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第4話ー①

 宇陀の 高城に 鴫罠張る

 我が待つや 鴫は障らず

 いすくはし 鯨障り

 前妻が 肴乞はさば

 立ちそばの 実の

 無けくを 扱きしひえね

 後妻が 肴乞はさば

 柃 実の多けくを 許多ひゑね

(記9紀7)


 今はよ 今はよ ああしやを

 今だにも 吾子よ

(紀10)


 それは本当に青天の霹靂だった。小学校五年生、それまで何とも思っていなかった友達の着替える姿に、視線を奪われてしまった。


 普段通りにくだらない話をしながら、体育の準備をしていた。


 ずりおろされていくズボンの下から現れたがっちりした下半身。

 尻の曲線に張り付く下着と盛り上がった股間に心が固まった。


 それからすぐに、訳が分からないまま陰毛が生え、精通が始まり、いつの間にか性欲が芽生え、デバイスを手にする機会には卑猥な画像や動画を検索し、目にする度に好みと思える男性に惹かれていった。


 既に学校では多様性については知らされていた。だけど、幼くまだ世界の狭い自分にとって、マイノリティであることの恐怖はあまりにも強大過ぎ、【まとも】になろうと心はもがき続けた。


 だからゲイを否定し続けた。


 わざとTVに映るゲイタレントを罵倒した。

『俺は違う。こんな奴らとは違う。こんな気持ちの悪い生き物と一緒じゃない。』

 叫び続けた。


 その度に自分が傷ついていくこと分かっていたけれど、叫び続けていないと自分を取り囲む小さな世界では【まとも】だと思ってもらえないと怯えていた。



 教室で繰り返される多数決は最たるもので、いくら正論であったとしても、少数派は有無を言わさずに排除されてしまう。


 わかっている。


 与えられた時間の中で、物事を早く進めるためにはそれが一番手っ取り早い。

 どんな人間にも絶対平等に、一日二十四時間しか与えられない。

 いちいちマイノリティにかまっていたら、自分の時間が削られていく。

 それはマイノリティも同じで、特に意地を張ることでない限り、他にやりたい事に時間を費やしたい。


 だから口を閉ざした方が効率的だと思ってしまう。

 どうせ同じなら、多数派である【まとも】に属していた方が、マジョリティが主流である一般社会を生きるには【楽】だ。



 全く興味のないAV女優の話にも、校内の女子を評価する話にも、異性との恋愛の話にも乗った。

 乗るしかなかった。

 多数派でいるために。

 否定し続ける自分の姿が消え去るまで。




 中学で同じクラスだった木之本が自分に好意を持ってくれていたことは、その時に告げられていた。


 躊躇し続ける心が答えを返せないまま同じ高校に進学した。


 いつか自分が作り出してしまっている見えない壁がなくなるまで、恋人ごっこで過ごそうと考えていた。


 ところが高校入学と同時に現れた縄手先生の存在が、自分の心を瞬時に窮地に立たせた。


 体が震えた

 心が叫んだ

 世界が躍った


【まとも】ではいられないと思った。


 押し殺していた真の姿が、偽物の姿を体から排除しようと一気に浮上し始める。


 慌てた俺は恋人ごっこを中止し、木之本を恋人と決め、真摯に付き合うことにした。

 木之本が自分にとって大切で守るべき存在であることが、縄手の存在を希薄なものに変えられる、そう願った。



 無駄な策だった。



 木之本の求めに心が、体が、何度回数を重ねようが応えられない。

 それどころか、毎日顔を合わせる縄手の存在が呼吸を荒くさせ、いつもどこにいても頭の中を容易に占領する。


 唯一、野球に打ち込む時だけ、頭の隅に置くことができた。だから、朝練を組み、できるだけ野球に没頭できる環境を作り上げた。



 それも誰かのアウティングで無残にも砕け散ってしまった。



 まだ自分でも完全に認めていない裸の姿を晒して、少数派の日常を過ごさないといけなくなった。

 恐怖の最下層に突き落とされ、生きることを忘れようとしてしまった。


 でも、そんな姿を縄手先生は受け入れてくれた。


 もう、俺は突き進んで行くしかない。


 なにもかも、すべてを失くしても、たとえそれがこれまで俺を一心不乱に支えてくれていたものであっても、俺は受け止めてくれた縄手先生と生きていく。


 もう俺は決めた。

 もう嘘はつかない。

 自分に正直に真っ直ぐに生きていく。




 今日も縄手先生に会える。抱きしめられた力強さ、厚み、暖かさすべての感覚がまだはっきりと体に残っている。


 思うだけで勢いよく股間に血液が流れ集まってしまう。

 バッグを抱きかかえ、張り詰めた股間を隠した久米は、目の前に大きく開いた電車の扉からホームに降り立った。



 ――――――――――



 橿原神宮前西出口の朝の風景。

 見慣れたはずの人の流れ、時間の経つ速さ、街の匂いを含んだ空気、どれをとっても木之本を、まるで異空間に放り出された感覚にさせた。


 それは昨夜眠れなかったせいだけではない、何度も謝られるたびに、気付いていた久米の心を認めないといけない寂しさが胸を締め付けていた。

 だけど、できることならずっと一緒にいたい思いは、いまだにそんな胸の中心に居座り続ける。


 独占欲ではなく、ただ一緒にいる時間がどんなに刹那な刻だとしても、その瞬間は自分の事だけを愛していてくれていると思いたかった。


 もうすぐ真夏がやってくるのに、日の当たらない場所はなんて寒いんだろうと、木之本は震えながら電車が到着する度に、人の流れの中に久米を探し続けた。



 不意に人ごみの列から、ICOCAを改札機に押し当てる久米の姿が、突然強烈に視界に入ってきた。緊張から鼓動が早くなり、胸が押しつぶされそうになる。


「夏休み・・・・・楽しみにしててんけどなぁ・・・・。」


 木之本は溢れ出す未来への後悔をそのままに、これが最後になるかもしれない意地を握りしめて、久米に近づいた。



「おはよ!」

 少し驚いた顔の久米は、イヤフォンを外し立ち止まった。


「おはよう・・・・早いなぁ・・・」

 木之本が、朝練のために一時間と少し早めに登校する自分を待っていてくれた理由が、なんとなくわかった久米は、伏し目がちに微笑んだ。


「少しだけでも話しできる?最近、なかなか話せてないし・・・・・」

 トーンダウンしながらも、精一杯の笑顔で木之本は声をかけた。


「・・・・うん。わかった。」

 大きく吸った息をゆっくり吐きながら、久米は頷いた。



 ――――――――――



 早朝の新沢千塚古墳群公園は、愛犬の散歩をする人、ジョギングをする人、談話をする人と意外と賑わっており、空梅雨の青い空に木々の緑が映え、夏近い爽やかな雰囲気に包まれていた。


 久米と木之本は自然にできた距離を保ちながら、だから余計に言葉を交わせないまま、公園内にある1000PARK CAFE前の、雨に色褪せたベンチに辿り着いていた。


 話をしようと同意がありながらも、お互いに切り出す言葉が見つからず、何人ものマラソン人が目の前を行き過ぎるのをただ眺めていた。



 空梅雨とはいえ、独特の湿気を含んだ空気が二人を包む。頭上には太陽を遮る木々もなく、肌を焼くように光が突き刺さる。

 まるで自ら罰を与えるように、額を流れ落ちる汗も拭おうともせず、久米は動かなかった。


 手にしていたスマホのベルが鳴る。

 画面には野球部一年の北越智からメッセージが届いたアナウンスが表示されていた。

 もう朝練が始まる時刻になっている。久米は何も言わずにポケットにスマホをしまい込んだ。


「ごめん。もう練習始まってるなぁ。」

 その動作がきっかけとなり、木之本は両膝に肘を付き俯いた久米につぶやいた。

「せやな・・・。」

 地面を見つめたまま頷く。


「私はなぁ。」

 唾を飲み込み、深呼吸をした木之本は続けた。


「私は、香月のことが本当に大好きで。将来も考えてたんや。」

「ずっと前から。妄想やけどね。」


 自分の気持ちを言葉に変換することが、これほど辛いんだと実感すればするほど、声が震える。

 視界も言葉の数に比例してぼやけ始める。だけど、以前よりどこか落ち着いた自分も感じていた。


「今でも、香月の隣で一緒に過ごせる将来を思ってたりするんや。」

 手繰り寄せないと出てこない言葉をなんとか絞り出し、木之本は続けた。

 一筋の涙が頬を伝い落ちる。


「でも・・・・・本当は、香月は最初から私のこと好きやなかったんかなって・・・・・」

「ずっと一方通行な思いで、気付かずに今までいたんかなって・・・・・・」


「私が中学の時に告ってても、返事なかなか返してくれへんかったやんか。」


「高校も一緒になって、ずっと一緒やったから、そんな空気感で付き合ってくれたんかなって・・・・」


 流れ溢れ出ないようにと、頭上斜め上に流れる雲を追い続けていた涙は、気付かないうちに、乾いてしまっていた。


「私の事、香月はどう思っていたん?」


「私の渡したマスコット人形も、外したんや・・・・」


 北へとゆっくり形を変えながら流れる雲から目を外し、久米が見つめる地面にできた汗が落ちた跡に視線を移した。



「・・・・ごめん。」


 静かに顔を上げた久米は、目を一瞬合わせるがすぐに反らした。


「怒ってるとか、ちゃうから・・・・」

 そんな姿に木之本は頷いた。

「うん・・・でも、ホンマごめん。」

 それ以上の言葉が胸底に沈んだまま、口が閉じてしまう。


 木之本を更に傷付けてしまうに違いないとの思いと、自分自身が傷付いてしまう恐怖に竦んでしまっていた。


「お願い。教えて。私の事、どう思ってたん?」


 南風が木之本の髪を揺らす。久米のこめかみから汗が筋を作り、顎先から地面に落ちる。


「今でも・・・好きや。でも、その好きやなくて・・・・その・・・・でも一緒にいたいって気持ちは変わらん。」


「ん?何言ってんのかよぅーわからん。」


「ごめん。」

「ごめんやなくて、もっとちゃんとゆーてーや。」


 大きくため息をついた木之本は、再び俯いてしまった久米の横顔を見つめた。


「香月はそんなんちゃうかったやん‼」

「もっと【男らし】かったやんか‼」


 不意に困惑顔をした久米は顔を上げ、木之本に視線を合わせた。

「お願い、昔の香月に戻ってよ!」

「最近の香月は、ずっとふわふわしとる。」

「私の事、本当にどう思っていたん?このままやったら私、どうしたらええんか、全く分からんままなんやけど。」

「もっと【男らしかった】香月に戻ってや!ハッキリしてや!」



 浮き立ったような日々を過ごしている久米が、夢から早く目を覚ましてほしい一心だったため、強い口調になってしまった。


 後には引けない状況に導きたかった訳ではない。ただ久米の本心が全く見えないことに苛立ってしまった。



 あんなに抱き寄せあったのに、あんなにキスを繰り返したのに、全く分からなくなってしまっている。

 今まで過ごしていた日々が何もかも白昼夢だったような、自分一人でワルツを踊っていたような、重さを失くしていく過去にただただ耐えられなかった。



 久米の肩が大きく動いている、いつの間にか呼吸が荒くなった口が動く。


「何んも知らんくせに・・・・」


「【男らしく】させたのはお前らやないか。」


 膝に肘を付いたまま、顔をこちらに向ける久米の言葉の意味が全くわからず、

「わからんわ‼香月が何にも教えてくれんかったやんか!」

 視線をしっかりと合わせた。

「お前らってなんやねん!」


 はずみで胸底に止めていた言葉が漏れてしまった久米は、何度か大きく呼吸を繰り返し、唾をごくりと飲んだ。



「俺は、生まれつきのゲイや!ゲイっつーだけで女っぽいイメージをお前らが押し付けてくるやろ!やから、【男っぽく】すれば・・・・お前らが思う男を演じたら、ゲイやとバレんと思ったんや!俺をこうさせたのはお前らやんけ!」



 木之本は、考えもしなかった久米の言葉に首をゆっくり横に振りながら、過去の白昼夢から、独りワルツから自己を奪還したように目を大きく見開いた。

「はあ?わけわかん・・!ほな私と付き合ったのも、その【男らしさ】を演じるためやったん?私の気持ちを知りながら、それを利用したってことなんか?」


 不意に立ち上がり目の前にはだかる木之本が見せる自分を蔑んだ表情と距離から、久米は言ってしまった後悔にため息をつき、また俯いた。


 終わらせないと。


 そう、終わり。

 やっと・・・・終われる。


 木之本に恨まれても仕方ない。

 俺が悪いんだ。


 でも、完全に利用したわけじゃない。

 木之本のことは好きだ。

 一緒にいて楽しいし、安心感もある。

 実際、木之本との将来を考えたこともある。

 頑張れば子供だってできていたかも知れない。

 一生楽しく過ごせていたのかもしれない。

 だけど

 だけど


 もっと好きな人ができてしまった。


 演じている自分が【楽】じゃなくなってしまった。

 本当の自分じゃないと向き合えない人ができてしまった。


 だから・・・・・・・




「そうや。木之本のこと利用したんや。」

 その瞬間、左頬に痛みが走った。



 頬を打った手を投げ出したまま、木之本は無言で睨みつけていた。


「・・・・ええで。もっと殴ってかまへん。」


 ベンチに座ったまま、真実の距離で木之本を見上げる。



 睨んだ視線をフッと久米から外し、斜め上に上げながら、目を閉じ大きく深呼吸した。


 真夏前の澄み切った空を、ツバメが自由に翼を広げて泳ぐ。


「・・・・そこまでハッキリ言われたら、逆に気持ちええわ。」


 息を大きく吐きながら、木之本は力を抜いた。


「最初っから、言ってくれてたらよかったのに。私、香月ことなんでも知ってるつもりやった。いっちゃん肝心なとこ、わかってへんかったわ・・・」


「・・・ホンマ・・ごめん。」

「もう、謝らんでええから。」

「これ以上謝られたら私が情けなくなるやん・・・・」

 木之本の脱力した様子に、また俯いてしまった久米は、言葉にできない謝罪と感謝を繰り返していた。



 薄々わかっていたような気がする。

 それを認めてしまうと、私の感情の行き場がなくなってしまう。

 叶わない思いほど辛いものはない。


 だから、【ごっこ】でもよかった。

 だけど、私を無視した香月の縄手に対する、あからさまな行為は悔しかった。

 あんなに楽しい時間を過ごせたのに、それをなかったかのようにした香月の言動は悲痛な限りだった。


『めちゃめちゃ傷付いたけど、もう許そう。認めたくなかった私のせいでもあるし。』


 そう思えるくらい、まだ久米のことが好きな自分がいた。だから、もし未来に過去に戻れるなら今はこの距離でもいい。



 緊張していた帯を解くように木之本はつぶやいた、

「でも、ちょいむかつくのは、私より葛本の方が香月のことをよー知ってたってことかな。」


 不思議顔で目をあげた久米は、

「え?なんで?」

 瞬きを何度かした。

「んー、なんか香月のお父さんのことも知っとったで。」

「あーまあ、幼馴染やし。でも、みんな知ってるやろ。交通事故で死んで・・・・」

 その言葉を遮る様に

「ちゃうちゃう、香月のお父さん、ゲイの人と駆け落ちしたって。やから、香月もそのゲイが遺伝してるんやって。」


「はぁ?」


 一瞬にして驚愕の表情に、眉間を激しく歪ませた久米は立ち上がり木之本を凝視した。


「なんやねんそれ‼おやじは俺が五歳の時に、事故で死んでんや‼」


 太陽に焼かれ、黒く日焼けした顔が赤く染まる。まるで鋳鉄でできた鬼の仮面をかぶったような久米の気迫に、恐怖を感じた木之本は後ずさりした。

「だ・・・だって、葛本が・・・・」

「おやじがゲイって!んな訳ないーやろーが‼」


 最も言ってはいけないことを、口に出してしまったことに気が付くと同時に、葛本が去り際に言った『あいつに直に確かめてみーそのままやったら今日も寝れへんやろ‼』セリフに、嵌められてしまった後悔の土用波で、何も考えられなくなってしまった。



「俺のことはいくらでも言ってもくれてもええわ!おやじは関係ないやろうがよ‼」

 一歩足を踏みだし木之本に近づく。


「お前もそれを信じたんか‼」

 今にも押しつぶしそうな勢いで、詰め寄る久米に、

「私は信じてへんって!あいつが言ってるだけや・・・・」


 木之本は大きく首を横に振りながら、また後ずさりした。

「あいつ‼もーぉ許さん‼」

「お前も!調子にのって言ってんちゃうわ‼」


 今まで発したことのない咆哮を木之本に浴びせた久米は、校舎の方角を激しく睨みつけ、怒りの波動をまき散らしながら走り出した。


「香月ー‼」

 届かない声とわかっていても、木之本は竦んでしまった体のまま呼び続けた。



 ――――――――――



 教室を震わす机どうしがぶつかり合う轟音、校舎を劈く生徒たちの悲鳴、朝の大気を突き破る久米と葛本の怒号、けたたましく鳴り響く非常ベル。


 職員室から緊急に駆け出す教員たち。極限に張り詰めた空気が、大和まほろば高校を圧倒的に占拠した。



「テッメー‼嘘ばっかり付いてんちゃうぞーぉ‼」

 お互いの胸ぐらを掴み合ったまま、久米の右こぶしが葛本の左頬をえぐり、葛本の右こぶしが久米の左こめかみに突き刺さる。その度に鈍い音が不規則に響き渡る。


「うるっせーぇ‼ホンマの事、言って何が悪いんや‼親子そろっておかま野郎が‼」

「だまれ‼」

 壁際に葛本を押し付け久米が叫ぶ


「おっ前、ホンマに可哀そうな奴やなぁー。」

 目を細め嘲笑する葛本が壁を後ろ足で力いっぱい蹴り、自分の体ごと久米を押し倒した。お互いのシャツのボタンが飛び散り、机といすがはじけ金属音がさく裂する。


 それでもお互いを鷲掴みにしたまま、下敷きになった久米は葛本の眼がしらに前頭部を叩きつける。


「オヤジはゲイやない!」

 顔を反らしながら、衝撃を逃した葛本は

「自分の家族の事、お前は知らなさすぎるんや!」

 久米の頬に拳を入れる。


「そんなことお前には関係ないやろーが!」

 口の中が切れ、血の味を滲ませながら下半身で馬乗りになっている葛本をはね飛ばす。


「お前も木之本に、親と同じようなことをしようとしてたやろーが‼」


 床に転がり、荒い息のまま体勢を整え立ち上がりながら久米との距離を詰める。

「訳わかんことゆーな!」

 立ち上がった葛本に久米は猛タックルをかけるが、踏ん張りながら耐える。


「だからお前はキモイんや!不幸のどん底にいるような顔しながら、なーんにもわかっとらんねん!」

 胴にしがみつく久米のみぞおちに、葛本は力いっぱい膝蹴りを入れた。


 崩れるようにその場に腹を押さえてうずくまる久米の体に容赦なくさらに蹴りを入れていく。


「お前はなあー望まれて産まれて来た子じゃないんや!社会に強要されて作られた子なんや!」

 久米の抱えた腹にさらに蹴りが入る。


「お前の父親はまだ生きとるわ!どっかでおかま同士でお手て繋いで生きとるわ!そんな事も知らんのんか!」


 息ができない、苦しすぎる、無性に悔しくて涙が止まらない。


『なんで俺ばかりこんな辛い思いをしないといけないんだ…』



 本来の姿を受けいれたら、自由に生きられると思っていたのに、毎日が実際に雁字搦めに訪れる。

 突然現れる時間の隙間の深いクレパスに足を取られては、這い上がるための限界に自我が悲鳴を上げる。


『もう無理だ・・・・・』


『だめだ・・・・・助けてよ先生!先生助けて‼』


「うわーーーーーーーーーー‼」


 肩で大きく息をする葛本を睨みつけ立ち上がった久米は、鳴り響く非常ベルの中から、慟哭と奮闘の狭間で、血の味をかみしめながら鳴き叫んだ。

「でたらめばっか言うなぁあああああ‼」


 それでも振り絞った思いは、みぞおちの痛みで不規則になってしまった呼吸に喝を入れ、涙で傷だらけになった顔のまま、葛本に飛びかかる。


 そんな限界の思いをぶつける久米を睨みかえしながら、足のひらで足蹴にし、

「おとろしいんじゃ!ボケが‼」

 素早くヘッドロックに持ち込む。



 久米が葛本の胴と腿を抱きかかえ背面へ投げようとした瞬間、開け放たれた教室のドアから数名の教員が教室になだれ込んだ。


「お前らええ加減にせーや‼」

「他の生徒が、えらい迷惑しとるやないか‼」

 昭和臭の漂う屈強な教員たちに取り貌まれ、二人の体が引っぺがされた。葛本の最後の蹴りが久米の太腿を掠る。


「何しとんじゃ‼ええ加減にせえ‼」

 背中から羽交い絞めにされた葛本が、図太い声と共に弧を描き離される。


「おやじのことを謝れや‼」

 興奮状態にある久米は、二人の体格のいい教員に両脇を押さえられながらも、振り解こうと激しく抵抗し叫ぶ。

 現役野球部の抗いは無限に広がり、更に教員の数が増える。


「自習室と相談室に連れて行け‼」

 遅れてきた教頭が怒鳴る。


 久米と葛本は、それぞれ離れた扉から引きずり出されるように、教室から運び出された。




「先ほどの非常ベルは誤報です。繰り返します。先ほどの非常ベルは誤報です。生徒の皆さんは速やかに教室に戻ってください。」

 まだ戦々恐々とした余韻が満ちる校舎にアナウンスがこだましていた。





 その場にいた生徒から聞き取りを終えた教員が自習室の前で、縄手の到着を待っていた。


「いやースマホ対策していてよかったですねー。これ撮られてたらヤバいですよ。」

「完全じゃないでしょ。誰かひょっとして撮ってるかもしないですよ・・・」

「昇降口でスマホとか回収してるんで、大丈夫やと思うんですけどねぇー。」

 小さくため息をつく。



「でも本当に大人しくしておいて欲しいですよ。マジで・・・・久米は自覚無いんでしょうね、ネットで有名になってること。」

 自習室の扉を見つめ首を横に振る。

「いやホントに。電話対応、マジ勘弁っすわ。」

 てのひらを前に出し左右に振る。


「こんな日に限って生指、通学路指導で全員校外だもんなー。」

 廊下の窓から外を見る。



「てか、クラス担任は何してるんだよ。」

「あーあの先生もよくわからんよなあー。自分のクラスの事なのに、生徒指導部にお任せしますって・・・・」

「冷たいっていうか、固いっていうか・・・・」

「マジで近寄りがたいよ。」


 廊下の壁にもたれながら腕を組みため息をついたひとりが「お‼来たかも。」と壁から身を離し廊下の果てを見た。



 小走りに近づいた縄手は

「すいません、久米が迷惑かけました。」

 大きく深呼吸をし、深く頭を下げた。


 事の成り行きと今後の対応を教師から引き継いだ縄手は、自習室の扉を開けた。





 がらんとした七坪ほどの無機質な部屋の中央に置かれた長机に、久米はうなだれたまま座っていた。


 引き裂かれたシャツはそのままに、濡れタオルで顔を冷やし、宙を見詰めていた。


 縄手は静かに近づき、対面のパイプ椅子を引いた。


 開け放った窓から初夏の緩い風が吹き込み、カーテンを微かに揺らす。

 ツバメの鳴き声が遠くに聞こえていた。


 少し咳払いをした縄手は両肘をテーブルに乗せ、口を開いた。

「話は聞いたわ。正直、葛本が言った内容は許せるもんじゃないなぁ。久米が怒る気持ちはわかるわ。」

 そう言いながらため息をつく。


 組んだ手のひらの人差し指を動かしながら「でも、大丈夫か?」と上目遣いで見ている久米を見つめた。


「先生・・・・本当に、ごめんなさい。俺、どうかしてました・・・・。」


 縄手を直視できない久米は、こんな衝動的でボロボロの姿を晒してしまっている状況が恥ずかしく思えていた。

 だから小声で力なくつぶやいた。


「うんーでもまあ・・親のこと悪く言われたり、差別発言を繰り返されたら怒ってしまうのはわかるけどなぁ。」

 コクっと一度頷く久米は、小さくため息をついた。


「でも、暴力に訴えるのは間違っているよな。もう冷静に話し合ってもええ歳やしな。」

 そう言いながら、また大きくため息をついた。


「・・・はい、ごめんなさい・・・・」

 肩を落とした縄手の姿を上目づかいで感じてしまうと、なんで自分はこんな行動に出てしまったのか、縄手先生に呆れられ、嫌われてしまうのではないかとの思いが重なって行った。


「ホンマに久米のことが心配やで。成績、過去一やったのに・・・・」

 力を抜いた縄手の言葉に頷く。


「最近、なんか暴走してる感あるしなぁ。」

「・・・先生の期待を裏切るようなことしてしまって・・・・ごめんなさい。

 」

 更に俯いてしまう久米に

「メンタルも鍛えやなな!」

 前向きな気持ちを伝えるように、笑顔を見せた。


「・・・自分の気持ちに正直に生きようと決めたとたん、感情のコントロールが上手にできなくなってしまって・・・わかっているんです。なんでか止められんくなって・・・・」


「そうかぁ・・・まぁ、それでも暴力はなぁー。正直、傷害罪や暴行罪に当たる可能性もあるからなぁー。葛本もそうやけど、何と言っても久米の場合、野球部の主将だからなぁ。」


 それまでパイプ椅子の深く座り、力なく床を見つめていた久米の表情が一気に変わり、身を乗り出し、縄手を焦りとビクつく視線で見つめた。頬に当てた濡れタオルが床に落ちる。


「せや・・・野球部・・・あぁぁ・・・・やってもーた・・・・ヤバい出場停止とかならないっスよね!先生、俺どうしたらいいスか?謝るし、めっちゃ反省してる!」


 夏大まであと少しの期間しかないにも関わらず、野球がすっかり抜け落ちてしまっていたことに気が付いた久米は、両手で頭を抱え込み机に伏せてしまった。

「ヤバい・・・ヤバい・・・・」


 焦りで膝を揺すり、頭が小刻みに震える久米に、

「落ち着け久米!大丈夫やから!」

 縄手は両手を伸ばし、頭を抱え込んだ手の甲に触れた。

「今、監督が高野連に連絡してるけど、まあ対応も早いし厳重注意で終わると思うで。だから落ち着け。」

「ガチっスか!」

 縄手の言葉に動きを止めた久米は顔を上げ

「とは言え、二人には何らかの罰則はあるやろうけど。」


「はい!それはわかっています!」

「よかった」と大きくため息をついた後、少し安心し力を抜いて座りなおしながら、床に落ちたタオルを拾い上げ机に置いた。

「俺と約束やで!もう絶対に暴力は振るわんって。」

「はい!わかりました!絶対に暴力は振るわないっス。」


「指切りしよう」縄手が出した小指に久米は小指を絡ませる。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲まーす。指切った。」

 子供のようなノリで、指切りをしたわけじゃないけど、久米は直に触れた縄手の小指から伝わった体温に、【絶対】を誓い指を離した。


「約束したで!まあ、自分の気持ちに正直に生きるって言っても、ルールを破って、やりたい放題ってわけやないからな。」


 久米を見つめ大きく頷いた縄手は、椅子の背もたれに体重を乗せ、腕を組み天井を見上げ息を吐きながら、口を歪めた。

「とは言え、感情なんて経験詰まないと、コントロールできんからなぁ。」



 首の凝りを取るように、何度か左右に頭を傾け、

「まあ、次、コントロールが効かなくなりそうになったら、速攻俺ンとこに来いよ。なんでも吐き出してええからさ。」

 視線を天井から下ろし、久米に合わせた。


「おい‼マジで大丈夫か!まあまあ腫れとるで‼」

 タオルが外れた左頬の晴れ具合に気付き驚いた縄手は、身を乗り出し久米に顔を覗き込んだ。


 瞬間に距離を詰められた久米は、目と鼻の先にある縄手の表情に目と目が合い、瞬時に恥ずかしくなってしまい、ゆっくり目をそらした。

「あんま・・・・見ないでください。」


 久米は外した視線の角度のまま、

「でも俺、もう子供やないんで、そんな時に先生に会ったら、逆に制御効かなくなってしまうかもっスよ。」

 瞳を閉じて俯いた。



 そんな久米の表情にハッとした縄手の脳裏には、教室前の廊下で『俺は・・・・・・・・・・・・俺は本当に縄手先生のことが好きなんです。本当にめっちゃ好きなんです!だめっすか・・・・。』叫んだ場面が映し出された。


 本気の眼差しと本気の気迫が蘇る。

 そこにかぶるように『その気が一切ないなら、無いとハッキリ伝えないと駄目だろ!なに穏便に済ませようと思ってんだよ。人は生きてる限り傷はついていくんだよ!』と背を向けた斎部の姿が浮かび上がる。



 小さく唸りながら縄手は大きく溜息をはいた。

「あのーっさ。久米・・・・・」

 少し俯き、表情を整え椅子に座りなおした。


「久米はさ、俺のことが好きやねんな。その・・・・それは恋愛対象としてなんか?」

 真剣な面持ちの縄手に視線を合わせた久米は、「はい。」と大きく頷いた。


「そうか・・・・」

 唾を飲み込むように喉を動かし、少し咳払いをした縄手は口を開いた。



「もうじき、俺は結婚するんや。好きな人がおって、婚約者で、籍を入れる約束をしてる。やから、本当に申し訳ない。久米の気持ちには応えられへん。ごめん。」

 両手を膝に置き、頭を机に付く距離まで下げる。



『え?え?え?え?結婚?好きな人がいる?婚約者?』



 理解することを拒む思考回路は、聞き間違いと錯覚させるように働く。

 それでも、目の前で机に頭を擦りつけながら「ごめん」と自分を拒否する縄手の姿は消えない。


『俺は?俺はどうなる?これから俺は・・・・』


 同じ気持ちだと思い、二人で過ごせるずっと未来まで描いていた。


『俺のことが好きなんだって?俺も久米のことが好きやで!マジで』下駄箱の前で抱きしめてくれた、あれは嘘だったのか。


 テスト中に笑顔で小さくうなずき、「がんばれ!」と声にせず口を大きく動かし、親指を立ててくれた。


 校庭で頭を撫でて「ご褒美てか!まあーめっちゃ上がったらな!」と応援してくれた。


 誰もいなくなった校舎で告げられた『ホントにかわいい奴やで!お前は!このままチューしてやりたいわ!はっはっはっ‼』

 ・・・・・・・・・・




 信じていた自分が、波にさらわれる砂の城のように崩れていくのがわかる。



『なぁーーんだぁ・・・・そうだったんだ・・・・・・』



 一瞬で散らばった未来のかけらの中で、呆然と立ち尽くしたまま孤独に堕ちた。




「おめでとうございます!」

 笑顔で久米は伝えた。


 ―息が整わなくなり始めるー


「え?ちょっと先生。本気やと思っていたんですか?」

 頭を上げた縄手に更に口角を上げた笑顔を見せる。


 ―目が何かに覆われたように視界が白くぼやけ始めるー


「冗談に決まってるやないですか‼ハハハ」



 久米の笑顔とそんな言葉を聞いて、やっぱり心配することじゃなかったと胸をなでおろした縄手は笑った。


「あーそっか・・冗談か。いや、てっきり久米が真剣やないかと思ってたわ。やっぱり冗談か!ハハハ」


 ―耳に分厚い膜が張ったかの様に、届く縄手の声がこもり始めるー


 うまく聞き取れない。


「え?真剣ってヤバいっスよ!それ!ハハハ」


 ―取り囲む世界がゆっくり揺れ始め、体がフワフワした空間に放り出されたようになるー


「やんなー!びっくりしたわハハハ」

 姿勢を崩した縄手は笑顔で手を叩く。


 ―――――遠くから誰かの鳴き声が聞こえる。子供?誰だろう?


 〖もう終わりや。俺、生きる意味ないな〗


 鳴き声に交じり、いつの間にか頭上斜め上から声がする。


 〖もう楽になろうぜ、こんな嘘ばかりの世界にいても、しょーがねぇーじゃん〗


 近づいた声が耳元に強く響く。



「せや!明日、野球部の練習前に朝練一緒にしょーや!思いっきり走ろう!」

 縄手が、笑顔のまま見つめる久米にガッツポーズを見せる。



 〖終わろう。〗



「汗かくのってホンマに最高やなぁ!特に夏の朝は気持ちええしさ!」

「まあ、久米も反省もしたってことで、そう伝えておくわ。」


 パチンと顔の前で手を打ち

「オッケー生徒指導終了や!じゃあーまあ腫れとるし、教室に戻る前に、保健室寄ってきや。」


 大きく伸びをした縄手は腰を浮かし立ち上がった。久米も続いて立ち上がり、深く頭を下げた。


「ホンマにまあまあ、腫れてんなぁ!」

 笑って左頬を指さす。


 はにかんだ笑顔で少し頷いた久米は、椅子を机に押し込み歩き出した。



 ツバメが一羽校庭を横切った。



「おい‼そっちは出口やない‼」

 スローモーションのように縄手には見えていた。

 開け放っていた窓から、


 久米は飛び降りた。


【トゥルーカラーズ=僕らの家族スタイル】オリジナルイメージソングアルバム

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アーティスト名に【HIDEHIKO HANADA】入力検索で、表示されます。

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