復讐を遂げた令嬢は、義兄から逃げられない
「ドリアナ・ドラグラス。貴様を処刑する」
邸宅の、いつもは食事を囲む部屋に、その声は響いた。
声を発したのは、ティアロス公爵家の嫡男である、シリウス・ティアロスだった。
彼の冷たい灰色の瞳に見下ろされながら告げられた言葉に、ドリアナは顔を怒りで真っ赤に染め上げた。その顔は、身体中に虫が這うような感覚がするほど、悍ましい。
「どういう事です、シリウス! わたくしは貴方の義母ですよ!?」
「……よく、その様な戯言を吐けるな。醜いにも程がある」
「わ、わたくしが、醜い……!? わたくしは、この美しさを見初められサンロス様に嫁いだのですよ!?」
「父に薬を盛り、既成事実を作って脅したのであろう」
コトリ、と。静かにテーブルに置かれた小瓶を、私は横目で見た。ドリアナは、それを見て顔を真っ青にさせている。野心家な癖に、頭が悪く、顔と体を使って男に媚びて寄生するしか出来ない馬鹿な女。
「……さ、サンロス様との子どもを産んだのは間違いありませんわ! 公爵家の血を引く女児を産んだの!」
ドリアナの瞳が、縋るように私に向けられた。きっとこの女に似ているであろう顔で、緩やかに微笑んだ。
「ふふっ、お母様。面白い冗談を言うのね?」
「ふ、フィルリナ?」
「わたくしのこの身体に、ティアロス公爵家の血は、一滴も流れておりませんわ」
ドリアナの顔が、歪んでいくのを見て、……やっとこの女を奈落の底に突き落とせる日が来たのだと、歓喜した。
私は長年、この女を殺したくて仕方が無かったのだ。
◇
フィルリナという名前の、美しい艷やかな黒髪と青銀の瞳を持つ私は、とある街のはずれにひっそりと産まれて育った。
森の中の小さな小屋で、スターリーという三十歳前後の男と一緒に住んでいた。スターリーはある商家のお嬢さんの従者だと言い、忠誠を示す為、私を育てるのだと言う。
スターリーは細身の優しげ男で、私を慈しみ愛してくれた。スターリーと一緒に狩りをしたり、庭で野菜を作り、料理を作って共に食べる時間は平和で、満ち足りた生活だった。
私が五歳の頃、初めて街に連れて行ってくれた。街の綺羅びやかさに目を輝かせていたのを覚えている。スターリーは私に沢山美味しいものを食べさせてくれた。スターリーに甘えて抱っこして貰ったりした。
その時に、住んでいる土地の名前、『ティアロス』と、私の名前や容姿の特徴で、突然思い出してしまう。……ーーここは、前世で好んで遊んでいた乙女ゲームの世界だと言うことを。
よくある設定の乙女ゲームで、孤児だと思っていた女性が、事故で行方知れずになっていた貴族の令嬢だったことが分かり、貴族学園に入学し数々の令息と恋をする話だ。
その攻略対象の中の一人である、女性不信で恋に落ちるとヤンデレ気質になるシリウス・ティアロス。
初めはヒロインに冷たく接するのだが、裏表のない彼女に心を開き、執着するようになる。終いには監禁まがいな事をしてヒロインを手に入れようとしたりもするけれど、最終的にヒロインが全てを受け入れてくれたシーンは感動物で、私はシリウス・ティアロスのルートが大好きだった。
……彼の心の傷になった原因が、私、フィルリナ・ティアロスという女だ。
ゲームでの私は、シリウスの妹として登場する。
シリウスの母は、出産に堪えきれずに亡くなっている。妻を溺愛していたシリウスの父、サンロスは、悲しみながらも妻の形見であるシリウスを大切に育てた。
だけど、ーーサンロスがある日、ドリアナと私を連れてきた。
サンロスが一夜の過ちで子を成してしまい、ドリアナは育てる資金が底をついたとサンロスに泣きついて来たのだと言う。
サンロスはお酒に酔った勢いでの事で覚えておらず、妻を裏切った事への罪悪感に日に日に弱っていき、亡くなってしまった。
不幸は続く。ドリアナは公爵家で贅沢を楽しみ、フィルリナはシリウスの美貌に、女の目を向けてくる。身体を性的に触れられる時もあり、シリウスは女が嫌いになる。
そんなシリウスの心の傷を癒して、ドリアナがサンロスに薬を盛り既成事実を作った事、また、フィルリナがサンロスとの子どもではない事を一緒に突き止めていくのだ。
断罪されたドリアナとフィルリナは処刑され、二人はハッピーエンド。……あら、私は処刑エンド?
前世での流行りで、こう言った悪役令嬢が断罪を免れる為に、攻略対象の好感度を上げたり、徹底的に避けるみたいな物語があった。……うーん、私がシリウスに絡まなければ、大丈夫かな?
前世の記憶を思い出して、理解したのは、きっとスターリーは私の実父なのだろうという事だった。
いつも私に惜しみない愛情を注いでくれる。スターリーが父だと自覚すると、私もスターリーへの家族愛が膨れ上がった。姿を一度も見たことがないドリアナなんて家族とは思えない。
ドリアナに連れて行かれるのは止められないだろう。だったらシリウスには関わらず静かに過ごして、ドリアナに逆らえなかったと減刑を願い出て、国外追放でもして貰おう。
その時に、スターリーも一緒に着いてきて貰って、親孝行したい。沢山働いて稼いで、私も平民と幸せな結婚をして孫を見せてあげるんだ!
そう思って、私はスターリーと過ごしながら、勉強にも励んだ。諸外国の言語を学び、どの国に行っても職に就ける様に。平民女性でも高官を目指せる国もあって、ここでスターリーと街に家を借りて住もうと考え、ワクワクしていた。
そんな、夢物語を。
◇
七歳になった頃。森で木の実を集めているとき、弓矢で兎を仕留めたから、急いでスターリーに自慢をしようと小屋に戻った。
つん、と。扉を開けると広がるのは錆のような臭い。「スターリー? 窓閉めてどうしたの?」と、真っ暗な部屋に呼び掛けても、返事が無い。
「あら、お帰りなさい。愛しの娘」
ねっとりと、身体にこびり付くような女性の声色に、ぞわっ、と全身が逆立った。暗闇の中から、私に良く似た女が出てきた。それに、ドリアナだと直ぐに気付いた。
「……スターリーはどこ?」
「ふふ、感動の再会より、従者の男を気にするの? あの男なら眠っているわ」
暗闇を眺めていると、目が慣れてくる。いつも私達が作った料理を食べている木目調のテーブルに、スターリーが突っ伏すように眠っていた。
「……スターリー、起きて! ねえ、……す、たーり……?」
身体を揺する。……酷く、冷たい。テーブルに手を置くと、ぬめっとした生温かさが手に付いて「ひっ?」と悲鳴を上げる。赤い。スターリーの口から、血が出ている。錆臭い、頭が痛い、目が、回っている。
「さあ、フィルリナ。貴女は貴族になるの。この場所を離れるわよ」
「……い、いやぁ、スターリー、スターリーっ!!」
冷えて固まってきたスターリーを抱き締める。……ああ、ドリアナは残酷で馬鹿な女だ。実父で、幼い私を唯一知るスターリーを、処分する事しか考えていなかったのだ。
スターリーはこんな女に忠誠を誓って、七年もこの森で私を護ってくれたのに。
「うふふ、わたくしに似ているわあ。それに小柄だから、歳も簡単に誤魔化せるわね。サンロス様と寝た時期を考えて、貴女は5歳よ」
「あ、あんたっ! よくもスターリーを!!」
背負っていた弓矢をドリアナに向ける。けれど、ドリアナは可笑しそうにケラケラと笑っただけだった。
「あははっ、良いのぉ? スターリーは貴女を貴族にする為にここまで健気に育ててくれたのに、愛しのスターリーの遺志に背くのかしら? スターリーはわたくしを愛していたの、わたくしを殺せば、スターリーは貴女を許さないし、……無駄死にと言うものよ」
スターリーを侮辱されたのが、許せなかった。……この女の、好きにはさせない。物語の通りに、名誉もプライドも全て粉々にして、全員の前で処刑させてやる。
◇
目の前にいるのは、光の無い灰色の瞳で睨むように私を見詰める男の子、ーー幼い時のシリウスだ。
スターリーが生きていたら、呑気に関わらずにいれば処刑を免れるかもなんて考えていたかもしれないが、憎しみと憎悪を込められたその瞳に、不可能だろうなと悟る。
「……お前を妹だとは認めない」
だって、妹では無いから。私の家族は、スターリーだけだ。
「存じております。シリウス様」
スターリーは私に色々なことを教育してくれた。貴族が学ぶような礼儀作法もだ。だからこそ、両膝を床に付けて、両手を交差し、頭を下げた。普通の貴族家族であればしない、服従の挨拶だった。
……ドリアナを少しでも早く陥れる為には、シリウスが必要だった。
「わたくしは、シリウス様に忠誠を誓います」
「……何が目的だ」
目的は一つしか無かった。私の家族を殺した、あの女への復讐。私の青銀の瞳にも、きっと光は無い。
「あの女の、破滅」
それしか、無い。
◇
私は、シリウス以外の前では天真爛漫な少女を装った。周りに警戒心を抱かせない為だった。
シリウスと二人になると、ドリアナの調査を行った。使用した薬の種類や仕入れ先、既成事実を行った宿や出会った場所での聞き取りだ。
二人で会うのを怪しまれないように、表向きは天真爛漫な妹に絆されて慈しむ兄を擬態していた。
「お兄様は、演技がお上手なのね」
「君には負けるよ」
シリウスとは、仲間意識が芽生えていった。
憔悴していたサンロスに二人で揃えた証拠を提示したのと、私が年齢偽証をしていることからサンロスの子どもではない事を伝えて、原作では亡くなってしまっていたサンロスも元気を取り戻す。
ドリアナの罪を重くさせるため、散財しているのを泳がしていた。断罪は、シリウスが学園入学をする前日の晩餐に行われる事となった。
その間、私達は様々な話をした。シリウスが読書を好むこと、果物が好きなこと、学園では魔法学を学ぶ事が楽しみなこと。
私が狩りが得意なことを知った時は驚いていたのが、とても可笑しかった。
「……スターリーに教えてもらったのよ。森での生活はとても楽しかった。狩りをして、木の実を取ってきたり、庭で野菜を育てるの」
「自給自足をしていたの?」
「うん。一人で獣を捌けるし、料理も出来る。勉強もスターリーが教えてくれた。わたくし、スターリーに恩を返したくて……」
その日は、スターリーの命日で、感傷的になっていた。震える両手を神に祈るために組み合わせて、涙を拭わないまま目を閉じた。
「……スターリー、助けられなくてごめんなさい……、お墓も作れていない、骨もきっと……ごめんなさい……」
森の小屋は、スターリーの遺体ごと、ドリアナに燃やされた。燃えていく小屋に必死に手を伸ばしたけれど、ドリアナに止められて、消えて行くのを眺めていることしか出来なかった。
「全て終われば、そこにお墓を作ろう。……君の帰りを、スターリーも喜ぶに違いないよ」
シリウスが優しく、背中を撫でてくれた。それだけで、救われた気持ちになれる自分の浅はかさに吐き気がする。
「……シリウス様、わたくしみたいな下賤な人間に慈悲を下さったこと忘れません」
「永遠の別れみたいな事を言うな? 君に罪は無い。共にドリアナを奈落の底に突き落とそう」
……私は全てを知っていたのに、ドリアナを止められなかった罪がある。呑気に事を考えて無ければ、ドリアナに殺される前に、スターリーを連れて逃げられたのに。
だから、罪深い私はドリアナと一緒に、落ちる。
◇
「あ、貴女、頭が狂ったの!?」
「狂っているのはドリアナでしょう? 有りもしない既成事実で貴族を脅し、血の繋がらないわたくしを公爵家に差し出して騙し、贅沢三昧。……貴族を憚った罪は重いでしょうね」
目の前のドリアナが騎士に取り押さえられる。暴れるから綺麗に整えられた髪が乱れて、とても滑稽だ。口元の笑みが止められない。ああ、やっと落ちるのね。
「フィルリナ! 貴女を貴族にしてあげたじゃない! あんな森の小屋で一生を遂げるよりも、幸福でしょ!?」
「私の幸せを、勝手に決めるな」
声が震える。胸元を押さえて、必死に喉の奥に押し込めようとするけれど、嗚咽と一緒に、涙が溢れていく。
「……す、スターリーがいてくれたからっ、しあわせだった!」
抱っこしてくれた。さみしい時は抱き締めて背中を撫でてくれた。寝れない日は子守唄を歌って、狩りに成功したら自分の事のように喜んでくれる。
一緒に育てる野菜の話をするのが楽しかった。何でも知っている先生の様で尊敬していた。愛情を、いっぱい、くれたから。
「……フィルリナ」
また、優しい手が背中を撫でてくれる。シリウスが「囚人を地下へ」と冷たい声で言い放つと、醜く抵抗するドリアナを騎士達が連れて行く。
「わたくしの血を引く貴女も同罪よ!! 貴女はわたくしだけを罰することなんて出来ないわ!! 貴族への詐欺罪は貴女も適用されるのよ!!」
「煩い! フィルリナは私の妹だ!」
「いいえ! わたくしの娘よ!! アハハッ! スターリーもわたくしを破滅に追い込むお前をあの世で憎んでいるに違いないわ!」
「口を塞いで早くそいつを連れて行け!」
ドリアナの言葉にシリウスが何故か酷く傷付いた顔で私を見た。何年も一緒にいて分かったことは、彼がとても優しいってこと。優しいから、原作では酷く傷付いてしまったのだろうな。
「あいつの言葉は聞くな」
「どうして? ……全部、真実よ。わたくしは貴方の妹では無いのに、公爵令嬢として何年か邸宅で過ごしてきたもの」
スターリーを裏切ったのも、本当のこと。彼は、ドリアナに愛と忠誠を捧げていたもの。でなければ、あんな場所で私なんかを育てない。ドリアナを断罪した私を、スターリーは憎むだろうな。
「君は違うよ。君がいなければ、ドリアナを止められず父は憔悴して死んでいたかもしれない。君は私達を助けてくれたんだ」
そこでシリウスは何処か言い辛そうに口を閉じると、「……ずっと言いたかった事があって」と言葉を続ける。
「君は今日が終わったら、ここを去るつもりだったよね? 言葉の節々に、私との未来を感じさせなかった。でも、私は君と……」
言葉がそこで終わった原因は、私にあった。ごぷっ、と濡れた咳と一緒に口から血が飛び出したからだった。シリウスの驚いた表情に、身体にある痛みとは逆に穏やかな気持ちで笑えた。
「シリウス様……、貴方には妹なんていない。目の前にいるのは、……罪人ですよ。だから……」
貴方との未来は、何処にもないの。
スターリーを死なせてしまった私は、スターリーと同じ毒を飲んだ。遅効性の毒は、断罪後に丁度効果を表した。
「フィルリナ!! い、いやだ……っ!」
ふらり、揺れた身体をシリウスが抱き締める。……ないているの? どうして、私は罪人の娘なのに? 貴方の家族でもないのに。
「……だ、じょぶ……シリウス様、が、えんで、全部、わすれられ、る……」
これがもし、心の傷になってしまったとしても、ヒロインが学園にいる。天真爛漫で、優しい女性。ーーシリウスがヒロインと恋に落ちるのかな? そう考えると胸の奥が僅かに傷んで、きっと毒のせいだと、目を閉じた。
……スターリー、許してくれるかな、許してくれたら、また一緒に遊んでくれるかな。
◆
父の裏切りの証だと思っていたから、最初は嫌悪でいっぱいだった。
艷やかな黒髪に、ガラス玉の様に透き通った青銀の瞳。身体は痩せていて酷く華奢な所も、可哀想だろうと父に媚を売っている様で気持ちが悪かった。
でも、彼女、ーーフィルリナは聡明な子どもだった。
同時に、憎しみを胸に隠した強い女性だった。
ドリアナではなく、スターリーと言う男性に育てられたらしく、他国語を良く学んでいて、礼儀作法も問題が無かった。スターリーはフィルリナにとって大切な存在なのを会話の節々に感じ、フィルリナはスターリーをドリアナに殺された憎しみと哀しみで生きている。
私とフィルリナはドリアナの罪を暴くため、二人で会って会話する事も増えた。話せば話すほど、フィルリナという少女は本当に可哀想な存在なのだと理解し、憎悪の目で見た初対面での事を後悔するほどだった。
対外的にフィルリナは『天真爛漫な少女を装う』と言っていたが、あの姿も、彼女の一部なのだと思う。決して、演技だけとは思えず、スターリーが死ぬまではきっと笑顔の絶えない子どもだったに違いなかった。
「お兄様! ここにも森があるのね!」
特に、フィルリナは公爵家の一帯にある森を気に入っていた。私の手を引いて駆け回るその姿はとても愛らしく、その時だけは青銀の瞳は憎しみを忘れていた。
森の中で彼女は自由だった。二人きりで話す時の彼女は、子どもに思えない程、大人びた声色で話すのだけれど、「見て!」と笑いながら私を見上げて言った声色も表情も年相応だった。
「お兄様は知っている? この木の実、美味しいのよ」
「あっ!」
赤く実った小さな実をパクリと口にし始めて、私も遠くで見守っていた側仕え達も焦った様子だったが、とても美味しそうに笑うその顔が可愛い。「美味しい?」と声を掛けて頭を撫でると、酷く驚いた様に目を丸くしてから、目を穏やかに細めて笑う。
「……うん。とっても美味しい」
……寂しそうな、瞳。きっと、スターリーと一緒にこうやって森を歩いて、木の実を採っていたのだろうか。思い出に、懐かしさと寂しさを、感じているのだろうか。
そう思うと、私も目の前の赤い実を口に含んでいた。ぷちりと弾けた実は酸味が強い。決して美味とまではいかないが、彼女にとっては思い出の味なんだと思えば、美味しく思える。
「美味しいね、フィルリナ。教えてくれてありがとう」
フィルリナは少し泣きそうな顔で「……うん」とだけ言った。フィルリナは、私と二人の時はよく泣く子だったから、この時もきっと泣きたかったのだろうが、周りの目があるから我慢したのだろう。
彼女は、私と二人の時にしかスターリーの話をしない。
「……シリウス様は優しいのですね。わたくし、スターリーとの思い出を認めてもらえたみたいでとても嬉しかったの」
その日の夜、フィルリナはそう言って静かに泣いた。
「ドリアナと二人になると、ドリアナはスターリーを馬鹿な男だったと蔑んで、わたくしとスターリーの生活を侮辱するのです。……森での生活は、とても平穏で楽しかったのに、幸せだったのに」
「フィルリナ、君が泣いた時、スターリーはどうしてあげていたの?」
フィルリナはまた驚いた様に、青銀の瞳をまん丸にさせる。涙の膜で、本当にガラス玉みたいだ。
「せ、背中を撫でてくれたり、抱っこしてくれました……」
「そう、優しい人だったんだね」
そう言って優しく背中を撫でると、フィルリナは顔を覆って泣き始めた。「……うんっ」と嗚咽の間に何度も頷く彼女が、とても愛おしくて、護ってあげたくなる。そのまま彼女を抱き締めると、縋り付くように私の胸元を掴みながら泣いていた。
父とも話して、フィルリナがある程度大きくなるまで、ドリアナを放置する事になった。
ドリアナは父と婚姻したと信じているが、フィルリナの助言でドリアナは常識を知らないから婚姻証明書を出さずに贅沢をさせておければ、ある程度隠せると言っていたから、ドリアナは公爵家の一員でも何でも無かった。
同時に、フィルリナもそうだった。ドリアナが断罪されれば幼いフィルリナは居場所を失う。……公爵家で働いてもらうことや孤児院にいれる事も考えたが、それは私が堪えられなかった。
フィルリナを公爵家で保護する為、私が学園に入る十五歳になる直前に断罪を決行する事になった。彼女は年齢を二歳詐称するように言われているので、私が十五歳の時は十二歳になっているはずだ。
フィルリナは公爵家での食事で年相応に成長をしていて、断罪が直前に控えた時には身体つきは女性のものになっていた。
フィルリナと話せば話すほど、愛しさが増す。次第にこれは恋だと自覚してからは、彼女を公爵家の信頼出来る家臣一族の養子として、婚約しようと考え始めた。
フィルリナは未来の事を話さないし、断罪が終われば私と他人になると思っている事は会話の節々に感じていたが、復讐に囚われている今は未来の事を考えられないだろう。自身がドリアナの娘と言うことを嫌悪しているので、私の為に公爵家を離れようとしているのは明白だった。
断罪が終われば、フィルリナの心は解放される。
フィルリナと、未来の事を共に話したい。
だから、ドリアナの断罪が終われば、フィルリナへの想いと、ここにいて欲しいことを伝えたかった。
ーーでも、彼女は酷い女だった。
目の前で血を吐かれ、心臓が止まる程の衝撃を受けていたのに、彼女は穏やかな笑顔を浮かべる。
泣いて嫌だと叫ぶのに、『学園に行けば全部忘れられる』なんて無責任な事を言う。
許さない、絶対、こんなこと。口に指を突っ込んで、胃のものを無理矢理吐かせる。苦しげにゴフゴフと咳き込んでいるが関係ない。常備している解毒剤を無理やり彼女の口に流し込む。
「……ゆるさない、ゆるさない……」
私を簡単に捨てるなんて、絶対に。
◇
五感がはっきりしなかった。
歩いていると頭では判断しているけれど、地面の感覚がない。ふわふわ、浮いている気がする。
『フィリー』
幼い頃に何度も呼ばれた愛称。優しい声。
人は声を一番に忘れていくと聞いたことがある。でも、その声を忘れられるはずがなかった。
『スターリー……』
近くで笑ってくれている気がするけれど、視界が朧気だ。温かいから抱き締められている気がする。でも、姿は何処にもないの。
『ごめんね、スターリー……、私をずっと護ってくれていた貴方を、護れなかった。死なせてしまった。……貴方の愛している人も私は憎んで復讐したの。貴方への裏切りよね』
ごめんなさい、私は貴方の死を止められなかった。未来を知っていたのに楽観視していた。少し考えれば、ドリアナにとって貴方は排除しなければならない存在だったのに。
『謝らないで。……僕が一番愛しているのは、君だよ』
『……え?』
『僕の、愛しの子。可愛くて、小さな僕のフィリー……。ドリアナが君を取り上げようとするから、僕は初めて彼女に反発した。……だから、殺されたんだよ』
愛しの子。初めて、スターリーが私を自分の子どもとして認めてくれた事が嬉しくて、涙が溢れていく。涙も形が無くて、熱が溢れていく感覚だった。
『君を憎む筈無いよ、……だからフィリー、君は幸せになって。誰よりも。いつもみたいに沢山笑って、泣いて』
だったら、私はスターリーと一緒にいる。遊ぼうよ、スターリー。私の幸せは、あの日々だったんだよ。
『本当に? ……フィリー、君の幸せは僕だけだった? 君の幸せを願っていたのは、僕だけだった?』
熱。温かさ。優しさ。
……ずっと、隣にいてくれた人は、スターリーだけじゃなかった。でも、その優しさは私のものではない。あれは同情だもの。彼は誰にでも優しいの。
学園に入ったら、彼は愛する人と結ばれるのよ。私とは違う誰かと、あの人は幸せなる。私の側に、あの人の、幸せはないの。スターリー、だから一緒にいてよ。
『逃げないで、フィリー。……ーー君は、生きて。たくさん、いきて』
声が、ほろほろ、崩れていく。
待って、スターリー。まだ話したいよ。
「……まって!」
手を伸ばそうとしたのに、身体が動かない。自分の声が、情けないくらい枯れていた事に驚く。先程までの輪郭のない世界がはっきりと形作られて、感覚のなかった身体は、酷く痛く重くて、重力を感じる。
止めなく溢れ出る熱は涙に変わって、喉の奥が嗚咽で引きつっている。
「……フィルリナ?」
私の額を撫でる手は酷く冷たかった。スターリーの声では無い。でも、いつも側にいてくれていた声だ。
「君はまた泣いているの? ……泣き虫だね」
頭をそのまま優しく撫でる手の感覚が、先程までの朧気な感覚と全く違って、ここが現実なのだと理解する。同時に、きっと先程のあの優しい世界は、夢なのだと。
私の願望の詰まった、優しくて残酷な夢。
だったら、いきてと言ってくれたあの人の言葉は、ーー私の願望だったということ?
「……ふふ、死ねなくて辛いのかな? 可哀想なフィルリナ。可哀想で、酷い女だ」
初めて聞く、優しくて不穏な言葉。いつもの様に優しい手なのに、仄暗さを感じて私は涙で歪んだ彼をゆっくりと見上げた。
ゆったりと微笑んで、灰色の瞳は前世で見た光の無いシリウス・ティアロスのようだった。彼はもう、ドリアナを断罪して、私からも性的被害を受けず、父であるサンロスも失っていないのに、どうして気を病んでいるの?
「シリウス様……?」
「私を置いていくなんて、絶対許さない。君は酷い、いつだって過去のスターリーしか見えていない、未来を見てくれない、……私と、生きてくれない」
シリウスは静かに、「無責任だ」と囁いた。
「私にしか涙を見せない。そうやって期待させる、私は君の特別だと思わせてくる。でも、本当は心の隙間にすら入らせてくれない。長い間家族として過ごして来たのに。……私をこんなにもがんじがらめにさせて、無責任に捨てる」
「す、すてる……?」
捨てられるのは、私では無いのか。私は罪人の娘。ここにいる理由も、……シリウスの側にいる理由も、無いのに。
「シリウス様……、貴方は私から解放されるんですよ? 罪人の娘を貴方が捨てて、これからは楽しく生きて下さい」
「だから、無責任だって言っている!」
シリウスは静かに怒りを滲ませる事はあっても、大声で怒鳴ることは無かった。だから、酷く驚いて、そして怖いとも思った。シリウスの手が寝ている私の両肩を掴んだ。……その手は、震えている。
「君が、私を幸せにしろ!」
その言葉の意味がとてもじゃないけど理解できなくて、「え?」と間抜けな声が落ちてしまった。
「君は責任取るべきだ! 無邪気な君が愛おしくて堪らない、きっと昔はありのままの天真爛漫な子だったのだろうと思うと切なさと可愛さが同時に沸き上がって胸が締め付けられて眠れなかった! 泣いている君を、ずっと護りたくて仕方が無かった……!」
無茶苦茶な意見の押し付けだ。シリウスはいつも理性的だったし、優しかった。ゲームでは病んでいたけれど、ゲームでも見たことがない彼の様子に、ーー胸がときめいた。
もしかして、私しか知らないシリウスなんじゃないかって。
何も答えずにぼうっとシリウスを眺めていたら、否定されたのだと勘違いしたのかシリウスの灰色の瞳が歪んでいく。あっ、と思った時には、涙が溢れていく。
「わ、私は、君が死にたいと願っても絶対に許さない、治癒魔法を極めて、君がどんな手で死のうとしても絶対に生き返らせてやるんだ……」
縋るように、涙に濡れた灰色の瞳が、私を見詰める。
「……君とじゃないと、幸せになれない……」
夢の中のスターリーの問い掛けを思い出した。私の幸せは、本当にスターリーだけだったのか。私の幸せを願っていたのは、スターリーだけだったのか。
……ああ、シリウスはいつの間にか私をこんなにも大切に思ってくれていたのね。
「おにいさま……」
ほやっ、とただ心のままに笑った表情は、教育された淑女の顔ではないし、どちらかと言うと情けないに違いなかった。
重い体を起き上がらせる。そのまま泣いている彼を抱き締めて、背中を撫でた。
「ふふ……お兄様も泣き虫なのね」
「……うるさい。君は本当に酷い女だ」
「どうして? 泣いているお兄様を慰めているのに?」
「こんな時だけお兄様と呼ぶな。……手が出しづらくなる」
はて? と首を傾げると、少し身体を離したシリウスが泣きながら恨みがましそうにこちらをギロリと睨んできた。だって、家族としての愛情なら、お兄様と呼ぶのが正しいのだと思ったのに。
「君は私と結婚するんだ」
「え、ええ? 私、貴族じゃないですよ?」
「私の幸せの為に貴族になるんだよ」
こんなに滅茶苦茶で大丈夫なのだろうか? もしかして、彼は既に病んでいる?
心配になっておろおろと瞳を揺らしていると、シリウスは可笑しそうに笑って、柔らかく口の端にキスをしてきた。
「ん、はっ!?」
「責任取って、私と一生生きるんだ。……一緒に、未来の話をしようよ」
たくさん、いきて。
夢の中の、スターリーの声。あれは私の願望だったのか、あの世で見守ってくれているスターリーの声だったのかは分からない。
どちらにしても、私はきっと。
「……うん、一緒に沢山生きて、シリウス様」