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赤眼の鴉

作者: 朧月あき

「ひいっ」

 

侍女のドロータが悲鳴を上げた。目を覚ました青年の目の奥が、血のように真っ赤だったからだ。


真っ黒な目の中、燦然と輝く赤い瞳。まるで夜空に浮かぶ彗星のようだわ、とナタリーは思う。


「あ、悪魔……! 悪魔に違いないわ! ナタリー様、早くお逃げになって!」


ドロータはナタリーの肩に触れ、彼から引き離そうとしたが、ナタリーは動こうとはしなかった。赤い瞳の美しさに、すっかり魅せられたからだ。

 

男は簡易的にこしらえたベッドで上体を起こし、不可解そうに二人を眺めている。


年は十八歳のナタリーと同じか、もう少し上といったところか。


まるで鴉のように真っ黒な、うしろで束ねた髪。整った鼻梁、蝋のように白い肌、そして赤い瞳。

 

これほど綺麗な人を、ナタリーはこれまで見たことがない。ドロータがどうして彼を悪魔と罵るのか、まったくもって理解できなかった。


ナタリーが塔の前で倒れている彼を見つけたのは、夜半過ぎのことである。


夜盗にでも襲われたのか、彼は太腿に刀傷を負っていた。背の高い彼を、ドロータとともにどうにかして室内に運び込み、傷の応急手当をして、目を覚ましたのが今だった。


「大丈夫よ、ドロータ。怖がらないで」


喚くドロータをなだめると、ナタリーは膝を折り、青年と向き合った。


「はじめまして。私はナタリー・アデライン・ルノーと申します。あなたはこの塔の前で倒れていたのよ。血は止まったから、療養すれば、またもとのように動けると思うわ」


腰まで流れる滑らかな金色の髪に、エメラルドグリーンの瞳、ほっそりとした肢体。微笑むナタリーを、青年は眉ひとつ動かさずに見つめている。


「ところで、どうしてこんなひどい傷を負ったの?」


問うても、青年は答えない。ようやく落ち着きを取り戻したドロータが「舌を切られているのかもしれませんね」と苦々しく言った。


「こんな恐ろしい見た目なのですから、罪人に違いありませんよ」


どうして見た目だけで罪人と決めつけるのだろう、とナタリーは悲しい気持ちになる。幼い頃から世話をしてくれているドロータは、ナタリーにはとことん優しいが、他人に対しては時折辛らつなことを言う節がある。


「名前だけでも教えてもらえないかしら?」


無視されても、ナタリーは引き下がるつもりはなかった。この美しい青年が何者なのかを、どうしても知りたかったからだ。


すると、青年は一度瞬きをして、伏し目がちに答える。


「名前はありません」


耳朶の奥を柔らかく打つ、綺麗な声だった。「しゃ、喋った……」とドロータが口をはくはくさせている。


「そう。じゃあ、シュカと呼んでいい?」


“シュカ”とは、母国語で“鴉”を意味する。真っ黒な髪に、黒い上着と下衣、黒いブーツ。全身黒ずくめの彼には、ぴったりな名前だ。


「……お好きなように」


ナタリーをじっと見つめ、声のトーンを変えないまま、シュカは答えた。


バリル王国の外れにある石造りのこの塔にナタリーが隔離されて、七年になる。十一歳の頃に発症した、日光に当たったら死に至るという奇病が原因だった。


人に伝染る可能性もあるという噂を耳にし、父であるルノー侯爵は、やむなく娘を貴族社会から断絶した。

 

使用人で妾だったナタリーの母は亡くなっており、本妻のマリアンヌ夫人はナタリーに対してひどく意地悪だった。


ナタリーと同じ年の実娘、クリステルには甘過ぎるほどなのに、ナタリーのことは執拗にいびり、使用人以下の扱いをした。

 

そのため信頼するドロータと二人きりのこの幽閉生活は、ルノー侯爵邸にいた頃よりもずっとのびのびできて、ナタリーにとっては快適だった。


このまま結婚をすることもなく、子供を産むこともなく、本を読んだり刺繍をしたりして、一生を終えていく覚悟を決めていた。


――シュカと出会うまでは。


シュカは傷が癒えると、ナタリーの介添えのもと、少しずつ塔の中を移動するようになった。


ナタリーの支えがなくても動けるようになると、高い石壁に囲まれた敷地内も行き来するようになる。


シュカは無口な青年だった。


十回話しかけてようやく答えが一回返ってくる程度で、鴉が人間に化けているのではないかと、ナタリーが本気で疑ったほどだ。


けれども時を経るにつれ、彼の口数は増えていった。ナタリーがあまりしつこくするから、仕方なくそうなったのかもしれないが、それでもナタリーは彼の変化がうれしかった。



ある夜のこと。


ナタリーが納屋の前で薪割りをしていると、暗がりからシュカが現れた。


「何をしているのですか?」


「何って、薪を割っているのよ」


額の汗をぬぐいながら、ナタリーは答える。


男手がなくとも、料理を作るうえで薪割りは欠かせない。けれどもドロータはもう年で、肉体労働がつらそうなため、こうしてときどき手伝っているのだ。


「あなたは深刻なご病気だと伺いましたが」


「ええ、そうよ。でも日に当たりさえしなければ、案外動けるものよ。ドロータより力持ちだし」


実際、本当に病なのかと自分でも疑うくらい、塔に来てからのナタリーは健康だった。


ここに来る直前まで、絶えず体に発疹ができ、一日中吐き気が消えなかったのが嘘のようだ。おそらく、陽の光を完全に遮断しているのが効いているのだろう。


ナタリーが無邪気な笑顔を見せると、シュカはまた彼女をじっと見つめた。シュカはふとしたときに、こんな風にナタリーをじっと見つめる。


「俺が代わりましょう」


シュカはナタリーの手から斧を取ると、手際よく薪を割り始めた。


ナタリーが苦労して割った薪の数が、あっという間に超えられる。


「すごいわ。器用なのね」


ナタリーは、また笑った。シュカといると、どういうわけかすごく楽しい。


胸の奥に春風吹いたような、あたたかな心地になるのだ。


するとシュカは、薪割りの手を止めてナタリーに視線を向けた。


「あなたは、俺が怖くないのですか?」


「怖いって、どうして?」


「この見た目ですから」


シュカが、赤い瞳の光る目を伏せる。


ナタリーは両手を伸ばして彼の両頬に触れると、その顔を覗き込んだ。


「怖くなんてないわ。あなたはとても美しいもの」


「美しい? 俺が?」


シュカが、不可解そうに眉をしかめる。ナタリーは頷いた。


「昔ね、お母様と彗星を見たの。とても珍しい、赤い彗星だった。真っ黒な夜空を流れるその星がすごく綺麗で……。『どうしてあの星だけ赤いの?』と聞いたら、お母様は『特別な運命を背負っているからよ』と答えたわ。あなたもきっとそう。特別な、選ばれた人間なのよ」


優しく語りかけるナタリーを、シュカはまたじっと見つめてきた。


目の奥に、いつもとは違う熱情が見え隠れしている。ひたむきな彼の視線に絡め取られ、ナタリーの胸の奥が熱を帯びていった。


彼の視線を直視することに耐えられず、ナタリーはうつむく。


まるで熟した木苺のように顔が赤くなっているのが、自分でもよく分かった。



数日後の朝、ナタリー宛に手紙が届いた。金の縁取りの施された、白い封筒である。


ナタリーは、もう十通近く、同じような手紙を受け取っていた。


食卓の席でナタリーの隣にいたシュカが、鷹紋様の封蝋を見て目を瞠る。


「それは、王室からの手紙ですか?」


謎多き彼でも、さすがに王室のシンボルは知っているらしい。


ナタリーは困り顔で頷いた。


「ジェラルド殿下からなの」


ジェラルド王太子は、ここバリル王国の正式な次期王位後継者である。


年は二十四歳。金糸のような美しい髪と、琥珀の瞳を持つ、国中の娘たちの羨望を集めてやまない美男子だった。


「十一歳の頃、お城の晩餐会で見かけたナタリー様のことをお気に召されたようで、こうして繰り返しお手紙をくださるのです。王太子妃として、ナタリー様をお迎えしたいようですわ」


誇らしげに、ドロータが語る。


ナタリーは苦笑しながら、読み終えた手紙をテーブルの上に置いた。


「病気の私が王太子妃になどなれるわけがないのに、おかしな方よね。殿下はきっと、ルノー侯爵家の後ろ盾を手に入れたいだけなのよ」


バリル王国における、ルノー侯爵家の権力は絶大だ。


ナタリーの父である現ルノー侯爵は、近年商会の運営にも乗り出し、成功を収めた。一方の王室は、度重なる戦で財政難との噂が流れている。


資金源を強固なものとするために、懐の厚い家系と婚姻関係を結ぶ算段なのだろう。


「ルノー侯爵家と縁を結びたいなら、クリステルを王太子妃になさればいいのに。何度もそうお返事してるのに、聞き入れてくださらないのよ」


ナタリーと同じ年で健康な義妹のクリステルなら、結婚相手に申し分ないだろう。


ルノー侯爵も、マリアンヌ夫人もそれを望んでいるはずなのに、変わり者の王太子はどういうわけかナタリーを意固地に欲するのだった。


「そのうち、ナタリー様恋しさから、ここにいらっしゃるかもしれませんわね」


「まさか! 私の病気は伝染る可能性もあるのよ。幸い、ドロータとシュカはなんともないようだけど……。王室の方々が許すはずがないわ」


「これほど熱烈にアプローチなさってるんですよ。人目を忍んで来られる可能性もあるでしょう」


「そうなったら困るわ。お父様やお義母様も、何とおっしゃるか……」


まさかという思いで、ナタリーの頭の中はいっぱいになる。


だから、気づかなかった。


テーブルの上に置かれた手紙に視線を落としながら、シュカがうっすらと口の端を上げたことに。




シュカが塔に来て、およそ一ヶ月が過ぎた。


シュカの傷は、いつ塔を離れても問題ないほどにまで癒えていた。


ある夜のこと、ナタリーはシュカを外に誘った。


塔のちょうど裏側。芝生の生い茂る小高い丘に、無作法を気にも留めず、ゴロンと寝そべる。


「シュカもここに寝て。星がすごく綺麗に見えるのよ」


シュカは素直に、ナタリーの隣に仰向けになった。


しんと静まり返った深夜のひととき。シュカと二人で、無数に散らばる星屑を眺める。


「星空が落ちてきそうでしょ」


「はい。すごく美しい」


星空に魅せられているシュカの瞳が、いつになく純真な輝きを宿していて、ナタリーは嬉しくなる。


赤い瞳を持つ彼は、美しさの裏に、いつもどす黒い影を背負っているように見えるから。こんな少年のような一面もあるのだと心が和んだ。


「でしょ? 赤い彗星を見せてあげられないのが残念だけど。あれは、簡単には見れるものじゃないらしいの」


肩をすくめるナタリーを、横向きになったシュカが射抜くように見つめてくる。


ナタリーもつられるように、そちらを向いた。


目の奥に、またあの胸を焦がす色が見え隠れしていた。


シュカの顔が、いつになく近い。


だけど赤い瞳の情熱的な炎に囚われて、ナタリーは恥じらいつつも身動きが取れないでいた。


「赤い星なら、目の前にあるではないですか」


シュカが柔らかく微笑んだ。


いつもは無表情の彼が笑うところを初めて目にして、ナタリーの胸が大きく鼓動を打つ。


「あなただけの、特別な星だ。俺はそうなりたい」


彼の手が、芝生の上に投げ置かれたナタリーの手に重なった。


そのまま上体だけを起こし、ナタリーに覆い被さってくるシュカ。


いつか見た彗星のような赤い瞳が、間近に迫る。


あっと思ったときにはもう、二人の唇は重なっていた。


柔らかく触れては離れ、離れては触れ、を繰り返す。


本当に血が通っているのかと心配になるくらい冷徹な見た目のシュカだけど、唇は溶けそうなほど熱かった。


燃えるような熱に侵食され、意識さえも朦朧としてくる。


本能のままに、二人はキスを続けた。


シュカの吐息、息遣い、温もり。


慈しむように触れてくる唇の感触を全身で感じているうちに、ナタリーはなぜか泣きたくなってくる。


ああこれだったのか、と本能的に察した。


彼の美しい容姿に初めて見惚れたとき。


彼に見つめられ、胸の奥に感じたことのない甘い疼きが生まれたとき。


――自分が無意識のうちに欲したのは、これだったのだ。



ナタリーの恋人となったシュカは、その後も塔に居座りつづけた。


ナタリーは、初めてできたこの神秘的な恋人に夢中だった。


彼の姿が目に入ると、幸せを感じる。


彼の声を聞くと、胸が昂る。


触れられると、生まれてきて良かったと強く思う。

 

とはいえ、彼には彼の人生がある。いつまでもここに引き留めておくわけにはいかない。

 

いつか彼はこの塔を出て、健康で朗らかな女の誰かと結婚するだろう。


そのことを考えただけで、ナタリーの胸は張り裂けそうなほど苦しくなった。




「ナタリー様」


あるとき、市場に買い物に行っていたドロータが、青白い顔で帰ってきた。


「どうしたの、ドロータ? 何かあったの?」


問うと、ドロータは震えながらナタリーの手を掴み、懐から取り出した紙を渡してきた。


広げると、中には見覚えのある顔が描かれている。


「……シュカ? どうして?」


それは、犯罪者の行方を尋ねる貼り紙だった。うしろで束ねた髪も、整った顔立ちも、全身黒ずくめの衣服も、シュカそのものである。


姿絵の下に書かれた、“赤い瞳を持つ男”という特徴も、シュカ以外の何者でもなかった。

幸い、今ここにシュカの姿はない。


「彼は、暗黒街では有名な殺し屋のようです。“死神”の異名がつくほど、手にかけた人の数は多いらしく……」


ぶるりとドロータが身震いした。


「もしかしたら、ナタリー様のお命を狙ってここに現れたのかもしれません」


「私の命を? まさか」


殺し屋という彼の正体に、ナタリーは少なからずとも動揺していた。


だが、もはや心は完全に捕らわれている。殺し屋だと分かったからといって、今更この想いを封印などできない。


「私が死んだところで、得する人なんていないでしょう? もともと社会から隔離され、死んでいるようなものだもの」


「いいえ、いらっしゃいます」


ドロータが、真剣な顔でかぶりを振った。


「奥様です。ナタリー様がいなくなれは、クリステル様のジェラルド殿下への輿入れは確実なものとなります。殿下がご執心なさっている以上、ナタリー様の存在は、奥様とクリステル様にとって邪魔でしかありません」


「……そんな」


「そもそも、ナタリー様がご病気というのも疑わしいことなのです。あの屋敷を離れてから、ナタリー様の病状はすこぶるよくなりました。ナタリー様をここに幽閉するために、奥様が少しずつ毒を盛って、病気だと偽ったのかもしれません」


ナタリーは愕然とした。


やはり、ドロータも勘づいていたのだ。おそらくナタリーは、病気などではない。


ルノー侯爵家から排除するために、病気をでっち上げられたのだ。


だが今のナタリーにとって、それらのことはあまり気にならなかった。


ナタリーをもっとも絶望に追い込んだのは、愛するシュカが自分の命を狙っているかもしれないという残酷な疑いである。


あの熱い眼差しも、情熱的な声も、すべてが自分を殺すための偽りだったとしたら――。


「考え過ぎよ、ドロータ」


震える呼吸をどうにか整え、ナタリーはドロータから顔を逸らした。


「全部、推測に過ぎないわ。シュカの正体はたしかに殺し屋かもしれないけど、私を殺しにきたとは限らない。きっと襲われて傷を負って、たまたまここにたどり着いたのよ」


ナタリーは、初めて恋した彼のことを、どうしても信じたかった。


 


その日からナタリーは否が応にもシュカを意識するようになったが、シュカはシュカのままだった。


無口で、無表情で、ときどき笑った顔にどうしようもないほど惹かれる。 


そしてナタリーを見つめる視線はひたむきで、いつだって胸を焦がす。


やはり、ドロータの杞憂だったんだわ。


ナタリーがそう確信を得た頃に、事件は起こった。


ある昼下がり、台所で倒れているドロータを、ナタリーが見つけたのだ。


「……ドロータ? ドロータ!」


声を上げても、揺すっても、ドロータは目を覚まさない。


青ざめ、絶望に震えていると、背後に影が差した。


シュカだ。


ドロータが倒れているというのに、シュカは慌てる様子一つ見せずに、黙って彼女を見つめている。


まるでドロータが倒れていることを、あらかじめ知っていたかのようだった。


暗がりで見るその顔は青白く、いつか耳にした“死神”の異名が、否が応にもナタリーの脳裏を過ぎった。


「シュカ……」


ナタリーは立ち上がり、後ずさる。


今、初めて彼を怖いと思った。


「ドロータに、何をしたの……?」


長い脚を繰り出し、じりじりとナタリーに迫ってくるシュカ。


「殺してはいません。それより、逃げないでください。あなたにそんな態度をとられたら、泣きたくなりますから」


「やはりあなたは私の命を狙っていたのね……」


ナタリーの言葉を、シュカは肯定も否定もしなかった。


ただひたすら、なんとも切なげな眼差しで、ナタリーを見つめているだけだ。


「お許しください、ナタリー様」


彼の手が、部屋の隅に追い詰められたナタリーへと伸びてくる。


刺激臭のする布で口を覆われ、ガクッと膝に力が入らなくなった。


ああ、やはり私は殺されるんだわ。


初めて愛した人に殺されるなんて、なんて悲しい運命なのかしら。


薄れゆく視界に、冷たい目でナタリーを見下ろしているシュカの顔が浮かんでいる。


「愛してるわ……」


残酷な現実を呪いながら、ナタリーは意識をぷつりと手放した。


***


人形のようにがっくりと四肢の緊張を解いたナタリーを、シュカは胸に優しく抱き止める。


今しがたの彼女の愛の言葉で、胸の中が熱く煮えたぎっている。今すぐに返事ができないのがもどかしい。


そのとき、ドアをドンドンとノックする音がした。


多くの従者を従え、立っていたのは、金糸のような髪をした見目麗しい貴公子だった。


この国の王太子、ジェラルドである。


「……ナタリー!」


シュカの腕の中で気を失っているナタリーを見るなり、ジェラルドは血相を変えて駆け寄ってきた。


その腕から守るように、シュカはナタリーを深く抱き込み、ジェラルドに赤の瞳を鋭く向ける。


「ひい……っ!」

「死神だ! お尋ね者の殺し屋だ!」


暗がりの中で光る彼の瞳の異様さに気づいた従者たちがざわついた。


だがジェラルドだけは、ただ一人無言のまま、凍りついたようにシュカを見ていた。


それから我先にとジェラルドを守ろうとする従者たちを手で制し、外に出るよう命じる。


人払いをした塔の中で、ジェラルドとナタリーを抱いたシュカは対峙した。


「お前はまさか……ダミアンか?」


「お久しぶりでごさいます、兄上」

 

うっすらと微笑み、答えるシュカ。


ダミアン。


それがシュカの本当の名前だった。


ダミアンは、バリル王国の第二王子としてこの世に生を受けた。


だが赤子の目が露になるなり、王室に戦慄が走る。


いにしえの悪魔と同じ、血濡れた赤い瞳。


王室に災いを呼ぶ破戒者に違いないと、呪いの赤子は極秘に葬られることになった。


だが川に流された彼は、暗黒街で拾われ、殺し屋として生きる道を与えられた。


ジェラルドが赤い瞳を持つ殺し屋の噂を耳にしたのは、三年前のことである。


人目を忍んで会いに行った彼は、王室のシンボルである鷹の紋様の留め具のついた産着を持っていただけでなく、母である亡き王妃にそっくりだった。


心優しいジェラルドは、血を分けた弟の過酷な運命を憐れんだ。


だからそのとき、約束したのだ。


金であろうと土地であろうと、哀れなお前が望むものであれば、なんでもくれてやる。


欲しい物が見つかったとき、改めて訪ねて来いと――。


「お前が、なぜここにいる……?」


震え声で尋ねるジェラルドに、ダミアンは酷薄な笑みを返す。


「仕事ですよ。彼女を殺すよう命じられました」


腕の中で眠る彼女の額に、唇を寄せるダミアン。


「……殺すだと? まさか、ルノー侯爵夫人からの依頼か?」


「そうです。ですが、殺めてはいません。眠らせただけです」


血眼になったジェラルドを見て、ダミアンは確信した。


やはり、彼も気づいていたのだ。


ナタリーは重い病などではない。


すべてはルノー侯爵夫人であるマリアンヌの策略だ。


妾の子であるナタリーを、マリアンヌは当然のことながら快く思っていなかった。


だから薬を盛り、彼女が重い病にかかったと騒いで、この塔に隔離したのだ。


だが、義妹のクリステルの輿入れ先にと望んだジェラルドは、頑なにナタリーを欲した。


不治の病でも構わないからナタリーを王太子妃として迎えたいと、クリステルを拒絶し続けた。


だからマリアンヌは、人知れずナタリーを殺すことにしたのだ。


“死神”の異名を持つ、赤目の殺し屋に依頼して。


ナタリーを殺すために塔に向かう道中、懸賞金のかけられたダミアンの貼り紙を見た輩が闇討ちしてきたのは計算外だった。


深手を負ったダミアンは、身の上を隠し、塔で療養することを余儀なくされる。


――そしてその間に、人生を変える恋と出会った。


「……今朝方、ルノー侯爵夫人の遺体が発見された。それも、お前の仕業なのか?」


「さあ、どうでしょう? 傲慢な方だったようですから、敵は多かったでしょうね」


ダミアンは、わざとらしく肩をすくめてみせる。


「……ナタリーをどうするつもりだ」


ジュラルドが、呻くような声を出した。


ダミアンが、愛しげにナタリーに頬を寄せる。


「今度は俺が、私利私欲にまみれた貴族社会から、彼女を救い出して差し上げるのです。彼女にこの世界は汚すぎる」


血濡れの鴉が、見つけた真珠を愛でているような光景だった。


ジェラルドの顔が、絶望に歪んでいく。


「お前、まさか……」


「兄上は、以前おっしゃいましたよね? 俺の望むものを、なんでもくれてやると」


シェラルドは唇を引き結び、硬い表情で、赤い瞳を持つ弟を見つめる。


「だから、彼女を俺にください。俺が彼女を連れてここから去ることを見逃してください」


ジェラルドが、ぎりっと奥歯を食いしばる。


彼とて、長年ナタリーに想いを寄せてきたのは、ダミアンにも分かっていた。


だが、こればかりは譲れない。


悪魔、死神、化け物。


どこに行っても蔑まれてきたダミアンの特異な容姿を、彼女は美しいと言ってくれた。


優しく微笑みかけ、寄り添い、愛してると囁いてくれた。


彼女を失うくらいなら、世界中の人間を殺しても構わないと思っている。もちろん、今ここで心優しき兄を殺めることも厭わない。


妖しく揺らめく赤の瞳に射抜かれ、爪が掌に食い込むほど固く拳を握ったジェラルドは、しばらくそのまま動かなかった。


ダミアンと、その腕の中で眠るナタリーに視線を這わせ、悔しげに口元を震わせている。


だがやがて、ジェラルドは懐から手持ちの金の入った袋を取り出すと、ダミアンに向かって投げ寄越す。そしてこちらを見ないまま、重い口を開いた。


「……その金と、馬車を一台持って行け。彼女を必ず幸せにすると約束しろ」


「言われなくとも、約束しますとも」


赤い瞳を持つ青年は嫋やかに微笑んで、兄の痛々しい好意を受け入れた。


***


軽快な車輪の音で、ナタリーは目を覚ます。


ナタリーは今、どういうわけか、手綱を握るシュカの膝の上に頭をもたげていた。


のどかな田園風景が、馬車の両脇を流れている。


「ここは……?」


戸惑いながら、ナタリーは身を起こした。


天蓋付きの随分立派な馬車に乗っているのはなぜだろう? しかもシュカと一緒に。


「何があったの? 私、あなたに殺されたんじゃ……」


そこでナタリーは、あることに気づいてハッと口を両手で覆った。


青い空には白い雲が揺蕩っている。


風に揺れる麦帆を照り付ける、柔らかな日射し。


「私、陽の光に当たってるわ……」


「でも、なんともないでしょう?」


シュカが、優美な笑みを向けてくる。


真昼の光の下で見る彼は、これまでとは違う澄んだ美しさを放っていた。


「あなたも薄々は勘づいていたのではないですか? ご自分が、病気ではないことを」


ナタリーは押し黙る。


彼の言う通りだったからだ。


女だてらに薪割りをこなせるような自分が本当に重い病なのかと疑ったのは、一度や二度ではない。


「……ところで、どうしてあなたと二人で馬車に乗ってるの? ドロータは?」


「ドロータなら無事です、ご安心ください。あなたが俺と二人きりなのは、この先、俺とともに生きるためです。ルノー侯爵も、ジェラルド殿下から打診があれば了承せざるを得ないでしょう。あなたはもう自由の身です」


ナタリーは目を見開いた。


この状況に至るまでに、この国の王太子や侯爵である父を動かすほどの、何かとてつもなく大きな力が働いたらしい。


「あなたは、一体何者なの……?」


おずおずと尋ねると、燃えるような赤い瞳が、まっすぐにナタリーを捕らえた。


「俺はシュカです。あなたが名前をくださったではありませんか」


異形の瞳に、またあの熱情が燃え盛っている。


「あなたをこの世の何よりも深く愛している、ただの男ですよ」


それからシュカは身を屈めると、愛する彼女の唇に、とろけるような甘い口づけを落としたのだった。


        

                  END

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