第9話ー①
登場人物(※身体的性で表記)
・久米香月くめ かずき【17・男】・・・・大和まほろば高校3年2組・野球部主将
・縄手章畝なわて あきや【30・男】・・・久米香月のクラス副担任
・斎部優耳いんべ ゆさと【40・女】・・縄手章畝の婚約者
・木之本沢奈きのもと さわな【17・女】・久米香月の彼女
・葛本定茂くずもと さだしげ【17・男】・久米香月の幼馴染で野球部
・山本水癒やまもと みゆ【16・女】・野球部マネージャー
・戒外興文かいげ おきふみ【16・男】野球部2年生
・曲川勾太まがりかわ こうた【18・男】野球部3年生
・久米香織くめ かおり【47・女】・・・・久米香月の母
・葛本義乃くずもと よしの【48・女】・・葛本定茂の母
・小槻スガルおうづく すがる【31・女】・・・・・・・・斎部優耳と同じ社内チーム
・雲梯曽我うなて そうが【25・男】・・・・・・・・・斎部優耳と同じ社内チーム
・北越智峯丸きたおち みねまる【15・男】・・・・・・・野球部1年生
・宇治頼径うじ よりみち【24・男】・・・・・・・・・・北越智のパートナー
・新口忠にのくち ただし【49・男】・・・・・・・・・・久米香月の父親
・ディアナ・カヴァース【年齢不詳・DQ】・・・・・・・・新口忠のパートナー
十八・四四m先から放たれる白球に、戒外興文【かいげ おきふみ】(十六)は、くり返しキャッチャーミットの感覚を確かめていた。
合わない、どうしてもズレてしまう。
普段からバッテリーを組んでいる、曲川先輩の投球とは全く何かが違い、北越智が投げる変化球に、グラブを閉じるタイミングが合わない。
カーブはまだしも、手前で急激に曲がるスライダーには、親指を突き指してしまいそうになる。
さらに球速が上がれば、数球受けるだけで、左手の痺れがひどくなり、感覚がなくなる。
久米先輩との対戦時、北越智が見せた驚愕の変貌と、ミットごと弾き飛ばされそうになったあのピッチング。
全くコースが見えなかった。瞬間移動だと表現しても過言ではなかった。そして、心身すべてに受けた衝撃。
野球人生の中で、初めて体験した恐怖は未だに胸のどこかに住み続けている。
回りの人たちの歓声と興奮の中、ひとり取り残され、冷静を装いつつも、息ができないままでいた。
いや、自分だけじゃなかったはず、バットを構えたまま固まり、暫く動けずにいた久米先輩も同じだったに違いない。
このままでは、試合中にピッチャーが受けるプレッシャーを和らげる立場であるはずのキャッチャーが、その当人から重圧を受けることになりかねない。
暑い・・・・
自分の不甲斐なさに募る苛立ちは、全く沈む気配のない真夏の太陽に敵意を向けてしまう。
帽子の上にヘルメットをかぶっていても汗が伝わり落ち、顎のクッションがズレる。
戒外はヘルメットを外して、北越智に話しかける曲川勾太【まがりかわ こうた】(十八)にため息交じりの視線を投げた。
伝い落ちる汗を肘で拭い、踏ん切りをつけるように立ち上がった戒外に二人が近づいて来た。
「先輩、本当にごめんなさい。自分の癖が強すぎて・・・・本当にすいません。」
北越智は軽く頭を下げ、汗で濡れ額に張り付いた前髪をかき上げた。
「せや。北オッチーはえげつないからなぁーまあ、気にすんなや。合わんもんは合わんねん。明日は俺が一人で完封したるって!」
戒外の左肩に曲川は拳を軽く当てた。
ミットを右脇で挟むように外し、左手のひらを軽く揉む。
痺れがひどい。親指の付け根の違和感が激しい。
「今は俺しか、キャッチャーできる奴おらんし。北越智っちゃんが投げることになっても、何とか頑張りまっすわ!」
視線を二人に合わせないように泳がせながら、痺れる左手の親指を立てて見せた。
勉強も野球も卒なくこなしてきた。一番ではなく二番か三番が自分にとって一番心地いい場所だった。矢面に立つこともなく、劣等感に襲われることもなく、そこに存在し続けることが出来る位置。
承認欲求や自己顕示欲もそこそこ満たされる。
だけど、そこそこで居続けることが、どれほど大変なことなのか、誰が知っているだろうか。
どんな人間にも平等に与えられる二十四時間。その絶対的な枠の中で、自分に関係する共同体における立ち位置を読みながら、力の入れどころの調整を取らないといけない。
高校生として押し付けられる課題は、容赦なくタイムリミットを数字で見せつける。
可愛いと思う子がいても、恋愛なんてする暇がない。まして誰かさんのように、自分のセクシャリティーが何なのか、考える余裕などあるわけがない。
今を生きる以外に割り当てる時間なんてない。
なのに、明日はきっと自分に注目が集まり、そこそこでいられなくなる。
同じキャッチャーであり、今までチームを盛り上げ、存在感で満ち溢れていた葛本先輩がいない。
かっこ悪い姿を晒したくない。
そこそこであるために、越えないといけない余計に増えた課題が目の前にある。
「ごめん!調整につきあってもらって。終わりますっわ。」
戒外は軽く頭を下げた。
「せや!今日は早よ帰って寝よや!」
雰囲気を盛り上げようと、笑顔を見せる曲川は落ち込む肩に手をかけた。
向かう部室の前で、縄手先生と久米先輩、木之本先輩に山本さんが、手に持ったノートを広げ、話し合っている姿が目に入る。
久米先輩が見せている、満面の笑顔にムカつきを覚える。
『なんでそんな余裕があるんや?』視線が鋭くなる前に目を一度閉じる。
『あんたがごちゃごちゃやってる間だって、こっちは寝る時間削って、休まずにずっと練習しに来てたんや。』
久米がノートから目を外し、グラウンドを指さしながら縄手に何かを伝えている。
『なんやねん。いちゃいちゃしやがって。』
寄り添うように並んで立つ二人の姿に、さらに口元が歪む。
久米先輩がゲイであることを、結果的にアウティングするきっかけを作ってしまったのは、自分の「あの先輩、真面目過ぎて着いて行けん時ありますっわ。」の一言から始まった愚痴の吐露合戦だった。
その後の騒動からの開き直ったような、まるで自分中心に物語が進んでいるような勝手すぎる行動。ゲイであることなんかどうでもよくて、人として納得いかないことばかりだった。
かといって、試合には勝ちたい。一回戦負けは嫌だ。悔しいけれど久米先輩は戦力として絶対的に必要なのは理解できている。
でも、そこそこでいい。甲子園なんか、到底行けないのは客観的に幼稚園児が見てもわかる。
それに受験だってある。そこそこの大学に入学して、そこそこの会社に就職して、そこそこの女と結婚して、そこそこの家族を持って、そこそこの人生を送る。
それがいかに大変か。
あんたにはわからんやろ。
あーーーー左手痛い・・・・。
久米と縄手の背中に投げていた視線を地面に落とした。
「戒外先輩!ちょっとお時間いいですか?」
肩を落とすように、背中を丸めて歩く姿に、山本が駆け寄った。
「あ・・うん。」
顔を上げたその先に、なんの濁りもない瞳がある。
戒外は衝動的に頷いた。
居残り組に、明日の【さとやくスタジアム】での集合場所と時間を再度伝え、解散となった。
木之本は山本と打合せをしたいからと、先に二人で下校していってしまった。
夏の日の入りは、群青色の絵の具を水に流したような空が広がり、水底から一等星の瞬きが揺れる。心地いい南風が肌を撫で、カナカナと鳴く蜩の声を運んでくる。
久米は正面玄関の壁にもたれながら、スマホの画面を眺めていた。
明日も快晴。予報気温も二十八度と、それなりに夏日の嫌味さを想像してしまう。
少し疲れたと息を吐き、誰もいなくなった夜の校舎を照らす外灯に目を向けた。
スマホの画面にメッセージの受信を知らせるコールが鳴った。
ネットで話題になってから、誰かがLINEのアドレスを流したのか、最近頻繁に見知らぬ人からのメッセージが届く。応援メッセージや鼓舞するメッセージなど嬉しいものもあるが、人格を否定するメッセージや、卑猥な誘い、破廉恥極まりない画像を含めたメッセージなど不快なものまで届くようになってしまった。
最初は嫌味なメッセージに反論していたが、腹立たしさにキリがなく、知らない人のアカウントは、すべてブロックするようになった。
『秘密厳守で画像交換しましょう。』の文字と共に、いきり立ったペニスだけが写った画像が送りつけられていた。
「でた。」久米は大きく溜息をつき、ブロックボタンをタップした。
「一方的に送って来て、なにが秘密厳守やねん。」
つぶやく横顔に、
「おっつ!久米。」
職員用の下駄箱から靴を取り出しながら、縄手が声をかけた。
救われたように微笑んだ眼差しで、久米は振り返った。
「先生、一緒に帰ろう。」
虫たちの歌が、うるさいくらいに共鳴する【新沢千塚古墳群公園】の駐車場で北越智峯丸は宇治頼径からヘルメットを受け取った。
「ええなぁー今日はバイクや。」
ワクワクした視線で見つめる。
「夜風切って走るってのも、ええやろ。」
「こんなん、持ってたんや。鉄の馬やな。」
スポーツタイプのバイクのシートに手を当てる。
「移動しやすいし、最近買った。」
「ホンマ、金持ちやなー。」
平然と言い放つ姿に、眉を広げる。
「俺やなくて、家が持っとるんや。」
「はいはい。昔っから金持ち具合は変わらんよなー。」
「そんなん、ええやん。千年ぶりに巡り合えたし、ここで楽しもや!」
「間違いない!次はどうなるかわからんしな。前も、その前も、ずっとボロボロやったし。」
峯丸はお道化て切腹の身振りをし、苦しむ真似をした。
そんな姿に手を叩き笑いながら、
「明日の試合、応援に行くで!」
頼径は「何か飲もう」と自販機を指さした。
「野球っておもろいなぁ。ホンマにはまるわぁー。馬に乗ってする打毬もおもろかったけど、これはこれでエエもんや。」
ゆっくりと自販機に歩き出した峯丸の背中を、頼径がそっと抱きしめる。
「久しぶりに、峯くんが舞台で舞ってる姿見たいわぁー。」
「前とは舞台の種類がちゃうけどな。」
「でも、明日は投げへんと思うで。三年生に花持たせてあげたいし。まあ、勝つけど。」
抱きしめられたまま、振り返り頼径に唇を重ねた。
「そういや、前、久米くん見てたな。」
頼径はいたずらっぽく笑う。
「お!よっちゃんも気付いてたんや。」
「思いっきり見とったなぁ。」
「今もどっかで見てたり。」
峯丸は笑いながら、誰もいない駐車場の真ん中で振り返り、両腕で頼径の頭を包み込み、さらに舌を絡ませた。
「あれぐらいで、丁度ええ刺激になってんちゃうか。」
唇を離した峯丸は肩に顔を寄せ、Tシャツの匂いを嗅いだ。
「ホンマかいな。久米くんシコっとったで。」
笑いをこらえるように、口元を歪ませる頼径に苦笑いをして
「グチグチ、ウジウジしてやんと、早よパンパンとやったらええのに。」
峯丸は鼻をならした。
縄手と久米は、街灯が薄暗く照らし出す丘陵の住宅地を下っていた。
「はぁー。なんもわからんまま、明日や。」
頭をポリポリ掻きながら、縄手はため息をつく。
暗がりで足元を見ながら歩いていた久米は、そんな縄手に顔を上げ、
「大丈夫ですって、山本さんのアシストあるんで本当に心配ないですよ。これ、ガチで勝てますよ。明日。」
大きく頷く。
「確かに!分析ノート?に、対戦相手のこと、めっちゃ書いてあったな。」
「ホンマに、すごいっす。あのノックもエグかったですからね。」
歩きながら一歩前でスイングをして見せる。
「久米選手、ホームラン!」
縄手の掛け声に、歯を見せながら笑顔で振り向く。
「・・・もし。」
言いかけて言葉を止めた久米に
「もし?」
眉を下げる。
「もし、俺が・・明日ホームラン打って、んで、勝ったら・・・・」
「うん。」
・・・・・・・・・・
「キスしていいですか?」
「え?」
「もうすぐ、俺、誕生日やし。プレゼント欲しいっす。」
「・・・・あ、いや・・・まだ、教師と生徒の関係やしなぁ・・・」
縄手を正面に見ながら、後ろ向きで歩く久米は、一か八かで言ってみたものの、やはり言葉でお互いの立場におけるルールを示されると胸に刺さった。
それでも、不思議なくらい縄手に対して、欲するものを言いやすくなっている自分に気が付いていた。
「ケチやなぁー。」
不貞腐れるように目を逸らした久米に
「誕生日、いつやの?」
苦笑いをする。
「来週っすよ。」
「なるほど。来週かぁ。」
「来週で、十八っすよ。合法的にエッチできますよ。」
いたずらっ子っぽく、また笑って見せる。
「お前なぁー。いっつもそんなんばっかり考えてるんか。」
あきれ顔で『正直、それは想像できないんや』と続く言葉を飲み込み、笑い返した。
「若いっすもん。それしかないっすよ。」
「まあ、確かに俺もそうやったわぁ。」
久米が縄手の横に並ぶ。
坂の途中、木々の隙間から街の明かりが見え隠れする。
住宅地脇の林から高い音階で響く蜩と、近くの田んぼで騒ぐ蛙の声の洪水の中、蒸し暑い大気が、時折そよぐ南風に揺れる。
日本の夏という言葉がしっくりくる時の流れに身と任せるように、久米はそっと縄手の右手に左手を重ねた。
不安と苛立ちを消化しきれないまま、戒外は自宅へ自転車を走らせていた。
帰り際に、山本さんが自分に見せた、対戦相手のデータが詳細に書き込まれたノートと、明日の試合に臨む真っ直ぐな気持ち。
試合に出場できないにも関わらず、ノックにしても水分補給にしても、しがない俺ら選手を全力でサポートしてくれている。まるで、自分が甲子園を目指しているように。
そこそこでいいと思っている自分が恥ずかしく思えてしまった。
そこそこでいる自分への、当てつけのようにも思えてしまった。
そこそこでいる難しさなどと、ほざいている自分が悔しく思えてしまった。
そして、最後に山本が頭を下げて言った。
ひとりに負担をかけさせてしまっていることへの陳謝と、ここに今、戒外先輩がいてくれることへの感謝。
アスファルトから、日中に目一杯ため込んだ熱が沸き上がってくる。
背負ったバッグのせいで、余計にかく汗は背中にシャツを張り付かせる。
ジワリくる気持ち悪さは、さらに戒外をどうしようもなく苛立たせた。
とりあえず早く家に帰って、風呂に入りたい一心で、さらにスピードを上げた。
久米が重ねた手のひらに縄手は少し戸惑いながら、辺りを見回すように少し振り返る。
外灯に照らされた二人の影だけが、足音と共に揺れる下り坂。
小さく咳払いをしながら、縄手はその手にゆっくり力を入れ、お互いの指を絡めた。
俯いたまま微笑んだ久米は
「俺、ガチで幸せっす。」
小さくつぶやいた。
ベンチに座りペットボトルに口をつけ、コーラを飲む峯丸は、夜空を眺める頼径の筋肉の盛り上がった広い背中を黙って見つめていた。
頭上の大パノラマは駐車場の外灯で鮮明に見えないが、街中で見るよりは遥かに美しく星々が描き出されていた。
気が付けば、つい先ほどまで辺り一面に満ち溢れていた虫たちの声が、ピタリとやんでいる。
頼径はゆっくり振り返り、真剣な眼差しを峯丸に見せた。
「おかしい・・。何か来るで。」
ペットボトルから口を離した峯丸も何度か小さく頷き、目だけで辺りを確認しながら、立ち上がった。
信号待ちでスマホを手にした戒外は、届いていたメッセージを開いた。
曲川先輩から「心配すんな、俺の球だけ見とけ。」的な激励だった。
フッと口元が照れくさく緩む。
「なんやねん、みんなして。さっき別れたばかりなのに、マメな先輩やなぁ。全然、曲がってへんやん。」
つぶやき、青に変わった信号に目を向けた。
普段帰宅時に通る県道三十五号線が、やけに交通量が多かったので、曲川は曽我川を挟んで西側の空いた道を南へ進んでいた。
建物も少なく開けているが、少し寂しい雰囲気に、肝試し感覚になってしまう。
「戒外ってホンマに素直とちゃうよなぁー。なんでもできやな、気が済みよらんし。」
ブツブツ独り言をつぶやき、ペダルを踏む。
「気分上げといたら、あいつええ判断しよるしなぁ。」
視野が広がり、賢明な判断ができている姿を想像しながら、明日のシミュレーションをする。
曲川も高校生最後の試合で、一勝はあげたい気持ちだった。
思えば小学生低学年から始めた野球には才能がなく、レギュラーになれた試しがない。
それでも、青春ドラマのような感動にいつか出会えるんじゃないかと、心のどこかで期待し今まで続けてきた。
だけどそれも、この夏が最後。
だからせめて、一回戦は突破したい。そのためにはバッテリーを組んでいる、戒外の調子を上げておきたかった。別れてすぐにメッセージを送ったのもその為だった。
曲川は左側に用水路が流れる、道幅が狭い路地に自転車を進めた。
繋いだ手のひらでお互いの気持ちを確かめるように、何度も力を入れたり、抜いたりを繰り返しながら、二人は坂道を歩いていた。
一定の距離に立つ街灯の光のカーテンをくぐる様は、まるで二人だけの世界へ旅立っていける滑走路のようだった。
足元をクルクル回る二つの影は、寄り添い、永遠に同じ時間を刻むように見えた。久米はその様子を見ながら、目を閉じ、手のひらから伝わる縄手の温もりに安らぎを感じた。
外灯の光のカーテンをまたひとつ潜る。
不意に繋いでいた手がほどかれ、久米をかばうように飛び跳ねた縄手の背中が体に当たった。
「え?」よろける久米を背後に隠し、一歩後ろに下がる。
「誰や!」
縄手が叫ぶ。
「何?」驚いた久米は後ずさりしながら、背中越しにその先へ視線を移した。
戒外は交差点の信号が変わった様子を、目の上で一べつし、スマホの画面に視線を落としたまま、ペダルに力を込めた。
曲川は明日の試合で勝つイメージ膨らませるように、ハンドルから手を離し、得意のカーブを投げるジェスチャーをした。
久米が向けた視線の先には、街灯と住宅の塀の影に、ひとり佇む人影があった。
「何か用か!」
再び大声で威嚇する縄手に、その人影はユラリと前に出た。
戒外は進み出そうと、体を前に倒し体重を移動させる。
車の流れが動き出す。
進みだす交差点で、ヘッドライトが急速に右側から近づいた。
あまりにも突然で一瞬の出来事だった。
衝撃と共に体が宙を舞う。
スローモーションのように、街灯の光が目の中で回る。
訳がわからないまま、自転車の倒れる音が、鼓膜の端に届く。
浮かび上がった体が、重力に引かれるように落下していくのがわかる。
「ヤベッ‼」
こんなにゆっくりになるのかと感心するほど、地面に体が叩きつけられるまで時間がかかったような気分だった。
ドッシャ!
痛みなくぶち当たる感覚と同時に、水しぶきが舞い上がる。
うつ伏せになった体を、水路の水が頭から濡らしてゆく。
立ち上がろうと曲川は体に力を入れようとするが、全く動かない。
自由のきかない体に焦りが募る。「ヤバい。ヤバい。どうしよ。」
目、鼻、口の中に、用水路の流れが容赦なく襲い掛かる。
息をしようとも、水が気管を塞ぎできない。
「どうしよ。どうしよ・・・・・」
瞼も動かせない。
視界が外側から徐々に暗くなっていく。
「ヤバい・・・・だれか・・・助けて・・。」
一瞬にして、月が色を変え、大気がざわついた。
「よっちゃん‼」
「わかってる‼」
峯丸の掛け声と共に急いでヘルメットをかぶりバイクにまたがる。
「ここから南西!すぐそばや!」
「間に合え‼」
峯丸を後部シートに乗せた頼径はスロットルを回した。
進もうとした自転車の数センチ先を、慌てて右折してきた車がかすめる。
「危ないんじゃ!ボケが‼」
思わず戒外の素の声が叫ぶ。
「なんやねん!」
謝りもせずに走り去る車のテールランプを睨みつけながら、戒外は自転車を動かした。
縄手と久米の前に照らされた人影は、静かに口を開いた。
「こんばんは。」
不気味に笑顔が街灯に浮かび上がる。
「なんですか?」
さらに後ずさりしながら、縄手は強く言葉を吐く。
三十代か四十代くらいに思えるその人は、長袖に長ズボン、帽子を深く被っていた。
「やっぱりかっこいい。」
・・・・・・・・・・
「縄手先生に久米香月くんですよね。」
こちらを凝視したまま近づく歩調に合わせて、後ずさりする。
「すごくかっこいいお二人だなと思ってたんですよ・・・」
手にしていたスマホを胸の高さに上げ、カメラを向ける。
動画を撮影していることが見て取れた。
「すいません。動画撮るのやめてもらっていいですか。」
縄手は毅然とした態度を示そうと、胸を張った。
「ずっと見ています。大ファンなんです。香月くんを抱きしめて、俺が守る!って言った縄手先生、ものすごくかっこよかったです。同じゲイで、こんなかっこいいお二人が近くにいることが本当に嬉しいんです。」
スマホ画面に二人が写っていることを確認しながら笑顔を見せ、さらに一歩近づく。
「本当にやめてもらっていいですか?警察呼びますよ。」
縄手は久米が写らないように、両腕を後ろに広げ、死角をつくる。
「友達になりますよ。困ったことがあったらなんでも言ってください。」
「いや。大丈夫です。ありがとうございます。」
「お二人の喜ぶ顔が見たいんですよ。今朝の笑顔も、この世のものと思えないくらい微笑ましく思いました。」
「そうですか。」
詰め寄る姿に、縄手は寒気を感じ、振り向き久米の様子を確かめる。
怯え切っている視線が合わさる。
・・・・・・・・・・
「一緒に写真撮りましょう。」
インカメに切り替えようとその人はスマホを降ろし、画面に目を落とした。
「走れ!」
素早く言い放たれたつぶやきと同時に背中を押された久米は、咄嗟に縄手の手を取り、一気に坂道を走りだした。
縄手が自分の身代わりに、この場に留まるんじゃないかと、不安にかられた瞬時の判断だった。
縄手が身を翻し、駆けだした姿に安心できるまで、久米はその手を離さなかった。
走りながら振り返ったその先には、満面の笑みをこちらに向け、スマホを高く上げている姿が、幽霊のように街灯の明かりの下に揺れていた。
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