18、深淵はどこまでもしつこく
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これは夢である。ここ最近、少女が何度も繰り返し見ている夢だ。
闇のキャンパスが広がる空を見上げ、手を伸ばす自分は翼を大きく広げたいと願っていた。飛ぶには狭い鳥かごでは、翼を満足に広げられない。飛び立とうにも手足が枷にかけられており、叶わない状態だ。
そんな自身に嫌気を差しながら、空を見上げる。輝く満天の空はどこまでも広がっており、そこを飛ぶ美しいドラゴンは無邪気で楽しそうだ。
――いつか、あんな風に。
翼を広げたいのか、空を飛びたいのか、それとも自由を得たいのか。
少女は言葉を口に出しかけてやめた。
もし叶ってしまえば、もしこの枷が外れたら、もし鳥かごが壊れれば。
叶うはずのない願いを永遠と考え、いつものように飽きてはやめる。変わらない日常が変わるはずないと決めつけ、これ以上考えることはやめよう、と思い至ったその時だった。
『その願いを叶えてあげるよ』
不意に甘い言葉が耳元で囁かれる。普段なら一蹴し、無視をし、聞かなかったフリをする。
だが、普段とは違う多忙な時間を過ごす状態の少女ではそれができなかった。
答えてはいけない。
期待してはいけない。
それなのに思わず振り返ってしまう。
そして少女は、問いかけてしまった。
「本当?」
その言葉を聞いた黒いモヤはほくそ笑む。この時を待っていたとばかりに口から言葉を放った。
『ああ、本当さ。お前が望むなら叶えてやってもいい』
「うそじゃ、ないですよね?」
『嘘はつかないさ。だが、相応の対価はもらわないといけないね』
相応の対価、と言われ少女は身を固くした。しかし、それでも願いが叶うという甘い蜜の香りには勝てない。
だから彼女は、黒いモヤの言葉に乗ってしまった。
「私にできる範囲なら……」
待ってましたとばかりに、黒いモヤは嘲笑う。
これは契約。口でのやり取りで簡単に結ばれる契約。効力は薄いものの、キッカケ作りとしては十分な効果を発揮する。
ゆえに少女は貶められる。甘い甘い蜜の香りに騙され、その翼を広げられると思って。
『そうかそうか。ならその翼をもらおう』
その言葉を聞き、少女は気づく。命と同等に大切なものが、奪い取られると。
思わず逃げようとした。しかし、ここは狭い鳥かごの中。どれほど抵抗し、逃げようとしても簡単に捕まる。
「いや、いや、やめてっ」
逃げられない空間の中、少女は叫んだ。
誰か助けてとも叫んでいた。
だが、どんなに叫んでも黒いモヤはやめない。空を飛んでいたはずのドラゴンはどこかへ去っており、闇のキャンパスだけが広がっている。
『いただくよ、君の〈魔法〉を』
翼が千切り取られる。感じたことのない痛みが身体中を駆け巡り、涙が止めどなく溢れた。
悶え、苦しみ、立ち上がれない。そんな少女を見下ろしながら黒いモヤは愉しげな笑顔を浮かべた。
『ありがとう。これで僕はまた、空を飛べる。君のおかげで復讐もできる』
放たれた言葉を、少女は理解できなかった。黒いモヤはそんな彼女を見下ろした後、顔を空に向ける。
復讐の一つは終わった。まだまだ残っているが、それも時期に終わらせる。今やるべきことは、奴の血を引く盟主の始末だ。
そう考えを巡らせ、空を飛ぶ。
「返し、て……」
少女はどこかへ飛び去ろうとする黒いモヤに手を伸ばした。しかし、どんなに遠くへ手を伸ばしても届かない。
ただ泣きながら、遠くへ飛び去るその後ろ姿を見つめるしかなかった。
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ノアは頭を痛めていた。
理由は簡単だ。とても芳しくない状況になったためである。
最悪に近い、と表現もできた。誤魔化そうにも難しい。
「参ったなぁ」
ある程度、ジャクシオから事情は聞いていたがまさかこんな事態になるとは思っていなかった。もしかするとこの国の未来を揺るがす事態が目の前で起きている。
その事態の中心にいるのがフィリスだ。
どうにかクロノとヴァンを誤魔化せればいいが、さすがに目の前で〈あの能力〉を使われてしまえば難しい。
「無理にでも出ていくか? いや、誤魔化しは難しいな。とすれば――」
この後、どうするかという算段をノアは立てていく。だが、それを邪魔する存在がいた。
『寒い。この身体は冷たい』
フィリスの答えを待つクロノ達。その後ろで凍てつき、動けなくなったドラゴンから黒いモヤが現れた。
ノアはそれに見覚えがある。暴走したゴーレムが似たようなものを身体から噴き出していた。
「あれは――」
ノアは思わず考える。しかし、その時間はすぐになくなった。
黒いモヤが逆立つ氷柱を掴み、背中からクロノの身体に突き立てようとしたのだ。
ノアは叫ぼうとした。だが、それよりも氷柱が振り下ろされる。クロノを助けるためには、自分が動くしかない。
しかし、走っても間に合わない。だからノアは覚悟を決めた。
「うわっ」
唐突にクロノは押し倒される。何が起きたのかわからないまま、顔を上げると彼は目を大きく見開いた。
大きな氷柱がある。それを伝い、滴り落ちる赤い液体は何を意味するのか。
恐る恐る視線を上げると、ノアの顔があった。力なく地面を見てる姿に、クロノは思わず叫んだ。
「副団長ォォォォォ!!!」
クロノの声に気づき、ヴァンは黒いモヤに飛びかかった。しかし、しがみついたはいいものの簡単に振り払われてしまう。
黒いモヤはフィリスを見る。ノアを乱暴に放り投げ、今度はフィリスの胸に氷柱を突き立てようと迫った。
逃げなければいけない場面だ。しかし、フィリスは逃げない。
『止まりなさい!』
聞き取れない声が放たれる。それを聞いた黒いモヤは僅かに動きを鈍らせるが、それだけだ。
止まることなくゆっくりとフィリスとの距離を詰めていく。
『止まれと言っている!』
再び聞き取れない声が響く。だが、黒いモヤは止まらない。フィリスの顔が濁る。それを見たヴァンが少女を守るために駆けた。
クロノもフィリスの元へ向かおうとする。しかし、その足に迷いが生じた。
「来なくて、いい!」
それに気づいたノアは、掠れた声で叫んだ。取るべき選択がある。それを間違わないためにも、副団長は命令した。
「仲間を守れ、クロノ!」
ノアの言葉を受け、クロノは迷いを捨てた。やるべきことはわかっているからこそ、すぐに行動する。
羽ペンを滑るように動かし、空間に詩を記していく。フィリスを守るために、ヴァンに全てを託す詩を詠んだ。
『友よ、王となれ。身体よ、風となれ。光よ、剣を作れ。愛しき者を飲み込まんと迫る闇を切り裂け。我が詩は弱き者を守るために。我が術は愛しき者を守るために。一時の力を貸し給え!』
ヴァンが信じてくれたように、クロノも彼を信じる。
その想いが届いたのか、ヴァンの身体が軽くなった。その手には光が集まり、形が定まりきらない一つの剣となる。
「フィリス、伏せてろ!」
フィリスに指示を飛ばすと、ヴァンの言う通り彼女は伏せる。
それを確認した彼はただ力の限り地を蹴り、黒いモヤの頭上へ飛んだ。そしてそのままヴァンは、手にしていた光の剣を脳天に突き立てた。
黒いモヤは一瞬、動きを止める。そして数秒後、それは大きな悲鳴を上げた。
『オォオオォォォオオオォォォォォ!!!』
言葉にならない嫌な悲鳴だった。クロノとヴァンは思わず耳を塞ぐ。しかし、その声は身体の芯が震えるほどおぞましいものだった。
黒いモヤは霧散していく。
どうにかなった、とノアは笑う。
だが、それは間違いだった。
『この身体はやはりダメだ。でもいい身体がない』
ノアの目の前に、先ほどまでいなかったはずの小汚い男が立っていた。思わず目を見張ると、その男はノアの顔を覗き込んだ。
その男はニィッと笑う。そしてこう宣告した。
『お前でガマンしてやる』
ノアは叫べなかった。
叫べないまま、何かに刈り取られるかのように意識を失った。




