bird cage 〜鳥籠〜
私はずっと、彼の鳥籠に囚われている。
背中にある傷を撫でる。
指先で
そっと
なぞる。
彼の心の傷痕。
羽が抜けた痕だと言った。
彼は昔、両親を惨殺された。1人だけ生き残った彼は、親戚の家で育てられた。その人たちは優しかったが、彼の心の奥にある傷は癒える事はなかった。
それは、今でもきっとそう。
一番近くで見ているのだから分かる。
ガタガタと扇風機の羽がいびつに回る。
額から溢れる汗を拭うと、私はガラス窓をゆっくり開ける。
蝉の鳴き声の中に、黒い飛行機の影を見つける。
それはスゥーッと雲間を切り、大鳥みたいに空を渡っていく。
この場所から何度この景色を眺めただろう。
今は、手首に縛られた手錠も、右足に付けられた足枷もない。
彼に囚われてからしばらくは、そんなものを付けられて過ごしていた。
一番奥深くの狭い部屋。
そこにずっと閉じ込められていたんだ。物音がするだけで、ビクビク過ごしていたあの頃。
今は、手枷も足枷もない。
そして、自由に家の中を行き来できる。
今でも、玄関の外から南京錠を掛けられて外に出る事はできないけれど、逃げる気はない。
開け離れた部屋と開け離れた庭。
ここから塀を登れば、外の世界へ出られるのかもしれない。
でも、逃げようと思わない。
お父さん、お母さんは心配してるだろう。
でも今は、幸せに過ごしているのだと伝えたい。
囚われた日から何日、何年経過したかなんて分からない。カレンダーもテレビもこの部屋にはないのだから。
私の楽しみは、彼と過ごす時間。
それと、毎日ではないが……
この庭を使って行う彼とのかくれんぼだ。
あまり笑わないし、喋らない彼。
でもその遊びの時間だけは、子供みたいに無邪気に笑う。その顔を見られるのが、私にとってはとっても楽しみなのだ。
私は縁側に腰を掛け、浅葱色の団扇を仰ぐ。
ふわり、ふわり。
生温い風が頬を包むと、カラン、カラン、と風鈴の音が涼しげに透き通る。
あの人がもうすぐ帰ってくる。
「閉ざされた
君の鳥籠
夏風が
呼ぶ声残す
高鳴る心」
君の鳥籠の中で、遊ぶかくれんぼ。
私はあなたから隠れる。
私の名を呼ぶ声を、夏風が運んでくるよ。
それと同時に感じるのは、高鳴る鼓動。
庭の夏景色を見ながらあなたに詠む短歌。
何回もいや、何百回と詠んだに違いない。
庭をパタパタ飛んでいた鳥が、熱い陽炎に溶けるように、この場所から逃げるように、空を横切る。見えなくなるまでその羽を追いかける。
私は本当は、自由になりたいのだろうか。
この場所から
彼の鳥籠から
飛び出したいのだろうか。
「ただいま、花梨」
背後から飛んできた低い声色。
「おかえり、風磨」
彼の太い腕が伸びてきて、私の長い黒髪を優しく撫でる。
半透明の袋がぴりぴり震える。それを持って台所へ向かう背中を見つめる。白いTシャツに汗が滲んで、体格いい背中に張り付いている。
今日も炎天下の外は暑かったのだろう。
麦茶のグラスを2つ持って戻って来た彼。
「はい」
「ありがとう」
グラスの中の氷が音を立てると、風鈴がカラン!と音を奏でる。
彼は優しい。でも、時々見せる物悲しい瞳。
その奥の奥に秘めたまがまがしい感情。
その両極端の感情を感じるが、それが何なのかは聞けないでいる。
「さぁ、少し涼しくなったから、かくれんぼしようか?」
「うん」
やったー!かくれんぼだ!
私たちは縁側から駆け下り、彼は壁に向かい腕を付いて顔を埋める。
「いーち、にー、さーん……」
私は一目散に庭を走り出す。
どこに隠れようか。
いつもすぐに捕まってしまうから、今日こそは見つからない場所に隠れたい。
草むらに足を踏み入れると、溢れ出した汗が額を流れると頬を伝い、胸元に落ちた。
胸元にポトリと染みた汗粒。
うっすら脳裏を掠める何か。
振り向いた赤染めの瞳。
不気味に光る鉄くず色。
背中の……
私は知らない内にだいぶ奥まで来ていた。
緑葉の影が太陽を隠す。蝉の声が脳裏を揺るがすほど、木々の中に入り込んだみたいだ。
とりあえず、隠れよう。
近くにあった苔の生えた小さな石像に、身を隠すように屈み込む。それに右手を触れると、背筋がゾクッとなるほどひんやりしていてびっくりする。
手の甲がザワザワする。
蝉の声が一瞬止む。
肌色の上を這いずる赤色のムカデ。
きゃっ!!
石像に置いていた手に力を込めると、石像が動いてズドン!と冷えた土に倒れ込む。
倒れた?!気付かれた?!
石像があった場所だけ土の色が濃い。私は無意識に、その場所を必死に掘り起こしていた。
なぜか、分からない。
掘らないといけない気がした。
ザッ
ザッ
ザッ
カツン!
爪先が硬い何かに当たる。必死に土を退けていくと、古臭いお菓子の缶が顔を出したので、土の中から引っ張り出した。
錆びた四角い缶。
土ほこりだらけのお菓子の缶。
さっき脳裏を掠めた記憶は何だったんだろう。
私は缶の蓋を掴み、軋ませるように開けていく。
目に飛び込んできた鳥型のキーホルダー。
手汗が一気に吹き出してくる。
ドクドクと鼓動が高鳴り、呼吸が荒くなる。
そのキーホルダーの下に隠されていたのは、小さく折り畳まれた四つ切り画用紙。
震えた手で広げていく……
「見つかっちゃったか」
「え?」
振り返ると彼が木陰の中、のそりと立っていた。右手に握られているのは、錆びた鉄くず色の斧。
あぁ、そっか。
彼が私を捕らえた理由。
私の手の中にあるのは風景画。
そこに描かれた山々と木々。
そして、殺人鬼の顔。
「あの時の殺人鬼は……風磨だったんだね」
「うん」
悲しげな瞳が映り込むと、あの恐ろしくもおぞましい記憶が鮮明に甦ってくる。
私がまだ12歳ぐらいだったかな。
夏休みの宿題で風景を描く為に、隣町の小山に1人で来ていた。澄み渡る空気。木と木の間から降り注ぐ熱い日差し。
画板に四つ切り画用紙を挟み、真っ白いキャンバスに指を走らせていたその時。
人の叫び声が鼓膜を振動させた。
びっくりして、顔を上げると……
葉の影から見えた真っ赤に染まった顔。
眼球だけがこちらをギロリと睨む。
同じぐらいの男の子に見えた。
右手には鉄くず色の斧。
そこから大量に滴り落ちる血液。
左手に掴んでいるのは人の頭部。
人殺しだ、と思った。
でも、怖すぎて声が出ない。
私は止まった時間の中、なぜか指先だけ走らせていた。
その顔を描いていた。
背中から流れる血のラインが煌めいて見えた。
「あなたのその傷は、あの時出来た傷だったんだね」
「うん……」
毎日、撫でてあげた傷痕。羽が抜け落ちた痕。
「どうして、あんな事……」
「山に遊びに来ていた両親と僕は、気が狂ったじいさんに斧で襲われたんだ。両親を惨殺したじいさんは俺の背中に一撃切りかかった。逃げたけど、どこまでも追いかけてきた。根っこで躓いたそいつが手放した斧を、知らない内に握りしめていた。そして、そいつに向けて何回も振りかざしていたんだ。そして、そいつを殺した」
「私が見たのはその光景だったんだね?」
「うん。顔を見られた!って思った時、君は絵を持ったまま走り出していた。近くに落ちていた鳥のキーホルダー。君の物だとすぐ分かった。書かれていた名前〝山下花梨〟。僕は必死で君を探したんだ。そして、見つけて捕まえた。この場所に監禁する事にしたんだ。でも、君はあの日の記憶を忘れていた。記憶から消し去りたいほどの恐ろしい記憶だったんだろう。僕は君のいた家に侵入してあの絵を回収して、キーホルダーと共にこの場所に埋めた。これを見ると思い出すだろうと思ったから」
彼は斧を引きずりながら、座り込んだ私に寄ってくる。
「だから、私を監禁して監視していたんだね。いつ思い出すか分からないから。でも、なかなか思い出さなかった」
思い出したら、私を殺すつもりだったんだね。
「うん。一緒に暮らすうちに僕は、君と過ごすのが楽しいと思うようになった。毎日、幸せだった。君は優しく僕の傷痕を癒してくれた」
彼の瞳からは涙が流れ出し、胸元にスーッと滑り落ちる。
「うん……私も幸せだったよ……あなたと過ごした時間が」
私の涙は土に染みを作り、それは黒く黒く染み入ってしまう。
「でも、もう、おしまいだ」
彼の右手が太陽を遮る。
鋭い刃先が空に舞い上がる。
木陰の合間から差し込む光が、それに乱反射する。
殺してもいいよ。
あなたになら殺されてもいい。
「さよなら、花梨」
「ふ、風磨?!」
水色の空が茜色に染まる。
スローモーションみたいに吹き上がる赤い波紋。赤い波形。
倒れ込む体を思いっきり抱きしめる。
「風磨、風磨!いやだ、いやだ!死なないで!」
「か、花梨……ごめん」
「殺人鬼でもいいよ……私は……」
「自由になって……いいよ。ごめん……
ずっと、縛りつけて……」
「そんなのいいのに!もっと、一緒にいてよ!一緒にご飯食べて、縁側で花火見て……お庭でかくれんぼして……ねぇ?」
彼の腕がダラリ、と地上に雪崩れ落ちる。
首元から溢れ出した血液が、その腕をなぞって赤い雨みたいに土を潤す。
「風磨……ずっと一緒にいよ?」
その声はもう、彼の耳に聞こえない。
泣き叫ぶ声は、蝉の声にかき消されていく。
私は彼という鳥籠から解放された。
ようやく逃げ出せる。
でも……
どうして、こんなにも胸が抉られるの?
どうして、こんなにも涙が止まらないの?
「今頃、気付くなんて……おかしいね?」
私は彼に恋をしていたんだね。
完