある。その昔、人魚の肉を食ろうたために不死になったという尼の話……お主、八百比丘尼か。」

「正確には、食ったのは尼になる前じゃがな。他でどう呼ばれておるかは儂は知らん。」

 迷惑そうだがごく手短に、尼は長太夫の問いを肯定した。

 信じられない話だ。もしかすると話を合わせて謀っているのかもしれない。

 だが、尼にはそれを信じさせる何かがあった。

「……驚いたな。儂はどうやらとんでもない者と出会ったらしい。この縁はなんだ?み仏の導きか?」

「言うたであろう。儂は戦で死んだ者を弔いに来た。お主は落ち武者、出会うのは必然じゃ。」

 事も無げに尼は言う。

 やはり、顔はうら若い少女のそれだが、言葉は数百年生きた老婆のようだ。

 長太夫は尼の言いように、彼女が八百比丘尼であると確信を持つようになっていた。

「では、なぜ儂が腹を切るのを止める。どうせ儂は生きては帰れぬ。よしんば帰れたとて何がある?ただ業を重ね、惨めに這いつくばりながら生きていくだけではないか。そんな世に何がある?」

「別に死ぬことは止めてはおらぬ。ただ、この世を恨んで死ぬな、と言うておる。」

 尼の言葉に長太夫は突き放された気分になった。

 自分で死んでやるとは言ったとはいえ、死ぬのは構わぬと言われるのはなんとも嫌なものだ。

長太夫は憮然と尼をにらみつけたが、彼女は悲しげな顔で焚火を眺めていた。

「若き日の過ちがもとで、もう忘れてしまうほど長い間。儂はこの世を彷徨って、そして見てきた。夫も、子も、孫も、友人も、ある者は病で、ある者は戦で、老いで、儂の前から去っていった。どの世でも、どの身分でも。皆、それなりに苦しんで生きておる。お主の言う通り、この世にいる限り苦しみから逃れる術はない。この世はそもそもそういう所なのじゃ。」

 恐ろしい話だ。

 不老不死になり何百年も死ねずに生きてきたという。

 昔は憧れたことすらあったが、本人を目の前にして聞いてみればわかる。

 それは終わることのない孤独と絶望の日々だ。

 長太夫は、目の前にいる人間が自分の苦しみを逃げ場のないまま何百年も味わい続けた者だと気づいて戦慄した。

 彼女には絶望することも許されてはいないのだろう。

「……では何に望みを託す。来世か?」

「さて、来世が良い物かどうかは儂にはわからん。死んだ後のことなど偉そうに語れる立場ではない。それはお主が見てきたら良い。」

 そういうと尼は焚火に薪をくべた。

 炎が赤々と燃え周囲を照らす。

「ただ、この世にとらわれておるが故、この世から離れられぬ亡者は山ほど見てきた。この世を呪い、恨む者は哀れなものじゃ。生きておっても死んでおっても自己の欲に囚われ、愚かな行いを繰り返す……。この、儂のようにな。」

 そう語る尼の言葉に長太夫は何か共感できるものがあった。

「つまるところ、この世は修行の場じゃ。苦しみがあるのはだれしも同じこと。そしてそこから逃げ出すことは、それ自体が大きな罪じゃ。よき来世など望むべくもない。修羅道なり地獄なりに落ち彷徨うだけじゃ……少なくとも、御仏の教えではそういうことになっておる。」

 確かに、先ほどまで生きたいと必死に道なき道を走っていた自分がなぜ死にたいと思ったのか。

 それはただ、この汚れた世の中から逃げ出したかったからにすぎぬ。この終わりなき逃避行を終わりにしたかったからにすぎぬ。

 そんな面当てのような死に方をしたところで、生きたいという気持ちは消えるのだろうか。

 確かにこのままでは自分は生きたいという気持ちのままこの世を彷徨うかもしれない。

 長太夫は自信がなくなってきた。

「……比丘尼殿もこの世を恨んでおられるのか。」

 長太夫の問いに、尼はまた悲しそうな顔をした。

 夜空を見上げ、今までのことに思いを馳せているようだった。

「……恨んだな。繰り返し恨んだ。恨みすぎて阿呆らしくなって、そしてどうでもよくなった。」

「どうでも良くなった?」

「ああ、日が昇り沈む。人は生きて死ぬ。さんざん繰り返してそれが同じと悟った。世の中が腐っておるのも、ずっと同じじゃ。この世はそんな所じゃ。恨んだとて何も始まらん。それが散々世を恨んだ儂の悟りじゃ。」

「……諦めか。」

「そうとも言うな。」

 尼は長太夫の言葉を特に否定もせず静かに笑った。

「儂は何の因果かこの世から逃れることはできぬ。どんなに阿呆まみれでもこの腐った世で生きていかねばならぬ。なら阿呆とは遠ざかるか、うまく付き合っていくしか無かろう。全ては御仏がお与えくださった修行と思うしかない。儂と違って、お主には死という救いがある。ならそれを、もう少し豊かな心で迎えてはどうじゃ?」

 なるほど、死というのは逃げ道であり、救いなのか。

 確かに彼女から見ればそうかもし知れぬ。

 死ねない人間に言われるとなんとも違って聞こえるものだ。

 長太夫も静かに笑った。

「……どうも儂はせっかちな臆病者と言いたいようだな。」

 彼女にすれば自分は卑怯な逃亡者ということだろう。

 だが……

「豊かな気持ちというが、儂はお主とは違う。飯を食わねばならんし、斬られれば死ぬ。武士の面目も、このやるかたない気持ちを、重ねた業をどうしたらよい?僧にでもなればよいのか?」

 尼は長太夫の訴えを静かに聞いていた。やがて、小さく頷き口を開く。

「気にするな。」

長太夫はその言葉に目を丸くした。

「……簡単に言うがな。人の心はそう単純なものではないぞ。」

 いい加減ともとれる尼の言葉にからかうなと言わんばかりの長太夫。

 だが、尼は至極真面目な顔で答えた。

「左様、人は物事を複雑に考えすぎる。」

 そう言うと尼は満天の夜空を指さす。そして静かに続けた。

「見方を変えて見よ。天の星々からすれば、お主の面目などどうでも良いことだ。何人殺生したか知らぬが、畜生が獲物を食らうのと何が違う?お主の業とはその程度のものだ。名を残さず朽ち果てる者など数多居る。世を恨むものなど星の数ほどおるのだ。別にお主だけではない。皆、苦しんでおる。お主が持っておる恨みは恨まれる側からすれば、その他大勢の取るに足らぬものだ。やがてそいつも自らの業で勝手に滅びる。お主の恨みなどほんのささいなことだ。」

「……そうは言われてもな。」

 理屈はわかる。

だがこの胸につかえた気持ちはそう消えない。

長太夫は深くため息をついた。

「どうすれば気にならなくなる。比丘尼殿の言いようでは。大抵の奴は成仏などかなわぬではないか。」

「……そうさな。確かに難しい。」

 尼は長太夫の言葉に瞑目して頷く。

「じゃがな、大抵のものは死ぬ前に気づくのよ。苦しみから逃れる方法を。」

「それは?」

「欲しがらぬことじゃ。」 

「……それはまた。難しい。」

 長太夫は笑った。

 生きる上で、人は欲しがる。名誉、富、食い物。

 それを欲しがらぬとは?

 長太夫にはとんと見当がつかなかった。

 尼はその様子にまた静かに笑った。

「そう、難しい。名誉が欲しいと思うから名を上げぬことを悔やむ。富が欲しい。生きたいと思うから、死ぬ間際、世間を恨んだりもする……。お主はこの世が恨めしいと言った。それはすなわち、この世にお主は囚われておるという事じゃ。じゃが死にゆくものはそんなことは本当にどうでも良くなる。肉体も、名誉も富も、何もいらなくなる。ゆえに成仏してゆくのだ。」

 なるほど、確かに死にゆくものにとって。本当に今から死ぬのだと自覚したものにとって、名誉、富、食い物すらもうどうでも良い物だ。

 では己はどうか?

 殺生を悔いながら名誉をほしがり、それが成せぬことに腹を立て、悔しがりながら、さりとて一歩も進めず、死のうとした。それは実のところ、ただ生きたかったからに他ならぬ。

 生きたい。ゆえに死にゆく自分の運命を恨んだのだ。

 尼は焚火にさらに枯れ木をくべる。

「……儂は死のうとて死ねぬ。命のはかなさも散々見てきた。……だからいつのころからか己が命などどうでも良くなってきた。……案外そう考えると楽なものだ。むしろ来世に行けるお主が羨ましくすらある。朽ち果て、畜生どもの餌になることだけでも十分お主の命には価値があるのだ。」

 なるほど、己はいずれ死に、自然へ帰る。別にどのような身分の者でも同じような事だ。それは当たり前のことであり、また尊い事でもある。

 長太夫はそう考えると、なにか今まで自分が思っていたことが確かにどうでも良い事のように思えてきた。

そして、それは腹の底にあったつかえを忘れさせる。

この期に及んで、長太夫は自分が何者であったかを思い出したような気がした。

「……そうか、儂のごとき虫けらのような生にも価値はあるのか。」

「人はこの宇宙から見れば、等しく虫けらじゃ。それぞれの役割があり、価値がある。お主は儂の前に現れて儂の心に刻まれよう。それも人になにか悟りを開かせるきっかけになるかもしれぬ。これもまたお主の命の意味だ。」

「……なるほど、では儂のこと語り継いでくれ。比丘尼殿が生きていく限り。」

「約束しよう……まぁ、私としては早く終わりにしたいのだがな。」

 二人はそう言うと笑った。

「他に何か望みはあるか?」

 ひとしきり笑った後。尼は赤子に語るような優しい声で問うた。

 長太夫はそれに微笑みながら少し考え、そして口を開く。

「子はおらぬが妻が居る。……じゃが、あれは一人でも何とかできよう。……しかし、できれば、やはり故郷には帰りたいな。越前の国は、一乗谷だ。頼めるか?」

「善処しよう。」

 二つ返事で尼は答えた。

 長太夫それに満足げにうなづいた。

 そして尼に温めて向き直り礼をする。

「かたじけない。」

 そう言うと、長太夫は消えた。

 河原には焚火とそして静かに合掌する尼だけが残された。



「ほう、ここにおったか。」

 日が昇り、天頂に達するころ。尼は草むらから長太夫を見つけることができた。

 おそらく獣に食い荒らされたのだろう、あったのはわずかな骨片のみ。

 だが傍らに置かれたのは、間違いなく彼の持っていた太刀であった。

 尼はそれを拾い上げよく眺めてみる。

 それはもはや朽ち果て、使い物にもならない代物だった。

「お主の望み通り引導を渡してやったゆえ、約束通り頂きたいところだが……これではどうにもならぬな。骨と一緒に供養してやるゆえ、来世にでも持っていくがよい。」

 尼は苦笑してそう言うと骨を拾い集め始めた。

「……それにしても一乗谷とはまた遠い。風の噂にはその昔滅ぼされたと聞いたが……さて、どこで供養すればよいやら。」

 いや、これは愚痴か。

 長年生きても、これは止まらぬ。

まだ修業が足らぬな。

尼は静かに笑いながら集めた骨を懐紙に包む。

「また一人、先を越されてしもうた。儂はいつになれば成仏できるのかの。」

 それも、また愚痴だ。

 八百比丘尼は、そんな自分をまた笑いながら、その場を後にした。


最後までお読みいただきありがとうございます。

私の故郷にある八百比丘尼の伝承を元に、素人ながら仏教的な視点を加えて書いてみました。

 こういう連作をいくつか書く構想があるはあるのですが、今は全然毛色の違うものを書いており手が回っておりませんw

 好評あったり、気が向いたり、神か悪魔が囁いたらまた書くかもしれません。

 ご意見、感想をまたお寄せください。

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この小説、読みながらじわじわ引き込まれていって面白かったです。最初は普通に生きてる人だと思ってた長太夫が、実は亡者だったっていう展開に「おお、そうだったのか!」と驚かされました。 死にたがっていた長…
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