第16話ー②
「久米。もう本当に大丈夫か?」
タクシーのドアが開かれた。
心地よくクーラーの効いていた後部座席に、外の熱風が覆いかぶさる。
「はい。大丈夫です。」
「本当に反省しています。今日は本当にご迷惑おかけしました。」
久米は座席の奥から体をずらし、心配そうにこちらを見る縄手に深々と頭を下げた。
「いや・・・そうゆうのは・・・」
完全に心を閉ざしたような、空洞のように無心でいようとする状態で目を覚ました久米に、縄手は思いつくすべての言葉で、埋め尽くし解きほぐそうと試みた。
似たような感情の変化を以前に感じたことがあったが、いつの間にか久米の感情は平常に戻っていた。
しかし今回は、原因の根源である斎部の妊娠という現実は、揺るがないものであり、それは久米の気持ちを押しつぶしていることに変わりはなかった。
どんな言葉も残らず、通り過ぎてしまう久米の心境に、縄手はそれ以上伝える言葉が見つからなかった。
久米がいつもの笑顔に戻れるなら、いっそまた抱きしめて、「ホンマはお前の事も大好きなんや!」と言ってしまえば、救われるのではないかと思ってしまった。
しかし、またそれをしてしまうと、更なる混沌を生み、久米の人生を余計に狂わせてしまうこととなる。そんな予想は簡単に想像できた。
「じゃあ!また学校で!」
縄手は閉まるドア越しに、満面の笑顔で久米に手を振るのが精一杯だった。
自宅から少し離れた場所で降りた久米は、走り去るタクシーの窓に映る自分の姿を、ただ見送った。
山脈に沈みゆく日の光が、街を真っ赤に染め、世界の終わりを告げるように久米の前髪を揺らした。
交差点を曲がるタクシーが見えなくなるまで、その場所で見送っていた久米は、小さく息を吐き、家がある方向とは逆の方へゆっくりと歩き出した。
どこへ向かうわけではなかった。
何も感じることのないまま拡散していく自分を、この街の大気の流れに、ただ身を委ねていたかった。
遠くを走る電車がきしませるレール。
国道を横切る交差点の赤信号とメロディ。
コンビニから笑い声と共に出て来る学生たち。
街路樹から泣き止み飛び立つ蝉の羽ばたき。
幻想なのか夢なのか、生まれ育った街並みも彷徨う自我には、すべてが廃墟のように霞んでいた。
・・・・・どれほど歩いただろうか。
消えたい訳ではない、誰かに見つけてもらいたい訳でもない。
久米はただひたすら真っ直ぐに歩き続けていた。
ポツポツと付き始めた街灯。
立ち止まりそうになる自分を追い抜いていく子供たち。
背負ったバックパックの重みも感じない。
革靴に当たるつま先の痛さも感じない。
カラカラに乾いた喉の張り付きも感じない。
涙さえ滲んでこない。
もう、何もなかった。
・・・・・ふと
声が久米の耳にそよいだ・・・・
「ただいまーーー!」
「おかえりーーー!」
帰宅を告げる子供の声に、答える母親の声。
立ち止まり、ゆっくりそちらに視線を送る。
優しい明かりが灯る玄関で、帰宅してきたばかりの子供を笑顔で迎える母親の姿。
急いで避けるように視線を外し、再び歩き出した久米に、おいしそうな夕飯の匂いが届く。
不意に歯を食いしばる久米の目の前が、ぼやけ始めた。
頬を伝う一粒の涙。
何もないと思っていた感情が、次々とあふれ出してくる。
「うぅぅっぅぅ・・。」
手の甲を口の当て、声を殺した。
歩調が速くなる。
「ごめんなさい・・・お母さん・・。」
漏れた言葉に、久米は歩く方向を変えた。
――――――――――
宵闇が景色を隠し始めた時間に、静まり返った住宅地。
ポーチライトの光を頼りに、駐車場に停められた車を避け、自転車を立てかけた曲川勾太は、玄関のドアを開けた。
北越智から連絡を受けた教師が慌てて病室に来るまで、木之本に付き添っていた。
その為、学校に戻る頃には部活も終わり、下校途中の事情を知っていた戒外興文に、練習に参加できなかったことを、二言三言謝っただけだった。
「ただいま。」
テレビの音が響く中、夕飯の準備が進むキッチンに顔をだす。
「おかえり。」
豆腐をポリプロピレンのまな板の上で切り分ける母親が、ほんの一瞬だけ振り向きつぶやく。
ビール片手に、野球中継に突っ込みを入れながら観戦している父親の背中が、視界の隅に割り込んでくるが返事はなく、帰宅した自分の存在を認識してくれているかわからない。
曲川はいつもとなんら変わらない環境に目をそらし、影を消すように自室へ階段を上がった。
よくわからない男性アーティストのプレートがドアにかけられた妹の部屋を横切る。
見慣れた『外出中』の文字に、立ち止まることはない。
普通、日常、同じ、何も変わらない、
父は無類のプロ野球好き、自分が野球をやっているのも父の影響。
母は何年か前に適応障害を発症し、社会復帰に向けて治療を続けている。
妹は同じ高校の一年生で、今は塾に行っているはず。
普段通り。一緒。何も変わらない。
一週間のルーティンが繰り返されている・・・・はず・・・
何度も見た光景、何度も感じた雰囲気。
今日も玄関のドアを開け、親に挨拶をし、部屋で着替え、食事の前に入浴をすませる。
そして、なんの躊躇もなく、きっと父親の近くのソファーに座り、冷えた飲み物を飲みながら、野球観戦をするだろうと思っていた。
知らぬ間に恋心を抱くようになった木之本さんを追いかけ、学校を飛び出すまでは・・・
周楫子先生の顔が忘れられない。
憐れみ、怒り、悔しさ、悲しさ、妬みと僻み。
負の感情と思える感情を、ごちゃまぜにした表情で、こちらを敵視していた。
そして、何故か自分たちを排除しようとしていた。
愛する人との未来を奪おうとしていた。
それに反発するように、心の中心が叫び声をあげ、記憶にないはずのビジョンが広がったと思った矢先に、自分が自分でないように、言葉が溢れ、感情が溢れ、動作が溢れた。
「なんや・・・この気持ち・・・」
曲川はバッグを机の脇に置き、エアコンのスイッチを入れた。
音のない部屋に、野球中継の歓声が微かに届く。
「守らんと・・・・」
ベッドに溜息とともに座り、俯いたまま手のひらを眺めた。
「木之本さんも、こんな家族も・・・。」
立てた爪の跡が残る右の手のひら。
「もう絶対、悲しませたくないし、悲しみたくない・・・。」
意味もわからず胸の真ん中からの思いが言葉となり、腹底に溜まる。
「あいつら、止めに行かな!もう、奪わせん!」
「・・・・あかん!ちゃう!もう殺し合い奪い合うような時代やない。やけど・・・行かな。」
曲川は、心に浮かび上がる奈良県北部の地と、思いのすべてに身を委ねるようにつぶやいた。
――――――――――
久米香織は電気のついたキッチンの隅に立ったまま、スマホを耳に押し当てていた。
「もう私、どうしたらいいのかわからなくて。」
覆い被さる障害への不安に、今にも泣き出しそうな表情で、電話口の相手に頭を下げている。
「はい。また相談にお伺いさせてもらってもいいでしょうか?」
追いすがる言葉が微かに震える。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます。では、明日によろしくお願いいたします。」
思いもよらず、すぐに教授との面会時間を設定していただけたことに、胸を撫でおろし香織は気力を戻すように大きく息をはいた。
テーブルの上に散らかる手紙を、勢いのまま鷲掴みにし、破れたゆうパックに押し込んだ。
ふと、視線を感じた香織は、動きを止め視線をゆっくりとそちらへ移した。
そこには帰宅した香月がこちらを見つめ、立っていた。
慌ててパックを背中に隠しながら
「か、香月・・・おかえり。」
歪んだ笑顔で迎えた。
「お母さん・・・・。」
少し俯き気味の香月はつぶやくように続けた。
「俺・・・・・・・・・・治療するよ・・・。」
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